第36.5話 夢の中でのBMX

 とある病院の、一室。

 ほのかにオレンジ掛かった灰色の壁。クリーム色の天井。そして、綺麗な木目が目を惹く床。

 淡い若草色のカーテンに、薄い空色のベッドシーツ。

 この病室に白いものなど、実際はほとんどない。であるにもかかわらず、白一色で統一されたような居心地の悪さがあるのは何故だろう?

 そう、次郎垣内 三郎右衛門じろうかきうち さぶろううえもんは考えていた。他に考えることなど、少なくなってしまったからだ。


 大会の3日目、デスペナルティの攻撃により病院に搬送された彼は、その後すぐに意識を取り戻していた。それから1週間が経過している。

(全治8週間か。長い休暇になってしまったな)

 致命的な怪我がない代わりに、全身にいくつもの怪我を負った。そのため病室での生活は、痛みも少ないが退屈が過ぎる。

 右手が全く使えない事と、左手も指2本が固定されて使いにくいことは非常に不便だ。この際だから両足を骨折していたことは構わない。

 自慢だった金髪のオールバックも、今は包帯でぐるぐる巻きである。非常に不格好だが、これを外せばまだ縫合の跡が残っているのだから、不格好に変わりはない。

(まあ、誰と会うこともないがな)

 伸びてきた髭をさすりながら、そろそろ剃るかと、電気シェーバーを手繰り寄せる。左手の包帯のせいで使いにくい。


『えー、判定の内容ですが、今回は大会指定のGPSタグに内蔵したレーザーセンサーではなく、純粋な写真判定をしておりますぅ。車体の一部がゴールライン上を越えたところで計測ですねぇ』


 動画共有サイトに、ミスり速報が映し出される。本当なら今頃、自分はこの番組を見る側ではなく、出演している側だっただろう。

 映像には、シクロクロスに乗った少女が映し出されていた。先週、自分と戦った少女だ。


『その中で、一番にゴールラインを越えたのは……

 茜さんです!1位おめでとうございますぅ。2位は空さん。3位は僅差ですが百鬼さんですねぇ』


 ミス・リードの発表に、次郎はまるで、自分の事を褒められたような嬉しさを感じていた。

(ふっ。茜君は、私と決闘したほどのライダーなのだ。この程度は勝てて当然だろう)

 このミスり速報が24時間ずっとやっていて良かったと、心の底から思う。もう既に時間の感覚もなくなり、今が朝か夜かさえ、よく理解していないのだ。

 だからこうして、またゆったりと眠りにつく。ミス・リードの声を子守唄代わりに、選手たちの活躍を眺めながら……

 ああ、いま見ている光景は、液晶ディスプレイに表示された映像だろうか。それとも、瞼の裏に再現される妄想だろうか。






「――あ、起きたか?」

 少し低い少女の声がする。低いと言っても男性のような声ではなく、中音域にだけ割り振ったような女の声だ。

 瞼越しでも分かるほど、眩しい太陽が見える。手で日差しを遮りながら目を開けると、

「おはよう。次郎」

 茜が微笑んでいた。気の強そうな双眸が、今は少し緩やかに見える。

「ここは……公園か」

 上体を起こして周囲を見渡した次郎は、そう呟いた。奥に大きな森が広がる自然公園。その出入口付近だ。近くには小川も流れている。

(ん?)

 後頭部に違和感を感じて触ってみれば、ぐっしょりと濡れている。首回りや背中も、まるでシャンプーをした後にドライヤーをかけ忘れたような有様だ。

「ああ、ごめんな。アタイが濡れたままだったからだ」

 茜が自分の脚を触って確認する。この時に初めて気付いたのだが、どうやら自分は茜の膝枕で寝ていたらしい。高さ的にも固さ的にも心地よすぎて、まったく気づかなかった。

 それは、まあいい。ここは何処だ?とか、自分は何をしていた?とか、訊きたい事は山ほどあるが、一番最初に訊いたのは、


「どうして茜君は、ずぶ濡れなのだね?」

 この一点だった。

「ああ、そりゃ、お前とのレースで川に飛び込んだからだ。覚えてないのか?」

「……いや、覚えている。そう言えばそうだったな」

 次郎が飛び石を、自転車を担いで走っていた。その間に、茜が後ろから川に飛び込んだのだ。そのまま川底にタイヤを設置させて、水しぶきも気にせずにペダリングを続ける茜を、次郎は思い出した。

