第22話 地を這う天使とリカンベント(前編)
朝、ネットカフェを出た空と茜は、人里を走っていた。
住宅街と呼んで差し支えないほど、建物が密集する中を走るのは久しぶりだ。周辺住民との協議の結果なのか、コースとして封鎖されているのは片側一車線のみ。それでも路面には『歩行者注意』と書かれている。
もうこの大会が始まって6日目。だというのに疲労感や倦怠感は無く、筋肉痛も常識の範疇にとどまっている。若さゆえの回復力がもたらすものか、あるいは普段からのトレーニングが成果を上げているのか。
「調子がよさそうだね。茜」
「そうか?まあ、昨日はよく眠れたから、かもな」
いつもよく寝ていると思うが、茜はホテルなどの空気が苦手な気質だったりする。かといって人の家で寝るのも気兼ねするので、実はネットカフェのような空間が一番よく寝られるのだ。
そこに寝泊まりする人をネットカフェ難民などと呼んだりもするらしいが、決して悪い生活ではないと茜は感じていた。ホームレスでもいい。要は、自転車乗りが帰るべき場所はいつだってサドルの上である。
「それにしても、今日は比較的冷える気がするな」
「確かに、もしかすると雪が降るかもね」
仮に降ったとしても、積もることはないだろう。何となくそんな気がしていた。
「でも確かに、お空がどんよりしていますわね」
「だよね。僕も気になってた」
「アタイはドロップハンドルだから気にしなかったけど、言われてみればそうだな」
「まあ、シクロクロスでは仕方ありませんわ。空を眺められるポジションじゃないでしょうから」
「その点、僕はフラットバーハンドルだから見通しが利くかもね」
「な、なんだよ。アタイだって上ハン握れば、それなりに視界を確保できるんだからな」
「その点、わたくしはいつだって天を仰げますわ」
「……」
「……」
何かがおかしい。この場には空と茜しかいないはずなのに、3人で会話している気がしてならない。
「なあ、空?ミス・リードに凸電してないよな?」
「うん。今は使ってないよ」
「あら?ミス・リードなら今頃、他の選手の実況をしているんじゃないかしら?」
「……」
「……」
凛とした少女の声だった。透き通るような、よく響く声。だからこそ、どこから話しかけられているか分からない。
「どこだ?探せ、空」
「ええ?そんな忍者みたいな」
空が右、茜が左を走行しながら、きょろきょろと辺りを見渡す。前後左右。360°一周させた視線を、まさかと思いつつ上にまで向ける。いない。どこにもいない。
「下ですわよ。下」
そう言われて、茜は下を向いた。ドロップハンドルなので、視界は下にも広い。
まず、目につくのが自分のトップチューブ。そして後ろに流れる路面。携帯ポンプとボトルの入ったホルダー。クランクセットとチェーン。ここまで来ると90°真下を見ていることになる。
さらに後ろを見る。チェーンとチェーンステー。後輪とリアディレイラー。自分のお腹とレーパン。そしてディスクブレーキ……そのさらに左側に、
「ごきげんよう」
「うっわぁぁあ!いたぁ!」
脚を前、頭を後ろにして寝そべった少女が、仰向けのままついてきている。背中を地面につけたまま、道路の上を滑っているのだ。
よく見れば、頭の後ろには車輪がある。両脚の下にもあった。前方に投げ出した足はペダルについている。つまりこれは……
「自転車?」
空が疑問を投げる。茜はこの自転車に対して、僅かばかり聞いたことがあった。
「リカンベントか。アタイも実物を見るのは初めてだ」
「あら、博識ですのね。おっしゃる通り、リカンベント――それもローレーサーですわ」
その自転車は、あまりにも常識とかけ離れた見た目をしていた。仰向けに寝そべり、足を前に向けて乗る自転車。ペダルは前輪よりも前にせり出し、ホイールベースにはリクライニングシートのようなものが取り付けられている。
