第35話 始める切っ掛けと罪が生まれた日

「ごちそうさまでした」

「いやいや、ミスター空。君の走りに出す代金だと思ったら、安いものだよ。素晴らしい走りを見せてもらった」

 約束通りミハエルのおごりとなった夕食は、たかがフードコートとはいえ遠慮のない金額となった。主に、育ち盛りな二人が空腹を抱えていたことに起因する。あれだけ走ったのだから、決して燃費が悪いとは言えない。

「それで、きみたちはこの後、どうするのだね?吾輩はそろそろ宿でも取るが?」

「ああ。アタイらも消耗したし、明日の早朝に備えて休むよ」

 茜がそう言って伸びをする。そのお腹が目に見えて膨らんでいるのは、普段の茜が細いことに加えて、食べた量が成人男性でも2人前近いからだろう。

「あの、ミハエルさんは、えっと……悔しがったりしないんですか?負けた――のに……」

 空がミハエルに訊く。勝者としてではなく、ただ一人の少年として。

「僕、負けて怒る人とか、泣いちゃう人とか……そういうのをいっぱい見てきたし、それが嫌で、戦いたくなくて――でも、ミハエルさんは違うって……」

「いや、吾輩も同じだよ」

「え?」

 一見するとサッパリして見える彼は、食事中も楽し気に会話していた。だからてっきり、悔しがるという気持ちは無いと思っていたのだが、

「はっはっは。吾輩だって、戦いの中に勝利を求める人間だ。負けたら人並みに悔しいさ。ただ、それでも負けたなりの矜持と、相手への敬意も持っていてね。敵を前にして涙を流さない。それこそ吾輩が、鋼鉄の騎士アイゼンリッターを名乗る理由だよ」

 ヘルメットをかぶり直したミハエルは、鼻で息を付くように笑う。まるで、自分の中の鬱憤を少しだけ空気中に放出するように――

 そして空に言い聞かせるように、あるいは自分に言い聞かせるように、話す。

「いいかね?吾輩にとって一番悔しいのは、戦ってもらえない事だ。せっかく挑んでいるにもかかわらず、所詮は古臭い自転車と馬鹿にされて、相手にもしてもらえない。それが一番悔しいのさ」

「ミハエルさん――?」

「だから、君たちが吾輩と真剣に戦ってくれたこと、嬉しかったよ。きみは戦うことが誰かを傷つけると思っているようだが、世の中には戦わないことで傷を負う人間もいるのさ」

 そっと振り返り、ショッピングモールの出口に向かう。空たちに背を向けて、軽く片手を振りながら――

「しかし、次は吾輩が勝つ。まだチャリチャンは終わらんのだよ」

「ひっ……!」

 最後に放ったその捨て台詞は、空を後ろに一歩押し出すだけの威圧感を持っていた。



「ミス・リード。この近くでどこか宿泊できるところ。それもとびっきりリーズナブルで頼めるか?」

 茜が凸電で訊ねる。食事をとったため、少しなら走れそうだ。こうなってくると近さより、値段を優先したい。

『そうですねぇ。安さ重視なら、そこから4kmほどコースに沿って走っていただいて、そこからコースアウトして1kmのところにありますよぉ。どちらかと言えば、宿泊より休憩に比重を置いた場所ですけどね』

