第37話 内気な少女とアーバンスポーツ
『さあ、チャリチャンも12日目の午後を迎えましたねぇ。本日は晴天。いえ、あまり晴天とも言い難いですが、まあそれなりに走りやすいのではないでしょうかぁ?
えー、選手の皆さんにお願いがあります。ここ、山口県入り口付近において、高速道路を一車線だけ貸し切っていますが……しかし、諸事情により速度制限を設けるよう、自治体から圧力がありましたぁ。……ぺっ。
つきましては、皆さんは時速30km/hを越えない程度で走行して頂けると幸いですぅ。ご迷惑をおかけいたしますけど、よろしくお願いしますねぇ』
そんな奇妙なお願いに基づき、空たちは高速道路を低速で走っていた。もっとも、お昼ご飯を食べたばかりで、どのみち速度は出ない。
(っていうか、自転車で30km/hって、維持するつもりなら速い方だと思うけど……)
このチャリチャンという大会の持つ特性は規格外だ。あまり市街地や国道を走らせてもらえない代わりに、線路、公園、海岸、挙句には高速道路まで貸し切ってしまうあたり、通常のロードレースやマラソンとの違いを思い知らされる。
「ねえ、茜。どうして高速道路なのに、速度を落とさないといけないの?」
「さあな。アタイも知らないけど、まあいいんじゃないか?たまには体力を温存して巡航に徹するのもさ」
茜が言うように、オンロードではどれだけ体力を温存できるかが、長距離レースのポイントになり得る。だからこそ、ずっとペースを一定にして走り続けるのも策略のうちなのだろう。
「でもさ。体力を温存するつもりなら、何で茜はダンシングなの?」
空がそう聞くと、いつもより一つ高い視点の茜はギクッと背筋をこわばらせた。
「ま、まあ、あれだ。立ってた方が座っているより楽な時もあるんだよ」
「ふーん。まあ、解る気がするけど」
「だ、だろ?」
そんな茜は、巡航とは言い難いパワーでペダルを踏みつけている。ギアが重く、ケイデンスは少ない。トルク型の茜ならいつもの事と思うかもしれないが、いつも以上に、だ。体力を温存する漕ぎ方ではない。
どう見ても、体調が悪い。隣にいる空は、それをしっかりと感じた。
「ねえ。僕に何か隠してない?大丈夫?」
「何でもねぇって言ってんだろ。くどい」
「ご、ごめん……」
空がしゅんと縮こまる。それを見て、茜は少し慌てた。
「ああ、ごめん。別にお前にイライラしたわけじゃないんだ。……そうだよな。気遣ってくれたのに、ごめんな」
「……あれ?茜がいつもより優しい?」
「おい待て。いつものアタイが全然優しくないみたいな言い方になってんぞ」
とはいえ、確かに自分は今まで、厳しい言い方(自覚はないが)をした後に、フォローを入れたことなんてあったか?……いや、ない。と思う。多分。
(自然体で、ってのも難しいな。アタイが意識し過ぎてんのか?)
