第36話 カミナリ博徒とダウンヒルバイク

『さあ、大会も11日目。タイムリミットは残り10日ですねぇ。現在、皆さんは広島県の中腹と言ったところでしょうかぁ?本州もここまで来ると、大きな山は少なくなってきますよぉ。

 ここで巻き返し始めているのは、序盤からペースを落とさない選手たちですねぇ。

 エントリーナンバー019 カナタ選手。昨日は中学生コンビにペースを乱されましたが、今日はやや遅めの出発で回復した様子。グングン順位を上げていますぅ。

 順位を上げると言えば、エントリーナンバー659 サファイア選手。同じく661 エメラルド選手のお二人。今日も仲良く並走していますねぇ。イチャイチャとうらやましいですぅ。

 エントリーナンバー741 メトレア選手も奮闘中。一昨日まで下位にいましたが、現在では前から数えた方が早そうですねぇ。どうでもいいですけど、レーパンの上のスカートは付いている方がエッチですよね。

 そして、エントリーナンバー924 ユークリット選手は……あれ?全然順位が上がってないですぅ。現在は最下位。酒盛りを終えてようやく再スタート……おおっと、落車!?何もないところで転んでますぅ。だ、大丈夫ですかぁ?』


 ミス・リードがテンション高く話している。その放送をスマホで聞きながら、空たちは昼寝中だった。

 場所は、ハンバーガーショップの隅の席。もちろん、こんなところで寝る予定などなかった。ここで食事をして、それから昼寝が出来そうなところに移動する予定だったのだ。

 その予定はあっさり崩れ、満腹になった二人はそのまま眠りに落ちてしまったというわけだが――


「おう、嬢ちゃんたち、こんなところで寝たら、店に迷惑やぞ。起きんかい」

 誰かが、空の背中をゆする。

「う、ううん……や」

「ガキのくせに艶っぽい声じゃのぉ。ええ加減に起きろや」

 ゆっくりと、しかし強めに揺さぶられて、ついに空が起きる。

「う……うーん。あれ?僕、いつの間に――」

 眠い目をこすりながら、空が首をかしげる。ぱちくりと瞬きすること数秒。自分の手元と、散らかったテーブルが目に入る。そこから目線を上げれば、向かいの席には突っ伏して寝ている茜。そして、さっきから声のする方に振り返れば……

「おう、起きたか。お疲れさんじゃのう」

 くたびれたコートを着た、坊主頭の男が立っていた。年齢は30前後だろう。手にはハンバーガーを載せたプラスチックのトレー。顔にはスクエアのサングラスと、大小さまざまな傷。特に左ほおの切り傷と、口に縦一文字で入った傷が目立つ。

「ひっ!」

 空は驚き、つい声を漏らした。しかし、男は鼻で笑って言う。

「なんじゃ?ワシの顔が怖いか?すまんのぉ。生まれつきじゃ」

 サングラスを外し、男は柔和に笑う。

「この傷も生まれつきじゃ。おとんに似たんじゃろな。親子で同じところに傷があるけぇ、おかんの腹ん中におった時から、この顔じゃ」

「???」

「なんじゃ、解らんのかい!笑うとこじゃ。がはははははっ」

「え、あ、あはは……?」

 空は今、何を言われたのか理解していなかった。が、ニュアンスからして多分冗談を言ってくれたのだろうと察する。そして下手な愛想笑いなんかを浮かべていると、男も笑った。

「おう。寝起きで頭が働いてないんかい」

「あ、ごめんなさい。僕、いつの間にか寝ちゃったみたいで……」

「ええわ。チャリチャン出てるなら、疲れて寝ることもあるじゃろ。じゃけぇ気にすんな。ほれ、目覚めの一杯。この店のは美味いけぇ」

 空の目の前に、紙コップが置かれる。ホットコーヒーだ。茜の前にも同じものを置いた男は、続いて茜を揺り起こす。

「ほれ、嬢ちゃんも起きてコーヒーでも飲まんかい。こんな薄着で、風邪ひくぞ」

 野太い、エッジのかかった声。見た目だけならとても怖いこの人物は、しかし、優しく茜を起こそうとしていた。

「あの、もしかしてこのコーヒー、僕たちのために?」

「おう。嬢ちゃんたち、チャリチャン賑わせてる二人組じゃろ?なんっちゅーたか……噂の中学生コンビ。空と茜じゃな。聞いてるわ。大ファンなんじゃ」

 にこやかに笑った男は、茜の背中をポンポンと叩く。

「で……男の子の方が空君。じゃったよな?どっちが男の子の方じゃ?」

「あ、僕です」

 まさか茜と一緒にいて、この質問が来るとは思わなかった。

(そんなに間違われやすいかな……?)

 やや不機嫌な表情の空は、視線を落とした。そこに、相手の左手が見える。チャリチャン参加者の証である、緑色の腕輪。そして――

「ん?おお、この腕輪が気になるか?ワシも参加者じゃ」

「え、あ、ああ。そうなんですね」

「おう。百鬼 一虎なきり かずとらじゃ。よろしゅうな」

 百鬼は、そう言って握手を求めた。右手をすっと差し出す。空はその右手を取った。

「よ、よろしくお願いします」

 しかし、空の視線は百鬼の左手を追っていた。腕輪が気になったわけじゃない。その先にある、結婚指輪が気になったわけでもない。その隣……

(あれって――いや、見間違いかな?)