「泊まれるんだろ?」

『はい。朝までのご利用も大丈夫みたいですぅ。なんならこちらでコースアウトのタイミングも指示いたしますかぁ?』

「いや、いいよ。名前だけ教えてもらえれば、あとはグーグルマップに案内させるさ」

 通信データ制限を考えると、グーグルマップなどのナビ機能は極力控えたい。ただし、今回はコース沿いに4kmと事前情報を貰っている。だから直前で使えばいいだけだ。

『それでは、二人仲良く、いい思い出をー』



 30分後――


「んっ――」

「茜。大丈夫?えっと、い、痛くない?」

「ああ、大丈夫。気持ちいい……よ。んっ、も、もっと強くても、大丈夫だ」

 少し当たり所が悪いのか、茜は身をよじって姿勢を変えた。自分が気持ちいいところに当たるように調整する。

「っあ、アタイ、こういうの初めて――っ、だけどさ。意外と、好き」

 下半身に、キュウキュウと締め付けてくる感覚。少し痛いけど、それも含めて気持ちいい。癖になりそうだとさえ思える。身体が、熱い。

 見上げれば、空が切なそうな表情でじっと見ている。目が合うと、お互いに恥ずかしい。

「……見てんなよ」

「ご、ごめん」

 茜に言われて、空は目を逸らす。そのまま……

「じゃ、出るよ。茜」

「ああ……」

 マッサージチェアのブースを出た空は、ネカフェの廊下を一人で歩く。

(僕も使いたかったな。マッサージチェア……)

 しかし、一台しか空いていないなら仕方ないだろう。初めてだから使い方が解らないという茜に一通り教えた空は、自分のブースに戻るしかなかった。

(どうせなら、漫画でも持っていこうかな)

 ネットで動画を見るのもいいが、たまには紙媒体の単行本に触れたくなる。この商業用に生産された無駄のないフォルムと、表紙からあふれるワクワク感。時代が変わっても、この媒体が廃れることは無いだろう。

 ジャンプコミックスの中から、古めの冒険ものを選ぼうと視線を這わせる。宇宙海賊の腕が銃になる作品を見つけて、

(ああ、そう言えばクラスメイトが面白いって言ってたなぁ)

 その一巻を、本棚から抜き取る。


「くぅっははははっ。空君も男の子だね。そういうの読むんだ?」


 どこからともなく、声が聞こえる。

「だれっ!?」

 空が見渡すものの、その声はどこから発せられているか分からない。本棚の蔭から聞こえているのは間違いないが……

「そこにいるの?」

 バッと本棚の裏に回り込んだ空だが、そこには誰もいなかった。

 慎重に、一歩ずつ足を滑らせて歩く。相手がどこにいるか分からない。

「そこ?」

 本棚の前に戻ってくるが、それでも相手はいない。

「外れだよ。ほら、俺がどこにいるのか分からないのかい?空君」

 声だけが、ずっと聞こえ続けている。それを頼りに探す。不思議なことに、相手の声は常に位置を変えていた。なのに足音は無い。

 だんだん、怖くなってくる。幽霊なんじゃないかと不安に思えてきた。本棚があるスペースを一歩出ると、そこは薄暗い。寝る人もいるから、それに配慮している照明配置だろうか。

 遠くから聞こえるいびきの音や、耳を澄ませると聞こえる店員の会話。それらが不気味に、遠くから聞こえる中……

「ねぇ。誰なの?どこにいるの……?」

 周囲を見回しても、どこまでも本棚。その広い空間に、空の声が吸い込まれる。一方で、相手の声は反響して聞こえる。まるで得体のしれない化け物の腹の中……この施設そのものが相手であるかのような錯覚。

 その後に、突然放たれた一言。


「ここだよ」


 場所が、今やっとハッキリ判った。見つけたと言うより、出てきたと言うべき相手の声。それは、

 空の耳元、すぐ右側。

「!――」

 息を飲む空のこめかみに、何かが付きつけられる。背後から手が伸びて、口を塞ぐ。

「捕まえたぜ。そして、サヨナラだ」


 BANG!!――


「あいたっ」

 デコピン喰らった空が、思わずしゃがみ込む。そこそこ本気で痛い。

「くっはっはっ。いいね空君。ナイスリアクション」

 手を叩き笑っていたのは、黒いロングコートに、真っ赤なヴェネツィアンマスクの男。

「デスペナルティさん……」

「お久しぶりだね。前に茜ちゃんと会った時は、君とは会えなかったからさ……一週間ぶりかな?」

 まるで気心の知れた旧友に会ったような、気さくな態度をとる彼。だが、もちろんそんな間柄ではない。

 彼には何度か、転倒させられそうになっている。空も、茜も。

「……」

「おやおや?俺をそんな目で見て、どうかしたの?今の空君は、そうだな……まるでライオンに親を食われた子ウサギみたいな目だ。次は自分が食べられる番だと思っているのかな?まあ、美味しそうだけど?」