ペダルを水平位置で止めた茜は、下腹部にそっと手を当てる。目を閉じて、風を感じる。その風に、自分の中の精神的な
肺の中を空っぽにするように、深呼吸。あまりやり過ぎれば喉を傷めるし、体温も消耗する。冬場は適度に行うのが重要だ。時間をかけて、丁寧に――
(よし、気持ちも切り替わったぜ)
一瞬だけ目を閉じた茜は、瞼の裏で自分にそう言い聞かせる。そして、再び目を開ければ、どこまでも続く高速道路と、その下に広がる新緑。
天気は良く、風は穏やかに背中を押してくれる。ベストコンディションだ。
「空。心配かけてごめんな。アタイはもう大丈夫だ。さあ、今日もチャリチャンを楽しもうぜ」
そう、多少の体調不良はあるが、自転車に乗れない程ではない。いや、実際には気にしないつもりになれば忘れられる程度の問題なのだ。少なくとも、茜にとっては。
「うん。分かったよ。でも、体調が悪いなら言ってね」
何となく、茜が無理しているように見えた空は、そう言った。
『おっと、これは珍しい。茜さんがペダルを止めて、しかし立ち漕ぎの姿勢を崩しません。サドルには亀裂などが見受けられませんが……ああ、そういうことですね。
ギャザーが付いていても、本気のペダリングには耐えられないんですよね。そんな時はいっそ中に入れちゃうタイプがお勧めですよぉ。まあ、紐がサドルに擦れると、これまた気になりますけどね。
え?私の中から出ている紐ですかぁ?これは紐じゃなくて電線なんですぅ。で、この先端のコントローラーについているボタンを押しますと、とってもっ――ぁ……き、気持ちよくっ……って、ダメっ。
あ、茜さん。もしお薬など必要であれば、お近くの中継車、もしくは私に言ってくださいねぇ。痛みを軽くする程度のものならありますからねぇ』
「おい待て。何でカメラ越しに実況しているだけのミス・リードにバレてんだよ。……漏れてないよな?」
レーパンを触って、その感触が少なくともさらっとしていることを確認して、安堵する。それを見た空は、
「あ……ああ、そういうことだったんだね。えっと……僕には分からない痛みだけど、本当に無理はしないで、ね……」
とても気まずそうに視線を逸らす。つまり、今のでしっかり伝わってしまったのだ。
「空、忘れろ。さすがに……」
「う、うん。聞かなかったことにする」
同級生が隣で『女の子の日』に苦戦しているなど、知ったところで何の手助けもできない。
「あ、あの……大丈夫、ですか?」
隣から、別の参加者が話しかけてくる。高校生くらいだろう。茜たちより少し年上に見える女子だった。
長い髪を両サイドで結び、前髪を軽く流した、ヘルメット無しで走る少女。柔らかそうな頬に、少し高い鼻。灰色一色の冬用ジャージに、ピンクのミニスカートを組み合わせた格好。
露出度は一切ないのに、妙に挑発的に見える服装だ。
その少女が、並走しながら茜たちを見ている。
「えっと……その、せい――体調は……」
「ああ、大丈夫だ。心配いらねぇよ」
茜が答える。この話題にはもう触れてほしくない。
「あ!」
「どうした?空」
突然大きな声を出した空に、茜が振り返る。しかし、空の見ていた先は、茜ではなく相手選手。それも顔ではなく、足元だった。
「
空が突然口にした名前は、相手の少女の名前だった。
『はいはーい。ここで茜さんと空さんが、メトレアさんと合流ですねぇ。
改めてご紹介しましょうかぁ。エントリーナンバー741 メトレア選手。今まで目立った活躍こそないものの、どんな路面でも一定のペースで走っている選手ですねぇ。
彼女の使う自転車は、CENTURION
それから……おっと、失礼。このタイミングで凸電ですねぇ。
はい。もしもし、アマチタダカツさんですね。連絡くださるのはお久しぶりですぅ』
ミス・リードの実況が中断される(とはいえ、タダカツとの会話も放送され続けている)。
そんな中、メトレアというらしい少女は、空を見て首を傾げた。茜も首をかしげる。
「なあ、空。こいつとどこかで会ったか?」
