第38話 折れたスポークとロードママチャリ
すっかり夜も更け、気温も下がり出す頃、空たちはようやく、高速道路セクションを越えていた。アマチタダカツから6時間遅れ。風間史奈からも4時間遅れている現状だ。
「本当なら、もう宿を探して休んでる時間だったね」
「ああ。割と遅いんだな。30km/h制限って」
速度制限の最大の問題は、その時間消費ではなく、むしろ体力消費にある。
下り坂ではブレーキをかけないといけないのに、上り坂は一方的に訪れるのだ。おかげで平均速度は20km/hを下回るだろう。なのに疲労と空腹はピークに達する。
「一番恐ろしいのは、サービスエリアが無いとコースアウトも出来ないことだな。いっそ手前のSAで一晩泊まろうと思ったほどだぜ」
「あ、あたしは、ちゃんとしたところで寝たい。です」
最初こそ喋るのを恥ずかしがっているというか、意見するのを怖がっていたメトレア。しかし徐々に、その気持ちは薄れているらしい。
高速道路を降りるときは、チャリチャン運営が設営した簡易的な歩道橋を使う。いちおう左半分を階段にしているが、これは自転車を押して歩くための配慮だ。もちろん、右半分はスロープである。
そして、ここはチャリチャンコースなので……
「一気に行くぜ」
茜がギアを落とし、スロープを駆け上がる。もちろん、乗ったまま。
「あ、待ってよ。茜」
空も同じように上る。ここの道幅は狭い。一列に並んで順番に登るしかないだろう。
「あ、あたしも、行くです」
最後尾はメトレア。こんな時は、フロントギアがもう一枚欲しくなる。とはいえ、頑張れば登れなくはない。ブルホーンを引き付けるように、上腕に力を入れる。
鉄骨を中心に組み上げた、まるで建設現場の足場のような即席ブリッジ。その表面は、滑り止めのつもりなのだろうベニヤ板が張られていた。もしささくれでも出ていたらパンクしそうだ。
ガタガタと音が鳴る。歪んだり揺れたりはしないが、不安を掻き立てられる場所だ。
(あ、あれ?あたし、重い?)
メトレアが走った時だけ、茜や空より大きな音が鳴る。背が高い所為だと思いたい本人だが、最近は少し食べすぎの自覚もある。
(ううん。これは食べ過ぎじゃない。走っているから、カロリー消費は大きいから……だからこの音が大きいのは、気のせい)
登りきったところから見る景色は、なかなか幻想的だった。高速道路を走る車を、上から見下ろす構図。一般道でもたまに見る景色だが、
「この高速道路を、僕たちは走って来たんだね」
「ああ、自転車でな。普通じゃないぜ」
「ここが、山口県――青森からスタートして、もう本州をコンプリート、です」
そういった気持ちから、何やら昂るものがある。空や茜に至っては、九州の出身だ。2週間前に家を出たあの日、あの時の一日中電車に揺られた記憶が戻る。
(電車でもあんなに時間のかかった本州を、自転車で――)
脚が震えるのは、疲労を蓄積しているだとか、寒いだとか、橋が壊れそうで怖いだとか、そんな理由ではないだろう。
『さあ、選手の半数……とはいきませんが、だいたいそのくらいの人数が山口県に到達していますねぇ。
山口かぁ。懐かしいですねぇ。チャリチャンの歴史はこの地を外しては語れませんよぉ。あ、イノシシとの遭遇は気を付けてくださいねぇ。お尻にぶち込まれて、そのまま逝っちゃう――ってならないように、ですねぇ』
ミス・リードが何かを言っている。聞けば、山口県はチャリチャンのプレオープンの地であるらしい。
「さあ、登ったらあとは、下るだけだ」
茜が再びペダルを漕ぐ。登った時と同じようなスロープを駆け下り、そのまま料金所の一番端、チャリチャン用に閉鎖したゲートをくぐる。当然、遮断機は上がりっぱなしだ。ETCなしでも通過できる。料金もかからない。
さらに言えば、ここからは30km/h制限も無くなる。高速道路より一般道の方がスピードを出せるとは、この大会は一体何を考えているのだろう?