「って、ずぶ濡れのままだと風邪をひくぞ。この真冬に……」

「は?何言ってんだ?」

 茜が首をかしげる。まるで、今は真夏だぞ、と言いたげに。

(いや、真夏だったな)

 次郎は気付く。だからこそ自分も、Tシャツにボードショーツというラフな格好だった。茜も半袖のレーシングジャージに、膝上15cmほどのレーパン……まあ、彼女に至っては冬でもその恰好だったか。

 そっと両足で立ち上がり、両手を振り上げて伸びをする次郎。こうやって体を動かすのは久しぶりだ。なんだか、健康なだけで幸せな気がする。

「ところで、私の自転車はどこだね?」

 きょろきょろと探すが、見当たらない。1万ドルもしたS-WORKSのエンデューロが無い。どこにも――

「おかしい。自転車……私の自転車が。あれが無いと私は――」

 文字通り草の根をかき分けて探す。そんな様子を、茜は心配そうに見ていた。

「次郎。お前は本当に、自転車が好きだな」

「当たり前だ。私の人生の中で、唯一の趣味だぞ。金など気にせず楽しめる唯一の遊びだ」

「ははっ、じゃあ乗りに行くか。アタイ、ちょっと面白い自転車を見つけたんだ」

「ん?」


 茜が指さした先には、BMXが逆さまに置かれていた。ハンドルとサドルをついて三転倒立の姿勢を取るその車体は、1台じゃない。なんと複数台あるのだ。

「まあ、ちょっと乗ってみようぜ」

 茜がその中から1台、乱雑に引き出す。

「いいのか?誰のだか分からないんだろう?」

「ああ、いいよ。好きなのを選べよ」

 茜の言う事に、次郎も何故か納得する。本当に誰の所有物かもわからない車体の中、メーカーもカスタムも不明な車体を1台手に取った。

「軽い……」

「ああ、どれも10kg前後なはずだ。まあ、普段からカーボンバイクに乗っている次郎からすると、重いくらいかもしれないけどな」

 クロモリ合金のフレームに、大量の金属部品。この頑丈な車体は、別にレース用ではない。厳密にいえばレース用BMXもあるのだが、この手の車体の真骨頂は、まったく別のところだ。


「はっ」


 茜が一息吐いて、ハンドルを引き上げる。その瞬間に軽くペダルを前に出して、前輪を浮き上がらせる。いわゆる、ウィリー。大事なのは体重移動だけではなく、その瞬間にペダリングをして、トラクションをかける……つまり『まくる』ことだ。

 そのまま車体をまっすぐ進ませると、近くの街灯にぶつかるまで進む。浮かせた前輪をポールに押し当てると――


「はぁっ!」


 ディスクブレーキを解放して、前輪を落とす。すると、後輪は後ろに押し出されて、そのまま車体をバックさせるのだ。フェイキーと呼ばれるテクニックである。

 腕を伸ばして、体重を後ろへ……小さな尻を突き出して後退する茜は、そのまま小さく右カーブを描いてバックし続ける。ペダルは左を前に出して、クランクは水平にしたままだ。

 くるりと円を描いてバックすること、1周。さらに小さな円を描いて2周目。最後の一周は、その場で踊るように回る。そしてペダルから足を離し、


 ――シュタン!


