第46話 茜

『さあ、大会16日目の朝ですねぇ。先頭は相変わらずエントリーナンバー001 アマチタダカツ選手。今日も早朝から走り出していますよぉ。

 それを追撃するのは、夜通し走っていたエントリーナンバー002 三尾真琴選手。あっという間に引き離されますぅ。あ、これ勝負にならない速度差ですねぇ』


 ホテルの一室で、空はミスり速報を聞いていた。すると、ドアがノックされる。

 茜が来たようだった。空はさっさと途中だった着替えを済ませると、ドアを開いて迎え入れる。

「おはよう。茜」

「ああ、休めたか?」

「うん」

「そっか」

 まだホテルの朝食まで時間はある。この時間も回復に当ててから出発するべきか、それとも30分でも早くスタートするために朝食をキャンセルしてチェックアウトするべきか。

 悩む必要は無い。長いレースなのだ。30分くらいは惜しくなかった。むしろ……

「お小遣いも勿体ないしね」

「ああ、アタイもそう思うよ」

 宿泊費も食費も切り詰めてきたつもりだが、それでも金銭的には少しずつ追い詰められている。あと数日はゴールまでかかりそうなのだ。体力的にも、スタート当初のような走りができなくなってきている。

「そうだ。マッサージしてやろうか?空」

「え?な、何?急に」

「いや、走りすぎて大変じゃないかと思ってな。今日も長いんだ。合間を縫ってでもやっておこうぜ」

「い、いいよ」

「遠慮すんなって」

 茜が指をわしゃわしゃしながら近寄ってくる。空はその足元を見た。

(あ……)

 レーシングパンツの裾から伸びた茜の太もも。白い肌にはたくさんの血管が、青く浮かんでいた。

 普段から長距離のサイクリングを好んでいる茜も、一応、普通の中学生だ。こんな長い距離を連日走ったことは初めてだった。空の脚も大差ない状態になっているから、その痛みはよくわかる。

「ねえ。むしろ……」

 僕が茜のマッサージをしようか。と、そう言いかけた時だった。


 ヴヴヴヴヴヴヴヴ……


 茜のスマホが鳴った。しかしすぐに切れてしまう。

「おっと、悪い……兄貴から電話?うわっ。しかも着信履歴がエグイ」

「何かあったのかな?」

「いや、どう考えても何かあったな」

 茜のスマホに電話やらメールやらで連絡をしてくる人間は非常に少ない。兄からの連絡も毎晩1度はあるが、こんなに続いたのは初めてだ。

 滅多に電話の来ない茜は、ついには電話に出るという習慣さえおろそかになっていた。なので、電話が鳴ったこと自体に気づきにくくなっている。

 かけ直すためスマホを操作した、その時だった。


 ドンドンドンドン!


 ドアをノックする音が聞こえる。それも結構大きい。

「茜!ここか!?」

 男性の声だった。大きな怒鳴り声だ。

「ひゃっ!?」

 空が縮こまる。父にも滅多に怒鳴られたことのない空は、男の人の怒鳴り声が少し苦手だ。この間のディオの所為もあるかもしれないが。

 一方の茜は、父にも怒鳴られ慣れていた。慣れていたからこそ、茜は身体をこわばらせた。今聞こえているこの声は……

「……親父?」


 ホテルで茜の部屋を聞き出し、ドアを叩いたが誰もおらず、しかしチェックアウトしているわけではない。以上の情報から、茜の父親は空の部屋を訪ねに来たのだった。

「茜。いるんだろう!出てきなさい!」

 ドアの向こうで、父の語気はさらに激しさを増す。このまま出なければドアを壊されてしまいそうだ。

 茜のスマホが、兄に繋がる。

『茜。無事か?今どこにいる?』

「兄貴……今、ホテルだ。空の部屋」

『そうか。落ち着いて聞けよ。親父に全部バレた。そっちに向かったはずだ。すぐにホテルを出て逃げろ』

「兄貴、ちょっと遅かったぜ。親父なら部屋の前にいるよ」


 ドンドンドンドン!