 豪快にチーズバーガーを頬張った百鬼は、大体3口ほどで食べきる。このペースで彼はバーガー5つと、ポテトとチキンナゲットを完食した。

「げふーっ。食った食った」

「すげー食いっぷりだな」

 すっかり目を覚ました茜が言う。

「おう、自転車は腹が減るのぉ。ワシ、ケッタマシーンなんぞ久しく乗っとらんけぇ、びっくりしたで」

 ケッタマシーン――東海や九州の一部で用いられるらしい、マウンテンバイクの俗称だ。どちらかと言えばスポーツバイク全般に用いられる言葉かもしれないが、本気で自転車競技をしている人が用いるのには違和感のある呼び名だったりする。

「えっと、百鬼さんは、どんな自転車に乗っているんですか?」

 気になった空が訊くと、百鬼は唸った。

「ああ……ワシ、あんまり自転車に詳しくなくてのぉ。確か、スコット?とかいう奴じゃ……多分」

「すこっと?」

 百鬼が肩をすくめて、空も首をかしげる。そこに助け舟を出したのは、茜だった。

「ああ、確かアメリカのMTBメーカーだな。結構有名どころだよ」

 と、茜が言えば、

「おお、そうじゃ。アメリカのケッタマシーンじゃ」

 百鬼も続く。

 ――ちなみに、スイスである。

「……」

 どうも、調子が狂う。こういう時、普通なら自転車の自慢話が始まり、お互いの興味を惹くものではないだろうか?ところがこの男、さっきからあまり詳しい話をしない。いや、出来ないようだ。


「なあ、百鬼さん。あんたは一体どうしてチャリチャンに出たんだ?」

 茜が訊くと、百鬼は迷った。短く刈った坊主頭を掻き、ポツリと漏らす。

「金じゃ」

「お金?」

 忘れそうになるが、この大会は優勝賞金として300万円を用意している。

「じゃあ、百鬼さんは300万につられて、自転車を始めたってわけか?」

「んー、まあ、金に釣られたのは本当じゃ。嬢ちゃんたちみたいに真剣にやってるもんからしたら、迷惑な話か?」

 金のため。そう聞くと、たしかに不純な動機に聞こえる。特に日本では、あまり大っぴらに金の話をするのが良くないような風潮もある。スポーツやホビーにおいては特にそうだろう。

 しかし、百鬼はそう思っていない。金とは――つまり人間が仕事を行った功績として与えられるものだ。その紙切れには、人の気持ちも努力も人生も宿る。ただ、形が四角い紙切れであるだけだ。

「まあ、ワシの場合は嫁がいてな。その嫁のオヤジが、どうしても大金を必要としとんのじゃ。じゃけぇ、助けたくてのぉ」

「い、意外といい話になるんだな」

 思ってもみなかった家族の話に、茜は少し驚いた。しかし、本当に驚くのはそこからだ。

「ちなみに、ワシが優勝すれば5億円がワシのものになるんじゃけどな」

「5億!?いや、300万の話から飛んだな」

「がははははっ。冗談じゃけどのぉ」

「いや、今の冗談はどこで笑ったらいいのか分からねぇよ」

 いつの間にか、茜は物怖じせずに話せるようになっていた。空も、少しだけこの男に親近感を持っている。百鬼の人柄がそうさせるのだろう。不思議と、一緒にいて安心できる相手だ。


「ところで、兄ちゃんらは中学生なのに、なんでこんな大会に出たんじゃ?」

 どうもいろんな方言が混ざったような口調で、百鬼が訊く。

「えっと……僕は、楽しそうだから参加しています。遊び、ですね」

「おう。結構な事じゃのぉ。遊びで上等。それでこそホンマの自転車乗りじゃろ」

 空に自信をつけるように、百鬼が深く頷いて言う。

「で、嬢ちゃんは?」

「嬢ちゃん言うな。アタイは……まあ、あれだ。遊び半分」

「半分?それじゃったら、もう半分は?」

「ああ。アタイは将来、プロのレーサーになりたくてさ。でも、親が許してくれないんだ。だからこの大会で実績を残して、親に認めてもらう材料にする。まあ、それで納得してくれるかどうかは分からないけどよ」

 特に隠すような事でもなかったので、ハッキリと喋ってしまう。少し言いたくない気持ちも混在しているが、それが何故かは茜にも分からない。

「なるほど。嬢ちゃ……茜は、ご両親と喧嘩中ってか。まあ、それじゃあ博打じゃのう。今の口ぶりだと、親ときちんと約束したわけやないんじゃろう?」

「ん、まあな」

 確かに、この大会に勝ったらプロになることを認めるなどと、そんな約束は取り交わしていない。それどころか、大会に出場したことさえ内緒だ。これで大した成績も持ち帰らず、挙句に黙って出場したことが発覚すれば非常に困る。


「まあ、親に逆らうのは覚悟がいるわな。ワシも今まで29年も生きてきたけど、いっちゃん覚悟が要ったのはオヤジに逆らった時じゃったわ。ああ、オヤジっつっても、ワシのやない。妻の、やけどな」

