第11話 オールマウンテンと2WD
「じゃあ、ソラもアカネも元気でな。また縁があったら
「そうだな……鹿番長も頑張れよ。アタイらは先に行く」
「あ、これってすぐに再会したら恥ずかしいやつだ」
15:00――ようやく圧雪作業が終わったと聞いた空と茜は、イオンでの買い物を中断して出発を決めた。フードコートで居眠りしていた鹿番長に出発を伝えると、鹿番長は跳び起きて『俺も
しかし、実際に路面を見た鹿番長は、タイヤに空気を入れてから出ると言い始めた。待っていても仕方ないので、ここで別れることにする。
茜と空の姿が、少しずつ遠ざかっていく。鹿番長は二人を密かに心配していたが、
(さすがに、ここまで
ひとまず安心する。たとえ敵同士でも、一度情けをかけた相手には簡単にリタイアしてほしくはない。同じ釜の飯(フードコートのピザ)を食った仲ならなおさらだ。情に厚い番長だった。
「さて、俺も
鹿番長はボトムチューブ横に取り付けてあった携帯ポンプを取り出して、空気を入れ始める。この小さいポンプでファットタイヤの容積分の空気を送り込むと考えると、だいたい片方で10分。合計20分ほどかかる計算だ。
出発から50分ほど走った頃、茜と空は雪に埋もれた看板を見つけた。
先ほど休憩していたデパートまで、Uターンして12kmだそうだ。つまりこの50分の間に、たったの12kmしか走っていない計算になる。
「この程度しか走れてないのか……くそっ。ペースが上がらない」
茜が悔しそうに言う。圧雪されたことにより滑りやすくなった雪は、タイヤの跡により凹凸がついていた。この凹凸に引っかかるたびにタイヤが滑り出し、進行したい方向に行くことができない。
「っていうか、12kmも先にデパートが案内を出している方が凄いよね」
「そこじゃないだろ。まあ、確かにどんだけ田舎なんだって話だけども――」
「あ、雪の上なら滑らないかも」
「あ?そんなわけ……あ、本当だ」
シャーベット状にザクザクした雪は、車体を沈めてくれる分、滑りにくい場合がある。数日にわたって雪が降っている場合は隠れアイスバーンの危険があるが、このあたりのように一日で降り積もった分に関しては安全だ。
「よし、このまま雪を踏むようにして走るか」
「そうだね。ツヤがなくてザラザラしているのが目印だよ」
とはいえ、ライン取りが難しい。とりあえず走れるようになっただけ午前中よりいいが、まっとうに走れているというにはあまりに不安だ。
「よぉ。結構進んだじゃないか。見直したぜ」
鹿番長が後ろから追い抜いていく。もう追いつかれたようだ。その速度は、驚きの30km/h越え。
「は、速い。いつの間に?」
「あいつ。こんなポテンシャルを持っていたのかよ」
ファットバイクは、タイヤ内の空気圧によって走りを豹変させる。気圧が低ければ低いだけオフロード性能を上げ、高ければ高いだけオンロードの速度を上げるのだ。
今の鹿番長のタイヤは20psiほどの気圧を保っていた。普通の自転車からすると低いが、267においては最高気圧だ。その走り心地はまるでクロスバイクのようだった。雪の上をアスファルト同様に高速で走っていく。
代わりに、サスペンション効果を失った車体は、わずかな段差でも大きく跳ねる。バスケットボールを床にぶつけると、そのまま天井付近まで跳ね返ることがあるだろう。その感覚に近い。
高圧のファットタイヤは、段差に当たるたびにバウンドして車体を揺らす。暴れるハンドルを無理矢理押さえつけながら、鹿番長は走り去っていく。
「まるでダートコースを走るMTBみたいだな。実際は平らな圧雪路なのに……」
「知らない人が見たら、なんか大袈裟に車体を揺さぶっているみたいにも見えるよね。本人は真面目に走っているだけだろうけど」
「ああ。格好と相まってな」
リーゼントに特攻服の少年が、太いタイヤの自転車をガタガタ震わせながら走っている。はたから見たら暴走族のそれで間違いないし、雪道に理解のない人なら無謀に見えるだろう。頭悪そうな格好だから余計に。
「待つがいい!そこの中学生め!」
後ろから大きな怒鳴り声が聞こえる。
「え?僕ら?」
「はぁ?アタイは知らないぞ。鹿番長じゃないか?」
「でも……うわぁっ」
怒鳴り声に振り返った空は、そのままバランスを崩して転倒する。前輪をタイヤ痕に弾かれたまま、操作が利かなくなった車体はハンドルを90°以上回転させてひっくり返った。
「空ぁ!」
茜がブレーキをかけて足を付く。しかし着いた足はアイスバーンで滑り出した。地面に着いた左足は左側に、自転車は右ビンディングシューズごと右へ。結果、180°開脚しながら地面を滑る。
「痛ぇ!っく――」
幸いにして、茜の股関節は柔らかい。自転車乗りで柔軟な関節を持つ人は珍しいが、茜にとって180°の開脚も苦にならなかった。生まれ持った才能と言うしかない。
