第39話 主従関係とランドナー(前編)

『さあ、大会も13日目に突入ですねぇ。昨日の大番狂わせもありましたが、現在の一位は再びエントリーナンバー001 アマチタダカツ選手ですぅ。圧倒的な強さ。そして圧倒的な速さ。昨日のお酒も残っていない走り方ですねぇ。

 一方、お酒が抜けないのはエントリーナンバー003 風間史奈選手。今日は休むと律義に連絡してきましたよぉ。現在では迎え酒を飲んで二日酔いと戦っているご様子ですぅ。

 一方、噂の中学生コンビ、空さんと茜さんはようやく自転車屋さんをスタート。まだ眠そうな様子の茜さんですが、夕べは空さんに寝かせてもらえなかったんでしょうかぁ?』


「いや、僕は大人しく寝てたんだけど……」

 と、つぶやく空。しかし凸電機能を使っているわけでもないそれは、ただの独り言でしかない。

 隣にいる茜も、今日は眠いのか反応なしだ。時折ふらっとハンドルを傾け、そのたびに頭を上げては車体を立て直している。

「だ、大丈夫?茜」

「ああ、大丈夫だ。ちょっと寝不足と……ふわぁぁ。あ、生理のせいで調子が出ないだけだよ」

「まあ、僕も軽く寝不足だけど……っていうか、その、えっと、生理に関しては、その――」

「ん?ああ、空は眠くならないタイプか」

「僕は来ないんだよ!?」

 ときどき不安になるが、男子として見られているんだろうか。と思う空であった。

「とにかく、眠いなら無理して走らない方がいいよ」

「んー……アタイは大丈夫だ。そんなことより、レースの方が大事だろ」

「茜の方が大事だよ……うーん」

 空が、自分のエスケープに取り付けられたキャリアバッグを漁る。ハンドルを左手だけで持ち、左ペダルに両足をかけるような姿勢。勢いだけで茜と並走しながら、ごそごそと……

「うーん。眠気覚ましになりそうなのは、ないなぁ」

 着替えやアメニティが入ったそのバッグの中身は、風邪薬や頭痛薬も入っていたが、眠気覚ましは入っていなかった。まして生理に効く薬など入っていない。

 いっそ落車でもすれば目が覚めるか……と蛇行する茜に顔を向けようとしたとき、


「おぉい!なにか困っているのか?」

 ロードバイクに乗った大男が、声をかけてくれた。

 大きなサングラスに、くわえ煙草。ノーヘルメットで天然パーマのショートヘア。ダボついたトレーナーシャツを着ている。少し威圧感のある男だった。乗っている車体は、丸石サイクルのEMPERERエンペラー Touring Masterだ。