ベキィン!
空の乗るエスケープの後輪が、大きな音を立てた。
「え?……な、何?」
ブレーキをかけた空は、すぐに車体の異変を探る。
「どうした空。大丈夫か?」
「空さん。壊れたですか?」
茜とメトレアが、すぐに駆け寄る。
「……後輪のスポークが、折れてる」
まるで36本スポークを改造して24本化したような、独特なデザインのホイール。そのイタリアン3クロスで編まれたスポークのうち1本が、ぽっきりとニップル近辺から折れていた。
「これは、修理するしかないな。とりあえず、ミス・リードにショップの場所を聞いてみよう」
茜が、トップチューブバッグのスマホを指でなぞる。ヘッドセットに呼び出し音が鳴り響き、たったワンコールで繋がる。
『はいはい。こちらミス・リードですぅ。茜さん、山口県の
「ああ、すまないが、この辺で自転車を修理できる店を教えてくれ。出来ればスポークをばら売りしているところで、今でもやっている店だ」
『今って……もう21時を過ぎてますよぉ。明日にしたらいいんじゃないですかぁ?』
ミス・リードの言い分もごもっともだったが、今はちょっとしたチャンスだったりする。噂によれば、あのアマチタダカツが歩みを止めて、数名の選手と共に串焼き屋で酒を飲んでいるというのだ。
だからこそ、今はトップ争いが激化している。そのなかで、現在の暫定一位はカナタだと言う話だ。つまり、タダカツの伝説は破られたことになる。
「頼む。どこかないか?今すぐ請け負ってくれる店だ」
『そ、そんなこと言われてもぉ……』
困り果てるミス・リードに、他の選手から通信が入る。これ幸いとばかりに、ミス・リードは茜との話を打ち切るつもりで電話に出た。
『は、はいはいサファイアさん。こんばんはですぅ。えーと、茜さん、いまサファイアさんから連絡があったので、ちょっとお待ちくださいねぇ』
サファイア……たしか、エメラルドという選手と共に、マイペースで巡行している選手だと聞いたことがある。茜たちは直接会ったことがないが、何度かミスり速報に出て来た名前だ。
『こちらサファイア。輪学市で自転車屋を探している、と聞きましたが?』
と、ミス・リードに話しかけるサファイア。その声は綺麗に澄み渡り、それでいて耳に鋭いわけではない柔らかさを持っていた。
『ああ、そう言えばサファイアさんも、このあたりの御出身でしたっけ?どこか良いショップをご存知ですかぁ?』
『トアルサイクル。輪学店があります』
『え?でも、あのお店は20時で閉店ですよねぇ?今、もう1時間以上が過ぎているのですが……』
『はい。なので今から店長および顔見知りの学生バイト一名を叩き起こします。時間外ですが、彼らは選手に貢献できるなら泣いて喜ぶでしょう』
『鬼ですか!?サファイアさん。それはただ泣いているだけですよぉ。きっと喜んでませんって』
そんなやり取りの後ろで、エメラルド選手と思しき男性の声と、これまたスピーカー通話しているであろう少女の声が漏れ聞こえてくる。
『頼む。じゃないとルリが怒るから』
『嫌でござる。拙者にも睡眠時間があるのでござる。しかも来年は拙者も受験生でござるよ』
『大学に興味ないって言ってたろ。な?後生だ』
『こっちも後生でござるよアキラ殿。今から出勤って、拙者の家が輪学市じゃないことくらい承知してござろう。いつぞやのサイクリングロードの端と端でござるよ』
『お前のママチャリなら、20kmくらい5分で来れるだろ』
『1時間はかかるでござるからな!?』
ちなみに、拙者という一人称の方が少女の声だったりする。
『えー、と……とにかくサファイアさんの言うことによれば、トアルサイクル輪学店まで行けば対応してくれるとのことだそうです。夜も遅いので、お気をつけてくださいねぇ。未確認生物とか、逆さヒノキにも……』
「おいおい。そこは強姦とかカツアゲに気をつけさせてくれよ。なんだ逆さヒノキに注意って」
「まあ、ミス・リードのことだから、エッチな意味だと思うんだけど」