「え?ううん。初めて会うよ。えっと、僕が言った『メトレア』って言うのは、メトレアさんの名前じゃなくて、このコンポ」
どうやら、自分のエントリーネームを部品名から取っていたらしい。紛らわしい事である。
「あ、改めて、初めまして。僕、御堂空です」
「諫早茜。よろしくな」
空が名乗ったので、なんとなく茜も名乗る。すると、相手も小さく答えた。
「……メトレア、です。えっと、変速ギアと同じ名前。ごめんなさい」
下を向いたまま、下手をすると風の音にさえ消されてしまいそうな、小さな声で……
「正直、助かったよ」
トイレに立ち寄った茜は、メトレアに感謝した。実のところ、思った以上に足りなかったのだ。
「えっと……いくら吸水性があっても、ロード用の硬いサドルとお尻に挟まれると、絞られちゃう、ですから……」
「ああ、確かにな。その通りだった」
多めに持ち歩きたいのもやまやまだが、茜の場合は自転車に余計な荷物を付けたがらない。そのため、小さなサドルバッグに入る分しか持ち歩いていないのだ。そもそも高速道路なんかをコースにしてくれたおかげで、トイレにも気軽に立ち寄れない。
「あと、サドルを変える手もある、です」
「ん?ああ……クッション性の高いやつか?アタイ、腰が落ち着いてないと漕げないんだよ。なんか気持ち悪くてさ」
オンロードスポーツに使われるサドルは、非常に硬い。そうでないと、体重を安定させられないからだ。逆に言えば、アーバンスポーツやクロスバイクの快適性を重視したサドルは大概柔らかい。
「えっと、柔らかさだけじゃなくて、形状も大事だと思うです。中央に溝切や穴があるサドル。あと、お尻だけを乗せる、後ろ半分だけのサドルとか……」
「ああ、あるな。そういうの」
股間、まして局部を圧迫されるのは、男女ともにそれなりの悩みだ。解消策として、変形サドルも多く出回る。
「つっても、アタイはそれも苦手なんだよ。なんか、その……真ん中が楽になる代わりに、両横からキュッってされる感じがあってな」
「……ああ、あるあるです」
女子二人で、こんな話――そう言えば、自転車について気兼ねなく女子と話すのは初めてかもしれないと、茜は思った。ニーダとはガールズトークという感覚にはならなかったし、史奈ともここまで突っ込んだ話はしたことがない。
まあ、それはそれとして、
「空が待ってんな。そろそろ待ちくたびれてる頃だろうよ」
茜が言った。当然、この場に空はいない。
「さあ、行こうぜ」
茜は、自然とメトレアに手を差し伸べていた。
「あ。えっと……はい、です」
一度は茜の手を取りそうになったメトレアだが、すぐに引っ込めて胸の前で組む。
ひとつひとつの仕草が、妙に女性らしい女性だ、と、茜はメトレアに対して思う。自転車に乗っているときは気づかなかったが、女性らしい丸みを持つ体つきと、それを無自覚に引き立てる衣装。そして表情や仕草が、なんとなくそう思わせるのだろう。
「……どうか、したですか?」
「いや、あんたみたいな自転車乗りもいるんだな、ってな」
「あたしみたいな、です?」
「いや、忘れてくれ。アタイも上手く言えねぇ」
その柔らかそうな腰回りを見て、茜は自分の、薄い脂肪と引き締まった筋肉で出来た身体と比較する。
心のどこかで、女を捨てることが自転車を速く走らせるコツだと思っていたのだが、
(メトレアさんは、何でそんな姿で走れるんだろうな)
二人がトイレから戻ってくるまで、空は駐車場で自転車を見ていた。場所が高速道路のサービスエリアであるため、駐輪場はない。
(うーん。似てる……)
空は、茜とメトレアの自転車を見比べて、そう思った。
同じCENTURION社の、クロスバイクとシクロクロス。どちらも太めのタイヤと、ディスクブレーキ。そしてアーチのかかったフレーム。
こうしてみると、まるで姉妹のようである。もっとも、茜の乗るクロスファイアがオフロード競技用なのに対して、メトレアの乗るシティスピードは街乗りサイクリング用なのだが。
