第20話 幽霊少女とクロスカントリーバイク

 空が先に行ってから、おおよそ30分で回復した茜は、そのままコースを突き進んでいた。山頂近くだったことも幸いして、すぐに下り坂になる。多少の無理もあったが、体調はすっかり戻ったようだ。

(さて、遅れを取り戻さないとな。空にも悪いし)

 ミスり実況によれば、空が彗星に勝利したらしい。しかも新技を生み出したということで、より話題になっている。


 山岳地帯を抜けて、人里と呼べる地域にやってきた。時間的には6時間ほどが経過しただろうか。山二つを越えるのは大変だ。

「ようやく平地だな。空……」

 うっかり呼びかけた茜は、空がいないことに気づく。いつも隣を走っている印象があったので、なんだか寂しい。

(いや、アタイはそもそも、チャリチャン開始前までは一人で走ってたじゃないか。これも普段通りだ。普段通り……)

 自分に言い聞かせて、さらに加速する。ちなみにここで加速する意味はない。少なくとも平地は茜の得意分野でも何でもないし、ここは勝負どころでもない。

 それでも、ペダルに感情をぶつけていく。今までだって、これからだって、憂さ晴らしの相手はペダルなのだろう。幸い頑丈にできているSPDペダルは、嫌な音一つ立てずに付き合ってくれる。

(空に追い付こう。別にアタイが寂しい訳じゃないけど、アイツが寂しがっていると困るからな。そう。勘違いするなよ。アイツのためだ)

 見事にテンプレな思想を巡らせて、茜は自転車を漕いでいく。

 畑やビニールハウスを中心に、まばらに民家が建っているような田舎。まあ、山間の集落にはよく見られる光景だと思う。チャリチャンのコースは両側に三角コーンとロープが敷かれて、一般人の立ち入りが禁止されている。

 前方に小さな駅が見えてきた。風情ある木造の駅舎に、電車3両が停まれる程度のホーム。そして跨線橋。

 駅名は、きさらぎ駅。看板は錆びて、塗装が剥がれている。

 コースを示すロープは、その駅に向かって続いていた。

(おいおい……どういうことだよ?)

 道を間違ったんじゃないかと思ったが、ロープには明らかにコースを示す矢印がある。ご丁寧にチャリチャンのロゴまでぶら下がっているとなると、こっちで間違いない。

 駅に入るには、階段を上るしかないらしい。せいぜい10段ほどの階段だが、茜は自転車を担いで進む。

 時刻は夕暮れ時。そろそろ周囲も暗くなってくる頃だ。遠くの山は黒く染まり、空の色は変わりつつある。アスファルトの色も、茜の影と同化し始める。

「すいません。誰かいませんか?」

 茜が声をかけるが、誰の返事も帰ってこない。駅舎には誰もいないようだった。時刻表は破かれており、待合室には缶スプレーの落書きも目立つ。

 木枠で囲まれただけの改札を抜けて、ホームに出る。ひび割れたコンクリートから、枯れた雑草が伸びたホーム。黄色い線の点字ブロックは、ところどころ外れている。

 そのホームから、線路を見下ろす。枕木に、赤い何かで文字が書いてあった。

「こ、これって……」

 茜は、その文字を目で追う。『こ』『ち』『ら』『へ』『お』『り』『て』……


 そのとき背後から、声が聞こえた。

「――やっと人が来た」

「ひぁああっ!」

 驚いて茜が飛びのく。後ろにいたのは、髪を振り乱した少女だった。腰まで届く黒い髪に、うつろな黒い目。そして防寒ジャージとヘルメット……?

