第38.5話 串焼き屋と先頭集団

 話は、12日目の朝にさかのぼる。まだ、高速道路の速度規制が敷かれていなかったころだ。


『さあ、やってまいりました。高速道路セクション。現在トップは、エントリーナンバー001 アマチタダカツ選手。当然ですねぇ。もうひっくり返らないと予想するファンも多いようですよぉ。

 そして、それを追撃するのは、2台の自転車と3人の選手ですぅ。

 エントリーナンバー703 リョー&リオン選手。二人で一緒に漕ぐのは、タンデム自転車、Cannondale Road Tandemロードタンデム 2ですねぇ。前後にサドルとペダルを並べたロードバイク。二人乗り専用の美しい車体ですぅ。

 今日も一糸乱れぬペダリング。そして綺麗に前傾姿勢。ところで、今日は珍しく梨音さんが前なんですねぇ。良平さんに質問ですぅ。奥さんのお尻に顔をうずめた感触はいかがでしょう?』


「うずめてねぇよ!ちゃんと離してるっての!」

「ちょっ、良平君。暴れないで。コントロールが効かなくなるから」

 二人乗りで前傾姿勢なら、当然前の選手(リーダー)のお尻に、後ろの選手(ストーカー)が顔を近づけることになる。それゆえに、この車体はいろんな意味でパートナーの絆が試される車体だろう。

 普段は梨音がストーカーを務めるのだが、今日は気分転換を兼ねて逆に乗っている。

 風になびく、サラサラのロングストレートヘア。童顔ではあっても、お尻のほうは女性らしい丸みを帯びたライン。それを露骨に浮かばせるレーパン。

 良平にしてみれば、そんな梨音を間近で見続けるのは目に毒であった。いや、まあ心なしか疲れも吹き飛んでいくのだが……

(この歳になると、見れて嬉しいより、他の奴に見せたくないって気持ちが出てくるよな……)

 20代の半ばになると、若いころの気持ちも薄れるのかもしれない。ヘルメットからはみ出た短い前髪を気にしつつ、良平はそんなことを考えるのだった。


『そして、対抗するのはエントリーナンバー101 天仰寺 樹利亜てんぎょうじ じゅりあ選手。TROYTEC REVOLUTIONレボリューション LOW-RACERの使い手ですぅ。

 仰向けに寝そべったような姿勢で、美しい脚を前に突き出して進む自転車。その優雅な上半身と、踏みつけるように動かされる下半身。圧倒的な最高速度を持つ中学生ですよぉ。

 あ、カメラ寄れますかぁ?もう少しズームアップ。はい。そこですぅ』


 ミス・リードの指示に従って、中継車のカメラが近寄ってくる。二人乗りのオートバイだ。

(あれ?わたくしにカメラが近寄るということは、つまり――)

 これまでの経験から、天仰寺は嫌な予感を抱く。

「わたくしの胸の話はもうやめてくだ――」

『この中央にある小さなローラーが、チェーンの流れを整えているんですねぇ。なのでフロントのペダルから、後輪の軸まで長いチェーンがたるまないんですよぉ』

「――さらないかしら!?……あら?」

 てっきり胸の話をされると思った天仰寺。それもそのはず。今までのミス・リードなら、確実にそこを話題にしていただろう。

『んんん?おやおや~、どうしたんですかぁ。ジュリアさん、そんなにEカップおっぱいを自慢したかったんですかぁ?』

「し、しまった。これではわたくしが自分から胸の話を始めたように聞こえてしまいますわ。ご、誤解ですのよ。わたくしはただ、日ごろのセクハラに嫌気がさしていただけですの」

『ふふふふ。いやですねぇ。私からセクハラを取ったら、自転車実況しか残らないじゃないですかぁ』

「自覚はあるのですわね!?それと、本来なら貴女は自転車実況だけしていればいいはずの立場なのですからね!!」

 息を荒くしてミス・リードにツッコミを入れる天仰寺。その中学生にしては大きな胸も、呼吸に合わせて上下する。

 寝そべって乗るリカンベント。特注品の、ゴスロリドレスのようなライダースーツ。そして整った顔立ちと、後ろでお団子のように纏めた長い髪。どこをとっても目立つ少女である。


