第22話 地を這う天使とリカンベント(後編)

『さあ、上り坂ももうすぐ終了。そこから先は平坦な道路。そしてお待ちかねの公園ですよぉ。先にフィニッシュするのは空さん?それとも茜さん?はたまた、ジュリアさんが略奪するのか……』


「空。このまま平地でも速度を上げるぞ。ついてこれるか?」

「うん。大丈夫」

 茜が空の前に出る。そのまま登り坂を抜けて、さらにスプリント。大きく前傾姿勢を取った二人が、風圧に負けじと加速する。


『おやおやぁ。茜さんたちがさらに加速しましたねぇ。もうジュリアさんから見えないほど離れているんじゃないでしょうかぁ?

 そのくらいは警戒しておいた方が無難でしょうねぇ。ゴールの公園まで、あと10kmを切りましたよぉ。頑張ってくださいねぇ。

 そして、空さんから80秒遅れて、天仰寺さんも坂道を越えました。ここから巻き返しが始まりますよぉ』


(まったく、ミス・リードも勝手なことを言ってくれますわ)

 長くて地味な上り坂のせいで、天仰寺の体力は大幅に削られていた。ペダルを止めた天仰寺は、大きく深呼吸する。

(この状態から先ほどの加速をするのは無理。ですが、先輩たちだって体力を消費しているはず)

 心拍数が正常に戻るまで、フルアウターでゆっくりペダリングする。それでも30km/hほどで巡行。

(まだゴールまで10km前後でしたわね。焦る必要はありませんわ)

 まるで昼寝でもするように、身体の力を抜いていく。ここだけ切り取ってみれば、リカンベントとは優雅な車体だった。

 伏し目で見る前方に、空たちの姿は見えなかった。よほど差をつけられてしまったのだろう。

(さて、脚も回復いたしましたし、そろそろ行きますわよ)

 変速ギアを下げて、呼吸を止める。次の瞬間、ペダルが恐ろしいほどの高速回転を始めた。

 250近い圧倒的なケイデンスで、車体が弾かれるように加速する。ギアを少しずつ上げて、ついにはアウター8。これ以上ギアを上げるのは、彼女のトルク的に出来ない。

 しかし、これだけできれば十分だろう。

 110km/hの化け物が、空と茜を追う。


『出ましたぁ!ネットで話題の必殺技。250RPMスプリント!映像見えますかぁ?……見えません。ごめんなさい。

 軍用ジープを改造したはずの中継車が、完全に出遅れております。高性能カメラでズームしてようやく追いかけていますが、速いの一言に尽きますぅ。

 念のために言いますけど、これは加工無しの生放送ですぅ。この映像はCGでも早送りでもないし、ましてハリウッドのSF映画のワンシーンでもありません。

 未来的なデザインの自転車が、車を置いてけぼりにして走っていく。そんな時代が来ているんです。ママチャリしか知らない皆さん。この機にリカンベント、ご購入いかがですかぁ?』


「やべぇ。このまま逃げ切れるか?」

「茜。ごめん。僕、もう……」

 空の速度が落ちる。とはいえ、走れなくなったわけじゃない。巡航速度に戻るだけだ。茜も同じく速度を落とす。ゴールまではまだ5kmもあった。

「とりあえず呼吸を整えろ。次で最後のアタックだ」

「わ、わかった」

 そう言っている間にも、後ろからジープのエンジン音が迫る。それは同時に、天仰寺も追い上げてきたことを意味していた。

「この先のコーナー曲がったところだ。そこで逃げるぞ」

 茜の作戦に、空が頷く。その声が聞こえるくらいに、天仰寺も接近していた。

「あら?せっかく追い上げましたのに……もう行ってしまわれますの?」

「つーか、もう追いついて……」

「……追い越されたね」

 喋っている暇もないほど速く、天仰寺が二人の横をすり抜けていく。相対時速でさえ90近いのだ。天仰寺が切り裂いた風が、空の身体にぶつかる。

(ですが、わたくしもここまでですわね)

 天仰寺がブレーキを引いて、大きく減速した。コーナーを曲がるためだ。

 それを追う空と茜は、まったく減速しないでコーナーに突っ込む。結果として、3台が絡み合い、幾重にも重なるラインを引いて曲がる。

(ぶつかる?)