その重心は、低い。地面すれすれを這うように設計された車体は、茜たちの腰ほどの高さもない……いや、ハンドルよりさらに低いと言っていい。
「TROYTEC
「改造って、どの辺を?」
正直、元が奇抜なだけに改造したポイントが分かりにくい。
「そうね……まず、変速ギアですけど、shimano ULTEGRAのDi2ですわね。ブレーキもそれに合わせましたわ。クランクはFsa K-Forceで、ペダルがTIME XPRESS O4ですわよ。ZIPP SUPER 9のディスクホイールも後輪だけ使っていますわ」
「結構ロードバイクみたいな改造してんだな。つーか、アタイが聞いた限りだと全部がロード用パーツだと思うんだが?」
と、茜は頭の中に思い浮かべる。確かによく見れば、その部品は殆どがロードバイク用だ。もっとも、リカンベントは奇抜な形状でありながら、原理自体は一般的な自転車と何も変わらない。ペダルを回すとチェーンが後輪に動力を伝える。それだけだ。
「……って、待てよ?それって総額でいくらかかっている計算になるんだ?」
茜の脳裏に、何やらとんでもない数字が浮かんできた。たしかアルテグラのフルセットだけでも10万は下らない。ましてディスクホイールなんか、何十万もする部品だ。
「あら?金額的な話かしら?そうね……よく覚えてないけど、100万程度は超えているはず……かしら?」
「ひゃく……まん?」
大体予想していた茜も、その金額に驚く。
「え?百ドル?百ユーロ?百万……ウォン?あれ?百万円って、何十万円の事だっけ?」
空なんかこのざまである。ちなみに空の乗っている自転車が、軽く20台ほど買える値段だと思っていい。
それを……
「まあ、パパは何でも買ってくださるから、あまり値段を気にしたことがないの。ごめんなさいね」
と言い捨てるほどには、彼女の実家はお金持ちだった。
「何者なんだ?お前……」
茜が訊くと、少女はクスッと笑った。
「自己紹介が遅れましたわね。わたくしは
いつぞやミス・リードが、鹿番長を含めて中学生四天王と命名していた人物。その最後の一人。
天仰寺樹利亜が、ついにベールを脱ぐ。
『今、入った情報です。噂の中学生コンビとジュリアさんが合流。町中を高速巡行していきますぅ。これは茜さんたちの流れからして、今回も局所的デッドヒートを見せてくれるのでしょうか?それとも、このまま3人仲良く走り続けるのでしょうかぁ?
いずれにしても目が離せません。中継車さん。誰かマークを……つけてますねぇ。私に言われるまでもなく動くだなんて、調教されてきちゃいましたかぁ?じゃあ、あとでご褒美、あげますねぇ。
ああ、でも、私は実を言うと焦らしプレイみたいなのが苦手だったりしますぅ。焦らされるのは好きですけど、自分からする時は積極的にがっついちゃう。
どうしたら上手に焦らせるのですかぁ?ドSっぽくて実はMもいける茜さん。冷たい視線と堂々とした立ち振る舞いで女王様っぽいけど弄られキャラのジュリアさん。教えてくださいですぅ』
「アタイに変なイメージ植え付けんなミス実況!」
「わたくしが結局弄られキャラになってるじゃないのミス解説!」
女子が何やら風評被害を受ける中、空は
「二人とも仲がいいんだね」
くらいにしか思っていなかった。
「コホン――気を取り直しましょう。たしか、茜先輩と空先輩は、その場ごとに勝負をなさるのが趣味と聞きましたわ」
別に空の趣味ではないと思うが、今までのことを思い返してみるとあながち間違っていない。特に茜にその趣味があるのは明白だ。
「つまり、僕たちと勝負したいの?」
「いいな、それ。どこまでやる?」
割と乗り気な茜は、既に暫定的なゴールの話に入ろうとしている。もちろん天仰寺もそのつもりだったようで、わずかに目を細めた。
