第39話 主従関係とランドナー(後編)

 エスケープを起こした空は、その車体に損傷がないことを確認する。相手であるディオも、自分のエンペラーから荷物を外していた。少しでも軽くするつもりでいるらしい。

「チビ助!」

「はい。皇帝様」

「俺の荷物も持ってこい。後から合流だ!」

「預かります。しかし、これだけの荷物になると、わたくしめでは運びきれないかと……」

「だったら、茜も使え。二人もいれば運べるだろう!俺はレースに本気なんだ!」

「し、しかし茜様は顔色も悪く……」

 パニアバッグを抱えておろおろしているチビ助から、茜がひょいと片方を奪い取る。

「アタイのクロスファイアにキャリアはないけど、まあこのくらいなら背負えるだろ。紐かなんかあるか?」

「い、いいのですか?茜様」

「ああ、構わねぇよ」

 茜にとって、この程度はすでに小さな問題だった。いや、もっと大きな問題がありすぎたと言うべきか。

「空。お前、本当に戦えるのか?」

 その質問は、空の耳まで届かなかった。到着した中継車のエンジンに、あっさりとかき消されてしまう。


『さて、もう一度確認しますよぉ。今回の勝負は、ディオさんと空さんの一騎打ち。ゴールはこの先の大きな公園入口にしましょうかぁ。一応、写真判定の準備もしておきますよぉ。

 コースは全長30kmってところですねぇ。およそ一時間で決着じゃないでしょうかぁ。頑張ってくださいねぇ』


 手近にあった交差点。その停止線を、スタートラインに見立てる。二人が前輪を並べて、合図を待つ。

『それでは、レディ……ゴー!』

 スタートは、ほぼ同時だった。

 両者ともに軽いギアから、全く抵抗なく漕ぎ出していく。ペダルもフラットだ。ビンディングをはめ込む必要がない。

 カチカチと、エスケープがギアを上げていく。リアを1速から2速、3速……飛んで5速。そして、3速まで一気に戻しながら、フロントをセンターへ。

 一方で、

「おらぁ!」

 ガガガガと、連続してギアを切り替えたのはディオのエンペラーである。リアをすぐ6速まで入れて、フロントもセンターへ。圧倒的な加速を力任せにおこなう。


『お二人はどちらも、3×8の24段変速を使っているんですよねぇ。フロントは両者、28.38.48Tの3速。そしてリアは、空選手が11-32Tワイドレシオ。一方のディオ選手が13-28クロスレシオですぅ。

 つまり、空さんが幅広い変速ができるのに対して、ディオさんの方がより細かい変速を可能とし、持久力に特化ですねぇ』


 実際、速度に乗ってきたら速いのは空の方であった。ぐんぐんと速度を上げて、トップスピードに乗る。サイコンに表示されたのは、60.3km/hほどだ。

(もっとだ。もっと速度を上げないと……)

 足に負担がかかるが、それでも重いペダルを踏みこんでいく。一方、ディオは現在56km/hほど。その相対速度は4km/hしかないが、これがレースだと大きな差になっていく。

(くそっ!空の奴、どこにこんな力を隠していた!?俺だって本気なのにっ!)

 大きな体をゆすり、さらに加速を試みるディオ。なるべくハンドルは前の方を持ち、姿勢を低くする。シッティングのままで、ケイデンスを上げる作戦だ。

 ディオが使うフレアハンドルは、通常のドロップハンドルから派生した形態である。グリップエンドに向かってハの字型に広がっているため、前を持っても脇が圧迫されない。

 肘を軽く外側に向けたまま、比較的楽な姿勢で頭を下げられる。これこそ、長距離移動を重視したランドナーならではの設計である。

 一方、そこから逃げる空もまた、低い姿勢をとる。こちらは仙骨さえ立たせず、ただハンドルに胸を近づけるような姿勢だ。肘を大きく曲げて、体の側面につける。ストレートバーハンドルとエルゴグリップでは、これが限界だ。


 目の前にコーナーが見える。大きく右カーブ。一歩間違えばガードレールに車体を擦りそうだ。

 オレンジ色のガードレールが、緑の森と綺麗なコントラストを描いている。が、そちらに目を奪われたせいだろう。空の車体が跳ね上がった。


 ガガンッ!