 音を立てて、地面に足を着いた。まるで夢でも見ているかのような、幻想的な光景。自転車はそんなふうに動かないはずだ。という常識から見ると、まるで合成映像の様なパフォーマンスだ。次郎はそう思った。

「凄いな。茜君」

 惜しげもない拍手(とはいえ一人分)が、茜に贈られる。照れもしない茜は、気取って自転車に跨りなおした。

 まるで子供用の自転車に無理して乗っているようにも見えるが、BMXならこんなものだろう。

 20×2.25inの、太くも小さなタイヤ。低重心なフレームと、座ることを考えていない低さのサドル。それらはパフォーマンス用に、わざと小さく作られている。小回りと重心移動を重視した結果だ。

「お見事。ところで、茜君……今、ペダルを動かさないで後ろに下がったようだが?」

 次郎が首をかしげる。そして、自分の持っているBMXを後ろに下げた。

 なにもBMXに限った話ではない。大概どんな自転車でも、後輪は前にしか空回りしない。だから、体重移動で後ろに下がるとき、ペダルも後ろに漕がないといけないはずだ。ところが、茜はそれをしないまま後ろに下がった。

「この車体には、フリーコースターっていうタイプのハブが搭載されているんだ」

「フリーコースター?」

「ああ、コースターブレーキってのがあるだろ?あのペダルを逆回転させると、ブレーキパッドがハブの内側に当たるやつな。えっと、ボブってやつが使ってたんだけど、次郎は知らないよな」

 なんとなく、ミス・リードの実況で名前だけは聞いたことがある。たしかビーチクルーザーでコース内に侵入し、出場者のふりをしていた一般人だったと記憶しているが、

「そのビーチクルーザーに使われている部品が、BMXと何の関係があるのだね?」

「それがさ。コースターブレーキからブレーキパッドを抜くと、ブレーキが利かないから空回りするんだ。それを利用して、フェイキーの時にペダルを回転させなくて済むようにしたのが、このフリーコースターだな」

 ちなみに、そのせいでペダルを前に漕ぎだしたとき、ほんのわずかに出遅れる特性もある。調整次第ではあるが、完全には解決できない問題だ。

「私のBMXは、それが出来ないようだが?」

 次郎が自転車を押し引きして、首をかしげる。

「ああ、お前が今手に取ったのは、フラット用だからな。車軸の太さ的に組み込めないんだよ。アタイのはストリート用だ。だからこういう改造も出来るって事だな。まあ、その辺はアタイも詳しくは分からないけどさ」


 BMXの部品は、工夫次第で無限大の可能性を誇る。

「例えば、こんな風にな」

 茜が、近くの下り階段に向かって走り出す。そのまま速度を上げると、車体を引き上げるように跳ばせた。

 そのまま、金属製の手すりに車体を乗せる。車軸の横に張り出した金属製の棒――通称ハブステップ、もしくはペグと呼ばれる部品を、金属製の手すりに当てて、まっすぐ滑り降りていく。

 前輪は手すりの右側。手すりの上にはフロントの左ペグを乗せて、後ろはクランクで支える。左クランクを下げて手すりに当て、アンダーガードから火花を散らして……


 ガリガリガリガリ――ズダァン!


 そのまま手すりの切れ目を終点に、地面へ飛び降りる。

「どうよ?」

 ドヤ顔で胸を張る茜。次郎が拍手をすると、さらに調子に乗って、今度は階段を上る。降りるときは一気に手すりを滑り降りたが、登るときは一段一段。

「ほっ、ほっ」


 トン――トン――


 階段の角に後輪を乗せて、ダニエルの姿勢のまま登っていく。身体を大きく揺らして、両手足で自転車を振り回す感覚。こうなるとまるで竹馬のようである。

「ほう。タイヤは完全に潰れているようだが、それでもパンクしないのだな。チューブレスか?」

「ああ、そうだな。だからスネークバイトを気にせずに登れるわけさ」

 ひしゃげたタイヤが、まるで階段の角を掴むように変形する。不安定と思われるところに乗れる理由がこれだ。

「ちなみに、さっきやった手すりを滑るやつな。アタイの車体はあれをやりやすいように、わざとペグに滑り止めを付けてないんだ」

 次郎が乗っている車体は、ペグに格子状の溝が入っている。足を乗せた時に滑らないようにとの工夫だ。一方の茜は、つるんと溝のないペグ。先ほどのように手すりを滑るための工夫だという。