 コートの裏ポケットから、煙草を取り出す。するとテーブルを叩く音が聞こえた。茜が、テーブルの端の禁煙マークを叩いている。

「おっと、すまんの」

「いや、気を付けてくれ」

 茜は煙草を好まない。肺に悪いという話を聞いてからというもの、隣で吸われることさえ不愉快だ。兄が一時期吸っていたが、茜の強い要望によりやめた。

「それで、奥さんのお父さんに逆らったお話は?」

 空が訊くと、再び百鬼は語り出す。

「ああ。ワシら、いわゆるデキちゃった婚ってやつでのぉ。妻の名前が、桜って言うんじゃけどな。その桜のオヤジに言うたんじゃ。『先っぽだけやから、って言って、当ててしまいました』ってな」

「うわぁ……」

 空が引く。茜も軽く引いた。別に嫌悪感からではないが、ちょっと想像できる内容のさらに先だったので驚いたと言ったところか。

「いやー。先っぽだけって言うといて、実際は奥までずっぽりじゃった。そりゃデキるわな。ワシ、責任取っただけ偉いじゃろ?」

「いや、ああ、うん」

「そ、そうですね」

「でな。オヤジがワシに言うんじゃ。『よし、責任取れ。お前も先っぽだけでええから』ってな。まさかワシが『先っぽだけ』って言われる立場になるとはっ!がはははっ」

「は、はわわわっ」

「いや、どんな状況だよ」

「がっははは。結果から言うと、先っぽだけじゃ済まんかった。根元までざっくりじゃ。そしたら、ドバーッて」

「うぉい!ストップ」

 さすがに茜が止める。どこぞの変態糞野郎じゃあるまいし、岡山の県北みたいな話はもう十分だ。




 すっかり話も盛り上がり、ハンバーガーショップに思った以上の長居をしてしまった。空は駐輪場に止めたエスケープに手をかけ、茜は壁に立てかけていたクロスファイアに歩み寄る。止める場所が違っていたのは、茜がスタンドをつけない主義だからだ。

「ん?」

 その茜の車体の後ろに、もう一台の自転車が立てかけてあった。

「ああ、ワシの自転車じゃ」

「おいおい、マジかよ?」

 SCOTT GAMBLERギャンブラー 730だ。真っ赤なカラーリングに、カモシカのような長いフロントフォーク。まるでオートバイのような、長大なホイールベース。前方に投げ出すようなヘッド角。

 サスペンションはコイル式。フレームはアルミ製。そしてギアはSRAM X4のシフターとX5のディレイラーを掛け合わせた、たったの8段変速。重量は17.5kgと、大体ハイテンスチールのママチャリくらい重い。

 そう聞くと、せいぜい10万を超えない程度の値段だと思う人もいるだろう。しかし、この車体は50万円近い値段の本格競技用だ。

「これって、ビーチクルーザー?」

 空が訊ねるが、茜は首を横に振る。そして、持ち主である百鬼は首をかしげる。どうやら、茜が解説するしかないようだ。

「これはダウンヒルバイク。ダウンヒルレースで使われる車体だ」

「だうんひる?」

「ああ。下り坂を駆け下りて、そのタイムだけを競う競技があるんだ。もちろん下りを走れればいいだけだから、変速ギアなんかには金をかけなくなる。タイヤとブレーキだけ質が高ければいい。ギアもペダルも飾りみたいに考える競技だ」

 オートバイのような見た目をしている、という意味では、ビーチクルーザーと似ている所もあるのかもしれない。ただ、この車体は性能を重視した結果、この見た目になったのだ。最初から見た目重視だったクルーザーとはコンセプトが違う。

「そう言えば、君らが出場者に片っ端から喧嘩ふっかけとんの聞いとるで。面白いやないか。ワシとも一勝負、頼もかい」

 その時の百鬼の笑顔は、食事中に見せていた温厚なものと大差なかった。ただ、サングラスの奥に光る眼の見開き方だけが違っていた。



『えーと、またしても噂の中学生コンビが、局所的な勝負をするようですねぇ。今回の相手は、エントリーナンバー893 百鬼一虎選手。職業欄にギャンブラーと書かれていますが、本当なんでしょうかぁ?それとも自転車の名前とかけたギャグですかぁ?

 えーと、今回もスタートの合図は、私ミス・リードが務めさせていただきますぅ。ゴール地点は、30km先のスーパーマーケット。1時間くらいで決着がつきそうですねぇ。

 それでは、行きますよぉ。レディー……ゴー!』


 真っ先に駆け出したのは、百鬼だった。一気に加速して、変速ギアを上げていく。

(このグローブも、使いやすいもんじゃのう……)

 shimanoのウィンドブレイクグローブ。3層構造で断熱、防風に特化した商品だ。ギアやハンドルの握り心地も良く、それでいて手を捻った時に滑る感じがない。しかし決して、接着されたような固定力もない。

 手を動かそうとすれば、きちんと動く。しかし不意に滑りそうになれば、きちんと止まる。まるで意思に応じてグリップしているような装着感だ。

(ワシ、自転車の事をホンマに舐めとったな。この1年間で、価値観変わるで)

 そんな百鬼を、茜と空が追撃する。茜の方が少し出遅れたのは、ビンディングをはめるのに手間取ったからである。

「どうする?追い抜こうか?」

 空が茜に訊く。

「へえ。空も言うようになったじゃないか。それじゃあ抜こうぜ。ここでアタックだ」

 茜が思うに、この平地では自分たちが有利だ。相手はペダリングが下手だし、何よりギアが今より上がらないはず。相手のフロントチェーンリングは、シングルで34Tだ。つまり、茜にとってはローギア。空にとってはミドルで走っている感覚だろう。