「ひっ!」

 空が悲鳴を上げる。後輪が空中に跳ねた瞬間、まるで横から車に衝突されたように、お尻が横に流れる。グリップを失ったタイヤが、遠心力でアウトコースに放り出されているのだ。

 転ぶかもしれない。そんな中、空は前輪を軸に立て直す。曲がりたい方向と反対側にハンドルを切る、ドリフトで言うところのカウンター。

 フロントブレーキも駆使して、体勢を立て直した。しかし、

(ギアが重い)

 変速ギアを戻している時間が無かったため、フルアウターをそのまま踏み込むしかない。一瞬だけ後輪のトラクションに押されて前輪が浮き上がり、それからもっさりと加速し直す。

 スタートダッシュで見せたような、鋭い漕ぎ出しではない。

 そこへ、チャンスとばかりに右からディオが切り込む。

「貰ったぜ!」

 空が踏んでしまった段差は、じつをいえば大したものではない。普通の自転車ならば、跳ねることはなかっただろう。

 その辺が、エスケープの28Cタイヤの限界。そして、38Bタイヤを持つエンペラーは、

「おらぁっ!」

 この程度の段差なら、難なく吸収した。

「しまった」

「遅いんだよ。俺に一度でも前を譲ったこと、後悔させてやる!」

 そう宣言してディオが取った行動は……


「食らいやがれ!」


 急ブレーキだった。空の前に出て、車間距離を詰めさせるように迫る。

「くっ……」

 ハンドルを切り、大きく左へよける空。当然、その先にあるのはガードレールだ。再びハンドルを右に切り返し、蛇行する。

 きりもみ飛行する戦闘機のように、前輪が波を描く。その間に、ディオはすでに加速して遠のいていた。


『おおっと、ブロックです。ディオさんが空さんの行く手を阻むように、ぴったりと前をふさいでますぅ。

 ここで空さんがフェイントをかけますが、見抜かれて幅寄せされましたぁ。再び二人とも減速しますねぇ。

 この先は道幅もずっと一車線……完全にディオさんの得意な状況ですよぉ』




 その後方。

「ああ、これは皇帝様の勝利が確定しましたね」

 チビ助が、茜に言った。重い荷物を積みすぎた重量オーバーの自転車は、コーナーを抜けるたびにふらつく。

「なあ、チビ助さん。その自転車……」

「はい。わたくしめのスワローが何か?」

「……いや、お互いに距離を取ろうぜ。アタイもまっすぐ走れる自信がない。衝突したら大変だ」

「ああ、失礼しました」

 素直に距離をとったチビ助は、しかし茜にまだ視線を送っている。

「……何か、アタイの顔についているか?」

「いえ、疲れは見えますが、ついているものはありません。……いかがでしょう?お疲れでしたら休憩いたしませんか?わたくしめでよろしければ、マッサージなど致しますが」

「いや、結構だ。アタイに触らないでくれ」

「はい。何かご用向きがございましたら、いつでも仰ってください」


 尽くすタイプ、とでも言うのだろうか。ディオがいる間は3歩下がって無口についてきた彼は、ディオがいなくなった途端に饒舌になった。まるで、何かを話してないと落ち着かないように。

「……茜様。わたくしめは、今ここにいてお邪魔ではないでしょうか?」

「ん。ああ、そのくらいの車間距離でいいと思うぞ」

「いえ、そうではなく、わたくしはここに存在して構わないのか、不安なのです。皇帝様と共にあるときは、とても満たされているのですが……」

 フードを目深にかぶり直して、項垂れるようにハンドルを引きつけるチビ助。

(たしか、兄貴が何かの本で見てたな。こういうの、『共依存』とか言うんだっけ……)

 茜は最初こそ、チビ助がディオにいじめられているのだろうと思っていた。クラス内にも似たような図式はあったからだ。クラスで孤立していた茜は、特にどちらにも加担しなかったが。