 その少女は手を伸ばし、茜の方へ歩いてくる。そして茜の横をすり抜けると、壁に立てかけてあったMTBを掴んだ。

「え?」

 茜が困惑していると、その少女は手招きをする。そしてMTBに跨り、ホームから飛び降りた。線路に着地すると、再び枕木を指さす。

「――こっち……」

 その枕木には、こう書かれていた。『選手の皆さんは、こちらへおりてください。ここからは線路を走ります』

「いや、まあ分かるけどさ……」

 ため息を吐いた茜は、再び自転車を担いだ。目の前の少女はMTBに乗ったままジャンプしたが、茜のクロスファイアではこの高さを飛び下りることができるか不安である。

 仮にできたとしても、ここでスタント勝負をする意味はない。無駄に車体を傷つけるのも気が引ける。

「おおむね、道路の貸し切りが許可されなかったから、廃線になった路線を貸し切ったってところか?」

「――そう、ミス・リードも言っていた」

 茜の確認に、MTBの少女が答える。風の中に消え入りそうな、どこか遠くからささやくような声だ。単に息が漏れているだけともいう。鼻が詰まったような声にも近い。

「まあ、シクロクロスならトレイルも走れるし、このくらいは余裕だけどさ」

 茜がペダルを漕ぎだす。雑草が短く刈り取られた線路は、砂利と砂と泥が混ざった状態のマイルドなオフロードだった。フルアルミのフレームは、路面からの振動を体に伝えてくる。

「――私も、行く」

 小さな声で言った少女は、その奇妙なMTBを走らせて、茜に並ぶ。どうやらついてくるらしい。

 もちろん、コースがこっちなら行く方向は同じなのだが、ペースまで合わせている。わざと並走しているとしか思えないし、そのメリットはよく分からない。

「アタイに、何か用か?」

「――別に」

「そうか」

 それで話が終わる。ただ、沈黙の中に変な気まずさは漂っていた。

(やべぇ。不気味だ。つーか何で並んで走ってんだよ。アタイの後ろを走るなら風除けに使われているのかと思うけど、横にいる意味が分かんねぇよ)

 試しにブレーキをかけてみる。すると相手もブレーキをかけた。完全に停止してみると、相手も同じように停止する。

「――どうしたの?おなか、痛い?」

 相手が訊く。どうやら茜の体調を気遣っているらしい。というより、茜が止まった理由を分かっていないらしい。

「なあ、どうしてアタイについてくるんだ?」

「――別に」

「じゃあ、先に行っていいぞ。アタイはちょっと休むから」

「――私も」

 意味が分からない。しかも一言喋るのに3~5秒くらい空ける癖があるらしい。一度や二度ならともかく、何度もやられるとストレスがたまる。

(なんか、こいつと話しても仕方ねぇな)

 話の分かる人に話を聞こう。そう的確に判断した茜は、ミス・リードに連絡を取った。


『はいはーい。茜さん、線路のセクションですねぇ?それなら心配せずに突っ切ってください。道は間違っていませんし、電車も走っていませんよぉ?』

「いや、そうじゃないんだ。アタイが訊きたいのは、今アタイと一緒にいるコイツのことだ」

 茜がそう言うと、ミス・リードはすぐに理解する。GPSによって、選手の位置は把握済みだ。

『ああ、エントリーナンバー009 ニーダさんですねぇ。ご覧の通り、Cannondale F-SI HI-MODハイモッド 1を扱う名選手ですよぉ。速度と馬力と、そして走破性を兼ね備えた強力な自転車。それを自在に扱う脚力と体幹。一部で注目の選手ですぅ』

 ミス・リードの説明は、茜の欲しい情報とずれていた。茜が何を聞きたかったかと言うと、

「そうか。アタイはそいつに付きまとわれて困っているんだが、引き剥がせないか?」

『え?ええっと……どうして付きまとわれているか知りませんけど、生憎こちらでは対処しかねますねぇ。すみません』

「だろうな」

 茜はそう言って、電話を切った。

 大会主催側は、選手同士のトラブルにまで対処することは出来ない。まして茜は実質的な被害を被っているとは言えないし、相手選手が何か考えての戦法を実行中であれば、それを妨害することも出来ない。

 考えてみれば、デスペナルティを失格にしない運営である。期待しても無駄だった。

「――諫早、茜……」

 ニーダと言うらしい少女が、茜を呼んだ。フルネームで。

「ん?どうした?っていうか、アタイは名乗ったか?」

「――名乗ってない。ただ、知っていた」

 まあ、空と一緒に噂になっているらしいし、たびたびミス・リードに実況されている気もする。名前を知られていても不思議じゃない。

「お前は、ニーダって言ったか?」

「――そう。本名ではない」

「そうか……」

 まあ、だからと言って本名を聞く気もないし、こんなところで長らく立ち話をする気もない。


(無視して突っ走ろう)