 と、その後ろから、さらにもう一台が近づいてくる。こちらはARAYA  SWALLOWスワロー Randonneurに乗った、小柄な青年だ。

「皇帝様。そちらの方々は、もしかして『噂の中学生コンビ』ではないかと存じます。我らの前に立ちはだかる敵選手でございますが、いかがいたしましょうか?」

 丁寧さより卑しさを際立たせる言葉遣いの男だ。顔立ちはフードに隠れて分からない。ロングコートとジーンズで黒一色。まるで影のような人物だった。

 そんな彼に『皇帝様』と呼ばれた大男は、まるで怒鳴るようなエッジボイスで言う。

「チビ助ぇ!困ったときは敵でも助ける。それが俺たち『ランドナー旅団』の掟だろうが!」

 皇帝が、空に自転車を近づけた。危うくぶつかりそうになった空は、バランスを崩す。


「あ……」


 転ぶ。そう思った時――

「あぶねぇ!」

 急ブレーキをかけた皇帝が、手を差し伸べる。とっさに袖を掴まれた空は、強引に引き戻された。二人は自転車のトップチューブを跨いだまま、すとんと地面に足を着ける。

「……!?」

 気づけば空の目の前に、皇帝の顔があった。おでこがぶつかりそうな距離。そのまま皇帝は、空に言う。

「大丈夫か!?怪我は!」

「あ、だ、大丈夫……です」

 サングラス越しに、皇帝の目が見える。切れ長の一重瞼から覗く瞳は、まっすぐ空の目を見ていた。それが空の目を射抜く。

 恐怖とも恥ずかしさともとれる感情が、空の身体を硬直させた。もしこのまま引き寄せられるにしても突き放されるにしても、抵抗できない。本能がそう感じさせる男であった。


「ところで、噂の中学生コンビの片翼。空様であるとお見受けいたします。先ほどはバッグの中身を気にしておりましたが、何かお役に立てることがありますでしょうか?」

 黒いフードを目深にかぶった青年(チビ助と呼ばれていた)が、空に再び声をかけた。

 空も思い出したように、茜を見る。彼女はやはり眠いようで、ふらふらとUターンして戻ってくる。

「あ、えっと、じつは――」



『おやぁ?空さんと茜さんに、ランドナー旅団のお二人が接触しましたねぇ。

 エントリーナンバー324 皇帝・ディオニシウス選手。空さんに衝突――いえ、近づいたときに空さんが驚いて転んでしまったようですぅ。それを助け起こしていますねぇ。

 一方、エントリーナンバー325 名無し選手。ディオニシウス選手の停車を確認して戻ってきます。やや遅れて茜選手も旋回。ああ、相変わらずふらふらしていますねぇ。昨日は激しすぎて腰を痛めてしまったんでしょうかぁ?

 空さん。初めての時、女の子は痛いんですから、手加減してあげてくださいねぇ』



 何をどう手加減すればいいのか分からなかった空は、ミス・リードの話を聞き流しながら、

「――というわけです」

 目の前の大男――ディオニシウスに状況を説明していた。さすがに茜が生理なことは伏せて、ただ寝不足だと説明する。

「そうか!分かった。なら助けてやろう。おい!チビ助!」

「はい。皇帝様」

 ディオニシウスが名無しを呼ぶ。すると、名無しは自らの自転車に取り付けられたパニアバッグを漁り、すぐに戻ってきた。

「眠気覚ましには、こちらが良いかと思います。味などに抵抗がなければ、お納めください」

「あ、ありがとうございます」

 眠いのを打破できると噂の、小さな小瓶に入ったカフェイン高配合のドリンクだった。

(生理中にカフェイン。大丈夫かな……)

 と、少し心配した空は、とりあえず判断を本人に任せる。つまり、

「茜。飲める?」

「おう。サンキュー」

 気軽に受け取った茜は、それを一気に飲み干した。そして……

「うわっ、不味い。苦っ!そして甘っ!?……これ人間の飲むもんかよ。ああ、でも目が覚めたぜ。ありがとうな。さすがカフェイン」

 急に元気100倍といった表情になると、目をひと擦り。さっと目やにを取り、にかっと笑う。

 その様子を見て、ディオニシウスは満足そうにうなづいた。

「そうだろうそうだろう!これが、カフェインの力だ!」

「さすが皇帝様。このとおり、茜様がお元気になられました。ああ、皇帝様の奇跡でございましょう」

 と、名無しも続く。

「……いや、あの、カフェインにそんな即効性、あったっけ?」

 空だけがこの状況に納得がいかないが、本人たちが喜んでいるならまあいいかと思うところだった。

 ――ちなみに生理中のカフェイン摂取は本当は良くないらしい。諸説あるが。




 再び自転車を走らせた4人は、体力を温存するためにペースを落としていた。4台並んでも静かなペダリングの音……そんな中、ディオニシウスの声だけが大きく響く。

「こうして助けたのも何かの縁だ。お前たちは俺のファミリーだな!ようこそ、ランドナー旅団へ。歓迎するぞ!」

「は、はぁ……どうも」

 空が適当に相槌を打つ。いつの間にやら、そのナントカー旅団のメンバーに加えられてしまっているらしい。

「改めて、自己紹介しよう。俺は皇帝・ディオニシウス。俺たちはもう親友だからな。ディオと呼ぶことを許してやる!がっはっは」

 ディオニシウス……改めディオが言えば、それに名無しも続く。

「わたくしめは、名乗るほどの名前を持ち合わせておりません。どこかでわたくしの名前を呼ぶ際は『ディオ様の下僕』と……わたくしめに直接の用事がある際は、こちらを向いて『おい』とでも呼んでくだされば、即座にお返事いたします」

「え?そ、そんな……」

 空が戸惑う。誰かを指して「おい」などと呼んだことは一度もない。茜が時々やっているし、誰かがそう呼ぶのは気にならないのだが、いざ自分がそうするとなれば抵抗があるのだ。