 しかし、チビ助の場合は勝手が違う。自らこのような扱いを望んでいるのだ。

(そんなチビ助の態度が、ディオをさらに横暴にしているのかもな)

 フードで顔を隠しているのも、人間味を少なくする。顔も表情も見えないため、仮に本人が嫌がっていたとしても気にならない。

 いくらでも好きなようにこき使っていい。

 そんな感情を、チビ助は相手に与えるのだった。


「茜様?」

「あ、ああ。なんだ?」

「いえ、顔色がより優れないので、体調がまた悪化したのではないかと」

「ああ、大丈夫だ」

 実際には、あまり大丈夫ではない。

 ディオから押し付けられた荷物を半分ほど、茜が背負っている。チビ助から借りたゴム紐やら何やらを使って何とか肩から下げているものの、脚の側面に当たってペダリングの邪魔になる。

 ただでさえ月経で体力が落ちていると言うのに、さらに追い打ちをかけるのが先ほどのカフェイン摂取だ。さきほどからお腹がぐるぐると鳴っている気がする。

 そのために顔色が悪いのだが、チビ助はその原因を『空が負けかけているから不安なのだ』と勘違いした。


「大丈夫ですよ。茜さん」

「な、なにが?」

「皇帝様は乱暴に見えますが、初対面の方々には優しいのです。空様だって、奴隷扱いと言いつつ友人のようにもてなしてくださいますよ。ホテルで茜さんとの同室を求めたのも、交流のためでしょう。手籠めにされることはないと思います。はい」

「……ふーん」

 茜としては、先ほど胸を揉まれたこともあって信用できないが、まあ確かに不注意で触られただけの可能性もある。

 それはそれとして、

「チビ助さん。あんたはディオさんが勝つ前提で話をしているんだな」

「はい?」

「いや、空の実力を知らないんだな。って思ってさ」




 やはり空は、ディオに何度もアタックを仕掛けていた。そのたびに前をふさがれて、追い抜けない。

 急減速と急加速の連続で、体力をすり減らす。急ハンドルとギアの切り替えで、神経もすり減らしている。

 それでも、諦めない。

(茜が、怖がってたから――負けられない)

 再び、ディオがブレーキをかけて追突を煽ってきた。ぶつからないように、空がブレーキをかける。ギアが上がりっぱなしのままだ。

「バカめ!またカチカチやってろ。がっはっはっは!」

 そう。ここから再び加速するなら、ギアを下げ直して、もう一度ペダリングを開始しないといけない。今までと同じなら……

 しかし、

(ここで仕掛けるよ。エスケープ)


 ふらり、空の身体が右へ倒れる。

(なんだ?力尽きて落車か!雑魚め!)

 その様子をバーエンドのミラーで確認したディオは、静かにほくそ笑んだ。


 ギュワン!


 その刹那、重いはずのギアを、空が力任せに漕ぐ。体をゆすりながらの急加速。今までにない姿勢からのアタックだ。

 全体重を右ペダルに乗せるために、体を右に傾ける。次は左ペダルに体重をかけるために、体ごと左へ向ける。車体ではなく、自分を振るライディング。


『で、出ましたぁ!

 空さんが上り坂で見せる必殺技。スカイ・ラブ・ヒルクライム。……いえ、ここは平地なので、スカイ・ラブ・スプリントですかぁ?

 フルアウターのギアを力強く踏んで、たった3漕ぎ半でディオさんに並びますぅ。遅れて気づいたディオさんが幅寄せを行いますが、空さんの安定しない姿勢に気を取られて寄せきれません。

 そ、そしてゴールまであと500mですよぉ。このまま下剋上になるんでしょうかぁ。それとも後ろからディオさんに掘られちゃうんでしょうかぁ』


(このガキ……どこにそんな技を隠し持ってやがった!?)