 騒ぎも大きくなってきたようで、ホテルスタッフの『お客様。他のお客様の迷惑にもなりますから』という声も漏れ聞こえてくる。

「どうなってんだ!?兄貴」

『すまん。まさかこんな事になるとは思ってなかったんだ。俺の落ち度だ』

「どうしてくれるんだって聞いてんだよ!?」

『ひとまず、時間を稼いでくれ。俺もそっちに向かってる。なんとか親父を説得するから』

「時間を稼げと言われても……」

 外の会話を聞く限りだと、ホテルのスタッフが警察を呼ぶか、それともマスターキーを使って中を確認するかの話になっている。そして、どうやら後者で話がまとまりかけているようだった。

 数分と待たず突入されるだろう。

「ねえ、茜。時間を稼げばいいの?」

 空が訊く。その目にはまだ恐怖が残っているが、助けてくれるようだ。

「あ、ああ。兄貴もこっちに向かっているらしいから、ちょっとでも時間を稼げるか、もしくは逃げ出せれば――」

 と、根拠のないことを言う。今は藁にもすがりたい気持ちだった。

 そもそも兄が来て説得できるようなら、父はここにきていない。そんなことも解り切っていたのだが、今は折れた藁にももう一度すがりたい気持ちだ。

「分かった。茜は隠れてて」

 シャワールームに茜を押し込んだ空は、意を決して扉を開く。


「どうしたんですか?」

 とぼけ顔で扉を開けると、そこには茜の父と思しき男が立っていた。50歳前後に見える痩身の男だ。とても力が強いようには見えない。しかし……

「お前が空かっ!よくもうちの娘をたぶらかしたな!」

 ぐんっ!と、空の身体が宙に浮く。胸倉を掴まれて持ち上げられたのだと気づくまで、少し反応が遅れるほどだった。

(う、嘘でしょ。こんなに強いなんて……)

 違う……

 茜の父は、もともと腕力が強いわけではない。むしろ、弱い。筋肉は衰え、骨と皮しか残っていないような体格。

 それが空を持ち上げられたのは、ひとえに怒りでリミッターが振り切れているからだ。火事場の馬鹿力というものだろう。

「お、落ち着いてください。えっと……どなたかお探しですか?」

 空はここで、あまり具体的な嘘をつかない。とぼける方に全力を尽くす。

「ここに茜が来ているだろう!?」

「あー、茜なら隣の部屋じゃないですか?」

「そこならもうマスターキーで入った!誰もいなかったぞ!」

「……」

 このホテルの管理が雑……というわけではないだろう。茜が未成年であることと、相手が茜の保護者であることを考えれば、この状態は妥当と言える。

 本来なら保護者の役はチャリチャン運営がやっているはずだが、そこも親からの連絡があればこういう対応になるのは仕方がない。

「そ、それなら探してみますか?どうぞ奥へ。誰もいませんけど」

「そうさせてもらおう」

 父が空の部屋に入り込む。空はそっと、部屋の奥へ奥へと手を差し伸べた。

(怖い……けど、やらなきゃ)

 奥まで父が入ったのを見計らって、空は後ろから体当たりを仕掛けた。


 ドン!


 茜の父が空ともつれるように、ベッドに倒れ込む。

「な、何をするか!」

「茜!逃げて!」

 空の声に応えて、茜がバスルームから出てきた。そして一見で状況を把握し、一瞬で部屋の外へ走り出す。

「待たんかぁ!」

「うあっ」

 空を押しのけて起き上がった父が、茜を追いかける。

「……」

 こんな時、自分はそれを追いかけるべきか、と空は迷った。

 自分にできることを考える、などという賢しい話ではない。茜の家庭の事情に踏み込まないようにする。などと聞き分けの良いことを思ったわけでもない。

 ただ、怖かったのだ。

(どうしよう。どうしたらいいんだろう……)