「それでは、僭越ながらわたくしより提案ですわ。ミス・リードの話によると、この先50kmほど行ったところに自然公園が見えるらしいですの。先にそこまでたどり着いた方が勝ちか、もしくは……」
精いっぱい、冷たい声音を低くした天仰寺は、大人びて見せた声で言う。
「絶望を味わった方が負け、ですわ」
「いや、凄まれても怖くないからな」
「あ、茜先輩!?それはどういう意味ですの?」
「天仰寺さんって可愛いね」
「そそそそ空先輩!?いきなり女子にかわかわかわくぁわ可愛いいいいって、いったいどういう意味ですの!?」
女王様っぽいけど弄られキャラ。ミス・リードがそう言ったのも納得である。
(でも、可愛いのは本当なんだけどな……)
と、空が珍しく女の子に見とれる。別な言い方をすると、空ですら見惚れる程の美少女。それが天仰寺である。
幼い中にわずかな妖艶さがのぞく、整った顔立ち。長いまつげと切れ長の目は大人っぽく、それでいて柔らかな曲線を描く頬と小さな口は、可憐な少女そのもの。
全体的に華奢でありながら、出るところの出たメリハリのある身体。細く長い脚と裏腹に腰は広く、それでいてウエストはくびれている。肩幅も狭く、首も細い。そんな中、ひときわ大きい胸が大変なことになっている。
ペダルを漕ぐたびに波打つように揺れて、重力と慣性によってあり得ない方向に潰れる胸。それが張りの強さで跳ね返り、仰向けの姿勢と相まって強調される。服の上からでも分かる。中学生だという事を加味せずとも素晴らしい。
(で、服装は奇抜も奇抜か。自転車に乗る人のチョイスじゃないな……いや、そうでもないのか?)
と、茜は分析する。
各所にフリルのついたドレスを、自転車用に無理矢理仕立てたような衣装。袖口と裾を絞って空力抵抗を避け、スカートではなくショートパンツによって下着が見えるのを阻止する構造。
髪の毛は後輪に巻き込まれないよう、しっかり丸めてバレッタで止めている。ビンディングシューズまでリボンで装飾する徹底ぶりだ。
淵のない眼鏡は恐らく伊達。一昔前のアニメキャラのように低い位置でかけているのは、ずらした眼鏡から覗く上目遣いをアピールするためではない。この姿勢で自転車に乗るときに、前方から飛来する砂埃や風を避けるためだ。
案外、理にかなっているようなデザインである。
「それで、スタートの合図とかは致しますの?」
「え?」
「いや、ずっと並走しておりますけど……よーい、どん。みたいなのはありませんの?」
そういえば、あまりやったことがない。次郎と戦った時だけだろうか。
「じゃあ、えっと……よーいどん」
空が気の抜けた感じで言う。
「え?今ので始まったのか?」
「ふ、不意打ちは卑怯ですわよ。空先輩」
慌てた二人がすぐにスタートダッシュする。一番出遅れたのは何故か空だ。
結論から言うなら、勝負は一瞬で決まった。あまりにあっさりし過ぎて残念なほどに、だ。
茜はダンシングでハンドルを引きつけ、変速ギアを上げていく。速度はすぐに40km/hを越え、さらに加速を続けていく。
その一方で、天仰寺のアタックは異質なものだった。すぐに60km/hに到達。さらに速度が上がる。ギアはあっという間にトップに到達。その異質な加速は、どんな自転車でも再現できないものだった。
空がようやくアタックをかけるころには、茜はトップスピードである60km/hまで到達。そして、天仰寺は90km/hを突破。さらに加速するほどだ。
『ジュリアさんが乗っているTROYTEC REVOLUTION LOW-RACERは、フルカーボンフレームとディスクホイールの組み合わせによって、総重量を9kgまで抑えた仕様になっていますねぇ。大体ロードのエントリーモデルくらいですねぇ。