 ディオがハンドルを曲げず、姿勢制御だけで右に寄る……が、そのころには空が前輪を並べていた。

 ディオのブロックは、相手が後ろにいるときでないと使えない。つまり、横並びとなった今、その技は何の効果もない。


「はぁぁあああっ!」


 一閃、ペダリングを安定させた空は、ギアを落としてさらに加速する。そして、ついにディオを完全に追い抜いた。

(あ、やったよ。茜)

 その顔には、笑みが浮かぶ。なんと言ったらいいのだろう。楽しさだけでは説明がつかない、嬉しさがこみあげてくる。

(僕、勝てたんだ。勝ちに行けたんだ)

 今まで、勝つのも負けるのも怖かった。正直に言うと、今も怖い。もしこのまま勝ったとき、せっかく友達になれたディオに怒られたらどうしよう。などと考えれば、怖い。

 しかし、茜は喜んでくれるだろう。それがもう――どうしようもなく嬉しいのだ。

(今、ちゃんとレース出来てる。勝負出来てるよ。茜……)

 少し、にじむ視界。その涙を瞬きで振り落とす。

 遠く前方には、公園の入り口と写真判定のスタッフが見えた。

 そして、


 真横には、ディオの顔も見えた。

(え?)

 その顔は、怒りでひきつっている。が、その目線は空を見ていない。一直線に、ただゴールだけを見ている。

「がっはははは!もう泣いているのか!それほど嬉しかったか!?……だが、残念だな。俺は妨害だけでなく、普通に瞬発力勝負でも強いんだよ!」

 空が、一瞬にして抜き去られた。

「しまった」

 今更のように空も加速しようと、姿勢を低くする。しかし追い付けない。瞬発力でいえば、ディオの方が筋力的に有利なのだろう。

 負けたら、自分は奴隷……そして茜は――

(やだ……やだぁっ!)


(俺の勝ちだな。空!)

 ゆうゆうと、ディオがゴールに向かう。あとはハンドルを右に切って、歩道を越えたら、ゴールラインだ。

「もらっ――」


 ガアアアアアア!


 後輪が、歩道との段差にぶつかった。タイヤの横を、段差が擦る。

「たぁ!?」

 それは、致命的なミス。

 段差に対して垂直に近い侵入角度なら、難なく乗り越えられた。その肝心な角度を間違ったのだ。ハンドルを切るタイミングが1秒早すぎた。

 たかが、15mmほどの段差。

 それが、ディオの行く手を阻み、転ばせる。


 ガシャン――


『ああっと、ここでディオさんのエンペラーが転倒ですぅ。ゴールまであと数メートル。惜しいなんてものじゃありませんねぇ。

 その間に、空さんがゴール。写真判定も必要なかったようですぅ。勝利したのは空さん。男同士の熱いデッドヒートの最後、命運を分けたのは神様のご機嫌でしたぁ!

 繰り返しますぅ。勝者は空さんです』




「……」

「……」

 お互いに、息を切らせながらの無言……

 ディオは、敗北の悔しさをかみしめていた。いや、それだけではない。

(負けるにしたって、負け方もあるだろ!俺が、俺がっ!なんでゴール前で転ぶなんて、間抜けな姿をさらさなけりゃならんのだ!)

 勝てたはずの戦いだった。普通に走っても空より速い男が、それでも万全を期すためにブロックなどという卑怯な手を使い、煽り運転で空を消耗させた。そこまで二重三重に張り巡らせた策謀の、最後がこれであるのだ。

 さらに言えば、もう一つ悪い事がある。

 今回の転倒で、リアディレイラーが折れてしまった。これでは走行を続けられない。

「……」

 それは、無言になるのも無理はない。こんな時に何を言ったら格好がつくのか、ディオは知らなかった。

 ただ、せめてもの腹いせのように、地面を一撃殴りつけるだけ……


 一方で、勝った空は、といえば……

(こ、こ……怖かった)

 勝った気がしない。いや、負けてもおかしくない状況だったことが、背筋を冷やしていた。

(僕、なんで勝てるつもりで――あんなこと)

 茜を助けられると、本気で思っていた。

 自分が負けないと、本気で信じていた。

 今まで、自分は『戦わない』のであって、『戦えない』わけじゃない。そんな自覚があった。

 そして、『戦える』ことは『勝てる』ことだと思っていた。

 本気になれば、何でも変えていける。そんな気持ちが、彼の中に確かにあった。中学三年生であることを考えれば、それは何もおかしい事ではない。

 それが、全部、全部――

(僕の、思い上がりだった)