 追いかけて、また怒鳴られるのも怖い。でも、何もしなくて茜を見捨てるのも、怖い。

 時間が全部を解決してくれたら、

 誰かが現れて助けてくれたら、

 そんな事ばかりを、空は願っていた。



『おっと、ここで空さんから凸電ですねぇ。どうしましたぁ?』

「茜が、捕まっちゃう。連れていかれるかも……」

『ええっ!?茜さんがですかぁ。どんな屈強な男に捕まっちゃったんですかぁ?連れていかれるって……』

「ミス・リードっ!」

 空にしては珍しい大きな声。それも、泣きそうなのをこらえながら叫ぶような声に、ミス・リードも理解した。

『すみません。ふざけている場合じゃないんですねぇ。こちらには情報が入っておりません。教えていただけますかぁ?』

「うん。僕もよく分からないんだけど……茜、両親に隠して出場したみたいで……」

『はて?チャリチャン運営の方では保護者同意の書類を貰ってますよぉ。諫早暁。続柄は……兄?ははぁーん。そういう事ですかぁ』

 少ない情報からでも、彼女は正確に状況を理解する。何があったのか、そして何が問題だったのか。

 もちろん、こんな時に対処するマニュアルなどない。ないのだが、一般的に考えればどうすればいいか、分からないほどミス・リードは常識に疎くはない。

 その結果は、空の求めていたものと違っていた。

『すみません、空さん。未成年の参加者と親御さんとの間に問題が発生したとき、レースの実行委員および私は、何も口出しをすることができませんよ』

「そ、そんな……」

『すみません』

 話にかぶせるような謝罪と、明確な拒否。いつもならここで出て来るだろう下品なジョークもない。つまり、ミス・リードは真剣に『何も出来ない』と回答しているわけだ。

「……」

 電話を切った空は、茜の後を追う。立ち止まっていることが、一番怖くなった。


『茜さん、残念ですぅ。

 えー、みなさんにももう一度整理してお伝えしますねぇ。茜さんがご両親の許可を取らず、兄にだけ許可を取って出場していたことが判明しましたぁ。

 これに関してチャリチャン運営からは、何のペナルティも課しませんよぉ。その兄が一応成人しているので、ルール上は何も問題ないですねぇ。

 あとは家庭での問題となるので、もしご両親と話し合って、継続できるようであればコースに戻ってください。ダメなようならリタイアを宣言して、腕輪とGPSタグだけ後ほど回収させてくださいねぇ。