 ビンディングシューズをペダルにはめ込み、再びコースを疾走する。泥や砂がたまり、砂利がわずかに沈んだ廃線。枕木に乗るたびに大きなロードノイズが発生し、それ以外では車体が波打つように揺れる。

 こういう場では、ハンドルの抑えが利いた方が有利だ。ドロップハンドルの上を持ち、車体が跳ねた時に備える。幸いにも補助ブレーキが付いているため、上ハンドルでも問題なく操作できる。ギア以外は。

 速度を上げるため、フロントのギアをアウターに変える。リアは最小。フロントディレイラーとチェーンの干渉を避けるため、トリムを入れる。そのままケイデンスを上げて、リアを2速へ。

 そしてハンドルポジションを再び上ハンに変える。ハンドルを軽く引き付け、トルクを上げて走破。サイコンに表示されている速度は27km/h前後。やや登り坂のオフロードであることを考えれば、相当に速い。

 しかし、

「――速い。さすが、噂の中学生」

 ニーダはその速度についてきていた。息を切らすこともなく、少し早いくらいのケイデンスで。

(やっぱりな。このくらいのことは出来るか)

 と、茜は思う。自身も1年ほど前まで、ハードテイルバイクには散々乗っていた。だからこそ、この車体の特性も分かる。

 フロントにだけサスペンションを搭載した車体を、ハードテイルバイクと呼ぶ。別にコスト面の問題で片方だけ搭載したわけではない。

 サスの問題点は、ペダルを漕ぐための脚力さえ緩和してしまうところだ。そのためフルサスMTBは、加速性ではハードテイルに劣る。走破性と速度を両立するためには、フロントのみサスをつけるのが有効だった。

 ニーダはさらに、フロントギアをアウターに変える。shimano XTRの2×11変速ギアもまた、速度と馬力の両立に一役買っていた。

「いくらなんでも、そう簡単にアタイに追いつけるのかよ!」

「――簡単ではない。でも、出来ている」

 線路を二人で走るのは難しい。意外と思うかもしれないが、道幅が狭いのだ。両サイドは斜めに砂利が敷かれているため、自転車で走行するとハンドルを取られ、最悪の場合は横滑りして転ぶ。

 つまり、軌間内を走らなくてはならないのだが、この幅が1067mmしかない。ニーダのハンドルバーが目算で700mmとして、茜のハンドルも420mmほどある。並んで走るのは困難だった。

 ニーダも分かっているのだろう。だからこそ、半馬身ほど開けて後ろを走っている。

「そこまでして、アタイについてくる理由はなんだよ」

「――教えない」

 そのまま走っていると、線路の分岐点に差し掛かる。どうやらここから複線になるようだ。おそらく下り線との入れ替え地点だったのだろうけど、少しはマシな道幅で走れる。

「よし……じゃない!」

 ここが分岐点と言うことは、レールを跨がないといけないことになる。それも進入角度が浅い状態で、だ。

 金属製のレールは、今までの石ころと比べ物にならない高さを持つ。しかも材質的に滑りやすい。最悪の場合はここで転ぶことになる。

「すまん。左に寄る!」

「――了解」

 茜がニーダに言うと、ニーダはブレーキをかけて下がった。これで茜は左に寄れる。ポイント切り替えは右を向いている。つまり、線路の一番左側に、わずかに隙間が空くということだ。その隙間に自転車のタイヤを突っ込ませる。

(これなら、レールを踏まなくて済むはずだ)

 茜の考えの通り、内輪差を考慮してギリギリの幅で分岐点を通過する。そのまま右の路線に入り、無人駅を通過する。

「――なるほど。策略家」

 その走りに感銘を受けたニーダは、それでも茜とは全く違う方法で分岐点を越えた。

 線路の右に寄ったニーダは、そのまま左にハンドルを切る。レールに対して直角に近い進入角度をとって、そのまま踏み越える算段だ。

 大きなタイヤと、長いフロントサスペンション。そして十分な速度と、寝かせたヘッド角。全てがニーダの思惑通りに働き、やや滑りながらもレールを踏み越える。車体が軽く空中に投げ出されるような感覚の後、再び砂利の上でグリップを取り戻す。