『さあ、ジュリア選手とリョー&リオン選手の一騎打ち。高速道路だけあって、お互いに容赦ない速度ですねぇ。中継車からの計測では、現在92km/hを記録ですぅ。普通、ロードバイクでも世界レベル超えの速度だと思うのですけどねぇ……』

 ミス・リードの言う通り、本来なら自転車で出せるはずのない速度。これを実現しているのは、空力抵抗の軽減。

 天仰寺のリカンベントは、寝そべった姿勢ゆえに空力抵抗が少ない。まるで地面を滑るリュージュのように、空気を切り裂いて地面すれすれを流れる。その走りは、オンロードでは最速だ。

 一方の良平と梨音も、一人分の空力抵抗で二人分の馬力を出している。だからこそ、通常の自転車よりも速い。

(タンデムバイクなんて、カップルで乗るだけの面白自転車だと思っておりましたが……実用性のある車体なのですわね……)

(リカンベント……うわさは聞いていたけど、あたしは見掛け倒しだと思ってたよ)

(その認識、僕らも改めないとな)

 まだまだ未知数の車体はたくさんある。見た目の奇抜さは伊達や酔狂によるものではない。

「では、わたくし、本気を出させていただきますわ。御覧なさい。250RPMスプリント!」

 天仰寺が、変速ギアを下げる。それは、ケイデンスを大幅に上げるための所作。

 搭載されたアルテグラを、アウター7で漕ぐ。それでも250RPMとなれば、速度は110km/hに到達する。ここで一気に引きはがす算段だ。

 それを――

「それじゃあ、僕らもやろうか。梨音」

「うん。すぅぅぅぅ……」

 梨音たちも必殺技で追いかけようとする。いつの間にかネット上で話題となり、ファンたちから名付けられた技。呼吸を止めた梨音がスピードを上げて、そのあとに良平がパワーを維持する。

「リオン・ブースター!!」

「はぁぁああああああ」

 こちらも、ケイデンスは210RPM近くまで上昇。それをフルアウターで実現する。タンデムならではの底力だ。

 ちなみに、使った後は梨音が呼吸困難になるため、良平がサポートしないと実現しない。そんな諸刃の剣でもある。


『お互いの必殺技が発動ですぅ。あそこからさらに速度が上がるなど、誰が予想したでしょうかぁ。

 もはや隣の車線を走る自動車のほうが遅いくらいの速度。目まぐるしいほど回るペダル。心なしかタイヤから煙が出そうですぅ。やぁん。激しっ――

 あ、でもでもでもぉ。後ろからさらに追撃ですよぉ。

 エントリーナンバー003 風間 史奈かざま ふみな選手。その説明不要な必殺技、『フミナ・キャノン』が炸裂ですぅ。これが、ピストバイクの世界チャンピオン。人呼んで『ベロドロームの女王』と呼ばれたプロ選手の実力。

 いや、もう理屈が不明ですねぇ。なんでこんな走りができるのでしょうかぁ……』


 ミス・リードの実況を聞き、天仰寺も梨音も、サイドミラーを見る。そこに映し出されたのは、一台のオートバイ……いや、それは中継車だ。選手じゃない。

 その後ろに、史奈がいた。真っ白なLeader Bikes 725TRを用いて、天仰寺たちに追い付いてくる。


「さあ、私に道を譲りなさい。お嬢さんたち」

 レーサーパンツを破裂させそうなほどの、筋肉に覆われた太い脚。それと裏腹に細い上半身と、流線型ヘルメットからはみ出る短い髪の毛。31歳という年齢的にも、最もいい状態に仕上がっている身体は、美しく、力強い。

(いや、待てよ。いくら世界チャンピオンって言っても……)

(あたしたちに、ただのピストバイクで追いつけるのは、おかしくない?)

(空気を味方につけたわたくしたちに、なぜ追い付けるのですの?)

