第21話 忘れたころに現れる男と夜の町
ようやく線路のセクションを抜けた男は、自分のハードテイルバイクを見た。
特に壊れた様子はない。あれだけ激しく砂利と枕木を踏みつけたというのに、その車体は健在であった。車輪は安定して回り、リムの歪みやスポークの欠損は見られない。当然、ハイテンスチール製の頑丈なフレームも無事だ。
フロントにバンパーのように取り付けたバスケットステー。前後ハブに取り付けたハブステップのような形の変速メカガード。どちらも沢山の自転車にぶつけてきたのに、大したダメージもない。
「くぅ――っははぁ。やっぱり最高だ。フィニス!お前は最高の自転車だ」
デスペナルティが、やはりお馴染みの高らかな笑い声をあげる。その後ろにある線路には、一台のMTBと、一人のライダーが倒れていた。
「少なくとも、さっきの彼が乗っていたGTよりは優れているよ。くぅははははあ」
『新しい情報をお伝えします。エントリーナンバー049 デスペナルティ選手が接触事故を起こしました。
被害者はエントリーナンバー675 ダニー選手。GT
GTと言えば、アメリカが誇るBMX/MTBメーカー。初心者向けからプログレードまで様々な車体を作っているが、その性能は確かである。
当たり負けした理由は明確。デスペナルティの攻撃が理不尽かつ不意を突くものだったからだ。そもそもどこの世界に、自転車レース中に突き飛ばされるのを警戒する人がいるというのだろうか。反則もいいところだ。
それを黙って見逃すのがチャリチャン実行委員であり、知ってて調子に乗るのがデスペナルティであった。
「おや……?何やら前方に見覚えのある車体と……初めて見るお連れさんがいるねぇ」
コース横の公園から、二人で連れ立って出てきた選手。
一人は、以前取り逃がした茜だ。もう一人は、キャノンデールのハードテイルバイクに乗った少女。
「ああ、確かあの自転車はHI-MOD1だったかな?ってことは、彼女がさっきミス・リードに紹介されていた女の子か。名前は――そう、ニーダちゃんだっけ?」
デスペナルティの口元が、大きく歪む。嬉しいのだ。また新しい獲物を見つけたから、それが嬉しい。
「さあ、行こうか。あのキャノンデールを食べちゃおう。フィニス」
ギアを上げ、ダンシングで速度を稼ぐ。さっきまで線路を走っていたとは思えないほどの体力の温存。いや、既に残っていない体力を、それでも振り絞っての猛攻だ。
「――何か来る?」
ニーダがその気配を感じ取った。振り返ると、そこにはベネツィアンマスクで顔を隠した男がいる。MTBで接近してくる最中だ。
「あ?他の参加者か?」
茜も振り返り、見覚えのある姿に気づいた。
「逃げろ!ニーダ!」
「くぅーはははっ。遅いんだな。これが!」
ニーダの後輪に、デスペナルティが前輪をぶつける。ただ追い抜きざまに、ハンドルを切るだけでいい。大概の自転車は、それで横に倒れる。
デスペナルティのバスケットステーが当たり、ニーダが大きくバランスを崩す。かと思われたが、
「――邪魔」
ニーダはぶつかる瞬間に、タイヤを横滑りさせることで衝撃を逃がした。手早く後輪のブレーキをロックすることで、摩擦を著しく下げる技だ。ただ、その後の立て直しをしっかりしないと、そのまま転んでしまう。
「――まだ」
ある程度受け流したところで、後輪のブレーキを解除。さらに進行方向を変えないように、前輪でカウンターをかける。まるでドリフトだ。
「へぇ。やるねぇ……俺の攻撃を見切るなんて……」
言っている間に、デスペナルティがニーダと並ぶ。フラットペダルから右足を離したデスペナルティは、そのままニーダ本人を蹴り飛ばそうとして――
「空君以来だよ!」
「――終わらない」
お互いの靴底を合わせる形になった。ニーダがデスペナルティの蹴りに合わせて、同タイミングで蹴飛ばした結果だ。
二人で同じように蹴りを入れ、お互いにバランスを崩し、立て直す。
「――残念。私はそう簡単には倒せない」
「そのようだね」