 喉の奥で笑うような、独特な笑い方が混ざるデスペナルティ。その態度には、嘲るような雰囲気はあっても、不思議と悪意は感じない。ああ、そうだ。友達といじめっ子の境目にいるような奴が、丁度この雰囲気だ。

 悪気はないのに、力があるゆえに人を傷つけてしまう。そんな人がとる態度に、よく似ていた。

「……なんで」

「ん?なになに。俺とお話ししてくれるの?嬉しいな」

 小さく呟いた空に、デスペナルティが耳を傾ける。その様子に警戒心は無い。なのに、まったく隙も無い。まるで普段から警戒しているかのような様子。

 そんな彼に、それでも空は訊く。

「なんで、みんなの自転車を、壊すんですか」

「んー?おかしいな。デジャヴ……あ、デジャビュ?」

「前にも訊きましたけど、でも」

「ああー、はいはい。あの時は答えてあげられなかったものね。ごめんごめん」

 ふらふらと、しかし重心だけはしっかりした足取りで動き回る彼は、

「そうだな……まあ、レース中でもないし、今は俺も空君も自転車から離れているわけだし――」

 空が落とした本――いつも赤い服のイメージがある主人公が、珍しく薄い青の服を着ている表紙のそれを拾い上げ、

「知りたければ教えてあげるよ?ってか、ゆっくりお喋りしようよ。寝るにはまだ早い。だから空君も漫画を手に取ったんでしょ?」

 そっと空に差し出す。

「まあ、この漫画の方が俺より気になるなら、俺は読書の邪魔をしないけど?」




 オープン席に座ったデスペナルティは、かたくなに仮面を外さない。

「あの……顔、蒸れたりしないんですか?」

「んー?俺の心配をしてくれるの?ありがとう。でもニキビが増えるくらいだろうし、大した問題じゃないよ」

 やはり気になることには気になるようで、たまにタオルなどを隙間に差し込んでは拭っていた。そこまでして顔と名前を隠して、参加者を攻撃する意図は何だろう?

「ああ、ほら、出てきた。空君の自転車」

「え?」

 何の話かと思えば、PCを使って空の自転車を検索していたらしい。既に生産完了しているその車体は、メーカーも各店舗も在庫なしの状態。たまにネットオークションで出てきたとしても、ジャンク品としての扱いだ。

「2011年モデルか……もう数年前だね。空君は、今何歳だっけ?」

「え?えっと……14です」

「ってことは、この自転車は空君が小学生の頃に買った――はずがないよね。サイズだって今でようやく丁度だ。ジャンクショップで購入したの?それとも、知り合いから貰った?」

 デスペナルティの問いかけに、空は驚く。ただ数回の遭遇で車体を細部まで見抜き、こうしてわずかな時間で検索をかけて、真実に近づいていく。それは自転車を嫌いな人間が出来ることではない。

 少なくとも、彼は自転車が好きなんだという事だけは、前々から感じていた。ただ、会うたびに印象が変わる。

「で、どうなの?どういう入手経路?」

「あ、えっと……お兄ちゃんから、貰いました。あ、お兄ちゃんって言っても、実の兄弟じゃなくて、従兄なんです」

「ふーん。従兄ね。やっぱり、GIANTは好き?ああ、自分の車体の話じゃなくて、そのメーカーの話」

 メーカー、と言われると、空は少しだけ答えに詰まる。

 茜から、話は聞いている。台湾は今、自転車に関してはすさまじい技術を持った先進国であること。アジアではトップクラスの実力を持ち、それはアメリカやフランス・イタリアにも劣らない。

 そんな台湾市場を率いてきたのが、GIANT――MTBにおいてもロードバイクにおいてもトップグレード。そしてクロスバイクでも人気を博し、今年に入ってようやくピストにも手を出したとかいう、広い市場を気付いてきた人気メーカーだ。