「やるぜ!クロスファイア!」

 茜が左側のブレーキレバーを、内側に大きく倒す。連動して右側も内側に大きく、2段落とす形で動かす。フロントは50Tだ。

「僕らも行くよ。エスケープ」

 空も、左の手前側のレバーを押す。フロントは48Tに変速。これが、フロントに変速ギアを持つ車体の最大速度が高い理由である。

 茜が合計20段のtiagraで、空が合計24段のX-4系ミックス。二人の速度は、あっという間に50km/hを超える。

「ほう、やるのぉ。二人とも……」

 その本気の走りを、百鬼は眺めていた。まだ勝負所ではない。今は泳がせてもいいとばかりに、大人しく抜かれる。その表情は、笑っても怒ってもいなかった。



 ほんの1分ほど加速した空たちは、体力を残すために巡航に戻る。それでも百鬼よりは速いはずだ。空がサイドミラーで後方を確認する。すでにそこには誰もいない。

「茜。ここからはやっぱり、トレインかな?」

「ん……ああ、そうだな。アタイの後ろに入るか?」

「それじゃあ、お邪魔します」

 茜の後ろにピッタリとくっつく。車輪同士がぶつかる寸前で位置を決めるため、ひと時も気を抜けない。

「……」

 茜が、両手を交互にパタパタさせていた。別に変速ギアの感触を確かめているわけではないらしい。

「どうしたの?考え事?」

「ああ……あいつのハンドルの持ち方、おかしかっただろう」

 そう言われて、空も思い出す。確かに気になっていた。どうしても、自転車慣れしてくると見えてくる部分だ。

「たしか、人差し指と中指でブレーキレバーを握って、薬指と小指はグリップ自体を握り込んでいたよね?何で2本指だけでブレーキを持っているんだろう?」

「ああ、いや、それは間違いじゃないんだ」

「え?そうなの」

「ああ、オフロード競技だと、いつ車体が跳ねるか分からないからな。その時に手が弾き飛ばされないように、わざと指1~2本程度をハンドル自体にかけて握り込むんだよ。ブレーキなんて油圧式だろうから、軽い力でも握れるし、な」

 ちなみに、小指だけを独立して握る方法と、小指と薬指をセットで握り込む方法の二択がある。どちらにしても、余った指でブレーキとギアを操作するのだ。

「じゃあ、僕もそうした方が良いのかな?」

 空は自分の乗り方を考える。指四本をブレーキレバーにかけて、手のひらだけでハンドルを支える持ちかた。確かにちょっとでも車体が跳ねると不安定になる。

「いや、空はそのままでいいだろう。アタイが今話したのは、あくまでオフロードでの話だ。オンロード専用のクロスバイクには当てはまらないぞ」

「そっか」

 何より、空はエルゴグリップを使用している。これは手の疲労を避けるために、わざと手のひらを置くだけで安定するように設計されたものだ。握り込むようには作られていない。

「アタイが気になってんのは、何で百鬼さんが左右で違う持ち方をしているかってところだ」

「え?そうだった?」

「気づかなかったか」

 空は見ていなかったようだが、茜は気づいていた。百鬼は右手でハンドルを握るとき、小指だけでハンドルを支えている。しかし左手では、薬指も使ってハンドルを握っているのだ。

「えっと、フロントの変速ギアがないから、それで左だけ指が余るのかな?」

「いや、shimanoのラピッドファイアシフターなら人差し指を使うが、SRAMのサムシフターは親指しか使わないだろう」

「あ、確かに……」

 空もSRAMだから分かる。これは親指だけで変速ギアを操作するため、親指レバーが2本づつ付いているのだ。shimanoのように、人差し指のトリガーと親指のレバーで変速する機構ではない。

「……」

 空は、最初に彼を見た時を思い出す。あの時は目の錯覚だと思ったが、まさか……


 ガガガガガガッ!


 考え事をしていたせいだろう。空が茜に近づきすぎて、お互いのタイヤが接触する。空のハンドルが急にとられて、茜は後ろにひっくり返りそうになった。慌てて体制を立て直す。

「うひゃあっ」

「いっ、たぁー……気を付けろ!」

「ご、ごめん」

 体勢を立て直すころには、空も話をするタイミングを失っていた。



(さあて、嬢ちゃん。プロになりたい。親を説得したい……そう言うたな。どこまで本気か、覚悟を見せてもらうで)

 百鬼がハンドルを握り込む。その左手には、大きな違和感が二つ。どちらも去年から1年間付き合ってきた違和感だ。

 ひとつは、薬指の結婚指輪。これがブレーキを握るときに意外と邪魔になる。ストロークが長いせいかもしれないが、レバーが引っかかるのだ。

 もうひとつは、小指。いや、元々小指があったはずの場所。

(ワシは桜の父親を――いや、組長を説得するとき、覚悟の証にエンコ詰めたで。まあ、安いものじゃけどのぉ)

 先っぽだけと言いながら、第二関節からスパッと切られた指。今はもう痛みすら感じることの少ないその部分は、グローブを着けていると時々、無くしたことを忘れそうになる。

 組長の娘に手を出し、まして孕ませた代償としては、釣り合う物だと百鬼は思っていた。そのうえ結婚まで認めてくれて、次期会長の座も半ば約束してもらえた。これは感謝してもしきれない程である。

 だからこそ、その恩を返したい。

「この博打――西郷会の組長らが賭けた1億の五人分。延べ5億を手土産に持ち帰るのは、ワシじゃあ!」

 職業欄にギャンブラーと書いたのは、決して嘘ではない。普段は違法カジノのディーラー。必要とあらば鉄砲も撃つ。

 今回はそのチップが自分自身で、鉄砲が自転車に変わっただけだった。


 ――ガタタン、タタン!