(なんか、仲良しな感じがしちゃうよね。間違い探しみたい)
あえて言えば、茜の車体がドロップハンドルにTiagraセット。リアが10段変速で、フロントが2段の合計20速。一方のメトレアの車体は、METREAセット。リアが11段で、フロントは1段の合計11速だ。
(ペダル側に変速ギアがないのに、疲れないのかな?……あ、でもリアの11段って、こうしてじっくり見ると凄く細かい。遠目からだと解らないけど――)
やはり男の子である空。こういったメカには興味があった。
METREAは、ここ2年ほどで市場に出回ってきた、まったく新しいコンセプトを持つコンポだ。販売元のshimano社はこれを『
これが、非常に珍しい。というのも、思った以上に売れなかったからである。
旧来のロード用コンポが流線型だったのに対して、METREAは平面的で宇宙船を思わせるデザイン。それ自体は評価されたが、性能が問題だった。良くも悪くもないため、他の商品と比べて突出しなかったのだ。
結局、「じゃあ105やULTEGRAでいいや」となるのが関の山なのである。しいて言えば、Hバーハンドルやブルホーンハンドルに対応するのは数少ない売りだが、そもそもそんなハンドルを使いたがる人口も少ない。
それでも……
「カッコいいなぁ」
空にとっては、驚くほど魅力的に感じた。そっとシティスピードの前に座って、そのクランクを指でなぞる。
「空が変態に目覚めたか……」
後ろから茜の声が聞こえて、ハッと振り返る。そこには腰に手を当てて、睨むように立っている茜。そして、身体を縮めて恥ずかしそうに下を向くメトレアがいた。
「あ、いや。別にいやらしい気持ちで触ってなんかないよ。本当だよ」
「あー、はいはい。そんなに本気で弁明すんな。アタイだって解ってるからよ」
茜がすっと空の横をすり抜け、メトレアのシティスピードに歩み寄る。
「本当に似てるよな。なんつーか、メーカーの好みがうかがえるぜ」
「乗ってる人は正反対だけどね」
「あ?アタイのどこが女らしくないって?」
「いや、そんなこと言ってないよ。まだ」
「まだって何だ。これから言うところだったんじゃないか」
「わわわっ、止めてよ茜」
飛び掛かる茜をひょいっと避けた空は、ポールを中心にくるくると回って見せる。追いかける茜も回り始め、そのまま放っておけばバターになりそうだ。
「捕まえたぞ。空」
茜が空の頬をひねりあげる。
「わっ。
「あっははははっ。何言ってんのか分かんねぇぞ」
それにしても、もっちりと伸びる空の頬。歯を食いしばったことがないのだろうか。頬の筋肉は発達していないようだ。
「
「あ、アタイは小さくねぇ!それに当たってないだろうが!もし当たってたらさすがに気づくわ」
「言ってること分かってるじゃないか」
ちなみに、当たってない。言ってみただけである。
となりで、メトレアがくすくすと笑っている。それに気づいた空は、少し恥ずかしそうに視線をそむけた。茜も咳払いで流れを打ち切る。
「ごほん、ごっほん!……さて、そろそろ行くか」
「うん」
「……」
メトレアがそっと、自分の車体のハンドルに手を伸ばす。スタートのタイミングを計るように……それでいて、いつまでもまたがらない。
それを見て、空がハンドルから手を離して振り向いた。
「行きましょう。メトレアさん」
「……あたしも、一緒に?」
戸惑うメトレアに、空が頷く。茜も振り返って言った。
「まあ、どのみち高速道路のセクションを抜けるまでは、速度制限もかかっているみたいだしさ。ゆっくり行こうぜ。メトレア」
どこまでも、という訳にはいかないだろうが、せめて高速道路だけでも、だ。
決して30km/h制限はゆっくりでもないが、だからと言ってどちらが勝つとか負けるとかを競える速度でもない。つまり、規定速度ギリギリで走ろうという提案だった。
しかし、
「あ、あたしは、そのっ……足手まといになる、ですから……」
「ん?」
「え?どうしてですか?」