 と、今のは全て茜が言った事だ。ちなみに、あまりに有名すぎてミーハーたちが集まってしまったブランドでもあると言っていた。


「――僕は、まだあんまり、自転車について詳しくなくて……」

「分からない?」

「はい。あ、でもエスケープは好きです。乗ってて幸せな気分になるし、どこまでも一緒に走れるから」

「あー、はいはい。自分の自転車が好きなのは当然だから、今更別にその話を聞きたいわけじゃないよ」

 何より、たくさんの車体を乗り比べたわけじゃない人間が言う「これが一番好き」はあまり当てにならない。アマゾンや楽天のレビューにそんなのがあふれているが、まったく購入の指標にならないことを、デスペナルティは知っていた。

「まあ、いいや。今度は俺の話をしようか。俺も、空君と同じ初心者だったんだよ。初めてスポーツバイクに跨ったのは、14歳のころ」

「あ、僕と同じ」

「そうだね。俺たちは似ている。で、俺も何がいいのか、何が悪いのか知らないまま、最初の車体を手にした。それが、フィニスだ」

 SHINEWOODというメーカーは、実は正体不明の会社だ。どこの国に本社を置く、どのような製造を行っているメーカーなのか全く分かっていない。デスペナルティと同じ、こうして話ができるのに、それ以上の何も分からない相手。

 販売店も実店舗がなく、返品もアマゾンや楽天が代行する。修理サポートもなく、組み立ても説明書なしで客に任せるという、ルックバイクの中でもとりわけ特殊な部類に入る。


「なあ、空君。『デスペナルティさんは、どうやって自分の自転車と出会ったんですか?』って訊いてくれ」

「え?ええっと……デスペナルティさんは、どうやって自分の自転車と出会ったんですか?」

「よく訊いてくれたね。それじゃあ、俺の正体に迫る話をしようか」

 言わせておいて大仰に、本当にどこまでも芝居がかった仕草で話をする。

「俺にはね。いい友達が『いた』んだ。その彼は、自転車が好きだった。俺はまだ自転車に興味が無くて、でも……彼と走りたくてね……




 ――数年前。


「なあ、母さん。俺に自転車を買ってくれよ。マウンテンバイクだ」

 デスペナルティ――後にそう名乗る少年が、母親に持ちかけた。

「だめよ。あんたの自転車はあるでしょ」

「小学生の頃のじゃないか。さすがにもう乗れないって」

「じゃあ、ご近所からお下がりの自転車でも貰ってくるから、それで我慢しなさい」

「オンボロのママチャリが来るだけじゃないか。俺が欲しいのはマウンテンバイクなんだよ」

 無茶を言っているのは分かっていた。家は貧しくて、あまり贅沢なことは言えない。母だって、パートで家計をようやく支えている状態だ。

 そんな中、少年に助け舟を出したのは父親だった。

「そういえば、最近はネット販売でも自転車が買えるらしいな。ああ、これなら2万で売ってるぞ」

「あら?本当?」

 それでも、少し高いと感じる両親。だが、

「それでいいよ。俺、大事に乗るからさ」

 普段はわがままなど言わない少年が、ここまでねだるのも珍しかった。もうすぐ誕生日という事もある。それなら……

「わかった。誕生日プレゼントという事で買ってやる。それならいいよな。母さん」

「え?ええ、お父さんがそう言うなら、いいんじゃない」

 そうやって買ってもらったのが、フィニスだった。

 そこからは、いろいろと頑張った。何しろハンドルが組みつけられていない状態で届いたんだ。説明もないまま、よく解らないままにハンドルを取り付けた。六角レンチなんか初めて使ったよ。