 ……もし戻って来られる場合は、本当に何の連絡もなく、コースに戻ってきていいんですからね。

 私も、リタイア宣言が無い限りずっと、エントリーナンバー435 諫早・茜選手の登録を、覚えていますからね。

 ……さあ、レースの模様を中継します。アマチタダカツ選手。ここにきてブレーキをかけましたぁ。朝食でしょうかねぇ?』


 実況に戻るミス・リードの声音は、少しだけ、寂しそうだった。




「はぁ……はぁ……」

 家から50kmという距離は、予想通り遠かった。

 満身創痍の暁は、ようやく茜の泊っているホテルまでやってきた。

「茜!大丈夫か」

 駐輪所に、妹が立っているのを見つけた。もうペダルを漕ぐだけの余力が無い。自分の足で走り寄る。

「茜。どうした?親父は?」

「……兄貴」

 小さく、消えてしまいそうな声。実の兄である自分でも、あまり聞いたことのない妹の声音に、暁は眉を寄せた。

 茜は、駐輪所に視線を落としたまま、言う。

「アタイのクロスファイアが、ない」

「何だと?」

 言われてみるまでもない。駐輪所には、自転車なんか一台もなかった。茜が停めた場所を間違えるとも思えない。

「鍵は?」

「チェーンロックをふたつ使って、空のエスケープと、お互いに巻き付けてたんだ。そのエスケープもない……」

「まとめて盗まれたのか。でも、誰に――」

 誰にもへったくれもない。こんなことをする人間が、身内にいる。それに暁は気づいた。


「あ、茜。大丈夫だった?お父さんは?」

 空が駆け寄ってくる。

「空。アタイらの自転車が……」

「え?」

 空も気づいた。自転車が無くなっていることに。

「君が空君か。妹からよく聞いてる。茜の兄の暁だ」

「あ、あかつき、さん?」

「ああ、自己紹介はこのくらいにして、うちの親父がどこに行ったか知らないか?」

「え、えっと、僕より先に、茜を追いかけていたはずですけど……」

 それがここに来ていない。ということは、先手を打っていたという事だ。ホテルで茜の部屋を訪ねる前に、既に自転車を確保していたのだろう。どこにも逃げられないように。

「空君の自転車ごと、隠したのか……」

 暁が爪を噛んだ。その様子を見た空が、おずおずと話しかける。

「暁さん。自転車を隠すとしたら、心当たりは?」

「あるある。きっと親父の車だ。あいつ、茜ごと回収して持って帰る気だろう」

「そ、そんな……」

 チャリチャンのルール上、自転車の乗り換えは認められていない。茜にはあのクロスファイアが必要で、空にはあのエスケープが必要。それを既に車に積まれたなら……

「万事休す。ってところか」


 道路から、クラクションが聞こえた。気の短そうな連発だ。

「茜!ようやく来たか」

「親父!!」

 茜が立ち上がった。車の中から、父は茜に呼び掛ける。

「お前たちの自転車は預かった。このまま大会を辞退して、お前たちも車に乗れ!」

「冗談じゃない。アタイは辞退しない」

「それなら、電車でも使って帰って来い。いずれにしても自転車は無いぞ!」

 父は言いたいことだけを言って、車を走らせようとする。

 空は、動けなかった。

 茜は、動こうとした。そんな中、

「待てこら親父ぃ!」

 暁だけが、この場で動いていた。父親の車の助手席の扉を開ける。

「暁?お前も来ていたのか!どうやって……」

「自転車だよ」

 自転車……その単語が出た時、父の顔は一層不機嫌になった。

「お前も自転車か!どいつもこいつも……ああ、今になって思えば、小学生の頃お前にマウンテンバイクなんか買ってやったのが間違いだった」

「なんだよ、それ。俺や茜が何かに夢中になるのが、そんなに悪い事かよ!」

 暁が扉を全開にして抗議する。にも拘わらず、


「ぐあっ!?」


 車は発進した。

「乗るなら乗れ。そして扉を閉めろ」

「冗談じゃねぇ!この状態で走らせる奴がいるかよ!」

「いるんだ。実際にな」

「くそっ」

 自動車と喧嘩しても敵うわけがない。暁は仕方なしに、半ば飛び込むようにして乗った。そしてドアを乱暴に締める。




 取り残された茜は、呆然としていた。

「あ、茜。大丈夫?」

「……ああ」

「あ、茜なら、こんな時に壁でも殴ってそうだよね」

「そうか」

「えっと……お、お兄さんが、きっと説得してくれるよ」

「……うん」

「……」

 これは、かなりの重症だ。

 どうしようかと、空はポケットを探り、何も入ってないことを確認してしまう。何か入ってたとしても役に立たないだろうが。

 周囲も見渡して、横たわる一台の自転車を見つける。

「これ、暁さんが乗ってきたMTBかな?」

「……」

 茜が顔を上げた。

「……それ、ほんの去年まで、アタイが使ってたやつだ」

「え?そうなの?」

「ああ、傷の位置とか、間違いない。そっか。兄貴が使ってたんだな。これで家からここまで来たのか」

 そっと、茜がその車体を起こす。見たところ、少し雑ではあっても整備されている。フロントサスペンションに塗り付けたグリスは垂れてるし、チェーンは泥汚れの上からルブをかけられているが。

「兄貴、やっぱまだマウンテンバイク好きなんだな」

「兄弟そろって、そうだったんだね」

「ああ、アタイに初めてのMTBをくれたのも、兄貴だったんだ。ロードバイクの世界大会があるって話をしてくれたのも、確か兄貴だ。いつの間にか、アタイの方がよく乗るようになったけどさ」

「……そっか」


 弱っている茜を、独りぼっちにしたくなかった。ずっと一緒にいたい。そう空は思った。

 で、あればこそ。

「ゴメン」

「ん?」

「茜。ちょっと僕、茜を独りにしちゃうかも……」

 今の茜を見ていると、何も期待できない。何も。

 いつもの勝気で無鉄砲な茜じゃないから。

 だから、もう何も期待できなかった。




「なあ、親父。さっきの話の続きだけどさ」

 暁が、助手席に座ってスマホをいじる。左耳にイヤホンをつけて、そっちはスマホからの音声を聞きながら、右耳は父と会話するために。

「なんで俺らがやりたいこと、親父は応援してくれないんだ?」

「……夢ばかり見て、現実を見てないからだ」

「それは、俺が政治家になりたいって言いながら、大学すら受からなかったからか?」

 ついに、暁はそれを訊いてしまう。


 ずっと、暁は不安だった。

 自分が政治の道を志したとき、父は応援してくれなかった。むしろ、がっかりしたようだった。

 本音を言えば、自分のやっている診療所を継いでほしかったんだろう。それくらいは暁にだって、よく解っていた。

 それに逆らって法学部を目指した自分が、夢ばかりを追って2浪。それはまあ、父が期待を失うのも分かる気がする。

 しかし、


「だからって、茜まで巻き込むことはないだろ。俺の夢はもうどうでもいい。確かに俺はダメだった。でも、茜は……」

「やらせる前から分かってる。茜だって、プロのレーサーになんかなれない。そんな事より、普通に婿でもとってくれたらいいんだ」

「……何だよ。それ」

 暁の中に、理不尽な怒りが湧いてくる。それは、自分への怒りだった。自分さえキッチリと跡を継いでいれば、茜は婿など取らずに自転車選手にでも何にでもなれたのだろうか。

「暁。お前は勘違いをしているようだがな。子の幸せを願わない親はいない。私だってそうだ」

「だったら……」

「だからこそ、私は茜にこれ以上、自転車ばかり乗ってほしくはないんだ。いや、乗ること自体は構わない。それは、普通の女の子としての範疇でだ。家庭を持って子供が生まれれば、自転車で買い出しに行くことも増えるかもしれん。それについては反対しない」