「空。よくやったぜ。お前」

 茜が追い付いてきた。どさっと乱暴にクロスファイアから降りた彼女は、これまた乱暴にディオの荷物を降ろして、空に駆け寄る。

「いや、アタイは信じてたぜ。お前なら勝てるってな。また新しい技をアドリブで身に着けやがって……空?」

「え?あ、うん。えっと……か、勝った、よ?」

 空が、無理やりな作り笑いを浮かべて答える。それに対して、茜は表情の陰にこそ気づいたが、理由までは察せなかった。

「あ、もしかして、まだ勝負が嫌いなのか?」

「え?あ……」

「分かってるよ。空はいつもそうだもんな。勝っても嬉しくないってか。クールなこった」

「ち、違っ」

 言いかけた空の口を、茜の人差し指が遮った。震える空の唇に、茜のグローブの指先が当たる。

「ごめんごめん。今のはアタイが意地悪だったな。お前がカッコつけたくて言ってるわけじゃないのは知ってるって。だから、ありがとうな」

「あ、うん」

 空が今回、おそらく一番欲しかったであろう、彼女からの『ありがとう』……

 それを貰ってしまったなら、もうこれ以上の不満を口にできない。

 でも、こんなに嬉しくないものだっただろうか?

 今の空は、それどころではない塊が喉につかえている。




「チビ助ぇええ!!」


「!」

「!?」

「!!……はい。皇帝様」

 ディオの叫びに、空と茜が真っ先に振り返り、やや遅れてチビ助が反応する。

「お呼びでしょうか?」

「これを見ろ」

 ディオが、自らのエンペラーに取り付けられたディレイラーを指さす。

「ああ、損傷しましたか。それでは、わたくしめが近隣のショップから商品を探してまいります。既に遅い時間ですので、手配までお時間を1日ほど頂いて構いませんでしょうか?」

 何も命令されなくても、すぐに自分のするべきことを割り出したチビ助。正直に言えば、この土地勘もない場所で自転車屋を探すだけでも重労働。ましてスポーツバイク用のディレイラーを在庫しているショップを見つけるのは困難である。

 それを加味しても、チビ助は当然のように『お任せください』と言ってのけた。

(やっぱり、いじめなんかじゃないな。大親友じゃないか)

 茜が冷めた目で二人を見る。ああいう関係は、茜にとって好ましいと思えない。

 しかし、ディオは――


「いや、違う!」


 チビ助の、考えうる限りで最良と思える提案を断った。

「は。それでは、いかがいたしましょうか?」

「……チビ助!お前のスワローを分解しろ!俺にそのTiagraのディレイラーを寄越せ!」

「え?」

 それは、チビ助がもう走れなくなることを意味していた。さすがのチビ助も、今回ばかりは首を縦に振れない。

「お、お言葉ですが、皇帝様。わたくしめが走れなくなれば、皇帝様のお手伝いも出来なくなってしまいます」

「うるせぇ!もう用済みだ。残すところは九州だけだろうが!あとは俺に任せて、お前はリタイアして帰ればいいんだよ!」

「そ、そんな……青森からここまで、本州ずっとお供してきましたのに……」

「ああ!ご苦労だったな。お前のことは忘れないから、さっさと部品を寄越せ!」

 ひどすぎる。と、空と茜も思った。一方、チビ助もどうしたらいいか分からない。

 そんなチビ助の胸倉を掴んだディオは、彼を片手で持ち上げた。

「ぐっ!?あ、が……」

「いいから、俺の言うとおりにすればいいんだよ!」


 ズガァン!