 それでも正常には動かない。リアのインデックス調整や、ブレーキの片利き調整を繰り返して、ほぼ独学でがむしゃらに整備した。

 そして、友達とのサイクリングの日がやって来た。

 少年はピカピカのフィニスを自慢したくて――


 ――やあ、茜ちゃん」




「え?茜?」

 空が振り返ると、そこには茜が立っていた。デスペナルティは自分の過去話(まるで他人事のようだったが)を切り上げて、茜に手を振る。

「おい、空に何してんだ」

 デスペナルティを見るなり、茜の顔が歪む。無理もないだろう。そのくらい嫌われることを、彼はしでかしている。

 しかし、本人は至っておどけた様子で両手を広げた。

「今、空君に俺の昔話をしていたところなんだ。丁度ここからいいところなんだけど、茜ちゃんも聞くだろう?」

「聞かねぇよ。誰がテメーの話なんか聞くか!」

「……えっと、僕が聞いてた」

「なあ、空。ちょっと黙っててくれ」

 空を押しのけて間に入った茜は、デスペナルティと至近距離で睨み合う。いや、睨んでいるのは茜だけで、相手は内心、そんな茜を可愛いとさえ思っていた。だからこそ、やはりおどけて見せる。

「くぅーははは。茜ちゃん。せっかくの美人が台無しだぜ?そんなに眉間にしわを寄せるなよ」

「黙れ。アタイの前に顔を出すな」

「出さないようにしているじゃないか。ほら、仮面だよー」

「そういう事じゃねぇよ!ああー、もうペース狂うな」

 茜が後ろ頭を掻く。ひっつめ髪が乱れる原因になる動作だが、どうもやめられない。それを見て、デスペナルティがスッと立ち上がった。

「っ!」

 殴られるか……と身構えた茜の横を、デスペナルティがすり抜けていく。

「あーあー。俺はどうやら茜ちゃんに嫌われているみたいだなあ。仕方ない。大人しく退散するかな」

 くーるくる、とその場で無意味に左回り、右回りを一回点ずつ。意味のない動作の中、空たちに正面を向ける。

「空君。俺の話はまた今度、生きてたらね」

「え?あ……はい」

 その様子に、何となく茜も警戒を解く。少なくとも今は、彼から危害を加えられることは無いと思ったからだ。とはいえ、不機嫌は顔に張り付いたまま。

「ああ、そうだ空君。俺の自転車はどう思う?」

「え?」

 急な質問だった。自転車の事をまだ詳しく分かっていない空は、他人の車体にまで口を出せる程の知識は無い。自分の車体はともかくだ。

「えっと、分からないです」

「そっか。茜ちゃんはどう思う?」

「がらくた同然のルック車。安かろう悪かろうの出来損ない……と、思ってたんだけどな。最近、考え方が変わったよ」

 茜はそっと目を閉じて、それからしっかりとデスペナルティの顔を見る。まっすぐに、睨むよりも強く、見つめるよりも冷たく。


「アタイは、あんたの自転車を馬鹿にはしない。ただ、馬鹿に乗られて可哀そうな自転車だと思ってるよ」


 車体ではなく、乗り手に対する罵倒。さすがにデスペナルティも怒るかと、空はそう思ったが、

「くっはははっ、そっかそっか。茜ちゃんも、物が見えるようになってきたじゃないか」

 なぜか嬉しそうに喜んだ彼は、それから3歩で茜に近寄る。それこそ、時間にして数秒。体感的にはもっと早い、流れるような動作だった。

「俺は嬉しいぜ。ただ、まあそれでも潰すんだけどね。君たちの車体を、さ」

 頭一つ分とまでは言わないが、高い目線から睨まれる茜。

「な、アタイがお前なんかに……」

「潰されない?追いつかれるわけがない?……それは寂しい考え方だなぁ。俺は現に、青森から一緒にスタートして、ここまで追いついてきているじゃないか。なあ?」

 茜が1歩下がるが、デスペナルティが1歩進む。さらに2歩下がる茜と、付き合うように2歩進むデスペナルティ。

「ところで茜ちゃん。明日の朝は何時からレースに復帰する?」

「あ?なんで……」

「俺も一緒に走りたいからさ。待ち合わせでどう?……まあ、俺が先に起きてたら、君たちが出てくるのを待ってるけどさ」

「なっ!?」

 空と茜は、この時になってようやく気付いた。同じ場所に宿泊するという事は、再スタートでの遭遇確率が上がるのだ。それはつまり、明日の朝すぐに彼と戦うという事だ。ここで言う戦いとは、決して速さを比べる競争ではない。