 そう。奇妙だった。

 いくら何でも、空気抵抗を無視して加速することは出来ない。しかし、史奈の走りはそれを実現していた。

「……中継車か」

 良平がつぶやいた。それに、梨音が無言で反応する。

「ぜはーっ、ぜはーっ、ぜはーっ(どういうこと?良平君)」

 必殺技を使った後で、息が整わないままの質問。それに、良平が答える。

「史奈はプロ選手で、テレビにも出まくってる注目の的だろ?だから常にカメラが『顔』を撮りたがるんだ。それを利用して、中継車を風よけに使ってるのさ」

「スリップストリーム……ですわね。まさか、大会初日から……」

「ああ、多分な」

 良平の予測は、正しい。

「あら、私の走りをもう分析したの?早いわね。坊や」

 史奈が、良平に言った。その態度には余裕がある。トリックが分かったところで、自分が不利になることはない。そう確信しているのだ。

 この技は、理屈さえわかれば誰でも使えるというものではない。オートバイの後ろをぴたりと走る技術は要求されるし、ペダルを漕ぎ続ける筋力も必要となる。この高速で呼吸する肺活量も、だ。

 つまり、史奈は小細工抜きでも速いのである。

「今日は固定コグだから、短期で決着をつけさせてもらうわね」


 ズギャギャギャギャギャギャギャ――


 ペダルを止めて、後輪を滑らせる。いわゆるスキッドという技。固定ハブとコグを持つピストにおいて、ほぼ唯一、脚を休める方法である。

 後輪から、煙が出る。摩擦熱によりタイヤが焼けたか、あるいはアスファルトにわずかばかり溜まった砂埃を舞い上げているのか。

 そうやって体力をチャージし、再び加速する。

 人呼んで、フミナ・キャノン。

 それは、『ただペダルを早く漕ぐだけ』という、彼女でなければ技にもならない必殺技。彼女だけが持つ固有スキルと言い換えてもいい。


 ズバアアアァァァァァァァァァ!!


 MAVICのディスクホイールが、一瞬だけロゴを見せて、また溶けていく。史奈がペダリングを再開したからだ。その無茶な走りに、アルミ製のフレームが、カーボン製のホイールが、合成ゴムのタイヤが、それぞれの悲鳴を上げる。

「くそっ!さらに加速できるのか……梨音。もう一回やれるか?」

「はぁーっ、はぁーっ」

 キンキン――と、ベルが2回鳴る。つまり、「呼吸が整わないから無理だよ」という合図だ。

「分かった。無理はせず、操縦に専念してくれ。あとは僕が漕ぐ」

 そういってダンシングに切り替える良平に、梨音が小さく頭を下げる。謝っているわけではない。前に体重をかけて、ハンドルを抑え込んでいるのだ。車体を左右にぶれないようにして、良平の脚力を最大限に生かす。


「無茶をしますわね。リョー先輩」

 一方の天仰寺は、余裕の見物であった。徐々に引き離されているというのに、ギアを上げたままペダリングをしている。呼吸を整えつつ、使う脚の筋肉を変えるためだ。

(このまま回復を待って、2台とも抜き去るだけですわ。今は少し遅れようとも、わたくしのリカンベントに巡行で勝てる車体などありませんもの)


 この3台4人の自転車は、80km/hを優に超えるという、現状では最速の状況を誇っていた。だからこそ、なのだろう。悲劇は起こる。

 場所は高速道路。借りているのは一車線。そして、隣の車線は通常通り、自動車が通行しているのだから――




「ん?あれは……自転車か。本当に高速走ってるよ」

 隣の車線に合流した自動車。そのドライバーが、史奈たちに気づいた。

 チャリチャンのために追い越し車線の方を封鎖している。という話は聞いていたが、実際に走っている選手を見るのは、彼にとって初めてだ。

「ああ、なんか盛り上がっているらしいね。あの大会」

 助手席に乗っていた人物が、ぼんやりと言う。

「そうだ。ちょっと選手の顔でも見て行こうか。ツイッターに上げよう」

「お、そりゃいいな。話しかけるか」

 ドライバーが窓を開け、アクセルを踏んだ。助手席にいた人がスマホを構える。準備は万端だ。

 ただ一つ、抜けている点があったとすれば――

 彼らが思うよりずっと、相手の自転車は速かったのである。

(まあ、自転車なら原チャリくらいの速度しか出てないだろう。後ろから追突されないように気をつけないとな)

 程度の認識はあったドライバーだが、まさか自分たちが、前を走る80km/hほどの自動車に追突『する』側になるとは、考えなかった。

「はーい。自転車選手。こっち向いてくれよ」

 ドライバーが完全に横だけを向いて運転するような状態の中、スマホを持っていた助手席の方が、先に車間距離に気づいた。


「ちょっと、前!追突するって!!」

「は?……うわぁああ!」



 ガリリリリリリイイイイイイ!!