 そう思って黙っていれば、ディオが助け舟を出す。

「こいつのことは『チビ助』とでも呼んでやれ!俺はそうしている。なあ?チビ助!」

「はい。光栄にございます」

 どうやら、チビ助でもいいらしい。

「えっと、御堂 空です。よろしくお願いします。ディオさん。チビ助さん」

「アタイは茜だ。さっきはありがとうな」

 茜はまっすぐ前を見ながら言った。調子が出てきたと言えども、まだ普段通りの走りができない。どころか、眠気が無くなったのと引き換えに腹痛がやってくる。

 とりあえず、横を向くだけの安定感が得られない。車体の調子がいいだけに、もったいない状況だった。


 一方、空は悠々と横を向き、ディオとチビ助を――正確には、その二人が乗る自転車を見る。

「ロードバイクですか?荷物がいっぱい……」

 そう聞けば、ディオニシウスはにやりと笑った。

「おお、よくぞ聞いてくれたな!これぞ『ランドナー』だ!レース用のロードレーサーバイクと違って、ランドナーとは旅する自転車だからな。荷物を多く取り付けられるように、フレームが頑丈に作られているというわけだ!」

 やはりこの男も、自転車語りが好きらしい。自慢げに各部品を指さしながら、得意げに解説してくれる。

「前輪、および後輪の上にはキャリアー。そこから左右にぶら下げられたのはパニアバッグだ!車輪に巻き込まれないよう、しっかりとベルトで固定してある。この位置にあるため、重心が低くてバランスを保ちやすい!」

「わぁ。凄いですね。えっと、えっと、僕の自転車にも取り付けられますか?」

 空も来年から(多分)高校生である。自転車通学を考えるなら、教科書などを積んで快適に走れる装備は欲しい。だが、

「……無理だろうな。お前のクロスバイクには、そもそも頑丈なパニア用キャリアを取り付けるだけのネジ穴がない。仮に穴があったとしても、取り付け可能な強度もないだろう。細いアルミフレームじゃ耐えられないからな。やめておけ!」

 期待はバッサリと切り捨てられた。

 エスケープのフレーム強度は、せいぜいロードバイクよりやや高い程度。茜のシクロクロスと比べてももちろん、ランドナーと比べても弱いだろう。


「あれ?でも、ディオさんの自転車も細いですけど?」

 むしろ、ディオの方が細いフレームを使っている。モスグリーンのクラシカルなそれは、円筒形の鉄パイプをつないだだけの見た目だ。

「おう!俺のエンペラーは、クロモリ合金の車体だからな。アルミみたいな脆弱なものとは違うんだ!がっはっはっは!」

 大口を開けて笑うディオは、とても楽しそうである。

(クロモリ合金……たしか、綺羅様も使ってた素材、だったっけ?)

 と、空は思い出す。

 クロムとモリブデンを、スチールに混ぜた合金だ。アルミより比重は重いが、非常に粘りがあり頑丈であるため、細くても十分な強度を誇る。

 その乗り心地の違いから、他のハイテンションスチール合金と区別するためにつけられた名称が『クロモリ』だ。ちなみに、スチールの比率が最も高いので、正式にはスチール合金なのだろう。マンガンなどを混ぜていてもクロモリ扱いされる場合もある。




 4人の目の前に、上り坂が迫る。それを見て真っ先に腰を上げたのは、茜だった。大して長い坂ではない。平地で勢いをつけて、一気に登ろうという魂胆だ。

 急激にトルクをかけ加速。その直後に変速ギアを落として、ケイデンスを上げていく。


 カチ、カチ、カチ……


 デュアルコントロールレバーが、子気味よく音を立てながらギアを刻む。空も同様に、ギアを下げた。

「むおっ!そうか。上り坂か……」

 反応が遅れたディオは、ハンドルから手を離す。そして、ボトムチューブ横に取り付けられたダブルレバーに手を伸ばすと……


 ガガガガッ!


 一息に4段、一気に変速する。まるで山を駆け下るように落ちるチェーン。大きく変形するプーリー。

「え?今のは?」

「ダブルレバーか。古風なものを付けてんな」

 茜がつぶやいたのを、ディオは聞き逃さなかった。

「はんっ!古風でよいのだ。小難しい形状の機械は嫌いでな!これぞ俺にふさわしい!」

「さすが、皇帝様です」

 チビ助も同じように、ダブルレバーとやらを引く。こちらは6段ほどを、やはり一気に変速した。

「ダブルレバー……って?」

「ああ、空は知らないのか。アタイが使っているみたいな、ブレーキレバーで変速ギアを操作する方式を、デュアルコントロールレバーって言うんだ。それが開発される前は、ギアだけを操作するレバーがふたつ、フレームの横についてたんだよ」