空が勝手に予想し、茜もメトレアも頷く。すっかり新手のオオカミ少年みたいになっているミス・リードであった。
「なんにしても、アタイは空と一緒にトアルサイクルに向かうか。メトレアはどうする?」
茜が聞くと、彼女は迷う。一緒に行ってもいいような気もするが、今はレース中。明日になればペースも合わなくなるだろうし、きっと一人で行動したほうがいいだろう。
というより、一人のほうが気楽かもしれない。ある程度打ち解けてきたが、まだ自分が一緒にいていいものかわからないのだ。
「ごめんなさい、です。あたしは――」
「はい。メトレアさんは、宿でも取って休んでください。僕たちも、すぐに追いつきますから」
空が言うと、茜も頷いた。どうやら、ここでお別れだ。
「楽しかったぜ。次に会うときは、アタイら敵同士かもしれないけどな」
「は……はい、です」
茜としては、戦う日を楽しみにしているという意味で言った。それがメトレアにとって、もしかしたら重いのかもしれないのに。
それから、自転車を担いで走ること1時間――たった数kmの距離を1時間もかけて、空たちはトアルサイクルにたどり着いていた。
「すげーな。本当に明かりがついてる」
「あ、でもドアには『閉店』って札がついてるよ。自動ドアも反応しないみたいだし……」
困惑する二人だったが、とりあえずノックでも呼びかけでもしてみようと思う。ここで修理できないと、明日の朝にまた別な店を探さなければならない可能性だってある。
と、そんなとき、一台のママチャリが接近してきた。燦々とヘッドライトを輝かせ、大きなロードノイズを立てながら、
――およそ、70km/hという、ロードバイク並みの速度で。
「避けろっ!空」
「え?うひゃあっ!」
そのママチャリは、空の横すれすれを駆け抜けて、そのままドリフト気味に止まる。あまりに一瞬のことだったので、空に至っては何が起きたのか解ってない。見ていた茜でさえ理解が追い付かない。
まだ砂ぼこりが立ち込める中、その自転車に乗った少女――いかにも部屋着で来ましたと言わんばかりの、上下もこもこ熊さんパーカー姿の彼女は、自転車から降りた。
「はぁ、はぁ……っかっは――あー……こんな急に出勤しろだなんて、人使いが荒いでござる……」
ふらふらになった彼女は、寒そうに両手をすり合わせながら、空たちに近づいてくる。それを見ていた空は、彼女に話しかけようとした。
「あ、あの……」
「ん?何でござるか?拙者は忙しいのでござるよ。今日はこれからチャリチャンの注目選手が来るとかいう話でござるからな。それ以外のお客様は明日にでも来店してもらいたいでござる」
熊のフードを被った彼女は、適当に空を追い返そうとして――
「いや、待てよ。まさかお主らが、その選手でござるか?」
気づいた。こんな夜更けに見慣れない中学生。それがスポーツバイクを持ってきていることに――
「あ、空です」
「茜だ。噂の中学生コンビ、とか呼ばれてるよ」
二人が自己紹介すると、彼女も踵を返す。返す踵自体は、これまた室内用ではないかと思えるもこもこスリッパであった。歩くたびにペッタンペッタン、場違いな音が響く。
「おお、えっと――あ、い、いらっしゃいませ。当店スタッフの、
急にぎくしゃくした態度になる熊パーカー少女は、どうやらこの店の店員であったらしい。
「さあ、中へどうぞでござ――います」
「あれ?『ござる』は?」
「……」
中二病の卒業寸前には、触れられたくない部分がある。
そろそろ変なキャラ付けが恥ずかしいと気づいたとき、しかしそのキャラを脱ぎ捨てるタイミングが分からなくなる。といったところだ。
うっかり初対面の人の前でも『ござる』と語尾につけてしまったり、
うまく口調を変えて普通にしゃべっているときに、昔からの知り合いと再会してしまったり、
周囲から「どうしたの?」「大丈夫?」と心配されたり、あるいはあまりにも心配されないので、気を使わせてしまったかと思ったり――