 放り投げられたチビ助が、公園の看板に背中を打つ。

 それには目もくれず、ディオはチビ助のスワローに近づいた。


「チビ助さん。逃げて」

 空が叫んだ。思いもかけない人物の介入に、ディオも気を取られる。その間に、チビ助はスワローに駆け寄って跨った。スタンドを上げている時間もない。車体を左に傾けないよう、気を使いながら走り出す。

「あ、待てコラ!」

 それに気づいたディオが、再びチビ助を走って追いかけようとする。意外と思うかもしれないが、自転車の漕ぎ出しより人間が走り出す方が初速を得やすい。

 ディオがチビ助の車体に手を伸ばした。もう少しで手が触れる。そうしたら掴みかかって引きずり倒してやる。と考えていたところで、顔に水鉄砲が当たる。

「ぶわっ!……誰だクソがぁ!」

 顔をぬぐってみれば、茜がボトルを構えていた。

「まさか、ドリンクボトルを水鉄砲みたいに使う日が来るとはな……」

「茜か!」

 この一瞬のうちに、チビ助は距離を開けている。こうなっては追い付けない。

 意気消沈したディオ。その隙を見計らって、茜と空もその場を離れた。




「こ、ここまで来たら、大丈夫かな?」

「空。それ死亡フラグじゃないか?」

「え?あ、えっと……い、今のは」

「冗談だよ。完全に撒いた」

 茜が笑う。空も合わせて笑って見せた。笑うアピールをしたと言うべきか。

「あ、ああ、わたくしめは……皇帝様を置いてきてしまうなど……」

 チビ助の手が震え、ハンドルを揺らす。

「おいおい。まだあんな奴に未練でもあるのか?仲がいいとは思っていたけど、そろそろ見切りをつけてもいい出来事だろ」

「……茜様のおっしゃるとおり、かもしれません。わたくしめも、少しは理解しておりました。皇帝様が必要としているのは都合のいい引き立て役で、誰でも良いのだと――」

 ドロップハンドルの端を持ったチビ助が、大きく項垂れる。するとどうだろう。前も見えない。

「これから、わたくしめは誰に尽くせばいいのでしょう?あ、あの、茜様。よろしければ」

「いやだ」

「わたくしめと……え?即答?」

 すべてを聞き終わる前に理解した茜は、首を横に振る。

「アタイには空がいる。それで充分だからな。あんたが仲間になりたいって言うなら願い下げだ。助けてもらったのは感謝しているけど、それはそれだし、な」

「あ、茜様……」

 すがるように視線を上げたチビ助に、茜は言った。

「ほら。アタイじゃなくて、前を見ろよ。誰かに言われたとおりに動かなきゃ不安だって言うなら……」

「?」

 茜が指さした先に、自転車がある。今チビ助が跨っている、スワロー・ランドナーが……

「お前の自転車の声を聞けよ。それがバイクパッキングだろ」




『噂の中学生コンビ。ここで名無しのチビ助さんと分かれるようですねぇ。名無しさんはコースアウト。茜さんと空さんは進むようですよぉ。

 皆様、今日も素晴らしいレースをありがとうございましたぁ。お礼は私のレースの下着で良いですかぁ?意外と高く売れますよぉ。

 そして、ディオ選手はここで果ててしまうのでしょうかぁ?それとも、まだ立つんでしょうかぁ?』


「まだ、立つぜ!」

 ディオは、チビ助たちが置いていったパニアバッグの中から、携帯ツールを取り出す。

 チェーンカッターを取り出すと、それを使ってチェーンを切る。ピンを抜き切る直前で止めて、繋ぎ直すときに楽にする切り方だ。

「リアディレイラーひとつで、俺のエンペラーが止まるかよ!」

 外したチェーンから、ディレイラーを排出。続いてフロントディレイラーも外すと、チェーンをアウター4にかける。

 こうして余ったチェーンを切り落とし、繋ぎ合わせれば……

「できた。シングルバイクとして蘇ったぞ!俺のエンペラーが!!……ふふっはははははははっ!」

 変速ギアを犠牲にして、まるでピストバイクのように改造した車体。それに跨ったディオは、近くにいた中継車を叩いて叫ぶ。

「おい!この辺の荷物は全て預かっておけ!ゴールで受け取るからな!」

 これまで背負っていた荷物の中には、旅のために必要なものが沢山入っていた。だが、それももう必要ない。ここから先は、九州を一刀両断するだけだ。

「覚悟しろ。チビ助!茜!そして……俺に勝った気になって調子に乗っている空!!ぶっ殺してやる!!」

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