 茜が少しずつ調子を取り戻したように解説する中、ディオが続けて補足する。

「そのデュアルコントロールレバーの弱点は、複雑な構造だ!俺たちのダブルレバーは、もしケーブルが切れても修理が簡単だ。なにしろ、インデックス調整もなにもないからな!」

「これぞ、フリクションの良さですね。さすが皇帝様」

 フリクション方式のレバーは、適当に引けば大雑把な変速ができるというアナログな機械だ。だからこそ、インデックスの難しさはない。


「そういえば、茜のギアケーブルが切れた時は大変だったね」

 と、空が思い出す。あの時は一晩かけても修理できず、とうとう翌朝まで野宿してしまったのだった。

「ああ、タイコ付近から切れると、詰まっちまうからな。みのりさんが来なかったら、アタイら本当にどうなってたことか……」

「……え?あ、う、うん。そうだね」

 空がなぜかケイデンスを上げて、前に出る。みのりの話が出たとたん、何やら恥ずかしそうである。

「ん?空。みのりと何かあったのか?」

「ない。何もないよ」

 すいーっと速度を上げていく空。その後ろに、茜がぴったりくっついた。

 このトレインも、低速であれば自然にできるようになったものである。大会始まったばかりの頃は、衝突しそうで危なっかしかったというのに。




『うーん。やはりランドナー旅団のお二人は、競争にはあまり積極的じゃないですねぇ。

 茜さんと空さんが絡んだなら、ここは勝負になるかなと思ってましたが……なんか4人で仲良くダブルデートになっちゃってますぅ。

 おや?それよりも後続が面白いですかねぇ?

 ストラトス選手がバッテリ充電を完了したようですよぉ。現在、鹿番長選手とデッドヒート。何やら口汚い罵り合いが聞こえてきますぅ。お二人とも、競争するなら私が実況しますし、溜まっているなら私がオカズになりますよぉ?』




 ミス・リードの言う通り、平和に4人で走っていた。勝負事を嫌う空は、実を言えばこういう日の方が心地いい。

「おい。チビ助!」

「はい。お待ちを――」

 阿吽の呼吸とでもいうのだろうか、ディオが声を張り上げると、チビ助はブレーキをかけて停止した。

 しかし、ディオは止まらない。

「え?えっと、チビ助さん、どうしたんですか?」

「おお、空よ。気にしなくていいぞ!すぐに追いついてくる」

「で、でも……」

 空がミラーで後方確認すると、どうやらチビ助はパニアバッグを開けているようだった。走りながら開けるには不向きな場所にあるため、どうしても止まって使う必要がある。

 と、そこから何かを取り出したチビ助は、それらをビニール袋に詰めて再び走ってきた。おそらく本気のスピードだ。

「ぜぇ……はぁ……お、お待たせいたしました」

 追い付いてきたチビ助が息を切らせる中、ディオは大仰に両手を広げる。もちろん、走ったまま。

「おお、よくやった!さあ、空!茜!ここらで走りながらティータイムにしよう!遠慮することはないぞ!」

 ディオに言われるまま、チビ助は全員分のミルクティーを取り出した。1月の気候も相まって程よく冷えている。

「あ、ありがとうございます」

「サンキュー」

 空と茜が礼を言う。当然、チビ助に対して、だ。しかし、

「気にするな!俺たちは仲間だ。さあ、お菓子もあるぞ!」

 当然のように、二人の礼を受け取ったのはディオだった。そのお菓子も、やはりチビ助の手から渡されるが、ディオが差し出したような空気になっている。

 まるで――


「まるで、チビ助さんを子分みたいに扱うんですね。ディオさん」


 空がつぶやいた。独り言のつもりだったのか、それとも明確にディオに聞こえるように言ったのか、それは分からない。空にしても、聞こえればそれでいいし、聞こえなくても構わないくらいのつもりで言ったことだった。

 が、聞こえてしまった。

「おい!人聞きが悪いと思わないか?空。俺たちは仲間だぞ!助け合うのはおかしなことじゃないだろう!」

「ひっ」

 ディオが腕を振る。その手が顔に当たりそうになって、空は驚いた。もっとも、ディオは殴るつもりもなく、ただ大きなジェスチャーをしただけだったが。

「ご、ごめんなさい」

 空が反射的に謝る。すると、ディオは鼻を鳴らした。

「分かればいい!空もランドナー旅団の仲間だからな。許してやるのが仲間だ!俺は空を許すぞ!」

「さすが皇帝様。お心が広い」

 チビ助がディオにも紅茶を差し出せば、ディオはそれを乱暴に受け取る。

「まあ、空も遠慮なく、何か困ったことがあればチビ助を頼れ。遠慮はいらん!家族だと思ってどんと来い!」




 ――どれほど走っただろうか?