 空はそう思ったが、意外にも一度も接触しない。自転車とは自分が思っているよりずっと小さく、意外にすり抜けに適した乗り物だ。特に速度が上がっているときは、大きく錯覚してしまうのである。


『さあ、最後のコーナーを曲がりました。一番で抜けたのはジュリアさんのレボリューション。その後輪のすぐ横に前輪を突っ込ませるのは、空さんのエスケープ。二人がコーナーを抜けてアウトコースに膨らむ中、内側を切り崩していくのは、茜さんのクロスファイア。

 今、茜さんがジュリアさんを抜いて一位。その後ろにぴったり付くように、空さんが右に躍り出ます。ハンドルを振って車体だけを傾ける。リーンアウトの2連続。そのまま加速していきます。

 ジュリアさんはストレートへの立て直しに遅れてしまいましたが……』


 ガッシャ―ン!


『どうしました!?え?中継車が電柱に衝突……?ああ、映像出ますね。これはカメラが傾いているのではなく、どうやら車体そのものが傾いたようですぅ。そのまま片輪走行で電柱と衝突。はぁ……情けないですぅ。

 幸い車体に損傷は無し。さすが軍用ジープ。タフですねぇ。カメラマンさんが放り出されたようですが……あ、怪我はないですねぇ。なら、さっさと追いかけて中継再開してくださいよぉ。

 電柱に至っては修理費をチャリチャン実行委員会に請求願います。近隣住民に停電などの被害があった場合は申し訳ありません』


 ジープがギアをRに入れて、電柱から距離を取る。カメラマンも再び後部の銃座に乗り込むと、カメラを構えなおした。まだ腰が痛むが、この大会の中継車に乗ると決めた時から覚悟の上だ。

 ズーム機能を最大限に使って、カメラが3台の自転車を追う。

「行くぜぇ!空」

「うん。茜」

 天仰寺を抜いた二人は、さらに加速するところだった。ただでさえコーナーを出た時点で、速度は20~25km/hである。それが倍ほどの速度まで上がる。

 茜がサイコンで確認する限りだと、現在45km/hに到達。まだ速度を上げられる。と、正面を見た時、茜は気づいた。

(あれは……マンホール!)

 どこの道路にも設置されているだろうマンホール。ただし、この場所は勝手が違っていた。度重なる道路工事か、あるいは水道工事の影響だろう。マンホールの蓋が、地面から数センチも陥没しているのだ。

(避けろ――って、声も出ないか)

 いつもの茜のよく通る声は、大きな肺活量に由来する。今は速度を出すために、肺活量を自転車に取られていた。仕方なしに、右手を斜め下に下げる。減速するというハンドサインだ。

 それから右手首をくるくると回し、地面に障害物があることを伝えるサイン。自転車乗りの間では、これらハンドサインが稀に使われる。レースのテクニックとしてではなく、交通安全の意味で。

(ええ?そんな急に――!?)

 空はあたふたしながらハンドルを切り、茜の横に出る。茜のディスクブレーキの制動力に対して、空のVブレーキはゆったり減速する特性がある。ハンドルを切らないと茜に追突する。

 そのまま、茜がサインで教えてくれた障害物を確認する。時すでに遅し、止まることも避けることも出来ない。

(一か八か……行けっ)

 空が車体を引き上げる。地面を這うような低いジャンプ。手足を使って車体の上で身体を浮かせ、そのまま空中に自転車を連れて行くのだ。

 マンホールの上を跳ぶ。そして最小限の動きで着地。あまりにも滑らかな動きだったため、まるで透明な板が被せてあったかのように見えただろう。

(……やった?)

(ああ、やったよ。凄ぇな。空)

 茜が空に親指を立てる。空も親指を立て返した。その後ろで、


 ガシャァアァアン!