聞き返す空と茜に、メトレアは答えにくそうに言う。答えに詰まる。
「……だって、あたし、レーサーじゃないですし……自転車も、レース用じゃない、です」
もともとは、シティスピードもクロスバイクだ。シティと名につく通り、街中を軽快に走るための車体でしかない。そんな自転車が、レースに出たらどうなるだろう。
いま彼女がいるのは、日本中が注目する大会の真っただ中。しかも優勝を十分に狙える位置である。そこまでくれば、多くの車両はレース用になる。MTBかロードかの違いこそあれ、競技に特化したものが普通。
そのなかで、自分だけが街乗り用であることへの引け目もあったのだろう。
「ごめんなさい。あたし、軽い気持ちで、出場しちゃったのに……いつのまにか、こんなところまで」
興味本位で――しかし強い興味があって、両親の反対を押し切って大会に出場した。それ自体は、空たちとあまり変わらない事情である。
ただ、違うことがあるとしたら、彼女にとって自転車は大きく体力を消耗するものだった。いや――そう感じるのだった。
今では両親もメールで応援してくれているが、励ましだけでやっていける距離ではない。先日、銭湯で体重計に乗ったら、この10日間で5kgも体重が落ちていた。積んでいる荷物の重さより、背負っている精神的な重さがデッドウェイトになる。
(でも、実家がある青森から、遠く離れちゃったし……いまさらリタイアも言い出せないし……)
なにより、行き過ぎた才能もあったのだろう。意外なフォームの美しさや、瞬発力こそないが持久力に長けた身体。それが中途半端に良い順位と、リタイア出来ない理由を作る。
いつしかメトレアは、走る理由を見失っていた。
それでも彼女は、走る理由を与えられていた。
それは、誰にも伝わらない悩み。誰に伝えたってわからない。だって、ここにいるみんなは自転車に乗るのが好きで、自転車がつらいと思ったことなんてないのだから。
当然、空たちも彼女の悩みに気づけない。
「まあ、アタイだってレース用に乗っているけど、レース経験はこれが初めてだ。似たようなもんだろ」
「そもそも、僕に至ってはクロスバイクですから、メトレアさんと同じような立場ですし」
「なんなら空のほうが安物だぞ。コンポだけでも倍近くコストが違う」
「あ、ひどいよ茜。エスケープだって頑張れば速いのにっ」
こうして楽しそうにしている二人――『噂の中学生コンビ』などと呼ばれる
「空さんは、すごい、ですね」
「え?僕が?」
「はい。クロスバイクでここまでの順位を保てるなんて――しかも各所で話題なんですから」
「うーん。多分、各所で話題なのは茜のせいだと思いますけど……」
実際には活躍している空だが、その自覚は薄い。そういう意味では、似たような仲なのだろう。
「ほら、二人ともいくぜ。レース中だってことを忘れんなよ」
茜が右足を蹴りだすようにして、再び車体に跨る。それを見て、空も続いた。こちらはリアキャリアに足をぶつけないように、トップチューブをまたぐ形で。
「行きましょう。メトレアさん」
その呼びかけに、メトレアは戸惑い、最後の確認をする。
「いいの、です?」
「「もちろん」」
それなら、一緒に行ってもいいかな。もちろん、どこまでもという訳ではない。足手まといにならない程度に。
本人は、まだ気づいていない。この車体がコンセプトと裏腹に高性能であること。同じように、本人が意志の弱さと裏腹に実力者であることに。
バサッと、大きく虚空を蹴り上げるメトレア。そのままサドルに後ろから乗る。たとえミニスカートでも、中はどうせロング丈のレーパンだ。見えて困るものなどない。
ブルホーンハンドルに手を乗せ、肩を縮めて脇を締める。軽く肘を曲げて、すっと漕ぎ出した。
薄型のフラットペダルに、軽く足を乗せるだけ。なのに普通のスニーカーは滑ることなく、そのペダリングをサポートする。おかげで漕ぎ出しから、二人よりわずかに速い。
(そうか。フロントギアが48Tのシングルだから、アタイらより距離的には進むのか)