普通はリカンベントって、自転車の中では重い部類に入ることが多いんですよぉ。なにしろホイールベースに本人を寝かせますので、車体が長くなることが多いんです。加えてチェーンが一番前から一番後ろまで続いてますから、チェーンだけでも相当な重量になるんですぅ。
にもかかわらず、たったの9kgしかないんですよぉ。本人も50kg以下なので、足しても60kg未満という驚きの軽さ。それが生み出す加速はまるでロケット。
エアロフレームで空力抵抗を最低限に抑え、重量も低く設定する。現代の物理学を踏襲した結果、この車両は見た目だけでなく、スペックさえ常識の外ですよぉ』
「っていうか、わたくしの体重データはどこから引っ張ってきてるのよ!?」
天仰寺のツッコミはミス・リードに届かず、風の音にかき消されていく。
後ろにはジープを改造したようなデザインの中継車が迫ってきていた。銃座が搭載できる仕様だったのだろう部分には、大きなカメラが取り付けてある。寄せ集めの車両を中継車として使っているのか、チャリチャンの車両は本当に個性的なものが多い。
『中継車さん。急いでください。あ、でもジュリアさんを必要以上に煽ったり、まして轢いたりしないでくださいよ。えー、現在のジュリアさんの速度は、推定100km/hをオーバー。すでに驚きですねぇ。
ですが、本当に驚くのはここからなんですよぉ。リカンベントはその空力抵抗の少なさゆえに、一度加速するとしばらく減速しないんです。ロードレーサーで言うところのアタックと同等のスピードが、リカンベントにとっては巡航速度なんですぅ。
時間の経過に比例して、距離は開く一方になりそうですねぇ。空さんと茜さんに勝ち目はないですぅ。では、ここからはジュリアさんの一方的な試合運びをご覧ください。これはもうただのSMプレイですねぇ』
絶望的だった。茜が息を切らすころには、天仰寺の姿が見えなくなっている。にもかかわらず、茜はまだ速度を緩めない。
「ねぇ、茜。ここはもう負けを認めた方が良いんじゃないかな?僕たちじゃ勝負にならないよ」
空が提案するが、茜は首を横に振る。まだペダルに力が入る。諦めるのはまだ早い。
「まあ……空の言う通りだな。確かにアタイらじゃ太刀打ちできない。それどころか、史奈さんだって100km/hオーバーは出ないだろう。多分トップを走っているアマチタダカツだって無理だ」
「つまり、最強?」
「そうだな。天仰寺が最強で間違いないだろうさ。でも考えてみろ。もし最強なら、どうしてスタートから6日目になる今日、この場所を走っているんだ?ミス・リードの言う通りなら、もう関西にいたって不思議じゃないだろう」
茜が笑う。息が苦しそうなので、一見すると強がりのようにも見えた。しかし、違う。本当は――
「つまり、何かの弱点があるんだね」
「ああ、それが何かはアタイにも分からないけどな。きっと何かあるんだろう」
そう信じて、茜はさらに猛追する。空はそんな茜の前に出て、ペダルを止めた。
「空?」
「よく分かんないけど、茜の作戦に乗るよ。牽くから入って」
この大会が始まった頃は困難だったトレインも、いつの間にか出来るようになってきていた。まだ未熟ではあるし、たった2台の小細工ではあるが。
「よし、頼んだぞ」
茜が空の蔭に入る。空気の層が薄れ、より簡単に速度が上がる間隔。これを『牽く』と表現した人の気持ちが、今の茜なら分かる気がした。
(余裕、ですわね)
天仰寺は、住宅地をゆったりと走っていた。ふらりと外側に寄ると、アウト・イン・アウトでコーナーを切り抜ける。自転車レースにおいて使用されるシチュエーションは少ないが、最も理にかなった曲がり方だ。
そもそも集団を形成したがるロードレーサーと違って、リカンベントは単独での走行性能を十分に有している。だからこそ、こういったライン取りも自由なのだ。
(ふふふっ。二人とも、そろそろ絶望したころ、かしら?)