「奥が深いのだな」

「まあ、な。そっちはフラット用。それもまた違った楽しみがあるぜ」

 とはいえ、次郎はこっち方面に関して素人である。この楽しみ方は全く分からない。




 公園のベンチに座った次郎は、茜の顔を覗き込んでいた。彼女ははしゃぎ過ぎたようで、玉のような汗を浮かばせて寝転がっている。

「悪いな、次郎」

「なに、先ほどと立場が逆になっただけさ」

 次郎が軽く言う。

 茜が息をするたびに、その頭が膝の上で揺れる。ひっ詰めた髪がくすぐったい。

「私の膝枕などで、休めるのか?」

「ん?ああ、アタイは枕にこだわりはないからな。なんならロード用のサドルでも、ボトル型のツールケースでもいいくらいだ」

「おいおい、それはさすがに痛いだろ。というか、自転車を分解して枕にしてやるなよ」

 苦笑いを浮かべる次郎に、茜もくすくすと笑う。からかったつもりのようだ。

「冗談だよ。次郎の膝枕、案外気持ちいいぜ」

「そ、そうか」

 ならばよかったと安心していると、茜は顔をそむけた。

「ただ、ずっと見られるのは恥ずかしいな。アタイの顔にニキビでも付いてたか?」

「あ!い、いや……失礼した。何もついていないさ」

 そっと、茜の顔に手を乗せる。ほてりが取れない。

「熱中症じゃないか?」

「かもな。あーあ、ちょっと久しぶりにトリックし過ぎたか」

 公園の遊具を自在に使い、飛んだり跳ねたりを繰り返した茜。その身体の一部であるかのように、一緒に踊るBMX。その姿を、次郎は思い出す。

 砂場をドリフトし、滑り台を駆け下り、ブランコをスラロームで避け、鉄棒に飛び移った。

 川の飛び石を超え、川底へ着地し、流れに逆らって戻ってきた。

 そんなフリーダムな茜の乗り方を見て、次郎も思うところがある。

「なあ、茜君。私にも、その乗り方を教えてくれないか?」

 そう聞いた茜は、にやりと笑って飛び起きた。危うく顔をぶつけそうになったが、ギリギリでかわす。

「いいぜ。ただ、アタイも教えるのは上手くないからな」




「じゃあ、簡単なバースピンからやってみるか」

 茜が再びBMXに跨る。そして、軽く走り出した。次郎もその隣を並走する。

(不思議な感覚だな……)

 この車体は、小さなタイヤもさることながら、ギア比も小さい。ペダルを漕ぐというより、体重を移動する感覚で走り出す。脚力で進むというより、推力をどこまで維持できるかが肝になるような走り心地だ。