 響くわりには軽い衝突音がする。嫌な予感がしつつも、空と茜が振り返った。

「っく――あ、ああっ……」

 案の定、天仰寺がマンホールを越えた先で倒れていた。

 自転車で段差を越える際には、テクニックと心構えを必要とする。それは例えMTBでも同じだ。ましてオンロード用リカンベントであるローレーサーなら、もっと慎重になるべきだった。

 寝そべった姿勢では、空のように体重移動で車体を浮かせることも出来ない。そもそも手足で身体を支えているわけではなく、背中で身体を支えていることが問題だ。

 そして何より、天仰寺はマンホールに気づいていなかった。頭を後ろにした姿勢で、路面状況を確認できなかったのだ。茜のハンドサインに関しても、自分の膝に隠れて見えていなかった。

「な、なに、が……おき、ま、した……の?」

 本人は何故投げ出されたのか分からないまま、地面に横たわっていた。どうやらビンディングが外れず、クランクを軸に半回転してしまったらしい。そのまま自転車ごと引きずられたのだろう。酷いありさまだ。

 ドレスのようなウェアは擦り切れ、その合間から血が滲む。体中が痛い中、立ち上がろうと地面に手を付く。しかし足がペダルから外れない。その目の前に、後ろから迫る中継車――

「天仰寺――!」

 茜が叫ぶ。中継車のブレーキが大きな音を立てて、天仰寺の目の前で止まった。

 当然、中継車だってこの可能性を考慮して、適正な車間距離を取っている。それでも、天仰寺にとっては衝撃的な光景であった。

「大丈夫か?天仰寺」

「しっかりして。天仰寺さん。怪我は?」

 Uターンして戻って来た茜と空が、しゃがんで話しかける。車から降りてきた運転手とカメラマンも駆け寄った。

「ふ……ふえぇっ」

 ぐしゅっ……と鼻水をすすった天仰寺は、その美しい顔を大きく崩して、堰を切ったように泣き出した。

「びえぇぇぇえええん!」

 そりゃもう、みんなが引くほど……




 ゴールである自然公園に、3人は自転車を押して入場した。意外と広い自然公園は、チャリチャンコースに隣接してはいるが、厳密にいえばコースではない。

 そのため一般人も入場できるようになっており、そもそも地元のイベントで盛り上がっていた。実はチャリチャンに便乗したイベントなのだが、非公式なので実行委員もミス・リードも知らない。

 そんな中、奇跡的と言ってもいいくらいの形でベンチを確保した3人は、自転車を木に立てかけて休憩していた。

「大丈夫?天仰寺さん」

「うっ……ぐすっ、う、うん」

 まだ泣き止まないものの、落ち着いてきた天仰寺が頷いた。ただでさえ目立つ形の自転車を携えた、お姫様のような格好の美少女。それがボロボロの状態で泣いているのだから、周囲の視線を集めて仕方ない。

「空、天仰寺。ちょっとアタイは出店で何か調達してこようかと思うんだが、お前らはどうする?」

「あ、それじゃあ僕は天仰寺さんと休憩しているよ。適当に何かよろしく」

「あいよ」

 茜が立ち上がる。この分だと軽食には困らなそうだ。ただ、レーパンで歩いているといろんな人から声を掛けられそうではある。

(今の天仰寺と一緒にいるのも面倒だけど、こういうイベントでちやほやされんのも、面倒と言えば面倒だよな)

 などと考える。自転車知識のある人間とのマニアックな会話は楽しいかもしれないが、ここに集まっている地元民らしき人のほとんどは素人だ。話は通じないのに、それでも中途半端に知ったかぶって話を聞きたがる人間が意外といる。大概は老人だ。


 茜がふらふらと去ったあと、困ったのは空だった。

(あれ?これって僕が天仰寺さんの面倒を見る流れ……?)