(そう言えば僕たち、なんとなくいつもギアを下げ過ぎているかも……)
茜は、36Tしかないギアを軽く踏み込む。空に至っては26Tしかない。どんな場所から、どんな姿勢で走り出さなければならないか判らない公道。だからこそ、空たちはギアを落とし過ぎていたのかもしれない。
茜がビンディングをはめ込んでいる間にも、空とメトレアは加速する。この二人は靴をはめ込む必要がない。だからこそ、気軽に走り出せるし、気軽に止まれる。
「フラットペダルの利点ってのも、あるのかもな」
連日のライドで左足首を痛めている茜が、そう言う。ペダリングには支障がないので放っているが、地味に痛むところだ。
「まあ、フラットでも靴の裏が傷つくことはあるけどね。この間なんか、学校指定の靴に穴が開いちゃってさ」
と、空が言う。彼のペダルはスパイクが付いたタイプの、裏表が明確に存在するペダルだ。GIANT GR-01というロード用ペダル。あとから空が取り付け、あえて反射板を外したモデルになる。
このペダルに限らず、滑り止めにスパイクを使ったペダルは、靴の裏を抉ってしまう。もっとも、そのくらい強力に突き刺すからこそ、本気のペダリングに耐えられるわけだ。
しかし、
「あたしのペダルは――そうでもない。です」
彼女が使うVP-831は、METREAセットでもなければ、そもそもshimano社の商品でもない。それでも、極薄で平面的なデザインの軽量ペダルだ。METREAによく似合っていた。
ヤスリ上の表面は、しっかりと靴裏をグリップしながら、それでいて靴を傷つけない。だからこそ、気軽に乗れる。
クランクセットに初めから付いているチェーンガードのおかげで、足元も汚れない。だからこそ、気負うことなく走れるのだ。
「うわぁ。さすがアーバンスポーツですね。いいなぁ」
空が目を輝かせる。それもそのはずだろう。クロスバイクで半年ほど通学していた空は、その不便さもよく解っている。
通学用の靴では上手く漕げない。
学生服のズボンは裾を止めないと引っかかる。
タイヤの気圧や、ブレーキとリムの接触。その他のメンテナンスも必要になる。
(それに比べて、このアーバンスポーツは、もっと自由に走れることを考えているんだね)
気楽に、誰でも、いつだって、どこだって――
その自由を売りにしたメカは、本来ならレースでは活かされないにしても、日常に寄り添う自転車だ。メトレアがここまで順位をキープ(といっても、中間くらいの順位だが)してきたのも、チャリチャンのルールと相性が良かったからだろう。
「分からないものだよな。アタイみたいなレース用車体と、メトレアさんみたいなサイクリング用車体が遜色なく走るっていうのは、さ」
茜が褒めると、メトレアは顔を赤くした。
ここで、偉いのはメトレア本人じゃなく自転車だなどと言う気は、茜たちにはない。彼女は状況をいち早く予想し、もっとも最適な車体を取った。それだけの事なのだろうから。
それにしても、だ。自転車を走らせるメトレアは、何というか……かなり煽情的であった。しかも、本人の自覚無しに、
呼吸を少しでも楽にするための工夫なのだろう。上半身を曲げずに、なるべく背筋を伸ばしたまま保っている。すると、腰が後ろに突き出され、膝が内側を向いた状態でペダリングする形になる。
ペダルを漕ぐたびに左右に揺れるお尻が、寄りにもよって短いスカートと相まって目を引くのはどうしたものだろう。本人としては、身体のラインが出るのは恥ずかしいから、とつけているスカートだが、逆の効果を生むばかりである。ヒラヒラと……
背筋を伸ばしたことにより、胸も前を向く。こちらも普通よりボリュームがあるためか、やはり目立ってしまう。幅の狭いブルホーンハンドルを使うことが、二の腕で乳房を挟み込む。おかげで谷間が目立つ。
異性である空はもちろん、同性の茜までつい視線を送ってしまう選手であった。
(……あれ?あたし、なんか見られている?)