「このバースピンをやる前に、前輪が浮くかどうかを確認するぜ。ウィリーじゃないから、軽く浮く程度でいい。まくれるまで行くな」

 茜がハンドルを引き上げると、前輪がふわりと浮く。

「やってみな?」

「あ、ああ。分かった」

 次郎もまた、ハンドルを引き上げてみる。ロードノイズがわずかに減ったが、タイヤが浮いたかどうかは分からない。着地の手応えだけはあった。

「こ、こんなものでいいのかね?」

「ああ、十分だ。今回はな」

 すると、茜は腰を落とした。まるでネコのように背中を反らせて、一息――


「ほっ」


 前輪が持ち上がった瞬間、ハンドルを水平に360°回す。


 ストン。


 そのまま元の状態に戻る。本当に一瞬の事だった。

「な、簡単だろ?」

「それ、ハンドル回している途中で止まったらどうなるのだね?」

「車体の進行方向が変わるからな。その場でスピンして転ぶんじゃないか?」

 当たり前のように言ってくれる。もっとも、次郎だってエンデューロの経験が多少ある。予想は出来たことだ。

「まあ、アタイに言わせれば、エンデューロやダウンヒルほど怖くねぇよ。次郎だって、階段を上ったり、滅茶苦茶な走りをしていたじゃないか」

「ああ、そのために結構な怪我をしたがね。大変な練習だったよ」

 思い出されるのは、まだよく解らないまま自転車に乗った記憶。次郎だって、最初からMTBを使いこなせたわけじゃない。

「それじゃあ、やってみようぜ。転んで、怪我して、失敗して、それも楽しみの一つだろ」

「……ああ、そうだな」

 大したスピードは出ていない。転んでもすぐに足をつける高さだ。だったら怖いことはあるまい。

「い、行くぞ」

「よし、やれ」


 全体重を上へ。ハンドルを引き付けるように胸へ――

 腕だけでなく、背中や脚の筋肉も伸ばして、ハンドルを引き上げる。

(今、この瞬間――)

 ハンドルを回す。大きく左に。右腕で前へ。左腕で後ろへ。そして、ハンドルを持つ手を入れ替える。

(まだだ。これで180°しか回ってない)

 もう一度、同じプロセスを行う。右手でキャッチしたハンドルを、そのまま前に放り投げるように。左手でキャッチしたハンドルを、そのまま手前に振り抜くように。

(ここで、止める!)

 回りきったところで止めようとして、アクシデントが発生する。タイヤが地面についてしまったのだ。

 ガクンと腕に負担がかかる。そして、ハンドルはまだ回り切っていない。そのせいで、車体が右に大きく曲がり始める。

(しまった!)

 そっちには茜がいた。ぶつかる……わけにはいかない。


「おおおっ!!」


 強引にハンドルを戻して、姿勢制御で曲がる。やや蛇行した車体は、そのままどうにか前方に向けて走り出した。

「はぁ……はぁ……っ――どうだ?」

 心臓が太鼓のように脈打つ。初めて縁石を越えた時の事を思い出した。この、大したことはしていないのに、恐怖心に打ち勝った瞬間の気分。

「おお、一発で成功かよ。ちょっと驚いたぜ」

 ぶつかられるかと冷や冷やした茜も、同じように胸に手を当てて、鼓動を押さえようとしているようだった。

「ははっ、何とかなったな」

 次郎はブレーキをかけて、車体を止める。その時に気づいた。


「茜君。この車両は何故、ブレーキが付いているのに、ハンドルが回るんだい?」

 本来、ブレーキレバーとVブレーキはケーブルで繋がっている。それはこのBMXにしても同じだ。決して電波などを用いたハイテク機能を搭載したわけではない。

「ああ、それな。ジャイロだよ」

「じゃいろ?」

 茜も止まって、次郎の車体を指さした。ヘッドチューブの上あたりだ。

「ここに円盤があるだろ?これがジャイロブレーキって呼ばれる部品。左右からケーブルを使って、円盤の上を引っ張るわけだ。すると、円盤の下も引き上げられる」

「ふむ。つまりこの円盤を中継して、ケーブルを引いているわけか」

 実際にブレーキレバーを握り込むと、円盤が上に稼働するのが見える。ちなみに、この円盤をまっすぐ上に引き上げるため、1本のワイヤーを途中で2本に分配しているらしい。片方から引くと、円盤自体が傾くからだろう。

「そうそう。で、円盤自体は水平方向にいくらでも回転する。だから同一の方向に回しても、ケーブルが捻じれたり絡まったりしない。BMX特有の仕掛けだな」

 そう言って、茜は次郎の跨ったBMXのハンドルをくるくると回した。なにやら自分の身体に触られているようで、次郎としては不思議な気分だ。むずむずする。

「ん?しかし茜君の車体にはついていないようだが?」

「ああ、アタイのはケーブル自体を長くして、最低でも1回転は回るようにしているんだ。2回転以上は絡まって動かなくなるからさ。左に1周させたら、次は右に1周させる方法でしか使えない」

 そう言うと、茜は右にハンドルを一回転させる。さらにもう一回転、と意気込んで見せたが、それ以上は確かに回らない。

「あとは、思い切ってブレーキを外すやつもいるな。固定ハブを使ったり、リアなんて飾りだって感じで一切使わなかったりするやつ。まあ、フロントだけならヘッドチューブの中を通せば絡まらないし、さ」

「ふむ……解ったような、解らないような?」

 次郎が首をひねっていると、茜がにこりと笑う。

「まあ、初トリック、おめでとう」




 夕暮れ――

 二人で練習を繰り返しているうちに、次郎もある程度の知識を身に着けてきた。もっとも、


 ガシャン!