圧倒的な実力差を見せつけたことに満足している天仰寺は、空を見上げる。何ともどんよりとした天気だ。山間にあるこの町の天気は、意外と変わりやすい。
こうして天を仰ぐのは、彼女にとっての趣味だった。寝そべって見上げる雲は高く、世界がどこまでも広がっていくような錯覚をくれる。
腹筋を使って上体を起こすと、ステムに取り付けたサイコンの表示を見る。最高速度は104km/hで、現在は23km/hと表示されていた。このサイコンが見づらい事は、リカンベントの数ある弱点の一つ。
ハンドルバーに取り付けたボトルホルダーから、ミルクティーのペットボトルを取り出す。所詮は庶民の味と敬遠していたが、案外悪くない。
優雅なティータイム。その風情に浸っていた、その時――
「見つけたよ。天仰寺さん」
「アタイの読み通りだったな。追いついたぜ」
後ろから、二人が追い上げてきた。息を切らして走るその姿には、十分な疲れが見える。
「あら?あの状況で諦めなかったなんて……意外ね」
驚いた天仰寺は、咄嗟にペットボトルを捨ててハンドルを握った。ボトルホルダーに戻している暇はない。その姿勢のまま、ケイデンスを上げて臨戦態勢に戻る。
(戦場は住宅地……それも区画整理のされていない田舎ですわね。困りましたわ)
まるで戦闘機のようなフォルムを持つリカンベントは、そのまま離陸しそうなほどの速度を一瞬で得る。まるでカタパルトで射出されたような勢いだ。
そして、すぐにブレーキをかける。これまた高性能な油圧式ブレーキは、車体をすぐに静止させてくれる。もちろん使い手が腕を磨いてこそのブレーキワークで、素人が力任せに握ってしまえばスピンするだけだが。
(わたくしなら、この機体の性能を最大限に発揮できますわ)
ハンドルを切って、コーナーを最小限の減速と、最高のライン取りで曲がる。そしてコーナーを抜けた瞬間に加速。再び爆発的な速度を得る。それで茜たちを引きはがす算段だった。
しかし……
「残念だったな」
先頭交代した茜は、空を牽いてコーナーを容易くクリアしていた。距離は広がるどころか、どんどん詰まってくる。
「ようやくわかったぜ。リカンベントの弱点……それはコーナリングだ」
「……侮れませんのね。最初の直線で負けを認めていればいいものを」
リカンベントの中でも、とりわけ重心の低い車体をローレーサーという。天仰寺が乗っているのが正にそれだ。この低重心だからこそ、バランスが左右に崩れにくく、安定して走れるのである。
しかし自転車とは、曲がるときに重心を傾けるものだ。限界まで車体を傾ける天仰寺は、その角度の割に重心を変えられない。バンクのあるサーキットならともかく、ただの交差点では不利になる。
さらに、ハンドルを曲げるのにも限界がある。
リカンベントのハンドルは千差万別。非常に種類豊富だが、どうやって脚にぶつからないようにするかが課題になる。
天仰寺のレボリューションに付いているのは、ミッションコントロールと名付けられたハンドルバー。膝の間にあるヘッドから、大きく前方に歪曲し、U字を描いて腰の横に戻ってくるような形状だ。
腕を自然に持ってくることができるため、快適な姿勢を維持できる。半面、ハンドルを大きく切ろうとすると、腰に当たって曲げることができない。長いホイールベースと相まって、小回りなど一切利かないのだ。
(これだから、住宅地は……)
精いっぱいのブレーキによる減速と、ラインを外れられないからこそ生まれる慎重さ。それが速度と体力と、精神力さえすり減らしていく。
(もらった)
茜が大きく車体を傾ける。上体は垂直に保ったまま、曲がる方のペダルを一番上まで上げて、自転車だけを寝かせる。リーンアウトと呼ばれる技法で、高速での小回りを実現する曲がり方だ。
アウトコースから天仰寺を抜きにかかる。おかげで、インコースに切り込んだ天仰寺の理想が崩れた。アウト・イン・アウトの最後のアウトが、茜に阻まれてしまう。
(しまった。さらに減速を――)
インコースをキープするため、天仰寺はさらに速度を落とす。その横を、空が速度を上げながら抜いていく。
空の曲がり方は、茜と逆。上体だけを内側に曲げて、車体を倒さない曲がり方だった。リーンインと呼ばれる技だ。これによって、ペダリングを行いながら曲がることができる。普通なら速度が落ちるはずのコーナーで、加速を追求する曲がり方だった。
『ジュリアさんが抜かれたーっ。え?嘘。本当に?