店内にて、空の自転車を見た中年男性の店長は、眠そうにあくびをしながら言った。
「これは……リムの振れ取りもしなくちゃいけないから、2、3時間はかかるね。やってたら日付が変わっちゃうかも……あ、料金は手数料込みで3500円になります」
レジにて伝票を作成しながら、さらにバイト少女、ユイにも一言。
「ユイちゃん。その口調なら気にしなくてもいいって。お客さんだって、可愛いって言ってくれてるじゃない?」
言われたユイは、すぐに抗議する。
「違うでござる。拙者だっていい加減、普通の女の子になりたいのでござるよ」
「普通の女の子は、ママチャリを改造して自動車を追い抜いたりしません」
「それはそれ、これはこれでござる。せっ――私だって、普通におしゃれして、普通に彼氏作って、普通にデートしたいお年頃でござ――いますわよ」
「普通の女の子は、上下もこもこの熊さんパーカーでお出かけしないと思うんだ」
「これは今日だけでござるからな!店長が『1時間で来て』というから、仕方なしに着替えもせず、押っ取り刀で自転車を馳せ、参じた結果でござるからな」
パーカーのフードをとったユイが、必死に唾を飛ばして訴える。セミロングの茶髪と、くりくりした目が露になった。
薄い唇をへの字に曲げて、今にも泣きそうである。
「はいはい。それじゃあユイちゃんは、悪いけどスポークの交換お願い。振れ取り台はそこにあるし、僕はちょっと奥で給料計算しているから、何かあったら呼んでね」
「え?て、店長が修理するのではないのでござるか?拙者がやるのでござるか?」
慌てふためくユイをよそに、店長はバックルームに引っ込んでいく。空と茜は、そのやり取りをずっと見ていることしかできない。
「て、店長!あんまり人使いが荒いと、内部告発するでござるからな。まだ18歳未満の女子高生バイトを、夜中の10時に呼び出して働かせたとツイッターに書き込むでござるからな。っていうか、拙者は自転車技士の免許も持ってないでござるよ」
不安になる言葉だ。
「あ、あのー……」
ようやく空が手を挙げて、ユイを呼ぶ。
「な、何でござるか?」
「いや、僕の自転車、本当に治るんですよね?」
「むむむ……」
少し悩んだユイは、考える。せっかく来てくれた中学生の少年を、このまま無碍に追い返す選択肢はない。それだけは確かだ。
では、自分で勝手に修理して、もし万が一のことがあればどうするか。まして、数年前に生産完了した部品である。もし破損させたら、同じものは手に入らない。
考えた末に、出した結論はこうだ。
「ええい、やってやるでござる。安心して見ておるがよい」
店内の整備スペースは、レジの横、店の奥のほうにある。そして、隣には丸テーブルと椅子もあった。茜と空は、そこに座ってユイを見ている。
「不安そうなことを言ってたけど、手際はいいよね」
ユイ本人に聞こえない程度の小さな声で、空が茜に言った。ちなみに、
「聞こえてるでござるよ」
「わっ、す、すみません」
静かな店内では、ひそひそ話が困難である。
Vブレーキのアームからケーブルを外したユイは、続いてQRレバーを開放し、あっさりと後輪を引き抜く。絡みつくチェーンをさっと振りほどき、車体事態はハンガーに掛けて、ホイールは作業スペース中央へ。
長さが合いそうなスポークの中から、できる限り色合いの近い銀のものを選ぶ。そして折れたスポークをハブ側から抜き取り、ホイールを揺さぶる。
カラカラカラ……
「あー、これは……タイヤも分解する必要があるでござるよ。中にニップルが入り込んでいるようでござるからな。タイヤレバーを取ってくるでござる」
手際よく作業する彼女を見ていると、まったく不安は沸いてこない。
「まあ、そのくらいの技量はあるよな……」
茜が彼女の自転車を見ながら言った。ちなみに、茜のクロスファイアやユイのママチャリも、ついでとばかりに店内に持ち込んでいる。どうせ他の客は来ないのだから邪魔にならないし、外に置くより安心だ。