「なにごとですのっ!?」

 天仰寺が振り返る。その向こうには、壁に車体をこすりつけながら火花を散らす自動車があった。急ブレーキで滑り出し、緩やかなカーブでかかった遠心力で壁にぶつかったのだろう。

「う、うわぁ」

「これは酷いな」

 梨音と良平も、それに気づく。

「みんな。よそ見している場合じゃないわよ。私たちも十分に速度が出ているからね」

 史奈が言って、全員の視線を前に戻させた。

 そう。あのドライバーには、ルーフもドアもある。バンパーもエアバッグも、シートベルトもある。

 それら一つもない史奈たちにとって、もし同じことが起きたら――






 それから30分程度が過ぎたころだった。

 ミス・リードに、地元警察から連絡が入る。


『え?速度制限ですかぁ?……はぁ……はい……んっ、わ、わかりましたぁ。

 選手の皆さん、聞いてくださぁい。現在、2位争いを繰り広げていた選手に引っ張られる形で、交通事故が起きたそうです。事故を起こした男性は、軽自動車を運転中、自転車を追い抜こうとしてガードレールに接触。そのあと自力で救急車を呼んだとのことですよぉ。

 これを受けて、地元警察から指示が来ました。読みますねぇ……


【当該地域の皆様へ。

 自転車での高速走行は、他の一般車両の迷惑になり、事故を引き起こす可能性があります。

 よって、たとえレース中であっても、自転車としての常識の範疇で加速してください。

 時速30キロ以上の走行を控えるよう、協力をお願いします。

 なお、破った場合は大会を中止していただく形になります。ご理解ください】


 とのことですぅ……。

(けっ、早漏が先走っただけじゃないですかぁ。それを自転車の所為にするなんて、何のための高速道路――え?)

 あ、ああ。今の、マイクに入ってましたかぁ?え、えっと、な、何でもないですぅ。当チャリチャン運営委員会は、道路を貸してもらっている都合上、地元警察の言うことには絶対に従いますよぉ。

 脱げと言われれば脱ぎますぅ。やらせろと言われたらゴムなしでも大丈夫ですからねぇ。

 選手の皆さんも、30km/h制限にご協力ください。プレイ以外で手錠をかけられるのは、私もさすがに嫌ですよぉ』




 その連絡が入ったころ、すでに史奈たちは高速道路セクションを抜けていた。

「わたくしの勝ちですわね」

「いや、僕たちの方が」

「早かったと思うよ」

 勝ち誇る天仰寺に対して、良平たちが抗議する。その2台は、すぐ後ろを走っていた史奈には同着に見えた。

(別に、高速道路だけで勝負が決まるわけでもないでしょうに……)

 運営が用意した即席のスロープ。その階段を、史奈と良平は自転車を担いで登る。梨音は天仰寺と一緒に、レボリューションを持ち上げていた。軽くはあっても、独特の形状だ。持ちにくい。


「――待って。3人とも、ミスり速報を聞いて」

 史奈が言った。他の3人はその言葉に従って、インカムマイクに集中する。


『あ、アマチタダカツさんからの凸電ですねぇ。繋ぎますぅ。どうしましたぁ?』


『失礼する、ミス・リード。この場を借りて、皆に呼びかけたい。すでに高速道路を抜けた選手諸君。我こそは、アマチタダカツである。

 現在、高速道路を30km/h制限で走行している後続選手に対し、我々は有利に状況を運びすぎた。故に、勝負自体は不公平な状況になっている。

 これを我は良しとしない。

 そこで、我々は一度立ち止まり、他の選手と足並みをそろえての再スタートを望む。我に賛同するものは、コースアウトして指定の場所に来たれ。美味い店を知っている。提案者として、馳走しよう』