 コースの端に寄った百鬼は、そのまま歩道に侵入する。大半の歩道はコース外の扱いを受けるが、GPSからはそこまで細かい情報を拾えないはずだ。中継車のカメラにさえ映らなければ、反則は取られにくい。

 目の前には、歩道橋がある。こちら側と向こう側の両方に階段を持つ、どちらからでも登れる設計のものだ。その中央のスロープを、力任せに駆け上がる。

(このまま、向こう側の階段を下って加速じゃ。一気に追いつくけぇのぉ)

 しかし、ここで予想外の事態が起こる。

 向こう側の階段に、スロープが無いのだ。これでは滑らかに車輪を転がすことができない。

「――がはははっ、読み違えたか。まあ、博打なんぞこんなもんじゃ。特にサマ場は」

 迷いは無かった。その階段を、一気に駆け下る。ブレーキなど掛けない。体重をしっかりと乗せて、ペダルを水平に保つ。


ガガガガガガガガガガガガガッ!!

 ダダダダダダダダダダダダダッ!!


 この世の終わりかと思うほどの振動が、大柄な百鬼の身体を揺さぶる。しかし、転びはしない。

 通常、下り階段で加速をし過ぎれば、前のめりに転倒する。いわゆるピッチオーバーが起きやすくなるのだ。何しろ、常に車輪は段差に衝突している感覚。それに加えて、車体は斜め前方に傾く。当然だが重心も前にせり出すのだ。

 しかし、彼の乗るギャンブラー730は違う。角度を寝かせたフロントフォークは、上ではなく斜め後ろに縮むのだ。

 通常のMTBなら、真上に跳ねるような衝撃を吸収する。前方からの衝撃は対象外だ。しかしダウンヒルバイクであるギャンブラーは、前方からの衝撃も後ろに縮んで吸収する。この構造を実現するため、車体重量が増すのだ。

 そのまま、平らな歩道へと接地。さらに縁石を飛び越え、コースに復帰する。

 コース備え付けの固定カメラが、その様子を捉えた。


『百鬼選手が急加速していますぅ!その速度は、スピードガンの測定で65.3km/hですよぉ。

 この一瞬でこんなに速度を上げるなんて、まるで鉄砲玉のような瞬発力。階段から転げ落ちたような走りですぅ。今のVTRはありますかぁ?……え?ない?もー、なんでこの大事な時に中継車がいないんですかぁ』


 ミス・リードの実況を聞いて、自分のイカサマが上手くいったことを確信する。今回も見つからなかった。

「女神様もワシの味方じゃのう!がはははははっ」

 太いタイヤが高速でアスファルトをひっかき、まるでオートバイのようなうなりを上げる。路面からの振動は全て、サスペンションがカシュンと音を立てて吸収する。




「まずいな。下り坂か……」

 茜ができる限り姿勢を低くして言う。空力抵抗を避けて、体力を温存したまま速度を上げる方法だ。

「この下りでは、車体重量も体重も重い方が有利だ。アタイらには不利って事になる。百鬼さんに追いつかれ――聞いてるか?空?」

「え?ああ、うん。聞いてるよ」

 聞いてても、答えるのが難しい。路面の石ころを避けながら、高速で進む車体を制御しなくてはならないのだ。

「凄いよね。さっきからペダルを回してないのに、自然と45km/hは出てる……」

「あんまり姿勢を低くし過ぎるなよ。車体が跳ねたら、ハンドルが顎にぶつかるぞ」

「え?うん。分かった」

 加えて、コーナーも多い。目の前にほぼ180°のヘアピンカーブ。上体を起こして、風を受ける。

「茜。どうして山道って、こんなにくねくねしているの?」

「ああ、それは直線で道を作ったら、傾斜がとんでもない角度になるからな。斜めに進む形にしないと、自転車も自動車も通れないんだよ」

「じゃあ、どうしてガードレールも付けてくれないの?」

「予算がねぇんだろ。そもそも、この辺はあまり人が寄り付かない道なんじゃないか?チャリチャンのために貸し切りにしてくれるくらいだし」

 茜の予想通り、近くには立派な国道も通っていて、トンネルも用意されている。ハイキング目的でもない限り、こんな場所を通る市民は少ない。

 空は下を見て、少しぞっとする。もし曲がり切れなかったら、この岩肌のゴツゴツした崖を転げ落ちることになる。それだけは避けたい。

「茜。速度を落としちゃダメ?」

「ダメだ。空なら転ばないだろ」

 空の実力を高く評価する茜は、優しくない。自分自身にも、他人にも。

「でも、石とか転がってきたら怖いよ」


 ぱらっ


「そうそう転がってくるかよ」


 ぱらぱら……


「で、でも――」


 ダッ――


「怖いんだもん――ひゃぁあっ!?」

「どうした空――っ!」

 空がブレーキを握って止まる。茜がそれに気づいて振り返る。その二人の間を、一台の自転車が横切った。

 今まさに話していた崖の上から現れた、その車体は――


 カシュウン――


 スプリングの縮む独特の音を立てて、道路に着地すると、


 ボボンッ!