 そこに気づいてしまった空は、改めて天仰寺を見る。泣きはらした顔は実年齢より幼く見え、割と低い身長と相まって小学生みたいだ。レース中の妖艶な美女というイメージはすっかりない。

 幸いにして、大きな怪我はないらしい。擦り傷やアザが異様に目立つが、その程度だ。

「空先輩……ごめんなさい」

 天仰寺が弱弱しく言った。

「え?なにが?」

「だって、ぐすっ……せっかくの勝負も流れてしまいましたし、ひっく――何よりまだ大会中ですのに、空先輩も茜先輩も、わたくしに構ってタイムロスを……」

 確かに、まだ沿道では大会が進行している。公園にはカメラを構えて待つ人たちの姿も見えた。選手たちを撮影したいのだろう。

「タイムロスの事なら、気にしないで。僕たち、結構こまめに休憩しているから」

 何となく、空は天仰寺の頭を撫でてみた。自分が昔、何かあるたびに母にやってもらった事だ。

「空先輩?」

「あ、嫌だった?」

「……いいえ。願う事なら、このまま」

 そう言って空に頭を差し出す。空はその頭をさすり続けた。

「そういえば、天仰寺さんの自転車は無事なの?」

「……さあ?あの程度で壊れるとは思い難いのですが、わたくしも乗って確認しなければ判断できませんわ」

 総額100万円の自転車。それも愛着あるに違いないカスタム車となれば、それは壊れていてほしくないと願うのも当然だろう。そもそも部品自体が入手困難な高級ロードバイク用だ。仮に壊れたら、大会はリタイアするしかない。そう思った。


「お嬢様!どちらにいらっしゃいますか!?」

 黒服を着たサングラスの男性が数名、周囲を見回しながらやってくる。

「先輩。わたくしから少しだけ離れて」

 急に天仰寺が、冷たい声を出す。その目つきは鋭く、先ほどまでとは全く違う表情になっていた。

 その鋭い視線の先に、黒服の男がいる。空は何が何だか分からないまま半歩離れて、天仰寺の頭から手を離した。

「おお、お嬢様。探すのが遅れて申し訳ありません」

「いたぞ。お嬢様だ」

「セバスチャン様に連絡しろ。それと、例の車体を」

 バタバタと、物々しい雰囲気でやってくる黒服たち。それを天仰寺は、ため息交じりに見ていた。

「こ、この人たちは?」

「ああ、わたくし付きのSPですわ。もっとも、うちで直接雇っているわけではなく、外部の派遣という形になりますわね」

 SPの前では毅然とした態度をとっているんだろうか?天仰寺はすぐに襟を正す。空としては、座っていていいものか迷うところだ。というか、逃げるタイミングを失った。


「こちらは空先輩。わたくしと戯れてくださった選手ですわ」

 天仰寺がSPたちに言う。困ったのは、紹介された空の方である。

「ど、どうも……」

 居心地悪い。それはそうだ。天仰寺はあの事故を自分の不注意くらいに考えているだろうし、客観的に見てもスポーツ中の事故による落車でしかない。だというのにSPの皆さんは、まるで空が天仰寺に怪我をさせたと言わんばかりなのだ。

 さらに、初老の男性が追加でやってくる。傍らにはトランクケースを二つ抱えた男もいた。

 初老の男が、他のSPから何かの報告を受ける。そして空の前まで来ると、丁寧に一礼した。


「空さま。本日はお嬢様のわがままにお付き合いくださり、誠にありがとうございます。わたくしは、天寺あまでら家に仕えている執事の、斎藤と申します。まあ、皆からはセバスチャンなどと、ふざけたあだ名で呼ばれておりますが」

 どうやらセバスチャンは本名ではないらしい。まあ、どう見ても日本人である。

 その通称セバスチャンは、天仰寺を見て泣き崩れるような演技を見せた。

「おお、樹利じゅりお嬢様。このような傷だらけの姿になられて、おいたわしく存じます。ご主人様もお嘆きになるでしょう。どうか、これに懲りましたら、いつでも天寺家へ帰ってきてください」

 大袈裟に天仰寺を見上げる姿勢を取ったセバスチャンに対して、天仰寺もまた尊大な態度を取る。余談だが、天仰寺樹利亜もまた、本名ではないらしい。

「嫌よ。わたくしは帰りませんわ。お父様は自転車を理解していないのよ。だから止めさせようとするのだわ。わたくしは、自転車と共に生きてゆきます。たとえ、天寺の敷居を二度と跨げなくなったとしても……」