そんな自分の姿に無自覚なメトレアは、見られた理由が分からず不安になった。最初こそ衝突しないよう注意されていると思っていたが、その視線が自分の胸や脚に集まっていることくらいは、少しずつ自覚してくる。
(――あ、そうか。あたしの服が温かそうだから気になっているのかな)
どこまでも、自覚は無いらしい。
「あ、あの、茜さん。寒くない、ですか?」
「え?いや、大丈夫だけど、何で?」
「い、いえ。あー……えっと、今日は風があるですし、時速30キロ制限で、本気のペダリングも出来ないでしょうから、寒いかなって――」
と、適当に取ってつけた理由を並べる。速度制限やペダリングの問題を除いても、普通に寒そうだ。1月も下旬のこの時期に、素肌をさらしている夏用ジャージなのだから、それは心配する。
「まあ、寒いけどさ。でも何だろうな。不思議と嫌いじゃないんだよ。アタイの中の熱を風に溶かすような、この感覚。スッと研ぎ澄まされて、眼が冴えるっつーか、腹の中が綺麗になるような、さ」
と、茜が答える。
「まあ、その恰好のまま青森の無人駅で寝たり、こないだは公園で野宿だったもんね」
「ああ、まあ公園で寝た時は、一晩中焚火をしてくれた人がいたから助かったんだけどさ。むしろ暑いくらいだった気がする」
ゆっくり話をするために、茜は変速ギアを上げる。ギアは何も速度を出すためだけにあるわけじゃない。むしろ体力を温存するためにある。速度が同じなら、ギアが高い方がケイデンスを下げられる計算だ。
メトレアも、それに倣ってギアを上げる。ブルホーン先端から突き出たブレーキレバーの、少し後ろ。そこにあるスイッチレバーを押すことで、ギアをシフトアップ。ちなみに、戻す時はブレーキレバー自体を内側に捩じる。
グローブを付けたままだというのに、その変速はスムーズだった。大きくて分かりやすい位置にレバーがあるからだろう。茜のTiagraだと、どうしても内側のレバーだけを探るのが難しい状態だ。
「そう言えば、メトレアさんは寒くないんですか?」
空が訊く。
メトレアが着ているのは、ピッチリとした冬用ジャージ。茜よりは厚着の印象があるが、それにしても肌に張り付く薄さだ。
しかし、
「はい。大丈夫です。前面は風を通さない素材が使われているですので、あったかい、です」
背中には風通しのいい素材を使っている、ということでもある。蒸れないための工夫だ。
自転車にとって重要な防寒対策は、温度より風だという人が多い。実際に乗ってみると、その意味がよく解る。走ることによって受ける風が最も厄介な敵。逆に言えば、それを防ぐだけで体温はキープできる。
「漕ぎ過ぎて暑いなんてことはないのか?空はよく暑そうにしているけどさ」
ダッフルコートの中にセーターを着こんで、頭部もニット帽でガードした空。基本的には寒がりなのだが、それでも時々暑くなる。本気で走った後や、長時間走り続けた時だ。
「確かに、体温調整は難しいのですよね」
「あ、メトレアさんもそうなんだ」
「まあ、自転車乗りだとよくある話だよな。アタイもたまにアームカバーやレッグカバーを持ってくればよかったと思う事はあるぜ」
「いや、普通はそれでも、この寒さに耐えられないと思うんだけど」
空も一度、茜のアームカバーを見たことがある。薄くて通気性のいいそれは、冬でも大丈夫かと言えばそんなことはない。もともとは春、秋用として作られたもので、あくまで夏服の補助だ。
それに引き換え、メトレアの冬用ジャージは間違いなく真冬を前提に作ってあるわけで、
「暑くなったら、風を入れればいいだけ……なのです。えっと、こうやって」
ファスナーを開けることで、前から風を取り込める。これなら体温調整も楽に行えるわけだ。