「……」

 強く言い返せないのは、暁にも負い目があるからだ。

 それを見て、父はとどめの一言を告げる。

「まあ、プロになれるような実績でもあれば話は違うが、な。それも無いなら、現実を見た方がいい」

 ずるい。

 ずるい一言だ。

 これを言われてしまえば、『何の実績も作れなかった茜の所為』となる。責任が、本人に覆いかぶさる。

 それにしたって、親の援助もなしに14歳の少女が、自力で何の実績を作れるだろうか。挑戦する機会も与えられないまま、実績だけをどうして望まれるのだろうか。

 それも含めて、甘えだと言われるのだろう。

 父は、そんな人だった。


「……ところで、実績があればいいのか?」

 暁が聞く。

「ああ、そうだな。例えば、私なら医者になる道へのコネもある。多少であれば根回しも出来る。茜が……あるいはその夫となる人物が、医者になりたいなら、私は協力できるぞ」

「それが、実績か?」

「実績とは実力とは少し違う。将来への道ができること。これこそが実績だ」

 それを聞いた暁は、にやりと笑った。

「……じゃあ、これを聞いてくれよ」

 イヤホンを抜いたスマホを、最大音量に設定し直し、父に聞かせる。




『えー、何という事でしょう……

 中継スタッフさん。映像回せますかぁ?出来る限り沢山、です。

 ご覧いただけますでしょうかぁ?今まで戦ってきた選手たちが、一斉に立ち止まっていますぅ。コースをふさぐように立つ人、自転車を寝せて座り込む人、多くの選手がカメラを……おっと!?

 凸電ですねぇ。えっと、鹿番長さん?』




「よう。ミスり姉ちゃん。アカネが今、親と揉めてんだって?アカネはもちろん継続つづけるつもり……だよなぁ!?」

 サングラスを外した鹿番長が、リーゼントの先端を睨む。ひとまず目の前にメンチ切る相手がいないから、仕方なく目についたものにメンチ切っているといったところだ。

「アカネ!お前の親父をここに連れてこい!俺とお前の戦いを邪魔するってんなら、俺がぶん殴……」

 ごつん!

「って!?……何しやがる、キラ」

「いや、落ち着けよ。お前がぶん殴ったって何の解決にもならないだろ。だからこその座り込みだって、タダカツも言ってたろ?」

 鹿番長を後ろから殴った綺羅が、すっと目を細めた。

「茜君。これは俺様の予言だ。俺様とお前らは、再び戦うことになる。だから俺様は待ってることにした。茜がコースに復帰するまで、タイム差もキープだ」

「座り込みだ!アカネが復帰もどってくるまで、ここを移動うごかねぇぜ!」



(鹿番長……綺羅……)

 落ち込んでいた茜にも、その声はスマホ越しに聞こえた。



「君とは確か、1勝1敗だったはずだ。決着をつけずに逃がしてしまうのは、アイゼンリッターの名折れと言うものだよ。君もそう思うだろう?カナタ」

 ミハエルが、ペニー・ファージングを降りて言う。その隣には、カナタもいた。静かな瞳に激情を燃やすミハエルと対照的に、カナタは冷たく首を横に振る。

「私は関係ありません。自分自身のために走るのみです」

「そうかね」

「はい。ですのでミハエルさんと違って、私は茜さんのために立ち止まったりしません」

「そうかね」

「ええ。それでは失礼します」

「うむ、達者でな」

「……」

「ん?どうしたのだね。行きたまえ」

「いや止めてくださいよ!私の裾を掴んで。ほらっ」

「こうかね?」

「そうそう。えー、こほん。あー、ミハエルさん離してください。私はレースに戻りますー」

「難儀な性格だね」



(ミハエルさん……カナタさん……アタイのことを、待ってるのか)


「――待ってる。それだけ」


(ニーダ……)


「茜ちゃん。大丈夫だと思うけど、あたしたちは」

「茜のことを待ってるよ。海でのリベンジもしたいからね」


(良平さん、梨音さん……)


「何を忘れても人情は忘れない。それがワシ等じゃけぇのぉ。なぁに。ワシだって組長の娘を嫁に貰う時、指一本で許してもらったんじゃ。おまんの親だって指で許してくれるじゃろ。がっはっはっは……あ、いやスマンかった」