 気づけば日が落ちかけていた。ディオの腹が鳴る。

「おお、そういえば、昼飯を食い損ねていたな。よし、ここらで飯にするか!」

「はい。皇帝」

 さすがに、食事まで走りながらではない。ミス・リードに連絡したチビ助は、ほどなくして何軒かのレストランを候補に出させる。

「茜。僕たちはどうする?」

 空が訊けば、茜は手を振った。

「悪いがパスだ。今日は食欲もなくてな。アタイはもう少し走りたい」

「そっか」

 ディオとの会話は楽しい時間だったが、残念なことにここでお別れのようだ。

「じゃあ、ディオさん。僕たちはここで失礼します。とても楽しかったです。また会えたら……」

「おい、待て!」

「……え?」

 そのまま走り去ろうとした空の前に、ディオが突っ込んできた。そして、ブレーキをかける。

 空がよけようとすると、ディオはさらにその方向にハンドルを切った。行く先を失った空は、転びそうになりながら地面に足を着く。

 その手を、ディオに再び引っ張られた。まるで、初めて会ったその時のように……

 違いがあるとしたら、今度のディオの表情は、


「誰が、俺たちから勝手に離れていいと言った?あ!?」


 怒っていた。

「え?いや、あの……」

 たじろぐ空に、ディオが顔を近づける。そして、唾を飛ばしながら言う。

「俺たちは家族だ!一緒に飯を食って、一緒にゴールを目指そう!大丈夫だ。別に飯をおごれと言っているわけじゃない。金がないなら安いところを探させてやる。安心しろ!」

「え?ええ?」

 空がたじろぐ。

 そこに、茜とチビ助も自転車を降りて、間に割って入った。

「待て。アタイは食欲ないんだ。今日はずっと体調が悪くてな。それに、アタイは完走を狙ってるんじゃなくて、優勝するつもりでいる。ずっと一緒は無理だぜ」

「皇帝様。茜様もこのようにおっしゃられておりますし、食事は我々だけで――」

「チビ助は黙れ!」

「は、はい。申し訳ございません」

 チビ助が慌てて頭を下げたが、ディオの怒りは収まらないらしい。キックスタンドを立てたディオは、ついに自転車から降りて、チビ助の頭を押さえる。

 もっと、もっと低く頭を下げるように、と。

「チビ助!俺たちは今日から家族みたいなもんだ。だったら、俺が腹減ったと言ったら一緒に飯を食う!そうだよな?」

「は、はい」

「茜は食欲がないそうだ!チビ助。さっさと軽食もあるレストランを探せ!」

「はい。ただいまミス・リード様に聞いてまいります」

 ディオの手をするりと抜けたチビ助は、スマホを取り出して凸電機能を使った。

 一方、ディオは茜に向き直ると、再び口角を上げる。


「いや、取り乱して悪かったな!うちのチビ助は気が利かない奴だ。茜が食欲ないと言うなら、それに合わせてやればいいだけだろうにな。さあ、これで問題ないだろう!一緒に飯だ!がっはっはっは」