「ねえ。明日の朝食は何を食べようか?俺が奢ってあげるよ。最後のご飯になるだろうからさ。あ、最期のご飯かな?」

 茜の顔から、血の気が引いていく。必死で眉根を寄せて、せめて睨むような表情だけは作る。それが精いっぱいの虚勢であることは、誰の目にも見えていた。

「あれれー。茜ちゃん。どうしたの?口元が震えてるぜ。寒いの?」

「黙れ。アタイがいつ震えたってんだ」

 3歩下がる茜に、3歩近づくデスペナルティ。さらにもう1歩下がる茜に、続けてもう1歩――

「――?」

 近づこうとした時だった。彼の袖が、何者かに掴まれた。後ろから、摘まんでいるだけではあるが、確実に。

「あれー?どうしたの、空君」

 掴んでいたのは、空だった。

「これ以上、茜を困らせないで」

「おー、なになに?お姫様を守る騎士様みたいな感じかな?カッコイイー」

 茶化して、ついでに空の手を振りほどこうとする。いつものように大仰な仕草で、両手を広げて見せるついでに、

「……?」

 振りほどこうとしたその手は、しかし外れなかった。よほどしっかり握り込んでいるのだろう。

(へえ……空君、本気で俺を止める気なんだー)

 意外と言えば、とても意外だった。何しろ付き合いの短いデスペナルティから見ても、空はどちらかと言えば助けてもらう側だろうと……茜のお荷物程度にしか考えていなかったからだ。

(うーん。面白いけど、これはこれで気分が悪いな)

 そう思ったデスペナルティは、掴まれた袖と逆の手を使って、空を殴る――


「ひゃっ――!!……?」

「くっ……くっははははぁ」


 ――寸前、ぴたりと拳を止めた。

 空の前髪に当たった拳が、鼻の頭に触れるか触れないかの距離まで来て止まる。そこから一瞬遅れて、空が後ろに飛びのいた。その拍子にバランスを崩し、尻もちをつく。

「くははは。ナイスリアクション。ちょっと反応が遅かったけど、面白かったよ」

 倒れた空を跨いで、

「それじゃ、お休み」

 今度こそ、彼は退散する。


「だ、大丈夫か?空……」

 茜が駆け寄ってきて、手を差し伸べた。空はその手を取ろうかどうしようか迷って、結局握る。茜がしっかりと力を入れたのを確認して、しかしなるべく脚の力だけで立ち上がった。

「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ。寸止めだったよ」

「そうか。背中とかは?」

「それも大丈夫。ちょっと痛いけど」

 おそらく、怪我はない。あったとしても、翌日のレースに影響するほどではないだろう。だから大丈夫だ。

 しかし、

「こ、怖かった……デスペナルティさん、何をするか分からないんだもん」

「あ、ああ。そうだよな。やっぱり空も怖かったのか」

 さっきまでの勇ましさはどこへやら……茜の目の前にいたのは、いつもの空だった。肩をすくめて、小さく体を丸めた少年だ。

 ただ、それを責める気にはならない。茜だって実は怖かった。

(自転車に乗っていれば、こんなに怖くないのにな……)

 茜自身が分かっているだろうが、自転車で鍛えた筋肉や反射神経は、基本的にそれ以外で応用が利かない。まして体重が軽いのは、ロードレースでは有利でも、喧嘩では不利だ。

 それと、もう一つ。これは茜も気づいていないだろうが、彼女は自分の勝てる分野でしか強気にならない。

 自転車に乗っているときの彼女が勝気なのは、それだけ自転車に自信があるからだ。昼間、ミハエルと勝負するのが怖かったのは、一度負けていたからだった。

 それは、空もまだ気づいていない事だった。




(それにしても空君、ずいぶん漢らしくなったと言うか……まあ、袖を掴んだのは可愛かったかな。俺なら腕ごと掴んで捻っちゃうし)