 それは、追い付けもしないと言われた『暫定一位』からのお誘いだった。

「まあ、確かに僕たちだけ高速道路を制限なしで抜けて」

「後続の選手が制限アリってのは、不公平だね」

 良平と梨音の意見が一致する。

「うーん。それじゃあ、後続選手に対してセルフハンデでも与えましょうか。ご馳走もあるみたいだし」

 史奈が乗れば、

「わたくしは――いえ、わたくしも行きましょう。この流れで一人だけ抜けるのも忍びないですわ」

 天仰寺も乗った。




 夕方。レースを中断するにはまだ早く、飲み始めるにも早い時間。

「へいらっしゃい。ご予約のお客さん」

 串焼き屋の店主は、タダカツの頼みに応じて店を開けていた。小さな自宅を改装したような店は、カウンター数席を覗けば座敷がひとつしかない。その上座にタダカツ。時計回りに良平、梨音、天仰寺、史奈と着席する。

「まずは皆、我の呼びかけに応じてくれたこと、感謝する」

「あ、いやいや。僕らこそどうも」

「ご、ごちそうになります」

 タダカツの威圧感は、座ってなお強い。それもそのはず……

(でかい……)

 2メートルを超える長身。梨音や天仰寺など、頭のてっぺんが鳩尾までしか届かない。男性である良平や、身長の高い史奈でさえ頭一つ分以上の違いがある。

 おおよそ自転車乗りとは思えない、筋肉に覆われた上半身。長い手足に、広い肩幅のいかり肩。日本人離れどころか、西洋人でもなかなか見ない体つきだ。

 競技中はゴーグルとサングラスに隠れていたが、顔立ちは東洋人のそれである。切れ長の目に、平面的な眉。太い顎には、綺麗にそられた髭。もともと薄いのだろう。

「ただかっちゃん、子供のころから大きかったからねー」

 店主がそう言って、注文を取りに来る。タダカツは少し照れ臭そうにして、

金魚爺きんぎょじい。昔の話はやめましょう」

 と言い、鼻で息を吐いた。

「いや、本当だぜ?ただかっちゃんが初めて来てくれたのは、高校生の頃だったんだけどさ。あー、もう10年前か?」

「25年前です」

「ああ、そうそう。ただまさ君に連れられてな。まだ元気かい?」

「さあ。兄者とはしばらく会ってないので、我のほうが聞きたい所存。とはいえ、兄の娘とは会ってきましたがね」

「ああ、ユイちゃんね。そっちは元気だろう?よく学校に行くのを見るよ。最近、自転車屋さんのバイトを始めたんだって?」

 金魚爺と呼ばれる店主は、人好きする笑顔で昔話やら、親族の話をする。地元で愛される店だからこそなのだろう。このあたりのことは詳しいらしい。

 歳は60過ぎ。禿げ上がった頭に、まん丸の目。おちょぼ口にしわを寄せるその顔は――

「えっと、おじいさんって、なんで金魚って呼ばれているんですか?お顔が金魚みたいだから?」

 梨音がそう訊く。ほかの3人も疑問に思っていたようで、梨音を見てから再び金魚爺の顔に視線を戻した。

「お嬢さん、これは本名さ」

 金魚爺が言い、

「まあ、どちらかと言えばタコみたいな顔だがな」

 タダカツが突っ込む。

「ふぇ!?ほ、本名なんですか?ごめんなさい」

「いやいや、いいよ。お嬢さん」

 にこやかに言った金魚爺は、エプロンからメモを取り出す。

「さて、ご注文は――とりあえず大人の方はビールでいいかい?それと、お嬢さん二人にはジュースくらいしか出せないけど」

「あれ?何であたしも未成年扱いされてるの」

「金魚さん。こう見えて梨音も成人しているんだ。つーことで、未成年は天仰寺だけだな。僕らはビールで」

「わたくしはジュースで構いませんわ」

「私は焼酎で。あ、壁に貼ってあるそれがいいわ」

「ほう。史奈嬢、いける口か……我のボトルがあったはずだ。出してくれ」

「いや、ただかっちゃん。いつのボトルだよ。とっくに消防団の仲間たちが飲んじまったって」

「なぬっ!?」


 ――ガタッ!ゴン!!