「たしかに、この車体、すごいね」
空も、もちろん気づいている。このママチャリが普通の車体でないことに……
Bridgestone
しかし、このユイが乗る車体は、足回りをすべてDura-Aceに交換していた。
4mmも押し広げられたリアエンドに、無理やり突っ込まれた700Cホイール。チェーンステー側のブリッジに、ねじ穴を拡張して取り付けられたキャリパーブレーキ。チェーンケースを外して、ブラケット込みで取り付けたフロント変速ギア。
「足回りだけ見れば、アタイのクロスファイアよりもレース向けだな」
「ベースはただの通勤自転車だから、ロードほどの速度は出ないはずだけど……」
「乗り手の脚力と心肺機能によるんだろうさ」
いずれにしても、これだけの改造をする少女なのだ。ホイールの修理くらいは安いものだろう。そう茜たちは納得する。
「おお、拙者のビレッタ・レーサーが気になるでござるか?」
ユイが作業を中断して、自転車を自慢しに来る。
「つーか、ビレッタ・レーサーって呼んでるのかよ」
「いいでござろう?拙者の愛車でござる。まあ、改造自体は叔父上に手伝ってもらったのでござるけどな」
ぐっと背をそらして、腰に手を当てるユイ。やはり自転車が好きなのだろう。もっとも、そうでもなければ改造自転車に乗ることもないだろうし、このような専門店に務めることも少ない。
「乗ってみるでござるか?」
「え?いいんですか?」
空が目を輝かせる。その態度に、ユイはとても満足そうに頷いた。
「ついでに頼みたいのでござるが、夜食でも買ってきてくれぬか?この道をまっすぐ行った3つ目の交差点。その角にコンビニがあるのでござるよ。残っている弁当の数は少ないであろうから、何でも構わぬよ」
客に弁当を買いに行かせるバイトがいるかと言いたくなるが、その客だって閉店後に店を開けさせているのだから文句は言いづらい。しかし、それを差し引いても自由なバイトである。
「え、えっと……分かりました。茜は?」
どうせコンビニに行くなら、ついでにみんなの分も買ってきてやろうと思う。
「ん?ああ、そうだな。お前のセンスに任せるよ」
「一番困るんだけど」
「大丈夫でござる。本当にこの時間になると、残っているものは少ないでござるからな。迷うほど選択肢はないでござるよ」
外に出ると、冷たい風が身を刺す。とはいえ、実はだんだん暖かくなってきているのも感じていた。今は深夜だから寒いが、昼間などはコートを脱ごうと思ったくらいだ。
自転車で駆け抜けてきた距離は、思ったよりも長い。それを地図上の話でもなく、疲労度でもなく、気候から感じる。
「それじゃあ、よろしくね。ビレッタ・レーサー」
ユイから借りた自転車に跨り、すっと走り出す。ペダルが軽いのは言うまでもない。
(ママチャリの乗り心地じゃない)
と、つい半年前までママチャリ乗りだった空が思う。もちろん半年の間にずいぶんとクロスバイクに慣れてしまったが、それを差し引いても軽く感じる。
(アルミフレームだから、ってだけが理由じゃないよね。ロード用のホイール、ギア、ペダル、クランク……全部が軽いんだ)
スポーツバイクに乗り慣れない人なら、まずペダルが空回りするような感覚と、そのくせ前に進まないギア比で転んでいただろう。空はこれを、ママチャリではなく、スポーツバイクだと判断して漕ぎ始める。
ハンドルはライズバー。それに合わせて、シフターは105が採用されている。ここをDura-Ace化しなかったのは、ひとえにドロップハンドル用では取り付けられないからだろう。
(このまま、ギアを上げる……)
変速の理屈は、普段と大差ない。ロード用コンポなので、どちらかといえば茜の自転車に近いだろう。
徐々に空気の抵抗が大きくなっていく。普段のクロスバイクよりも、さらに重いギアを漕いでいた。それでも、まだ漕げる。
(すごい。見た目に反して、僕のエスケープより速い!?)