正直、デスペナルティは驚いていた。ニーダの反応の速さ……ではなく、先手を取る判断と性格に、だ。
(向こうはビンディングシューズ。それもSPD-SLだろう。クリートを外す時間を考えたら、同タイミングで反応できるはずがない。考えられるのは、俺より先に蹴りの態勢に入ってたって事だ。もしかして……)
もし今、デスペナルティが蹴ってなかったら、ニーダが一方的にデスペナルティを蹴り飛ばしていた可能性が高い。つまり防衛ではなく、反撃されたのだ。
(そうなると厄介だな。俺のアドバンテージがないじゃないか)
今まで何台もの自転車を突き飛ばしてきたが、自分が突き飛ばされそうになったのは二度目だ。一度目はあの綺羅という2WDの青年。あの時は相手の車体が気に入ったから見逃したが……
(今回は別だ。キャノンデールはぜひ潰したい)
そんな思いがあるため、ここでニーダを倒しておく必要がある。
「ニーダ、お前、すげぇな」
茜は素直にニーダを褒めた。褒められたニーダは、別に嬉しそうでも何でもない。事実、嬉しくないのだろう。こんなことを褒められても、自転車のスキルとあまり関係ない。
「――状況、硬直」
と、現状だけを茜に伝える。それくらいは茜でも感じ取っていた。
茜が右路側帯のギリギリを走り、ニーダがその後ろに着く。反対側である左車線の左寄りにデスペナルティ。お互いに出方をうかがって距離を取っている図式だ。道幅は1車線半。乗用車がギリギリすれ違えるほどの幅しかないため、中央線もない。
「そういえば、空君はどうしたんだい?」
デスペナルティが、悠長に聞いてきた。
「答える必要はないだろ」
「そんなこと言わないでさ。たまにはお喋りしようよ。茜ちゃん。それから……ニーダちゃんだよね。俺はデスペナルティ。よろしく」
「――知ってる」
「あらら、知られてた?俺って意外と有名人なんだな。悪い意味で?」
「――もちろん」
会話で隙を作る気か、それとも本当にお喋りの気分なのか、デスペナルティの意図は読めない。
「ああ、そうそう。人と話をするときは、相手の目を見ろって言われたよな?俺と話をするときは特にそう。仮面をつけているから、目は見えないかもしれないけどさ」
デスペナルティがあからさまに挑発する。車体を蛇行させて、いつでも攻撃できることを示唆しつつ、速度を上げる。普通なら蛇行に余計なエネルギーを使ったら、その分減速するはず。加速できるのは彼の脚力の賜物だ。
(仕掛けてくる気か?)
(――油断、禁物)
二人は声に出さないまま、敵の出方をうかがう。見通しのいい直線路で、綺麗なオンロードだ。勝負は持久力で決まる。
巡航速度を30km/h程度に保ち、茜がニーダを牽く形でトレインを組む。
デスペナルティが乗っているのは、ハイテンスチール製のマウンテンルックだ。それでこの速度を維持することは出来ないだろう。時間が経てば自然と逃げ切れる。それまで攻撃を喰らわないのが重要だ。
(そう思うよな?それが俺の術中だと知らずに……っくぅっふはははっ)
(何を考えて……!)
ゴゴゴゴッ――!
ニーダの前輪が、茜の後輪に当たる。つまり、追突だ。
「しまった!」
「――!」
前輪を跳ね上げられるようにバランスを崩した茜は、咄嗟にハンドルを押さえつける。身体が倒れそうになる中、無理矢理にでも車体を立て直そうとする。その後頭部に、ニーダの前輪が迫る。
ニーダは軽量カーボンバイクであったことが災いして、前輪をほぼ垂直に突き上げられていた。この状態でもバランスを横に崩さないのは、さすがキャノンデールと言ったところか。
しかし、ウィリー状態から前輪を戻すことができない。すぐそこには、バランスを崩して減速する茜がいるからだ。
(――はぁっ!)
声にならない掛け声を上げ、ニーダが車体を捻る。大きく左へ。茜の隣に並ぶように前に出たニーダは、ようやく前輪を落ち着けた。
「くぅ――はははっ。やっぱりニーダちゃんは持久力があるね。この坂道でも無意識的に速度を維持している。同じ無意識でもケイデンスを落としちゃう茜ちゃんとは大違いだよ」
(坂道――だと?)