 タダカツが立ち上がり、天井に頭をぶつける。悶絶することしばし、

「――っ!あれは我のボトルだ。出したのか?」

「出したよ。つーか、勝手に持ってかれた。消防団の若いのが居たろ?ひろくんだっけ?」

「アイツか――いや、若くはないぞ。我と同級生だ」

「あ、そうだっけ?いやー、年取るとみんな若く見えるからね。あっはっは」

 笑いながら新しいボトルを取りに行く金魚爺に、タダカツは恨めしそうな視線を送る。

「ぐぬぬぬぬぬぬ……」

「い、いいじゃないの。焼酎の一本くらい。大して入ってなかったんでしょう?」

「史奈嬢まで、何を言うか。まだ半分もあったのに――いや、量や値段はどうでもいい。それより弘明だ。奴に飲まれたのが堪忍ならぬ。思えば中学のころから、あ奴は我の弁当を勝手に食ったり、我の教科書を勝手に借りていったり――」

「仲が良いじゃないの。飲みながら聞くわ」

 笑いながら、史奈は思った。

(ああ、この人は負け癖をつけないというか、きっと勝たないと気が済まないタイプね。それも、勝ち方にこだわる人、なのかしら。だからこそ私たちをここに集めた。勝負に不利だと分かっていながら――)




 夜も更けて、天仰寺を除いた全員が出来上がってきたころ、タダカツはみんなの話を黙って聞く立場に回っていた。どうも酒は弱いらしく、そこは素直に負けを認めていた。

 ちなみに、飲み比べを始めたわけでもないのに一番飲んでいたのは、史奈であった。

「あら?梨音ちゃんも天仰寺ちゃんも、グラスが空よ。はい。一杯」

「あ、あたしはもうそんな――あ、おっとっと」

「わたくしは未成年ですわ。というか、なんで大人の皆さまは、そんなにたくさんの液体を飲み続けられるのかしら?」

 ミカンジュースの影響で、明日から手が黄色くなりそうな天仰寺。もう眠いのか、わずかに船を漕いでいる。

 皿の上に残った焼鳥の最後のひと串。これが宴もたけなわを過ぎて久しい事を、無言で示している。ある意味、終わりの合図みたいな――


 ひょいっ。

 ぱくっ。


 ――ものだったはずだが、それを史奈が食べたことで、続行の合図に代わる。

「金魚おじいさん。焼鳥もう一皿。それとさっきの串カツ美味しかったわ。おかわり頼めるかしら」

「あいよー。やっぱ食うね。史奈ちゃん」

「あら?私に大食いのイメージがあったかしら?」

「まあ、ね。ほら、こないだのグルメレポート番組。あれで一番食べっぷりが良かったじゃない」

 忘れそうになるが、彼女は『ベロドロームの女王』などと呼ばれるプロ選手。それも世界大会優勝を経験し、テレビにも出ている有名人であった。……今はただの酔っぱらいだが。

 金魚爺は、そんな史奈のファンでもないが、何かと彼女にサインやら写真やらせがんでいた。その書きたてのサインは、店の柱にさっそく掛けられている。家宝にすると言っていたが、どこまで本気なのやら。

「やっぱり、史奈ちゃんなら楽勝かい?この大会」

 金魚爺が言った言葉に、史奈は小さく首を振った。横に。

「全然ね。天候や路面によっては私に不利な状態だし、もともと長距離は苦手なのよ。だからチャリチャンのルールとコースは、私にとって『ちょうどいいハンデ』になっちゃったわ」

「おおっ。ちなみに、史奈ちゃんが苦戦した相手なんか、いるかい?」

「そうね……ここにいる全員よ。他は大したことないわ。戦う前から逃げてる。私の走りを見て、そもそも『追い抜こう』って発想になる子がいないのよね」

 史奈が頬杖をつき、ため息とともに瞳を閉じる。酔って赤くなった顔と相まって、とても扇情的だった。

(ああ、そういえば――)

 そんな自分の『女性としての魅力』に半分ほど無自覚な史奈は、再び目を開けて、右手を頬から離す。そしてグラスに手を伸ばした。注ぐたびに水の割合が減っていく水割りを、自らの口に運ぶ。

 湿らせた唇から、芋の香り漂う吐息とともに語るのは、10日ほど前の夜のこと。

「そういえば、噂の中学生コンビは違ったわね。最高速度に達した私を追いかけてきたわよ。それも、抜かれてすぐにね」

 あの夜。90km/hは出ていただろう自分のピストバイクを、サイクリング用のクロスバイクや、初心者用のシクロクロスで抜き返そうとした少年少女。そのあとホテルで会ってみれば、思ったより可愛らしくて素直な子だったのを覚えている。