 その道路を横断して、再び崖の下に落ちていく。もしサスペンスドラマなら、ここで空の悲鳴が上がってオープニングかCMだろう。

 しかし、その男は転げ落ちる死体などではなかった。自らの意思でハンドルを握り、崖の下の街を目指す。


『なんと、百鬼さんが道を無視して一直線に進行。ほ、本当にこんなところでするんですかぁ?誰も来ないから大丈夫だよ……って、まあそうですけど――

 しかし、これはなんと許容範囲。大会側がロープや案内標識を立てていなかったため、道路でなくてもコース内と判断されますぅ。私が言うのも変ですが、この大会のルールは私よりガバガバじゃないですかぁ……』


 最後の道を飛び出すと、そこはコンクリート吹付が施された、3メートルほどの高さの崖だった。

(よっしゃ。飛ぶで!)

 百鬼がそのまま車体を崖淵に向かわせる。ハンドルを引き上げるようにして、ペダルを蹴ってジャンプ。まずは自分が自転車の上で飛ぶようにして、次に自転車を引き上げる感覚。

 それに加えて、今まで加速してきた分が、前に進むように促す。カタパルトで打ち出される戦闘機パイロットはこんな気分だろうか。

「おおっりゃあぁあ!」

 空中でハンドルを90°右に回転させて、前輪を横にする。一見すると意味のない行為に見えるこれは、実は車体を支えるためのフォームだ。

 ハンドルは握ることが出来ても、サドルやペダルは身体から離れてしまう。そのため空中では、自転車と自分がバラバラになることが多い。それを避けるためには、まずハンドルを縦にする。前に突き出した方を下に押し、手前に引いた方を持ち上げる。

 こうして、力ずくで車体を水平に保つのだ。そうしないと、後輪側が先に落下する。

「ふんっ!」

 そして、着地の際にハンドルを戻す。そうしないと、今度は前輪が横を向いたまま着地することになる。今までの慣性と違う方向に進行すると、大きくバランスを崩すのだ。

 時間にしてほんの一瞬の間に、ハンドルを捻って戻すことになる。自転車に詳しくない百鬼は、しかし動画などの見よう見まねで技術を習得していた。

 そもそも百鬼にとって、世の中のほとんどは見よう見まねだ。あとは自分で判断して、それが間違っていたら自分で責任を負えばいい。

 ドスの握りかた、チャカの隠しかた、サマの張りかた、ヤクの運びかた、エンコの詰めかた、面倒な客の追い返しかた――誰からも教わったことがない。しいて言えば上下関係だけ、先輩から顔の形が変わるほど丁寧に教わった。

 勝てば何かを得る。負ければ何かを失う。

 そんな自己責任の世界が、百鬼にとって、どんな保証より心地いい。


 カシュウゥゥウウン!――ウゥウン!


 地面に直撃する車体を、そのまま滑らせるように前へ。落下して倒れ込む力を、そのまま車輪で流していく。先ほどからペダルを漕いでいないにもかかわらず、この車体は弾かれるように前に進んでいく。

 地球の重力は、すべてこの車体の推進力だ。あとは一握りの勇気と、命を懸ける覚悟があれば、どこまででも飛んでいける。

「まあ、ここはワシの勝ちじゃのう。5億にはまだ遠いが、その前哨戦としては上々じゃ。がっはっは――は……」

 何やら、勝った気がしない。後ろに、何かの気配を感じる。今までいくつもの修羅場を見てきたからこそ、肌で感じる予感。

(なんじゃい?ワシの背中の雷神が、太鼓でも叩いとるか?)

 この大会前にゲン担ぎで彫りなおした、大きな刺青が疼く。冷たい風に吹かれてビリビリと、まるでカミナリの予兆のように……



「まだ終わらせるかよ」

 道のりにして500メートル後方。茜と空は速度を上げつつ、ギリギリのコーナリングに挑み続けていた。

「茜。滑ったら真っ逆さまだよ」

「なら下を見るなよ。お前だってガードレールがあれば、このくらいの速度は出せるだろ」

「ガードレールがないから怖いんだよ」

 不思議なもので、道路の白線を走れと言われれば出来る人も、縁石の上を走れと言われればできない。幅にさほどの違いは無いのにも関わらず、だ。その違いは、恐怖心があるか無いか。