 700mmのフラットバーハンドルは、その長さゆえに力が入りやすい。

「――ふっ」

 一息で簡単に車体を立て直す。と、そのまま間髪入れずにトラクションをかけて、茜に追いつく。

「凄いな。そういう走り方もできるのか」

「――私は何もしていない。この子が頑張っただけ」

 ニーダがステムを撫でながら、自分の愛車を褒める。


『ちょっ、今の映像をリプレイですぅ。そう、ポイント切り替えの固定カメラ……

 えー、コホン……ご覧いただけましたかぁ?ニーダさんが神業的な動きで線路を越えましたぁ。この速度なのに転ばずに、やすやすとレールを突破。29inのホイールによる特性ですねぇ。

 かつては26inが主流だったMTBのホイール直径ですが、数年前に29inが登場してからというもの、どちらが優れているかは多く議論されてきました。そのうち27.5inという折衷案が出てきたため、余計に分からなくなってきましたが……

 基本的に、直径が大きくなれば、それだけ段差に強くなると言われています。一方で低重心かつ軽量な26inも決して悪くないものなので、どちらがどう優れているかは一概に言えませんけどね。

 今回は29inが本領発揮のようですよぉ。あ、ちなみに茜さんが使っている700cというのは、インチサイズでおよそ27.5ですねぇ。

 なんにしてもその大きさ。振動を感じることはあるのでしょうかぁ?ニーダさんの股間に刺激は無いのでしょうかぁ?性的快感はあるのでしょうか……?教えてください』


「相変わらずのセクハラ実況者だな」

 茜は放送をイヤホンで聞きつつ、ため息を吐く。そもそも、ニーダだって20歳前後の女の子だろう。もう少し配慮があってもいいと思う。

 隣に視線を移すと、ニーダは何かを考えるように地面を見ていた。視線が動いていないことを見ると、別に路面を確認しているわけではないらしい。

 やがて、ニーダが口を開く。

「――股間への性的刺激は軽微。おそらく、サドルの形状によるところが大きいと思われる」

「いや、答えんのかよ!」

 言わなくてもいいことを、わざわざ真面目に(?)答えるニーダ。幸いにも凸電機能を使っていないため、独り言で済んだ。もし電話が通じていたら全国放送だ。

「――私はおかしなことを言った?」

「言ったよ」


『さあ、ようやく茜さんたちの方に実況車両が追い付きましたよ。映像出ますかぁ?あ、出ましたね。うわぁ。ブレてるブレてる。気を付けてください。

 さあ、ご覧の通りオートバイでも走りにくい線路上。そこを茜さんとニーダさんが激走しています。震えるハンドルを抑え込んで、跳ねる車体を押し付ける。それを足場の安定しない自転車の上でやっていますぅ。まさに神業ですよぉ』


 ミス・リードは大袈裟に言うが、実際のところ、この程度の道なら走れて当然だったりする。なにしろオフロードマシンだ。ママチャリやロードとはわけが違う。

 問題は、持久力だ。

 砂利道を走るというのは、砂利という障害物に常に衝突し続けているものだと思っていい。だからこそ、体力をごっそりと持っていかれる。まして身体を常に揺さぶられているわけだから、オンロード慣れしたライダーなら酔う可能性もある。

 普段は絶対に使わないであろう筋肉ばかりを使う、過酷な競技である。インナーマッスルといったか。

(なのに何で、こいつは汗ひとつかかねぇんだよ……)

 ニーダは特に感情のないような無表情で、時折茜の方を見ながらペースを合わせてくる。小さく口は開いているものの、息が切れている様子はない。走りも安定しているし、フォームも変わらない。

 もちろん、茜に合わせて安定したペースということは、茜自身も安定したペースを維持できているということだ。ロードレーサー目指して奮闘中。その将来の夢に偽りはない。

(だからアタイが持久力あるのは当然として、ニーダが同じ持久力を持つっていうのはどういう了見だ?フロントサスとカーボンフレームが、そこまで持久力に影響するものなのかよ)

 実際、レースになってみると、その差は歴然かもしれない。腕への負担を減らすサスと、突き上げを程よい弾力で緩和するカーボン。物理学が発展した現代において、あらゆる技術を使って完成した自転車。

 しかし、結局は乗り手の体力も込みで決定するのが、自転車の性能だ。

「おい、ミス・リード。聞こえるか?」

『はい。聞こえてますよぉ。今ちょうど茜さんたちの映像を映していたんです』

 再びミス・リードに凸電した茜は、すぐさまハンドルに手を戻して話をする。ハンズフリーイヤホンは便利だ。特に、手が離せないオフロードでは重宝する。うっかり落とさないように気をつけないといけないが。