(百鬼さん……)


「茜君の父君よ、聞いているかな?私はかつて、二人の娘を育て上げたこともある男だ。この格好で言うのは奇妙だが、父親とは人を導くことだけが役割では無いんじゃないかな?……まあ、私も立場上、君の気持ちは解るが、ね」


(赤い彗星……)


『ああ、凸電だらけですぅ。えっとえっと……三尾さんにトライク二等兵さんにストラトスさん。それから名無しさんに姫岩智咲さん。あとジュリアさんにファニフェさんにデイビットさんに……ああ、もう!回線もパンクしちゃいますよぉ!

 待って。外部からの問い合わせですかぁ?ああ、お久しぶりです二郎垣内三郎右衛門さん。ご無沙汰してますダークネス・ネロさん。あ、グレイトダディさん?もちろん覚えていますぅ。

 待って。せめて外部からの問い合わせは私に回さないで下さいよぉ。……え?私は反応しなくていいから、回線だけ貸してくれ?……ああ、茜さんに伝えたいんですねぇ。それなら私は端っこで独り言ちてますよぉ。

 いいですかぁ。独り言ですよぉ。

 茜さん、私たちも本音では、お父さんに負けないでぇ、って願ってますからねぇ』


(ミス・リード……みんな……)

 数々の応援が飛び交う中、混線しかけた回線の向こうで、

 ひときわ、目立つ声があった。


「こちらは暫定一位。アマチタダカツである」

 マイク越しであるにもかかわらず、よく通る声。多くのガヤをかき分けて、ミス・リードの耳まで届く。

 彼が凸電をしてくることは、非常に稀だった。この大会中でも片手で数えるほどしかない。だからこそ、ミス・リードはすぐにその回線を優先する。


「我、強者との戦いを所望する者なり。ゆえに、茜との決戦も所望する!」


(なんで、アマチタダカツが!?)

 と、茜は何も知らないからこそ驚く。彼と直接すれ違ったのは、初日に一度だけだ。

 それを解説してくれたのは、もう一つの回線からの声。


「ああ、私たちが飲みに行ったとき、タダカツ君たちと『誰が優勝候補か』って話になってね。天仰寺ちゃんも良平君も梨音ちゃんも、みんな空君と茜ちゃんの名前を出してたのよ。もちろん、私もね」

 そう言ったのは、風間史奈だった。短い前髪をさっと撫でた彼女は、ため息を一つ吐いて語る。

「この選手全員ボイコットだって、タダカツ君の提案なのよ」

 まだホテルにいた彼女は、くいっとウイスキーをストレートで傾け、覚悟を決めた。

 今大会の注目選手であり、世界チャンピオンでもあり、テレビや雑誌に引っ張りだこの『ベロドロームの女王』風間史奈。その肩書を背負っているからこそ、言えることもある。その肩書を背負っているからこそ、軽はずみには言えないことも……

 それでも、

「茜ちゃんに覚悟があるなら、私がロードチームに斡旋してあげましょうか?初めて会った夜に、茜ちゃん言ってたわよね。『実績があれば認めてもらえる』って。その実績を今、世界チャンピオンの私があげるわ」

 リップサービスなどではない。冗談で言うことはない。

 まして、実力も期待値もない女の子に言う事ではない。

 一人の少女の運命を変えてしまう。そんな発言だということも解っている。そのうえで。

「お父さんが許してくれるなら、私のところに来たらいいわ。直々に鍛えてあげる。その価値がある逸材だからね」




 車の中で、暁もこの放送に驚いていた。

「おいおい、マジかよ。あの史奈だぜ。親父?」

「知らんな」

「知らないわけないだろ。とぼけんなよ。朝のニュースに出てる史奈だって」

「……」

 自分の娘が特別か?と問われれば、気持ちの上ではYesと答える。親なら当然のことである。逆に言えば、それはありふれた特別だ。どこにでもある平凡な特別だ。

 仮にも医者として、多くの命に触れてきた。そんな父だからこそ、自分の娘だけが特別に特別だとは思っていない。

 ただの夢見がちな少女だと、そう思っていた。

 中学生なら誰しも大きな夢を見る。その類だと思っていた。

 実力の伴わない、ただの『好き』という感情。それだけだと思っていた。

 それが、

「……しかし、ダメだったら誰が責任を取る?」

「は?」

「茜だって、暁のように夢を追って、夢を諦めて帰ってくるかもしれないだろう。そうなったとき、誰が茜を幸せにするんだ!?」


(ああ、このシチュエーション、何度か妄想したな)