「別に飛び降りろって言っているわけじゃないだろ。あいつは飛び降りたぞ」

「じゃあ、茜も飛び下りたら?僕は見ているから」

「出来るか!空中分解するっての」

 いくらオフロード特化のクロスファイアでも、せいぜいが砂利道や踏み固められた土の上を走る程度だ。崖を飛び下りることは想定していない。

「だが、アタイの予想が正しければ、追いつけるはずだ」

 平地や登り坂においては、ダウンヒルバイクは遅くなる。それに持久力もない。あの長いサスペンションは、ペダルを踏んだ時の力さえ吸収してしまうからだ。

 問題は、距離。

 最初からこれを見越してか、あるいは百鬼の勘が偶然にも当たったのか。スタートから30km地点にあるというゴールは、もう近いはずだった。

「わざと短期決戦に持ち込んだんだろうとは思ったけど、こうも綺麗に下り坂のあとすぐ終わるとはな」

「これって、時間との勝負って事?」

「そうだ。アタイらの方が百鬼より速い。差は確実に縮んでるはずだぜ。あとは、百鬼がこのまま逃げ切るか、アタイらがその前に追いつくかだ」

 茜が頭を下げる。傾斜と相まって、その視線は腰よりさらに低い。

 迫るコーナリング。ここでブレーキのかけ方を間違えると、頭から地面にぶつかってしまう。ヘルメットも持たない茜にとって――どころか、例えヘルメットがあったとしても致命傷になる状況だ。

 リアブレーキを使って、後輪をロック。滑り出したタイヤが、全く役に立たなくなる。

(いいぜ。これでいい)

 その分、フロントタイヤに摩擦が集中する。体重をフロントに預けて、リアを滑らせた。2輪ドリフト――それも、自動車が行うような『エンジンの回転数を維持する』ためのものではない。純粋に、コントロールを重視したもの。

 誰もついて行けない程の、鋭いコーナリングを抜けた茜は、

(空、追いついてこい)

 車体を立て直し、ブレーキを解除。後ろを振り返る余裕はない。

 心臓の鼓動が、まるで大砲のように大きく、機関銃のように連続して胸を打つ。正直、今のは茜でも怖かった。それほどの無茶だ。


「あ、茜っ、待って……」

 コーナーで大きく引き離された空は、それでも茜の後を追う。ハンドルにお腹を当てて、腕を可能な限り折り畳んだ。

(ダメだ。もっと、もっと低く……僕の身体を、エスケープとひとつに――)

 腰をサドルから離し、前へ。そのままトップチューブに当たるギリギリまで、股間を下ろす。一部のロードレーサーから、クラウチングスタイルと呼ばれている走り方。

(カナタさんのバイパーみたいに、ハンドルと僕を繋げて、前に――)

 やはり前輪に体重をかけて、車体の挙動をコントロールする。フレームに沿って、空の細い体が密着する。


『茜さんが、峠でドリフトを連発ですぅ。一回でも失敗したら大変なことになっちゃうのに、それを冷静に処理してクリア。速度が全く落ちませんよぉ。

 それに対して空さん。直線での加速に特化したフォームを選択ですぅ。コーナーで遅れた分は直線で取り戻す作戦ですねぇ。

 そして今、町へと復帰です。そのままの速度で平地を進んでいく二人。現在速度は――77.5km/hです。

 前傾姿勢で高速のペダリング。なんだか某ロボットアニメを思い出すような走り。心なしかソニックブームまで感じられる気がしますよぉ』


 この速度をなるべく維持するため、ギアを最大にして回し続ける。とはいえ、ペダルは少しずつ重くなっていく。すなわち速度が落ちていく。

 当初1時間で終わると予想されたこの勝負は、まだ30分しか経っていないにも関わらず、最終局面を迎えていた。


「追いついたぞ。百鬼さん!」

 茜の声がする。既に勢いを失っていた百鬼は、後ろを振り返って感心した。

「ほう、二人とも追いついてきたか。驚かんけどなぁ!」

 むしろ、来るだろうと予想はしていた。二人がどんな走り方をしたのか、百鬼は知らない。ミス・リードの実況から理解できたものも少ない。

 ただ、勝負師の勘が告げていたのだ。絶対に二人は追いついてくると。

(まだカタギにも居るんじゃな。親を説得するために、おのれのタマ張れる奴がのう)

 そんなことをして万が一のことがあれば、親も悲しむだろう。しかし、それだけの事をしないと考えを変えられないのも、親なのだろう。

(まあ、その覚悟には感服するわい。じゃけど、勝つのはワシじゃ)

 百鬼が、大きくハンドルを揺さぶる。いわゆる振り子ダンシングのように、左右に揺さぶられる車体。一方で、百鬼の身体は縦に揺れる。まるで地面を踏み割るように、大げさな動きで、


「おら、おら、おら、おらァ!」


 ギュアンッ!ギュアンッ!ギュアンッ!ギュアンッ!


 ペダルを踏みつけるたびに、チェーンが唸り、太いアルミフレームが悲鳴を上げる。大柄な体躯を活かし、ただ力任せに蹴りつける走り方だ。並みの自転車なら壊れてしまうだろう。これが、彼のギャンブラーなら耐えられる。

「くっそ。ここで加速だと?しかもあんな無茶なフォームで」

「茜。僕たちもあの走り方で行く?」

「行けるわけないだろ」

 体重の軽い二人が真似をしたところで、追いつけない。

「それより、ギアを下げてケイデンスを上げるぞ。足首使え」

「うん。分かった」

 滑らかなペダリング。切れ目なく回る車輪。これこそ王道と言える走り方で加速する二人。

 ゴールは、目の前に見えてきた。


『おおっと、ここで空さんと茜さん。そして百鬼さんが並びましたぁ。いや、しかしまだ百鬼さんが一歩リード。

 残り1kmを切っておりますぅ。誰も先頭を譲りませんよぉ。中継車さん。写真判定の用意……できていますねぇ。うふふふっ、あとでご褒美をあげましょうかぁ?