デスペナルティに言われて気付く。ここは非常に緩いとはいえ、1%程度の傾斜があるのだ。さっきまでは下り坂。それが今は登り坂。そのせいで茜が減速したのが追突の原因だ。
(――私たちの視線を自分に集めたのも、私が車間距離を間違えるように仕組んだこと……)
普通に前を見ていれば、追突することはなかったはずだ。無駄に見えた蛇行の意味。そして、相手の走りの癖を一瞬で見抜き、自らの手を汚さない勝ち方。
さらに――直接的な攻撃を実現するフィジカルとテクニック。
「もらったぁ!くぅははは!」
茜を避けるためとはいえ、ニーダは不用意に左に出すぎた。つまり、デスペナルティに隙だらけで接近してしまったのだ。
その隙を逃さず、デスペナルティの前輪が牙をむく。狙いは、ニーダの左足。
SPD-SLのクリートをはめ込んだニーダは、足をペダルから外すことができない。そこに一撃当てて、足首を骨折させる考えだ。
「――ブレーキ……」
前輪のブレーキレバーを最大まで握りこむ。油圧式ディスクブレーキがかかり、ニーダが急減速をする。
(予想の範疇だ。むしろやりやすいぜ!)
急激にハンドルを切ったデスペナルティは、減速して狙いが定まりやすくなったニーダを攻撃する。
「――からの……ジャックナイフターン!」
「はぁ?……ぶがほぁ!」
ニーダは前輪を完全ロックすると、慣性に従って車体を跳ね上げる。前輪だけを地面につけたまま、後輪を宙に浮かせて回転。デスペナルティの顔に、29inのオフロードタイヤがめり込む。
「がっ、くそがぁぁあ!」
ド派手に転げるデスペナルティは、自転車から放り出されて立ち上がる。フラットペダルならではの起き上がりの早さだが、その体には痛みと痺れ――おそらく打撲や捻挫を数か所。
一方のニーダも、さすがにバランスを崩して倒れる。こちらはクリートが外れず、自転車ごと地面を滑った。冬用のジャージが擦り切れ、肌さえ擦り剥く。ヘルメット越しに頭を強打して、一瞬だが意識を失いかける。
「ニーダ!」
「――行って。茜」
乱暴にクリートを外したニーダが、自転車を蹴るようにして起き上がる。
「――私は大丈夫。だから、お願い」
「でも……」
「――行けよっ!」
今まで聞き取るのが難しかったニーダの声が、急に張り上げられる。たった一言だが、喉が焼けるように痛むほど怒鳴った。
茜は、逃げるように走り出す。デスペナルティが怖かったのか、ニーダが怖かったのかは分からない。分かるのは、自分が残っても邪魔にしかならないという事実だ。
自転車に使う筋肉の多くは、他の競技で使うことができない。まして喧嘩となると、本当に茜の出る幕ではない。なにしろ茜の体育の成績は、女子の中でも後ろから数えた方が早いくらい悪いのだ。授業に自転車の項目があれば話は変わるだろうが。
いずれにしても、今は逃げるだけ。
くやしさや、苛立ち。それらを抱えて、隠して、ただ逃げる。
頭の中には、最後に見た次郎の姿と、ニーダの顔がよぎった。
「お友達思いだね。ニーダちゃん」
デスペナルティが言う。ニーダは何も答えなかった。
「ねぇ。ニーダちゃん。その倒れている自転車、俺が壊していいかな?できればフィニスで踏み潰したいんだ。いいだろう?君自身にこれ以上の怪我は、させないからさ」
「――私を倒せたら、いいよ」
「そう。じゃあ、いただきます」
デスペナルティはにやりと笑った。拳を胸の高さに持ってきて、左足を前に出す。身体を小刻みにゆすり、息をためる。
ニーダは両手を前に伸ばし切ると、螺旋を描くように手を交差させた。同時に身体を大きく引き、右足を後ろに下げて曲げる。息は大きく、しかしゆっくり吐きだす。
「……中国拳法かい?」
「――外国にいた時に習った」
「へぇ。本場で?老子に?」
「――ううん。アメリカで。カンフー映画が好きだった友達に教わった」
「全然本格的じゃないね」
「――本格的な映画オタク。ポップコーンの代わりにチキンをバケツから貪り食うファットマン」
言っているニーダは、小さく震えていた。奥歯がカタカタと音を立てるのが、静寂の中で伝わってくる。
「怖いの?ニーダちゃん」
「――怖い。男の人は、強いから」
「嫌に素直だね」
ニーダの脳裏に、過去の記憶がよみがえる。ファットマンと取っ組み合った時の、特に寝技での強さ。それからロンドンで出会った記者の、抑え込むような動き。成す術もなかった自分。