「ニーダってやつ。どこかのロードレースやMTBクロスカントリーで実績があったりしないか?」

『え?あ――、ええと、ええっと、ですねぇ……』

 ミス・リードが困ったように言う。


 この大会の見所の一つが、エントリーネームによる匿名性である。だからこそ、大会実績なども含めて、個人を特定する情報の取り扱いには慎重だ。

 例えば風間史奈などは、自身のツイッターでも出場表明していたし、そもそも本名での出場だったので、大会実績を公開することも問題なかった。それでも本人に許可を取ってからの報道である。

 一方、赤い彗星のように匿名を希望し、仮面まで着けて出場する場合もある。こうなると大会実績を語るわけにはいかない。だからこそ、彼が20年前まで実業団を率いていたことなど、誰も知らないだろう。

 そして、ニーダは……

「――ミス・リード。私の情報は公開して構わない。エントリーシートにもそう書いたはず」

 ニーダも凸電を入れる。マルチ通話の状態になったミス・リードは、

『本人がそういうなら、まあ、いいのかなぁ?……それでは、ニーダ選手の今までの実績を、映像資料付きで大公開ですよぉ。テンションが上がってきましたぁ』

 吹っ切れたように語り始める。残念ながら映像資料とやらを見る余裕のない茜は、路面状況を見ながら声だけを聴く。ミス・リードも選手に配慮して、映像無しでも十分伝わる言い方を心掛ける。

(さて、どんな実績が出るんだ?この口ぶりだと、勿体着けるだけの実績があるって事だと思うが……)

 と、茜も期待する。ちなみに、茜は実績なしである。


『えーと、鹿島ガタリンピック、自転車部門。通称ガタチャリの2年連続出場者ですねぇ。そして一度は完走しています』

「いや、それママチャリ使って干潟でやる地域イベントじゃねぇか。そもそも自転車レースってカテゴリかよ!」

『それ言われたらチャリチャンも大概ですけどねぇ。で、その時の映像がこちら。完走してゴールする瞬間の映像ですねぇ。隣の選手が泥に沈む中、ニーダさんがゴール……して、泥に沈んでますぅ……え?なんで?』

「――ガタチャリに使う車体は、ブレーキレバーを外している。だからゴールしても泥に突っ込む仕掛けになっている」

 ニーダが解説に補足を入れる。つまり、どう足掻いても泥だらけになることだけは決定している競技らしい。

『なるほど。そうだったんですねぇ。私のリサーチ不足でした。ここスロー再生できますかぁ?無表情のまま、一瞬だけ目を閉じて泥に突っ込む美少女。そのまま起き上がってくると、顔についた泥を払うこともなく戻っていきます。こういうのが好きな方っていますよねぇ。オカズにしてもいいですよぉ。なーんて……』

「いや、ダメだろう。なあニーダ」

「――いいよ」

「いいのかよ!」

『いいんですかぁ!』

 まさかの本人からの許可に、ミス・リードさえ引く。


『――コホン。えー、次の実績ですが、ロンドンで開催されたThe World Naked Bike Rideの映像です。あ、これってモザイクかかってますかぁ?大丈夫ですね。うちのスタッフが頑張ってモザイク入れました。では映像流します』

「いや、大丈夫なわけねぇだろ。つーかお前はロンドンまで行って何をしてきやがったんだよ」

 ワールド・ネイキッド・バイク・ライド。直訳すると、『裸で自転車に乗って世界中を走ろう』という意味になる。その名の通り、全裸かそれに近い格好で自転車に乗るパレードだ。