空がそう思うように、ギア比や足回りの摩擦係数で言えば、エスケープ以上だ。ただ、フレームのレスポンスの悪さや、力の入りにくい姿勢が邪魔をする。ハンドルの握りも細く、安定しない。
少しだけ不満の残る、バランスの悪い車体。だけど、乗っていて楽しい。
コンビニには、本当にかろうじて3人分の弁当しかなかった。もう少し遅れるか、あるいは運がなければ足りなかったのだ。そう考えると、残っていただけラッキーであろう。
(よかった。買い出し成功)
そのコンビニ袋を、ビレッタの後ろカゴに入れる。そこそこ幅も奥行きもあるコンビニ弁当を、水平のまま運ぶ最良の手段だ。手に持って移動すると、ハンドルやフレームにぶつかって揺れてしまうから。
「こういう時、本当にママチャリは便利だね。ビレッタ」
空だって、エスケープにカゴをつけようとしたことはあった。通学時には便利だし、買い物もしやすいからだ。
ただ、後ろは重さに限界があるのと、リアエンドにキャリアステーを取り付けられないことが災いして不可能。前にはブレーキとギアのケーブルがあるため、干渉して反応が悪くなると、店員から言われたことがある。
つまり、この便利さはママチャリじゃないと味わえないのだろう。
カギを差し込むと、ワンタッチで開く。シリンダー錠なので、ワイヤーを巻き取る手間もない。
スタンドを蹴り上げると、あっさりと固定される。スポーツバイク特有の『スタンド別売りだから長さや角度が合わない問題』に悩まされることもない。
(案外、いいな。ママチャリ)
最初こそ、どうして素直にロードバイクに乗らないのか?と疑問に思っていた。でも、今はなんとなくわかる。ユイは、ママチャリが心の底から好きなんだ。
(僕も、もう少しだけ乗っていたいなぁ)
そう思ったが、せっかく温めた弁当が冷めると困る。何より、道に迷う危険性もあった。道路が暗いことも計算に入れて、ここはおとなしく戻るしかないだろう。
「出来上がり、でござるな」
もうすでに日付が変わったころ、ユイはようやく立ち上がって言った。
「ご苦労さん。助かったぜ」
「なに、やってみれば面白かったでござるよ。とはいえ、まだこれにチューブとタイヤを組み込み、本体に取り付けたうえでお渡しとなる、でござるけどな」
そういった彼女は、ツールボックスからいくつかの道具を追加で並べだした。
「ついででござるから、インデックス調整とブレーキ調整もサービスしてやろうぞ。パッドの擦り減り具合からして、やや左の片利きにござる。あとハブが擦り減っているせいか、ロケットの緩みも見受けられるのう……」
その点検は丁寧で、整備は親切だった。バイトにしておくのはもったいない。店長が彼女一人に任せたのも納得ができる。
「なあ、ユイさん。ちょっと休憩にしないか?空もそのうち帰ってくるだろうしさ」
茜がそう言うと、ユイも手のひらをポンと叩く。
「おお、そうでござったな。では、拙者は少し手を洗ってくるでござる」
ぱたぱたと裏に引っ込んでいくユイ。Staff onlyと書かれた扉をくぐり、バックルームへと――いくかと思いきや、何かを思い出して戻ってくる。
「そうそう。もう今夜は遅い。この汚い店でよければ、泊って行って構わぬでござるよ。時間がかかってしまったことへの、せめてもの詫びでござる。まあ、朝8時には出て行ってもらわぬと困るがの」