(おお、凄い。谷間が)
(わぁ、綺麗。素肌が)
問題があるとしたら、やはりこうして見られることくらいだろう。
(あ、あたしのジャージ、そんなに注目ポイント?ただファスナーが付いているだけなのに……)
本人は、困惑するばかりだろう。
一方、その頃――
高速道路を出た少し先では、アマチタダカツが先頭集団を待ち構えていた。空たちとは全く関係のない話ではあるが。
「我が呼びかけに応えてくれた同志よ。まずは感謝する。我こそはアマチタダカツ。現状の一位である」
自分の功績を誇らしげに宣言した『
すなわち、ミス・リードから『30km/h制限』をかけられる前に、高速道路を走った選手たちである。
「まあ、タダカツ君がこれをアンフェアだと思うのも分かるわよ。ロードレースだったら、絶対に先頭集団が停止指示を受けるシチュエーションだもの」
と、答えたのは、『ベロドロームの女王』こと、
「風間史奈よ。よく来てくれた。我も後続に対して後ろめたいと思ってな。ただでさえ勝利の確定した我が、さらに引き離しては勝負にもならぬ」
ずい……とタダカツが歩み寄れば、負けじと史奈も一歩出る。
「あら?ずいぶんと自信があるのね。嫌いじゃないわ」
「まあ、僕たちが先頭集団っていうのは」
「ちょっと、あたしも驚いているけどね」
そう答えたのは、
「リョー&リオン夫妻よ。暫定2位である諸君らにとって、我を超える数少ない機会であっただろう。それを諦めてまで、我が呼びかけに応じてくれたこと、感謝する」
「よしてくれよ。タダカツさん。僕たちだって、別にレースを捨てたわけじゃない」
「うん。ここまで来たら、いつでも追い抜けそうだもん、ね」
表面上、丁寧で礼節を尽くした雰囲気の会話。しかし言葉には間違いなく、自分こそ一番速いと主張する棘が混ざる。視線の間に火花くらいはバチバチしていそうだ。
「それにしても、ミスターレジェンドに、ベロドロームの女王に、ツインターボエンジン。そしてわたくし、『純白の堕天使』と、マスメディアはあだ名をつけるのが好きなのですわね。わたくしの身に余る名前ですわ」
そう誇らしげに二つ名を上げるのは、『純白の堕天使』こと、
たしかに、メディアはよくナントカ王子だとか、美しすぎるナントカだとか、ニックネームを付けるのが好きなようだ。
「うむ。我の耳にも、汝の活躍は届いているぞ。『天を衝く双丘』天仰寺よ」
タダカツが言う。それに続いて、史奈、良平、梨音がそれぞれ
「よろしくね。『ケイデンス250で揺れる超振動メロン』天仰寺さん」
「よろしく頼む。『現実世界のロリ巨乳』天仰寺」
「仲良くしようね。『零れ落ちるジャイアントプリン』天仰寺ちゃん」
「そのあだ名で呼ぶのは止めてくださいませんかしら!?」
中学2年生でEカップという大きさを誇り、リカンベントに乗っていることから胸が強調される天仰寺。そのあだ名は(主にミス・リードのせいで)とても多い。
「さて、それでは参ろう。案内役は、このアマチタダカツが引き受ける」
そう言って、タダカツは自分の自転車に跨った。その車体を間近で見た4人は、思わず息を飲む。
(なるほど。これが今まで、タダカツ君に挑んだ多くの人が『幻覚を見た』トリック)
(いったいどうして)
(こんな車体が実在するの?)
(そして、何故これが走れるのかしら?)
一同の驚愕を他所に、タダカツは走り出す。
わざわざ先頭からここまで戻ってきて、コースアウトしてまで行く先。先頭集団の、4人が乗る、3台の自転車を率いて向かう先は――
「いざ行かん。『串焼き屋・金魚』へ!」
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