他にもいろんな修羅場をくぐったニーダだから分かる。単純な力比べで、女は男に勝てない。
「――そもそも、勝てる自信があるなら、茜を逃がしたりしない」
「ごもっとも。それじゃあ、自転車もニーダちゃんも食べちゃおうか!ふぅははははっ」
『ああっと、ここで喧嘩――じゃなくて、競技中の事故です。デスペナルティ選手とニーダ選手が激闘――もとい激突。くんずほぐれつ――ではないですねぇ。一撃でKOでした。
……いや、これは、さらに追撃、馬乗りで殴ってます。ああ、アスファルトに頭を打ち付けるのはダメですぅ。それは本当に死んじゃいますよぉ』
ミス・リードの実況を、茜は聞いていた。どうやら近くに固定カメラでもあったようで、詳細まで細かく語ってくれる。
「……くそっ。ごめん、ニーダ。アタイは――」
『ニーダさん。それ以上はデスペナルティさんが死んじゃいます。ちょっ、頭から血が出てますから、止めてください……ええ?このタイミングで凸電ですかぁ?え?しかもニーダさんから?』
『――こちら、ニーダ。聞こえる?』
『はい。聞こえてますし、放送されてますよぉ。って、ハンズフリーイヤホンを使ったまま両手でデスペナルティさんの髪の毛を掴むのやめてください。そのまま後頭部を打ち付けるのもやめて』
「いや、勝ってんじゃねぇよ。じゃなくて、よかったニーダが無事で」
ついでにさっきのシリアスを返せ。と言いたくなる状況に、茜は困惑する。
『――茜。聞こえる?私は無事だから、あなたは先に行ってて。またいずれ、レースの中で逢いましょう』
ニーダはそれだけを言うと、凸電を切った。
「く……俺が、負ける。だと?」
「――単純な力比べでは勝てない。先手を打って、一方的に攻撃を続けるしかなかった。一発でも防がれたら、私の負け」
「ああ、確かに……一方的にやられたなぁ」
起き上がれない。力が入らない。そんな中、デスペナルティはニーダを見ていた。
ニーダは立ち上がると、デスペナルティの自転車に近づく。そして、手を触れる。
「や、止めろ。馬鹿、よせ!」
デスペナルティの脳裏によぎったのは、そのまま自転車を壊されるかもしれない恐怖だった。自分が相手にしようとしたことを棚に上げて、這いずり回りながら叫ぶ。
ニーダは、その自転車のギアを押し込んだ。ガチャガチャと耳障りな音を立てて、浮かせた後輪が回転する。続いてホイールを掴むと、スポークの一つ一つを握りこんでいく。フレームをよく調べて、塗装にひびや波打ちがないことを確認したのち、
「――ふんっ」
脚で前輪を挟み、力いっぱいにハンドルを捻る。ぎしぎしと音を立てて、ハンドルが回った。角度は車輪に対して垂直。ステムが平行に来るように。
「――よかった。壊れているところは無い」
「え?」
素っ頓狂な声を上げるデスペナルティに、ニーダは自転車を見せた。
「――点検していただけ。もしかすると、ステム周辺のネジは緩んでいるかも。気を付けて」
「あ、ああ。分かったけど――え?どうして?」
意識が遠のく中、さらに疑問を重ねる。しかし頭が働かない。出血の所為か、後頭部だけが温かく、身体は冷え込んでいく。
「――そのくらいで死ぬことはないはず」
ニーダはそういうと、自分のHI-MOD1を起こす。スポークが一本折れていることに気づいてしまった。
「――致命傷ではない。けど、これを治せる人がいるかどうか」
カーボンホイールの手組。それも6mmオフセットが必要な後輪。修理するのは難しい。せめてキャノンデールを取り扱えるプロショップがあれば話は別だが。
大概の自転車店では、スポークを在庫していること自体が滅多にない。仮に在庫があっても一本単位でバラ売りするかどうかは不明で、もしバラ売りしていても、振れ取りを行えるかどうかは別な話だ。
普通にセンター出しをすることは出来ても、そのセンターを6mmずらすという意味を理解できるかどうかは分からないし、理解できても慣れない作業は断るという店も多いだろう。
ニーダ自身が調整できればいいが、客が勝手に調整すると言うとスポークを売ってくれなくなる店……要するにスポーク販売と取り付けサービスがセットになっているため、どちらか片方を頼めない店もある。
ざっくり言うと、面倒なのだ。高級車でロングライドする場合は大きなネックになるところだろうと思う。こうなってくると、規格がほぼ間違いなく共通のエントリーモデルの方が後々便利だ。
「――仕方ない。探そう。ショップ」