 暁は、別にこの切り返しに驚かなかった。父が頑固なのも、ことあるごとに責任だの何だの持ち出すことも、よく解っている。

(そんなときのために、俺は覚悟してきたのさ。『茜の夢がダメになったら、俺が兄として茜を幸せにしてやる』ってな)

 具体的にどうしたらいいのかは、考えていない。ただ、人生を掛けてでも茜の夢を応援したい。暁は日ごろから、そう考えていた。

 それは、贖罪。

 茜に対して申し訳ないと思う自分が……長兄でありながら家業の診療所も継げず、そのプレッシャーを茜に押し付けてしまった自分が……唯一できる償い。

(だから、本当なら俺がここでヒーローになる。そのはずだったが……)

 窓の外。車に取り付けられたサイドミラーを見て、暁は気づく。

(どうやら本当のヒーローは、俺じゃないらしい)

 暁は、車の後ろを指さした。

「茜の夢がもしダメになったら、その責任は『こいつ』が取るさ」



「待ってぇえええ!」



 茜の兄が置いて行ったバックファイア。それに跨った空が、自動車に追い付いてくる。

「おー、すげーすげー……自動車に追い付ける車体じゃないだろ、その自転車」

 フロントサスペンションの搭載で重くなったフォーク。アスファルトに適さないゴツゴツのブロックタイヤ。MTBらしくわざと低めに設定されたサドル。どれをとってもエスケープより遅いはずの車体で、空は必至に車に追い付いてきた。

「な、なんだと!?あいつは……」

「空、って名前らしいな。茜のクラスメイトだ」

 車の後ろに、空のエスケープも積まれていた。茜のクロスファイアと一緒だ。チェーンロックで2台を繋げていたから、一緒に回収したってところだろう。

「まったく、よその子にまで迷惑かけるんじゃねーよ。親父」

「くっ……」



「はぁ、はぁ……っ」

 喉が焼けそうだ。さっきからお腹の調子も悪い。鼻の奥もツーンと痛む。そろそろ足も限界だった。

 それでも、空は走り続けている。コースでもない、ただの公道を。

「ま、待ってください。待って……」

 信号待ちでようやく追いついたと思ったら、また離される。その繰り返しでここまで、頑張って追いかけてきた。そして、ようやく何度目かになる追い付き。

(あ……)

 また信号が変わり、車が出てしまう。その前に……


「ああああっ!」


 車と電柱の隙間。ほんのわずかな間に、自転車を滑り込ませる。危険なのは百も承知しているが、それでも今は……今だけは……


「――っ!」


 ズザアアァガアアァガアア


 ブレーキをかけて、車体をドリフトさせる。真横を向いたところで、相手の進路を防ぐように停止。

「な、何をぉ!?」

 突然のことに驚きながらも、茜の父もブレーキを踏む。

 自動車の重量は、自転車のそれと比にならない。例えていうならプレス機並みの衝突。たとえ速度が落ちていても、その状態からパワー押しで潰してくる。車に轢かれるというのはそんな感覚だ。

 実際、空の車体にぶつかった瞬間、茜の父の車も完全停止していた。本当に、乗っている側からしたら『コツン』という程度の感触だっただろう。音など正にその軽さである。しかし、


 ガンッ!ザザザザザー!


 空にとっては違った。そのコツンという程度の衝突で弾き飛ばされ、アスファルトを転がることになる。倒れた空を押すように、バックファイアもぶつかった。

「ぐっ」

 あちこち擦りむいた痛みはある。胃液が逆流するような感覚も。

 自動車の扉が開いた音がした。


「君、なんて無茶なことを――」

「いや、親父が言うなよ」

 暁がすぐにしゃがんで、空を起こそうと手を貸してくれた。

「大丈夫か?……あー、うちの親父が迷惑かけたな。空君」

「かはっ、こほっ――あ」

「あ?」

「あ、か……」

 落ち着くように、暁が背中をさする。そして空の口元に耳を寄せて、声を拾う。

 息も絶え絶えの、本当に無茶をした後の呼吸だ。医者の息子じゃなくても分かる。まして、今そこで立ち尽くしている本職の父には、もっとよく分かるだろう。

 空がどれほどの覚悟でここまで追い付いてきたのか。

「茜の、レーサーになる夢、認めてあげてください」

 いつもよりは少し男らしい声で、空はぐいっと前に出る。茜の父は一歩下がった。そこに、空は頭を下げる。

「お願いします」

「……」


 茜の父は考える。自分が求めていたものとは何だろう?と、

 今回やったことは、親に嘘を吐いた家出娘と、その娘をそそのかした馬の骨(空)を更生させることだったはずだ。それだって暴力に頼るようなことをせず、ただ彼らの『目的』である自転車レースに、復帰できなくしただけである。

 これで反省して、家に帰って来ればそれで良かった。ただそれだけの事だろう。なのに、

(なぜ、こうなった?)