 レースではないので、速く走るよりも観衆に見せびらかすのが目的になってくる大会である。自転車ならママチャリでもロードバイクでも何でも出場できる。

『ちなみに、このローラーシューズを履いているのがニーダさんですねぇ』

「自転車ですらねぇのかよ!」

 原動機のない乗り物なら何でも出場できる。

 今ミスり速報の画面を見れば、本当に靴以外の何も身にまとっていないニーダが、ロンドンの街中を真昼間から走り回る映像が映っていたことだろう。


「……お前さ。いろいろずれてるよな」

 茜が言うと、ニーダも頷いた。

「――自覚はある。よく言われるから」

 喋っているうちに、次の駅を通過する。さすがにいつまでも線路を走らせるつもりはないらしい。駅の横には案内板があった。次の踏切を左折、と書かれている。

「――踏切を左折。凄い字面」

「まあ、冷静に考えればあり得ないよな」

 近づいでくる踏切は、遮断機が取り外され、役目を終えたものだった。あるいは最初から遮断機なんてついていなかったのだろうか。田舎の小さな踏切だと普通にあり得る。

 なんにしても、そこにロープが張ってあり、左向きの矢印がぶら下がっていた。ここからは線路ではなく、道路だ。

「オンロードだな。やっぱりアタイはこっちの方が好きだ」

 ここでニーダを引き離す。そうすれば茜の勝ちだ。いや、いつから勝負が始まっていたのか知らないが、なんとなくそんな気分になっていた。

「――サスペンション、ロック」

 ニーダは、左フロントフォークの上部にあるレバーを回す。それによってフロントサスペンションを完全固定することができる仕掛けだ。フロントフォークがヘッドチューブの上まで来ているので、手を伸ばさなくても届く。

 オンロードに入ってから、さらに速度は上がる。

(こいつ、どこまでついてくる気だ?)

 茜のシクロクロスがオンロードに強いのは今更である。ベースとなっているのがロードレーサーである以上、速度でMTBに劣ることはない。

 ところが、ニーダのMTBもまた速い。29inのタイヤは走破性だけではなく、速度まで上げる。一回転で進む距離は長く、車軸からの摩擦抵抗は少ない。

「やるじゃないか。ニーダ」

「――あなたほどじゃない……っぶはぁ!」

 急に、ニーダが息を大きく吐き出した。そのまま身体を前に倒し、ペダリングを停止する。

「――っが、はぁ……っだ」

 咳き込むような呼吸。ハンドルに身体を預けているのは、空気抵抗を気にしての事じゃない。もたれかかっているだけだ。

「お、おいニーダ。大丈夫か?」

「――大丈夫じゃない。無理してた」

「なんで今更それを言うんだよ」

「――さあ?」

 一切表情には出さないが、呼吸は荒く、元から悪い顔色はさらに酷くなっている。フォームも変わらないが、明らかにギアが落ちているのは分かった。現に速度がみるみる下がっていく。

 実は、ニーダの自転車歴は短い。このハイモッドだって、去年の暮れに買ってもらったばかりの新車だ。その前まではクロスバイク乗りだった。それでも茜にここまで食らいつき、あまつさえ苦しいのを顔に出さなかったのは称賛に値するだろう。

 だが、もう限界である。

(まあ、こいつがどうなろうとも、知ったことではないか……)

 茜はそう思って先に行こうとした。その時、何かがポケットから落ちる。

 それは、赤い彗星から貰った酸素ボンベだった。中身は使い果たしているので、あとはどこに捨てるか考えて持ってきていたのだ。

 道の横に公園がある。ユークリットなら好みそうな、ブランコと滑り台だけ用意した小さな公園だ。

「仕方ねぇな。おい、ニーダ。こっちで休憩しよう。来い」

 茜がニーダを誘う。なんだかそうした方が良い気がした。ニーダは放っておくと、自分を限界まで追い込んでしまいそうな危うさがある。それこそ悪い意味で限界知らずなのではないか。



「――ぷはっ」

 自販機の数ある飲み物の中から、なぜかメロンソーダを選んだニーダは、ここにきてようやく一息ついた。

「つーか、運動中に炭酸ってどうなのよ?」

「――飲みにくい」

「じゃあなんで選んだ?」

「――好きだから」

 それで話が終わる。走っているときは気にならなかったが、会話の続かないやつである。

「そういえば、あのキャノンデールのレフティ。あれってハンドル取られたりしないのか?」

 茜はとりあえず食いついてくれるような話題を探す。レフティと言えば、フロントフォークの左側だけを残し、右を排除した左右非対称フォークだ。キャノンデールの得意技である。

 ヘッドの上から続く長いフォークは、まるでオートバイのようだ。当然、エアサスペンションを搭載しているわけだが、その伸縮も独特なデザインで設計されている。

 言うまでもないが油圧式ディスクブレーキも搭載しているため、右から見ると前輪が360°丸見えであった。本体からホイールを外さなくてもタイヤ交換ができるためか、ハブ軸はボルトオンスキュアを採用している。