うずくまるデスペナルティを置いて、ニーダは走り去った。どこまで乗れるかは分からないが、数キロくらいなら持つと勝手に判断して乗っていく。
それがデスペナルティが、気を失う前に見た光景である。
そのまま気を失って、起きた時にはすっかり夜中であった。
空は自転車を押して、ゆっくりと歩いていた。まだ未舗装なところも多い田舎では、こういった砂利道もたまに見受けられる。
「さすがに、エスケープじゃここは無理だね」
自分の愛車の限界を知る空は、無茶なことをしない。いや、厳密に言うと、それなりの無茶はするが無謀との境界線は引いている。
つい数時間前に空気を入れたばかりのタイヤは、砂利の凹凸に合わせて小刻みに跳ねる。空はそんな自転車のハンドルとサドルに手をかけて、優しく歩く。間違っても乗るようなことはしない。
キィーン
透き通った涼やかな音が、後ろから聞こえる。茜が密かに気に入っている、小さなステンレス製のベルの音だ。
「やっと追いついたぞ。空」
「茜。無事だったんだね」
ミスり実況から断片的に話を知っていた空は、茜の姿を見て安心した。
「デスペナルティさんは?」
「ニーダがボコったはずだ。って、そっか。知ってんのか」
「うん。一部始終ね」
空が頷く。茜は空に合わせるため、自転車を降りた。ノーマルSPDシューズは、路面が平らでない場合は歩きにくい。足音がジャリジャリする。
「っていうか、なんで歩いているんだ?」
「いや、だって僕の自転車はオンロード用だし」
「そっか。あれ?でも線路のセクションあったよな?あれはどうやって走ったんだ?」
茜が首をかしげる。線路セクションはそれなりに長かったし、今のように歩いていたなら、すぐに追いついたはずだ。
空はそれに関して、平然と答える。
「ああ、それはタイヤの空気圧を限界以下まで抜いて、鉄製の線路上を走ったんだよ。そこなら段差もないから、リム打ちを気にせずに最低まで空気を抜けるし」
線路の太さは自転車のタイヤの3倍程度しかない。ほとんど綱渡りだ。しかも、かまぼこ上の丸みを帯びた場所なので、すぐに滑り落ちる可能性がある。
もちろんそれを織り込み済みでタイヤの空気を抜き、20~30psi程度の状態で潰して走ったわけだ。とはいえ失敗すればリム打ち確定の危険な作戦を、空は平然と実行する。たまに発揮するこの度胸は何処に眠っているのだろうか。
「ははっ、さすが空だな……アタイもあんまり驚かなくなってきた」
むしろ、空が次に何をしてくれるのか、茜は楽しみになっていた。
「ねぇ。茜。今日はもう休むところを探した方が良いかな?」
「ん?いや、まだ走れると思うけど……空は限界か?」
「いや、なんていうか……早めに探さないと野宿になりそうな気がするんだ。景色的に」
「ああ、何もないもんな。見渡す限り」
遠くまで大自然が続くというのは、地味に絶望的な光景でもあった。見ている分には綺麗かもしれないが、その場にいる人は大変な苦労があるのだ。雄大な自然はテレビで楽しみたい。
「ミス・リードに聞いてみようか。泊まれる場所」
「ああ、ここから50km先とか言われても困るからな」
結論から言うと、幸いにして20km先にネットカフェなんかはあるようだった。他にホテルや旅館があっても予約制ばかりらしい。
「あーあ、やられちゃったなぁ」
デスペナルティが落胆する。頭はまだ痛む。それ以上に、イライラが止まらない。
「まあ、いいや。フィニスが無事だっただけでも良かった。俺はお前が心配でたまらないんだよ」
コースアウトして数分。晩御飯を食べる場所を探していた。場所と言っても、実際に食べるのは自転車に乗りながらと決めている。つまり、コンビニを探しているのだ。
「地図によれば……この道をまっすぐ行って、二つ先の信号を左折か……信号なんてどこにあるんだ?」
スマホを持って探しているが、そもそも信号が見当たらない。それもそのはず。坂道を上った先を1kmも直進だ。ド田舎の田畑の中を通る県道は暗い。それに加えてコンビニが遠いとなれば、それは不便極まりない。
「まあ、このくらいの距離は……っ!」
対向車が来る。トラックだ。ハイビームで周囲を照らしたまま、我が物顔で道路を走行している。やや反対車線にはみ出し気味なのは、こんな道路を通る人が他にいないだろうと勝手に決めつけているからだろう。
「……眩しいね。教習所で習ったことを全部忘れちゃっているタイプのペーパードライバーかな?」