 ブースを変更し、個室をとったデスペナルティは、そこで初めて仮面を脱ぐ。さすがに、少しくらいは外す時間が欲しい。

(さて、さすがに俺も不眠不休って訳にもいかないよな。少し早いけど、そろそろ寝るか)

 ごろりと横になる。PCを使って、ミスり速報の動画チャンネルを再生しながら、ゆっくりと眠りに落ちていく。

(今日も一日、楽しかったね。明日はもっともっと楽しく壊せるよね。フィニス……)

 今夜はどんな夢が見たいか?そう聞かれたら、こう答えるだろう。

(フィニスがみんなに認められて、素晴らしい自転車だと称賛される。そうとも。俺の愛車は素晴らしいんだ。みんなの自転車も、本当は素晴らしいんだぜ)

 それこそ、彼が出場する理由。そして、実現するべき夢。そのための犠牲を、彼はいとわない。




『さあ、チャリンコマンズ・チャンピオンシップも、記念すべき11日目に突入しております。今日の午前2:00を持ちまして、大会も折り返しですねぇ。もちろん選手の皆さんも、折り返しを越えた人が多いですよぉ。完走を目指して頑張ってくださいねぇ。

 早朝から走り出したのは、噂の中学生コンビですぅ。昨日は寝たのが早かったんでしょうかぁ。まだ日の出前の寒い時間帯ですが、既にコースに復帰していますよぉ。

 遅れること10分。デスペナルティさんもコースに復帰しましたねぇ』


 ミス・リードの元気な声が、イヤホンから響く。いったい彼女はいつ寝ているのだろうか?とは、もはや誰もが考察を投げだした話題だ。

「よし。とりあえず10分も差が開けば、奴も追いついてこないだろう」

「でも念のために、速度を上げた方が良いんじゃない?」

 昨日のやり取りから、待ち伏せなどされても困ると考えた二人。悩んだ末に出した結論は、睡眠時間を削ってでも早朝に出発するというものだった。デスペナルティを置いてけぼりにする作戦だ。

「このまま、あいつの興味が他の選手に移るまで逃げるぞ」

「うん。でも……眠いね」

 早朝とは言えど、夜明けはまだ先だ。よくよく見れば雲が色づき始める程度の時間。

「なあ、空。昼に休憩時間を長くとって仮眠するのと、夜まで走って早めに寝るのと、どっちがいいと思う?」

「え?……あー、僕はレースの事とか、よく解らないから」

「アタイだってレース経験はないよ。じゃあ……どっちが好きだ?」

「え?それなら、お昼寝の方」

「よし。決定だな」

 茜が言って、空が頷く。ただ、今はひたすら逃げる。

 レースというのは不思議だ。逃げるという言葉が、そのまま勝利を意味する。逃げ勝ち――そんな言い方が頻繁に使われる競技など、レースを除いて他にないだろう。

(頑張ろうね、エスケープ。僕らには、きっと僕らなりの戦い方があるから)

 戦いから逃げ続けてきた空は、ひたすらデスペナルティから逃げる。壊し屋を相手にしてやらない。それが唯一、デスペナルティに勝つ方法だと信じて。




(あーあ。しくじった。まさかこんなに早く起きるなんてね)

 想定外の事態に、慌てて出かける支度をしたはずのデスペナルティ。だが、その頃には空たちとの距離が、大きく引き離されていた。

 それでも、彼は諦めない。愛する自転車、たった一台のために――

(頑張ろうね、フィニス。俺らがすべての自転車を、終わらせてやろう)

 必死で空たちを追いかける。その視界の端に、別な自転車が見えた。有名ブランドであるJAMISのRENEGADE EXPATだ。

(ああ、その前に、あれでもいいな)

 新たな標的を見つけた彼は、再び殺戮を繰り返す。それが唯一、愛車のために出来ることだと信じて。

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