「――これ、意外とコントロールしやすい。安定している」

「へぇ。でも左右非対称なんだろう?」

「――フロントフォークだけではない。全てが左右非対称」

「え?そうなのか?」

 驚きはしたが、よく考えたら珍しいことではない。左側にディスクブレーキを搭載している車体は、フレームが左に膨らむ特性がある。ブレーキディスク一枚分のクリアランスを、車輪の回転方向に対して水平に取る必要があるからだ。

「あれ?でもそんなに違和感は感じないな。むしろアタイのクロスファイアの方が左右非対称なくらいだ」

「――後輪も右にオフセットしている。リアエンドそのものが中心から6mmずれているから」

「なるほど。ブレーキで左に傾く分、エンドを右に傾けたのか。それじゃあ、接地面が右にずれるから、左に体重がかかるんじゃないか?」

「――織り込み済み。ハブに対してスポークを左に6mmオフセットすることで、リム自体は中心に持ってきている。問題があるとしたら、普通のお店で修理が難しい事と、調整に特殊な知識が必要になること」

 ここまで来ると、自転車屋だから調整できるという次元の話ではない。もはやキャノンデール専門店か、それに準ずるプロショップの仕事だろう。大手メーカーがライセンス契約を重視するのも分かる。

 例えばこの後輪だけを見たら、ほとんどの人が6mm曲がっていると言うだろう。しかしハブを中心にセンターを割り出すと、今度はフレームの形状に合わなくなる。振れ取り台にド真ん中でかけるわけにはいかない寸法だ。

「なんか、すげぇな。高級品ってのは」

「――そう。この子は優秀」

 ようやく会話らしい会話ができている。女の子二人のトークとしては話題も特殊で内容もディープだが。


「――今日は、ありがとう。本当は、怖かった」

「ん?何がだ?」

「――線路を走るのが。その……電車が来るんじゃないかって」

「いや、廃線だから電車は走ってないだろう」

「――わかってる。でも、怖い。イメージ」

 線路と言えば、入ってはいけないイメージが定着しているのは確かだ。他にも、暗い夜道、細い路地、つり橋の上、学校の屋上など。よくよく考えれば何の危険もないはずなのに、危険だというイメージを植え付けられていることはある。

「それで、駅で誰かが来るのを待ってたのか」

「――そう。誰かと一緒なら、怖いのも減るから」

「なら、友達でも誘ったらよかったんじゃないか?」

「――いないから」

 ニーダは素っ気なく言った。別に珍しい事じゃない。友達がいたとしても、その子も自転車が好きかは別問題だろう。チームに所属したり、イベントに積極的に出ているならまだしも、そうでないなら自転車好きの仲間がいることは珍しい。

 茜が空と出会えていたのも、もしかすると奇跡のような偶然だったのかもしれない。

「じゃあ、アタイと友達になるか?」

「――え?」

 あまりに少年漫画みたいなセリフに、ニーダは思わず声を裏返して驚く。言った茜も恥ずかしくなってきたが、訂正するのも恥の上塗りのような気がする。

 毒を食らわば皿まで。

「改めて、アタイは諫早茜。呼び捨てで茜って呼んでくれていいぞ。将来は世界中を走り回るプロレーサーだ。自転車なら男にも大人にも負けない。多分な」

 出来る限り格好つけて、握手を求めて右手を差し出す。本当は恥ずかしい。

「――私は、新井田 美汐にいだ みしお。ニーダと呼び続けて構わない。自転車も自動車と対等たり得ると証明する。あらゆる乗り物の平等主義者」

 茜に合わせたのだろう自己紹介には、後半部分に強い意志が宿っている。すっと差し出された右手。握手に応じてくれるのかと思ったが、

「ん?スマホ?」

 その右手にはスマートフォンが握られていた。どこかで見たことがある画面には、大きく二次元バーコードが表示されている。

「――私のLINE」

 つまり、登録してくれという事なのだろう。ああ、しかし……

「……悪いな。アタイはLINEやってないんだ」

「――え?本当に」

 首をかしげるニーダに、茜は自分の電話番号を書いたメモを渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る