 知識と感覚は別の次元にある。この場合、勉強の方と練習の方なら、練習の方が難しいようだ。

「やはり、頭で理解したことと、実践するのとは違うな」

「まあ、な。ただ、ジャイロ効果だのなんだの知らなくても、普通に自転車に乗れるだろ?アタイに言わせれば、自転車は理屈で説明するより、乗る方が楽だ」

「私と正反対だな。物理的に説明がついた方が、私としては安心できるのだが……」

 などと言い合っていると、遠くから二人を呼ぶ声が聞こえた。その声に、次郎は少しだけ覚えがある。

「おーい、茜。次郎さーん」

 公園の入り口にやって来たのは、茜と同い年の少年。それから、少し生意気な青年だった。

「よう、次郎。また会ったな」

「ふん。綺羅と言ったか?まさか追いついてくるとはな」

 次郎が鼻を鳴らす。どうもこの綺羅という青年は気に入らない。それはさておき、

「じゃあ、全員揃った事だし、行くか」

 茜が号令をかける。その手には、いつものクロスファイアが携えられていた。いつの間に持ち替えたのだろう。

 おもむろに走り出した茜に、空と綺羅が続く。

(ああ、そう言えば、まだ大会の途中だったな)

 思い出した次郎も、自分の愛機であるエンデューロを探す。が、見当たらない。

「あれ?私のエンデューロは?……茜君。私の車体を知らないかね?」

 そう問いかける次郎だが、茜はまるで聞こえていないように、ゆっくりと加速していく。空たちもそうだ。次郎がいないかのように、進んでいく。

 何故だ?

 慌てる次郎だったが、このままではみんなに置いて行かれる。仕方なしに、手元にあるBMXをそのまま拝借して走り出す。

「待ってくれ。みんな。私も共に行こう。だから、待たないか――」

 浅い川を渡り、そのさらに先、公園の出口へと、みんなが向かっていく。次郎もそれに続くように、川を渡った。

 しかし、そこで茜はこちらを振り返った。

「……」

 何も言わない。ただ、何故かその目が、別れを惜しむように伏せられる。

(何故だ?何故そんな悲しい顔をするんだ?)

 分からない。ただ、こんな光景をいつか、見た気がする。


 いつの間にか、跨っていたBMXは、エンデューロに代わっていた。自分の愛車だ。気付いた次郎は、すぐに速度を上げる動作をする。

 右手でディレイラーを操作。ギア比を上げていく。左手でドロッパーポストを操作。こちらでサドルの高さを上げていく。そしてペダルを回すようにして、ケイデンスも上げる。心拍数、体温、肺活量……上げられるものなら何でも上げてやる。くれてやる。追いつくためなら……


「私も、茜君たちと、一緒に……」


 そう、次郎は願った。願っていた。なのに……


「くぅははっ。一緒にぃ?行けたらいいな?」


 悪魔のような笑い声。この場で最も出てきてほしくない――出来れば忘れていたかった声がする。

(ああ、そうだ。思い出した――)

 今見ているのが、夢だという事……

 自分は、この公園の先にある光景を、知らない。この先の道に何があるのか、知らないまま、レースを終えていた。

 視界が、スローモーションで横転する。タイル敷きの綺麗な地面に、カーボンの欠片と自分の血……






「――じょう――か?――様――若様?」


「はっ!」

 飛び起きてみれば、そこはいつもの病室。代り映えしない、白い印象の部屋。

「ゆ、夢か……」

 自分の腕が首から吊られていることを確認して、現実に戻ってくる。まだ自転車に乗れる身体ではない。

 視線を横に振れば、そこには秘書を務めてくれている女性がいた。どうやら、見舞いついでに仕事の相談に来たらしい。手にはノートパソコンを、抱きしめるように抱えている。

「大丈夫でしょうか?若様」

 次郎を『若様』と呼ぶ秘書は、まだ若い女性だった。この女性を秘書として雇ったのは、別に次郎の下心丸出しの趣味ではない。しっかりとした能力と、何より親戚であるというコネクションが理由だ。