 どうして今、自分はレースの参加者全員を敵に回しているのか。

 どうして自分の息子から、ここまで睨まれなくてはならないのか。

 そして、

(どうして娘をたぶらかした馬の骨から、こうして頭を下げられるのか……)

 答えなど、分かっていた。

 茜が集めた信頼や人望が、自分の予想をはるかに超えていたのだ。

 そして、自分が思う以上に茜は――

「成長、していたのだな」

「?」

 空が顔を上げる。と言っても、上体を起こすことは出来ない。合わせた膝に手をついて、やっとのことで立っている。その姿勢のまま、顔だけ上げる。

「空君、といったか?」

「……はい」

「君は、茜にとっての何だ?」

「え?」

 唐突な質問だった。息が整ってきた空は、それでも答えを用意するのに10秒ほどかかった。その10秒、ただ待っていた父は、空から目を離さない。

 やがて、信号が再び変わるころ、ようやく空は答えを出した。

「僕は――」






 茜のもとに空が戻ってきたのは、それからさらに数分が経過したころだった。

「空。そっち持ってくれ」

「はい」

「おろすぞ」

 暁と空の二人で、自転車を降ろす。空の大切なエスケープも、茜の相棒のクロスファイアも。

 そうして、バックファイアだけを積んだ車は、再び暁を助手席に乗せて走り出した。

「空……」

 何を言ったらいいのか分からないでいる茜に、空が自転車を持ってくる。

「茜。ただいま」

「お前、何をしたんだ?」

「えっと、僕もよく解らないんだけど……」

 大したことを言った覚えはないし、暁も父もポカーンとしていたはずだ。だから本当に、どうしてこうなったのかは全く分からないのだが、

「なんか、許してもらえることになったよ。チャリチャン」

「そ、そうなのか?」

「うん。茜のお父さんがね。『やれるだけやってみろ。ただし、ダメだと思ったら今度こそ辞めさせる』ってさ」

 車の中で頼まれた伝言を、空はそのまま伝えた。ここまで来たのだから自分で言えばいいのに、と思ったが、言いづらい何かがあったんだろう。

「それじゃあ、アタイは……」

「うん。まだまだやれるよ。チャリチャンも、ロードレースも」

「!」

 バッと、茜が自分の顔を隠した。そのまま何故か、クロスファイアのサドルに寄り掛かるようにしてプルプルと震えだす。

「茜?」

「うっせぇ。泣いてない。こっち見んな」

 嬉しくて?いや、それもあるが、それだけじゃない。自分のわがままから始まった騒動が、こんなになったのが恥ずかしくて。空が助けてくれたのも、迷惑じゃなかったか不安で。

 それらがよく解らない塊になって込み上げた時、自分でも我慢が出来ないことを、茜は知った。

 それでも、走るのを辞めようとは、思わない。




 車の中、暁はニヤニヤと笑っていた。

「いやー、それにしても空君。あそこで『茜を僕に下さい』とか言ってくれたら楽しかったのにな」

「冗談ではない」

 暁と対照的に、父の表情は険しい。本当に冗談で言ったとしても笑ってくれないだろう。

「それにしても、あそこで『僕は、茜の夢を応援したいんです。友達だから』って……アホだな。あれ」

 ただの友達として、普通に茜の夢を応援してくれる。空とはそんな程度の奴だった。

 そんな程度の事に、あれだけ本気になれる奴だった。

 そいつが言うのだ。『茜は僕なんかと違って、本気の夢をもってるから』などと。

「……あの空君が本気じゃないなら、うちの茜はどれほど本気なんだって話だぜ」

「……茜は、本気じゃないのか?」

「いや、本気も本気さ。少なくとも俺が官僚を志した時よりは数倍も本気。二人ともな」

 流れる景色を見ながら、これほどの距離を自転車で走ったのだという実感を、暁はかみしめた。もちろん、これほどの距離を追いかけてきた空にも感心しながら。

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