えー、現在の映像をリプレイします。場所はただの交差点。信号機が停止しているのは、チャリチャン開催中のコースとして使っているからですねぇ。
コーナーで大きく減速したジュリアさんが、そのまま茜さんに追い越されています。外側から抜かれていますねぇ。そしてふらふらと外に広がったジュリアさんを、今度は内側から空さんが追い抜きます。
ちなみにジュリアさんで抜いたっていう視聴者さんはどのくらい……って、無駄話をしている場合じゃないですぅ。再びジュリアさんが加速。茜さんたちを追い抜きます。デッドヒートですぅ!』
次の交差点は直進。つまり速度を落とす必要がない。こうなれば天仰寺の有利は崩れないはずだった。
その交差点の先には、登り坂がある。傾斜は最大7%くらいで、距離は10km前後。ロードバイクなら問題なく走れて、ママチャリなら場所によって降りて押す程度の坂だ。リカンベントにとっては、やや苦手。
「っく――せっかく抜き返しましたのに……」
天仰寺の表情が曇る。速度がどうしても落ちるヒルクライムにおいては、空力抵抗はあまり関係しないのだ。それよりも重要視されるのは、単純な馬力。
普通の自転車なら、ペダルに体重をかけて踏むことも出来るだろう。しかしリカンベントはそれができない。
「もらったぁ!」
茜が再び天仰寺を抜き去る。その一瞬のために、瞬発力を使ったダンシング。車体を大きく横に振り、ギアを落とすことなく登っていく。
(速いですわね。茜先輩)
(まあ、アタイもこの速度を維持できるわけじゃないけどな)
天仰寺を抜いてすぐ、ギアを落としていく。それでも茜の方が早いのは、単純に自転車の形状から来る性能差だろう。
一方の空は、ギアを下げてケイデンスで稼ぐ方式を選んだ。つまり、赤い彗星との戦いで見せた必殺技は使わない考えだ。天仰寺の後ろにぴったりくっつく形で追っていく。
「空。あれは使わないのか?」
「うん。まだ安定しないから怖いし、体力を温存したい」
もともと瞬発力に自信のない空は、あえて様子を見る作戦を取る。茜はそんな空を待つこともなく、徐々に差を開いていく。
ここで、天仰寺が勝負に出た。
(あまり優雅な戦い方ではありませんが……これも趣の一つですわ)
リカンベントのハンドルを後ろに引き付け、身体をペダルに押し付ける。こうすることで体重をかける以上に強く、ペダルを蹴ることができるはずだ。
華奢な上半身では支えきれないほどの力が加わり、坂という事も相まって頭に血が上る。寝そべった姿勢が必ずしも楽とは限らない。加えて言えば、ハンドルの角度が水平に近いので引き付けにくい。それでも……
「ううっ……だああああ!」
声自体は弱弱しい、しかし込められた思いは非常に強い叫び。天仰寺が加速して、茜を追う。
「嘘だろ?リカンベントで引き付け?」
「ふふっ、で、出来るんですのよ。少しは、ね」
茜の横に、天仰寺が並ぶ。そこから一馬身差で空が追いかける形。
(まずいな。このまま並んで坂を終えたら、天仰寺が得意な平地になる。それまでに引き離さないと、アタイに勝ち目はないんじゃないか?)
茜にそう思わせる程、天仰寺のトップスピードは厄介だった。
勝負は膠着。そのまま10分ほど走っただろうか。
状況をかき回したのは、意外にも空だった。
「天仰寺さん。行くよ」
「え?」
空がギアを上げて、体を横に振る。例の技だ。左に寄った天仰寺の横を、軽くすり抜ける。
(よし、空がその気ならアタイも……)
茜も空についていくために、自転車を揺らす。天仰寺をここで大きく引き離し、そのままゴールする算段だ。
『ここで、空さんと茜さんが勝負に出ましたぁ。激しく腰を振る空さんと、自転車をギシギシ言わせる茜さん。そのままイっちゃいますぅ!
ジュリアさんとの距離はどんどん離れていきますねぇ。あ、中継車さんはジュリアさんの後ろにいてください。空さんたちを追うより面白いと思いますから。
さあ、上り坂ももうすぐ終了。そこから先は平坦な道路。そしてお待ちかねの公園ですよぉ。先にフィニッシュするのは空さん?それとも茜さん?はたまた、ジュリアさんが略奪するのか……』
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