 そう言って、茜の肩に手を回す。意外と華奢な茜の肩が、小さく跳ね上がった。

 しかしお構いなしに茜を引き寄せた彼は、続いてもう片方の手で空の肩も掴む。

「ひゃっ!」

 そのまま空も手繰り寄せると、あっという間に3人で肩を組む姿勢に持ち込む。大柄なディオにとって、小さな空の身体など簡単に引き寄せることができた。

 空の手を離れたエスケープが、ガシャリと音を立てて倒れた。

「そうだ!ついでに宿も決めるか。おい!チビ助。ここから数十キロ先で、どこかホテルでも予約しろ。二人部屋を二部屋でいいぞ!」

「はい、皇帝様。それでは皇帝様とわたくしは一緒の部屋として、空様と茜様はいかがいたしましょう?……年頃の男女ですので、一人一部屋でとるべきかと……」

 おずおずとチビ助が進言する。その電話の向こうではミス・リードが『おやぁ?空さんと茜さん、大人の階段を上るんですかぁ?』などと冗談めかしていた。

 しかし――


「違うな!せっかくだからお互いに親睦を深めるため、ペアを入れ替えよう!チビ助は空と一緒の部屋。俺は茜と一緒の部屋でいいだろう?」

 ディオはあっさりそう言ってのけた。

「――なあ、ディオさん。アタイの意思は無視か?」

「ん?なんだ?何かあるなら言ってもいいぞ!なんなら今晩はいくらでも語れる時間はあるだろう!」

「……じゃあ、言うけどさ」

 言葉と裏腹に、茜は視線をそらした。ディオに言わなきゃいけないのに、まるで地面にでも話をするように――


「さっきからお前の手、アタイの胸に当たってんだけど、どかしてもらっていいか?」


 その、茜の言葉に――

 頭に血が上り――

 ついカッとなって――

 暴力に訴えてしまった

 のは……


 空だった。


 二人の間に手を差し入れた空は、引きはがすように割って入る。本当は、ディオを突き飛ばすつもりだった。ただ体重や脚力の差から、茜をより遠くへ飛ばしてしまう。

「そ、空……?」

 転びそうな姿勢から踏みとどまった茜は、空を見た。その空は、見たこともない表情でディオを睨んでいる。

「おい!空。なんのつもりだ?俺に文句でもあるのか?ああ!?」

 ディオも突然のことに、驚いているようだった。半身で一歩下がりながら、空に警戒する。

「ディオさん。茜には触らないでください。いくら今日から友達でも、その……とにかく、やり過ぎだと思うんです」

 セリフ自体は締まらず、また態度もはっきりとした拒絶とは言えない空。しかし、その目は真剣だった。ディオのサングラスに隠れて見えない目を、しかしまっすぐに見つめて逸らさない。

「おいおいおいおい。いくら仲間になったって言っても、俺に対して何だその態度!ふざけんのもいい加減にしろよ!」

 ディオが叫ぶが、空はひるまなかった。その様子を、茜もチビ助もかたずを飲んで見守っている。

 と、この会話を聞いている人物がもう一人いた。


『おやおやぁ。女の子を取り合って喧嘩ですかぁ。うーん。私が茜さんの立場だったら、このまま3Pで楽しんじゃいますねぇ。気持ちよくしてくれた方が勝ち。とか言いながら、最後は壊れちゃうんですけどぉ……

 と、冗談はさておき、これはレースの予感ですよぉ。空さんとディオさんが、茜さんをめぐって自転車で勝負。もちろん私も見たいですぅ』


 チビ助のスマホ越しに、だいたいの会話を聞いていたらしいミス・リード。

「勝負か……そりゃいいな!そろそろ俺の力を、お前らに見せないといけないか!仲間に信用してもらうためにな!」

 乗り気になったディオが、歪んだ声で怒鳴る。

「勝負……」


 ――勝負。それは、空が嫌いなこと第1位で間違いない。だからこそ、茜は理解していた。

(空はそんな挑発に乗らないだろう。やるならアタイが受けるか、あるいはペア戦で空をアタイのサポートにするか……もしくはこのままトンズラだな。正直、これ以上こいつらと話しても、らちが明かない気がしてきた)

 そう思って空の前に出ようとする茜だが、一歩を踏み出したときにやってきたのは強烈な吐き気だった。

(なんだ?胃もたれか……って、そんなわけないか。こりゃあれだな。今日はアレだからな……)

 カフェインの影響もあるのか、はたまた本気で走っていないせいで体が冷えたのか。なんにしても、勝負で勝てる気がしないコンディションである。

 そんな状態だったから、茜は空の言葉を聞いたとき、幻聴かと自分の耳を疑った。


「僕が勝ったら、茜に触ったり、乱暴なことをしないでください」

 あの空が、自分から勝負の条件を突き付けている。

「いいだろう!空が勝ったら、茜に指一本触らないさ。俺が勝ったらどうする?茜をそのまま差し出すか?」

「……いえ。僕の勝手でそんなこと決められないです。茜じゃなくて、僕ならどうとでも」

「面白い!じゃあ俺が勝ったら空は奴隷だ!もう仲間でも何でもない。ただの奴隷だ!なあチビ助。お前も空に命令していいぞ!がっはははははは!」

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