「お嬢様……ご主人様はお嬢様を心配なさっているからこそ、自転車から遠ざけようというのですぞ。その点だけは、どうかお間違いないよう願います」

「……わかっておりますわ。お父様がわたくしを大切に思っていることも……しかし、それは天寺家の跡取りと結婚させるためでしょう!結局、あの人は家の事しか考えておりません。わたくしは、天寺家のお人形ではないのですわ」

「お嬢様……このセバスチャンは、お嬢様の……いえ、天寺樹利様の味方にございます。たとえ天寺家を、裏切ることになろうとも……」


 天仰寺とセバスチャンの、そんなやり取りが続いた後、ついに天仰寺が笑いだした。

「ぷっ、ふふふっ、うふふふふ」

 それを見て、セバスチャンも笑う。終始ポカンとしているのは空だった。

「空様。失礼いたしました。実はお嬢様は、こうして貴族ごっこをするのが好きなのですよ」

 と、セバスチャンが説明すれば、

「特に、空先輩のあっけにとられたお顔が可愛らしいのですもの。つい見とれてしまいましたわ」

 などと天仰寺が言う。どうやら盛大な茶番だったらしい。

「それで、予備の車体ですが……」

 と、セバスチャンが切り出した。

「予備の……車体?」

 空が訊き返す。すると、天仰寺が答えてくれた。

「ええ。このチャリンコマンズ・チャンピオンシップでは、確かに自転車を乗り換えることは禁止されていますわ。でも、組み換えや修理まで禁止されているわけじゃありませんの。取り付けたGPSタグと、車体番号さえ合っていればいいのですわ。つまり、フレームを除くすべての部品を交換できますの」

「たしかに、そう説明されたけど……」

 と、もちろん空も覚えている。その横で、セバスチャンがトランクケースを開けた。

「え?何、これ……」


 それは、もう一台のトロイテック・レボリューションだった。分解こそされているが、天仰寺が乗っていた車体と遜色ないカスタムである。

「予備機、ですわよ。わたくしのレボリューションという車体は、こうして純正ケースに入れて持ち運ぶことも可能ですの。リカンベントの中でも珍しい機構ですわ」

「お嬢様は、同じ車体を2台持っているのです。片方に損傷があっても、もう片方に乗り換えられるように、と。もっとも今大会においては、フレームまで交換するわけにはいきませんが」

 そういうセバスチャンが、もう一台のレボリューションを組み立てる。あっという間に、2台のレボリューションが並ぶ形になった。

「さて、お嬢様。ここからが修理ですが、どの辺まで治しますかな?」

「そうね。とりあえず足回りは不安ね。ホイールとクランク周辺を交換。それ以外は現状の部品で構いませんわ。回収した部品は精密検査にかけて、問題なければ再び予備機に搭載しておいてくださいな」

「かしこまりました」

 天仰寺の指示で、セバスチャン含む数名のSPが動く。その間に、天仰寺はもう一つのトランクケースを手に取る。中を確認すると、白いドレスのような特注ライダージャージ。つまり天仰寺が今着ているものと同一の衣服が入っていた。

「そういえば、天仰寺さんって荷物とか全然持ってなかったから、長旅でどうしているんだろうって思ってたけど……」

 と、空が訊くと、

「ええ。ご覧の通り、着替えやスペアパーツはセバスチャンに運ばせていますわ。コースアウトして合流という流れですわね」

 天仰寺が胸を張る。ただでさえ大きな胸がさらに大きく強調されて、とんでもない光景だ。

「まあ、ロードバイクの皆さんなら、シートポストにバッグを取り付けたり、バックパックを背負ったりするのでしょうけどね。わたくしのようなリカンベントだと、それができないのですわよ」

 やっぱり、意外と弱点の多い車体である。

「それじゃあ、わたくしは着替えてきますわ。茜先輩にもよろしく言ってくださいな」

「え?えっと、ここでお別れって事?」

「ええ。わたくしの車体は調整に時間がかかるでしょうし、ここから先は下り坂。一度走り出したら、誰も追いつけませんもの……」

 自慢げに、そして得意げに、天仰寺は宣言した。

 そこに少しだけ寂しさが混ざっているように見えたのは、きっと気のせいなのだろう。

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