「ああ、失礼した。少し寝ていたよ」

 次郎は、平静を装って秘書に言う。いや、装うも何も、既に平静だった。もう先ほどまで見ていた夢の内容も覚えていない。

 秘書は姿勢を正し、

「こちらこそ、お休み中に失礼いたしました。ひどく、うなされていたご様子でしたから、つい――」

 深々と礼をした。

 つまり、起こす気は無かったらしい。これなら、仕事の相談も大したものではあるまい。どのみち次郎は大会期間中をすべて休日にしていたわけだし、自分がいなくとも会社は回る。いや、それも寂しい考え方なので、安心はできないか。

「それで、どうしたのだね?」

 次郎が訊くと、秘書は少し自慢げに笑った。

「実はですね。今日は若様に、いい知らせをお持ちしました」

「いい、知らせ?」

 なんだろうと思っていると、秘書はパタパタと部屋の外に出ていく。そして慣れない手つきで持ってきたのは、

「じゃじゃーん。届きましたよ。若様が楽しみにしていた、自転車です」


 あの時、デスペナルティに壊されたものと同じ車種――SPESIARIZED S-WORKS ENDURO FSR CARBON 27.5だ。

 白一色に見えた病室に、カーボンフレームの黒が、ギラギラと光を放って入室する。その輝きは、次郎の視界を一瞬で塗り替えた。

 すべてが、色鮮やかに見える。今まで白く見えていた部屋の小物さえ、本来の色を取り戻すかのような錯覚。

「おお、私の――私のエンデューロ。帰って来たのか……」

 厳密にいえば同モデルの別個体だが、そんなことはどうでもいい。まだ次郎自身が乗れる怪我ではないが、目の前にこの車体があることが嬉しい。

「すまない。もう少し、近くへ……」

「はい。かしこまりました」

 ピカピカの、まだ一度も外の地面に触れていない車体が、次郎のベッドの横に立てかけられる。

 頬が痺れる。気付けば、泣いていた。じりじりと零れる涙は、非常に重いくせに、なかなか落ち切ってはくれない。

「そ、そんなに嬉しかったのですか?若様」

 秘書が困惑する。しかし、次郎には今、自転車しか見えてなかった。

 自転車を介して見える、無限に広がる大地しか見えていなかった。

「ああ、私にとっての希望だ。よく、届けてくれた」

 チャリチャンは脱落に終わったが、まだ彼の道は途切れていない。




 一方で、レースはまだ続いている。

 空がトイレに寄りたいと言い、公園に立ち寄った後の事だった。

「茜。何しているの?」

 男子トイレから戻ってきた空が訊くと、茜は奇妙な姿勢のまま答えた。

「ああ、スタンディングスティルだ。なんか、突然やりたくなってな」

 体重移動とブレーキを駆使して、自転車を前後に揺らす止まり方。つまり、地面に足をつかない止まり方だ。それを、茜は必死にやっている。今にもバランスを崩して倒れそうだ。

「そう言えば、茜はエイプさんみたいな技とか、出来るの?」

「いや、アタイは走る方専門だからな。飛んだり跳ねたり、まして回ったりする見世物みたいなのは苦手だよ」

 次の瞬間、ふらりと姿勢を崩す。幸いにもビンディングははめ込んでいなかったため、すぐに足が付く。

「なんか、さ。たまにやりたくなるんだよ。別にレースと関係ないスキルだから、こんなことを練習するくらいなら走ればいいのにな……」

 首をかしげる茜に、空は言う。

「良いんじゃない?楽しく乗った方が、クロスファイアも喜ぶよ」

「……ああ、そうだな」

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