 あ、それより今は中継ですね』


 じりじりと、その時が近づく。既に目測とはいえ、中継車から降ろされた機材はセットされていた。

 どうやらスーパーマーケットの駐車場をそのままゴールラインにするらしい。厳密にはコース外の敷地だが、大会運営スタッフたちの先導と、何より店舗や利用客たちの協力によって確保されたスペース。そこに――

「ぜぇりゃあああ!」

「はぁぁああ!」

(え?ふたりとも、どうしてゴール前で叫ぶの?)

 百鬼と茜と、そして空が滑り込む。横並びの一列。ほぼ同時だった。道路と駐車場を分けるコンクリート製のラインを、3人のタイヤがそれぞれの音で踏み越える。


『ゴール!ゴールですぅ。結果は写真判定にもつれ込みます。今解析を行っているので、ちょっと待っててくださいねぇ。あ、まだ大会自体は続いているので、このまま走り続けて結果を待っても構いませんよぉ。

 ふふふっ、本当に走り出されると、私が放置プレイをされたみたいで嫌ですけどね。あ、ちなみに放置プレイって、大事なのは待っている間の恐怖だと思うんですぅ。安全なところに放置されても感じないので。

 そういう意味では、私の方が空さんたちを放置するプレイですかねぇ?』


 そんなミス・リードの言葉を聞きながら、空たちには重要な仕事があった。それは、ブレーキをかけて停止するという行為である。

 百鬼はフロントブレーキをロックして、車体を大きく前後に揺らす。フロントサスが縮んで跳ね返ったことによる挙動だ。一方サスペンションを持たない二人は、ブレーキをゆったりとかけながらオーバーラン。

「はっ。はは……がははははっ!おう、二人とも!いい勝負じゃったのぉ」

 百鬼が自転車を押して歩きながら言う。こうしてみると、やはり百鬼のギャンブラーは、通常の自転車に比べて大きい。百鬼自身も大柄なので、走っている最中は分からない。止まった時にだけある威圧感。

「アタイらの勝ちか?」

「いや、ワシの勝ちじゃ」

 ミス・リードの発表を待つ中、そうやって自分の勝利を主張する二人が、空には何となく楽しそうに見えた。

「えっと、僕の勝ちかな……あ、ご、ごめん」

「がっはっはっはっ。何を謝っとんじゃ。堂々とせぇ。男じゃろ。茜を見習って男らしく――」

「おい聞き捨てならないぞ。アタイのどこが男らしいんだよ」

「3年間も同じ中学に通ってるけど、茜に自覚がない事の方が聞き捨てならないよ」

「お前はアタイにだけ遠慮がないな」

 そうやって話していれば、写真判定の時間はあっというまに過ぎ去っていく。


『えー、判定の内容ですが、今回は大会指定のGPSタグに内蔵したレーザーセンサーではなく、純粋な写真判定をしておりますぅ。車体の一部がゴールライン上を越えたところで計測ですねぇ。

 その中で、一番にゴールラインを越えたのは……

 茜さんです!1位おめでとうございますぅ。2位は空さん。3位は僅差ですが百鬼さんですねぇ』


「よっしゃあ!」

「え?あ、僕も勝ったんだね。えっと……」

 戸惑い、百鬼に視線を送る空。それを、百鬼は軽く笑い飛ばす。

「喜んだらええがな。勝ったんじゃろ。思いっきり喜ばんと、負けたワシが舐められとるみたいじゃけぇのぉ」

「あ、そんなつもりじゃ……」

「冗談じゃ。ほれ、喜ばんかい。ワシに勝ったんじゃ。2位おめでとう」

 まったくもって、この強面のスカーフェイスに似合わない優しさを持つ男は、本当に暖かく笑う。

「ありがとうございます。百鬼さん」

「おう。こちらこそ、楽しかったで」

 百鬼の方から左手を差し出して、握手を求める。空はそれをそっと握り返した。お互いに、少し違う位置にハンドルまめのある手のひら。そこだけ分厚く、硬い感触。


「ぐあっ、ああああ痛い、いたたたたた」

 唐突に、百鬼が痛がるような演技を始めた。ほぼ棒読みであるが、空と握った左手をかばうようにして引っ込める。

「え?だ、大丈夫ですか?」

 空は困惑した。そんなに力を込めていないはずの自分の左手を、軽く握ったり開いたりする。そんな彼の前に、百鬼が手のひらを見せた。

「小指が、取れたぁ!」

「え……」

 見れば、確かにその小指は付け根の近くからごっそり無い。ハンバーガーショップで初めて会った時から、少し気になっていた。しかし、確信を持てる程ハッキリ見たわけでもなかった。

 そのまま、何が面白かったのか、百鬼が笑いをこらえられなくなる。

「がっはっはっはっ。冗談じゃ。冗談。元から指はついてないんじゃ。びっくりしたじゃろ~?……ん?おい。なんとか言わんかい」

「いや、百鬼さん。空は……固まってんだけど?」

 茜が空をつつくと、そのまま空が地面に倒れそうになる。支えようとして百鬼が手を差し出せば、そこにバウンドして反対側に倒れそうになる。また茜がつつけば、再び反対側へ……びよんびよんびよん――

「ああ、こりゃダメじゃな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る