本当に屈託なく、ニカリと笑うユイ。つい数時間前まで臨時出勤に文句を言っていたのに、いつの間にか上機嫌である。
修理が成功して嬉しかったのか、褒められたのが気分良かったのか、はたまた自転車を弄るのが楽しかったのか。
なんにしても、ここを逃せば宿は見つからないだろう。それに夜中の何があるか分からないときに走るより、明るくなってから走った方が安全だ。まして一度エスケープを壊した後で、普段より慎重になる。
「じゃあ、お言葉に甘えて一泊させてもらうか。つっても、あと数時間だけどな」
「うむ。ぐっすり眠れとは言えぬ状況でござるな。ああ、風呂はないが、シャワーを浴びたければ言ってくれ。店の外に蛇口とホースがあるのでな」
「それ屋外じゃねーか!つーか自転車洗う用だろ絶対」
「この時間に誰も通らぬよ。それに一日中走っていたなら、
「だとしてもその選択は無いぞ。アタイはパスだ」
この場合、どちらが女の子としての尊厳を保てるのかは分からない話だった。ユイはひとまず手だけを洗いに行き、戻ってくる。
空が戻ってきたのも、丁度その頃だった。
帰ってきた空が弁当を出し、茜とユイがそれぞれ好きなものを手に取る。そうして余ったひとつを空が食べることになった。
「さすがママチャリだぜ。弁当が崩れてないな」
「うん。それに軽くて速かったよ。こう、ピューンって」
「それは空殿のテクニックあってこそでござる。拙者の車体は、乗り手を選ぶでの」
和気あいあいと話をする中、テーブル中央のスマホは、なんとなくミスり速報を流していた。現在、暫定トップを取っていたカナタがコースアウト。そのまま宿に向かったらしい。
これにより、暫定トップはまた入れ替わる予想。チャリチャン始まって以来の乱戦である。
「……アマチタダカツの伝説もここまでか。つーか、なんでアイツは串焼き屋になんか行ったんだろうな?しかも他の選手数名を引き連れて――」
茜が首をかしげると、空もつられて鏡のように顔を曲げる。
その疑問に答えを出したのは、ユイだった。
「それは、叔父上がフェアプレイを望むからでござろう」
「……叔父上?」
思いもよらない人物の名前が出たので、空も茜も顔を見合わせる。
そんななか、ユイは口の中のトンカツをごっくんと飲み込んだ。
「うむ。実は今日の高速道路セクション。速度制限がかかったのは昼頃からなのでござる。だからこそ、朝に走った叔父上は、他の選手より有利に進めた。それが負い目にならぬよう、同じような選手たちを集めてハンデをつけたつもりなのでござるよ」
トンカツの下にあるスパゲティに、ソースを絡めて口に運ぶ。そんなユイに対して
「叔父上って誰だ?」
と疑問を投げたのは、茜だった。
「まさか――」
空は気づく。ユイの整備用エプロン。そのネームプレートに『天地 唯(研修中)』と書いてあったことに――
「むぐむぐ……叔父上と言えば、拙者の父の弟にあたる人物でござるよ。お主らの言う『伝説』の男――ごっくん」
なんとも行儀の悪い食べ方をしながらも、しかし幸せそうに頬に手を当てて、笑う。
「
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