割と本当にいるから困る。そもそもトラックの運転手の中には、アルバイト募集で雇われた短期バイトの人も多いのだ。全員がプロのドライバーだと思ってはいけない。
古い時代の普通免許の場合、実は8tトラックまで運転できる。今から普通免許をとっても運転できないのであしからず。
この時代に免許を取った人は、そもそもハイビームとロービームの違いを細かく分かっていない。LEDの登場以来、その違いが歴然だから注意しなくてはならないはずなのだが……
「老害が。おおかた会社をクビになったか定年して、やることないから繁忙期のバイトでお小遣い稼ぎか……まあ、試してやるか」
デスペナルティは、MTBのハンドルを切った。反対車線に出ると、そのまま加速する。相手は8tトラックだ。正面から衝突すれば命は無い。そんな中、手で目を覆ったデスペナルティは、片手運転で接近する。
「さて、どのタイミングで気付くかな?」
ようは、眩しくてハンドル操作を誤った、という体裁でトラックに衝突する構えだ。トラックが気付いたらしい。クラクションを鳴らして、急ブレーキをかけ始める。
その瞬間、デスペナルティは歩道に逃げ込んだ。縁石を得意のジャンプで乗り切ると、そのまま歩道内でブレーキをかける。ディスクブレーキの制動力は、こういうときでも役に立つ。
「結局、ハイビームはやめてくれなかったか。遠くを見通すため、とか言っているドライバーは多いけど、本当に遠くを見ているなら自転車にも気づけよってな。フィニスもそう思うだろう?くぅ――はははははは」
デスペナルティが笑う後ろで、トラックがもう一台のトラックに追突されていた。前のトラックがかけた急ブレーキと、後ろのトラックがとっていた車間距離の短さが原因だろう。
「大迫力だね。俺より悪い奴らが2台、消えてなくなる光景だよ。フィニス」
警察が来る前に、あるいは逆上したドライバーが下りてくる前に、デスペナルティはその場を去る。
ようやく、信号機があった。そこを直進して、次の信号を左折だ。対向車線の車が、デスペナルティに気づいてロービームに切り替える。どうやら右折したいらしく、デスペナルティが行くのを待ってくれているようだった。
「ありがとうね」
デスペナルティが右手のひらを顔の前に持ってきて、感謝の意を伝える。相手にも正しく伝わったらしく、ポン、と軽やかに一回、クラクションを鳴らされた。
「こういう平和な世界を楽しみたいよね。誰も困らない世界を、さ」
次の信号を左。それから2km先。たかがコンビニに行く辛さとは思えないが、自転車があればなんてことはない距離だ。歩くと遠いと思う。
「40km制限だって。まあ、自転車でも守っておいた方が良いのかな」
暗くてサイコンが見えないが、感覚的にこの程度だろうと速度を落とす。
後ろから、車が来た。ヘッドライトの明かりで確認できる。
「うーん。こうして後ろから来るのが分かるのは、ハイビームのいいところだよね。まあ、でも俺が法定速度だから、俺の後ろを走ると良いよ」
そんな理屈が通用するほど、自動車は自転車を解っていない。彼らは自転車を見ると抜かしたくてたまらないのだ。そしてもう一つ。
パッパ――!
間抜けなクラクションが、静寂に包まれた田舎に響く。自動車に乗っている人の中には、そもそも自転車や歩行者を見る気がない人がいる。
いつも通る道で、なおかつ人通りが少ないところだと特にそうだ。昨日も一昨日も人がいなかったから、今日も人がいないに決まっていると思って走っている。そういう奴に限って、油断して法定速度を越えて走るのだ。
デスペナルティの横をすり抜けるスポーツカー。その速度は目測で80km/h前後。仮に警察がいたら捕まる速度だが、この時間に警察がいないのも織り込み済みの犯行なのだろう。
「ああ……そっか。俺が見えてなかったのか。一応テールライトも反射板も付けているんだけどなあ……そっかそっか」
ふつふつと、いい気分だったはずのデスペナルティに怒りがわいてくる。この感情の起伏は本人も頭を悩ませている所だが、悩んで治るなら精神病院とカウンセラーは廃業だろう。
「さて、フィニス。済まないけどコンビニに行く前にもう一仕事。街のゴミを掃除しようか」
独善による
後ろのスポーツカーが、火を噴き
数分後、それは実行される。
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