 再会したときは、たしか一緒にお風呂に入った。その時、彼女は史奈に、覚悟を示して見せた。


「天仰寺さんは?誰か、気になる選手はいるのかしら?」

「え?わたくしですの?」

 そのまま話題を振られた天仰寺は、長いまつ毛に縁どられた目をぱちくりと瞬かせる。

「そうですわね……わたくしに挑んでくる方は多いですわ。でも、わたくしに勝ったのは、空先輩と茜先輩だけですわね」

「あら。貴女もその二人の名前を出すのね」

「ええ。もう一週間も前のことだと思うのですが、まだ覚えていますから」

 ただ負けただけじゃない。冷静に状況を分析されて、弱点であるコーナーで勝負を仕掛けてくる技量。戦術。チームワーク。

 何より、転んだ自分を介抱するだけの、やさしさ。頭を撫でられる感触は、何年ぶりのことになるか……


「梨音さんと良平さんは、いかがかしら?」

「あ、やっぱり、あたしたちに」

「バトンが回ってくるんだな」

 梨音が良平を見て、小さく頷く。良平も梨音の目を見て、口角を上げた。

「いくよ……」

「せーの……」

 高校時代から、ずっと一緒にいた良平と梨音。

 いつの間にか、どちらともなく仲良くなって、どちらから告白したわけでもなしに付き合い始めて、いまさら思い出したように結婚届を出した。そんな二人が、同時に告げる名前は――


「鹿番長」

「ミハエルさん」

 ――それぞれ異なった。

「って、そっちかよ!?」

「って、えええっ?」


「ぜんぜん揃いませんでしたわね……」

「ふふふっ。しかも今までの流れを無視してきたわね」

 唖然とする天仰寺や、小さく笑う史奈をよそに、

「なんでなのさ。良平君、こないだ『ミハエルさんは普通の自転車に乗ってたら優勝候補だったんじゃないか』って、言ってたじゃない」

「梨音だって『鹿番長さんって、ルック車であの持久力とか、只者じゃないよね』って言ってたろ。それも一回や二回じゃないはずだぞ」

 痴話喧嘩が始まる。

「てゆーか、これってあたしも良平君も、『噂の中学生コンビ』って言うところじゃないの?空気読んでよ」

「お前がな。何ブーメラン投げてんだよ。そもそもあの二人は言うまでもなく強敵だったから、言わなくてもいいんだっての」

「あたしだってそう思ったよ。昼ご飯賭けて、結局おごらされたし」

「そのあとの砂浜だって、完全に置いてけぼりを食らったよな」

 どうやら、二人ともやはり……


「結局、その中学生コンビは気になるか」

 タダカツがぼそりといった。いや、本人的にはぼそりなのだろうけど、その低い声はどこまでも届く。大きいのではなく、際立っているのだ。

 だからこそ、彼が口を開いた時、ワイワイした空気も急に止まる。張り詰めるのではない。ただ、彼に注目が集まるのだ。

「そういえば、現在独走中のタダカツさんはどうかしら?誰か、注目の選手はいるの?」

 史奈が聞くと、タダカツはすぐに答える。

「やはり、我も中学生コンビだな。空と、茜と言ったか。その二人だ。我が前に立ちふさがった者は――」

 初日の、スタート直後のことを思い出す。どんな縁があってかは知らないが、子乗せ自転車の親子を勝たせるため、奮闘していた二人。

 少なくとも、スタート時にアクシデントを起こしたネロとかいう青年を除けば、タダカツを足止めしようとした唯一の存在だ。

「格の違いではない。覚悟の違いでもない。ただ、宿命を感じるのだ。どんな時代にも、星が集う場所がある。その中心に輝く双子星。そうではないかと思うのだ」

 そこまで言って、酒を煽るタダカツ。

 この場にいる誰も、その臭い言い回しを茶化さなかった。どころか、

(なんとなく、分かる気がする)

 全員がそう思うほどの何かが、あの少年たちにあった。

 自分一人なら、個人的に気に入っているだけの相手で済んだ。それが、こうして他の強敵にも同じことを言われれば、感じ方は違ってくる。

 特に――

(あの少年――あのときに、我の『気迫』を受けて、なお転ばずに走り続けた少年は……)

 空は、大物かもしれない。

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