(こんな特技、自転車では役に立たないと思っていたけどな)
頭では冷静に考えながら、体は姿勢を戻すために足掻く。空の乗っていたエスケープが足にぶつかって痛い。右足のビンディングは外れず、12kgもあるクロスファイアは茜の右足を引きずって滑る。
(――ダメだ。成す術なしか)
(ごめん。茜)
空も同じように、立ち上がることも出来ないまま倒れこむ。幸いなのはフラットペダルを使っていたことだろう。自転車と体は別な方向に滑る。
そして、転んだ空の方向に、後ろからMTBが迫る。先ほど後ろから怒鳴りつけてきた青年だ。
「危ない!」
そのMTBもすぐにブレーキをかけた。車体が滑り出し、結果的には空を轢くことになってしまう。
凍った路面で急ブレーキは危険。解っていてもやってしまうのは、いつもの癖とか慣れによるものだった。逆に言うと、ブレーキをかけることが体に染みつくほど乗っているからこその、ベテランに限ってよくやる失敗だ。
「え?っあぁあ!」
「すまない。だが目の前で転んだ君が悪いんだからな!」
もつれるように転んだ3人は、お互いに自分の身体を確認しながら立ち上がる。幸いと言うべきか、目立った怪我はない。
『あらら……今、3名の選手が絡む事故が発生しました。路上に設置されたカメラでは一部しか映っていないので、詳しい分析は出来ませんが……
事故に遭ったのは、エントリーナンバー435 諫早・茜さん。同じく451 ソラさん。それから275
どうでもいいですけど、3名が絡むとか、事故とか、ちょっとエッチですよね。NTRか、それとも3Pでしょうかぁ?みたいな――
ああ、また別の情報が入ってきましたよぉ。後方の選手ですが、エントリーナンバー079 赤い彗星さんと、同じく888 AKM47さん。お互いに軍用機みたいな自転車での事故ですぅ。自転車なのに誘爆しそう……』
ミス・リードの実況を聞いて、茜と空は顔を見合わせた。
「じろうかきうち……」
「さぶろううえもん?」
その声は、今MTBでぶつかった本人にも聞こえたようだ。次郎垣内三郎右衛門は、痛む左腕を押さえながら言う。
「なにかね?文句があるのかな。言っておくけど本名だぞ」
「「本名!?」」
その反応を見飽きているかのように、次郎垣内三郎右衛門は眉間に手を当てて頭を振った。
「まあ、誰だってそういう反応になるだろうな。私だって君たちの立場なら同じリアクションをしただろうさ」
「いや、空とか愛義徒とか、いろんなDQNネームを見てきたけどさ。さすがに驚くだろ」
「……茜って容赦ないよね。特に僕に」
空は自分の名前をディスられたことに、少し腹を立てる。とはいえ、今まさに同じようなことを次郎垣内にしてしまったのだから、茜を責めることも出来ない。
「すまなかったな。空君……と言ったか?」
「は、はい。いえ……」
「これは詫びだ。とっておきたまえ」
そう言うと彼は数枚の諭吉を取り出す。かなり適当な手つきで取り出したため、きっと枚数を数えてもいないだろう。改めて空が数えると8枚あった。
「え?これって……」
「ああ、気にしないでくれたまえ。要するにそれで示談にしようという話だ。この事故で双方どんな損害があったとしても、それで納得してくれ。ということさ。君の自転車だって安くはない。場合によってはそれで足りないだろう。決して高い額ではないよ」
そう言ってサングラスを人差し指で上げる次郎……なんだっけ?
空は改めて彼の服装を見る。スポーティなウィンドブレイカーの上に、不釣り合いなほど仕立てのいいカシミヤのジャケットを羽織り、これまた自転車乗りとは思えないフォーマルなパンツを履いている。スノートレッキングシューズとの組み合わせも最悪だ。
しっかり撫でつけたオールバックの金髪。そしてブランド物らしいサングラスと腕時計。分かりやすい成金が出てきたなと思う次第である。
「では、急ぐのでね。私はこれで失礼する」
そう言った次郎ナントカは、自分のMTBを起こして走り出す。あっけにとられていた空は、次の瞬間ハッとなった。
「これ、貰うわけにはいかないよね?」
と、手に握らされた8万円を見る。空の自転車を新車に変えてもお釣りの来る金額だ。もちろん買い替える気はないが。
「アタイは知らないぞ。でも、貰っといてもいいんじゃないか」
「ううーん。でも……」
もじもじと、納得のいかない顔をする空。茜はその間に自転車をざっと点検しながら、ため息交じりに提案する。
「もしも受け取りたくないなら、アイツに追いついて突き返すしかないんじゃないか?」
「そっか。そうだよね」
空が走り出す。茜はその後を追った。
すっかりコツをつかんだ空は、雪の中でも十分に速度を上げる。こういう時、あれこれと考えて走り方を身に着ける人もいれば、何も考えない方が最適化された走りを実現できる人もいる。空は後者だった。
なるべく浅く、踏み固められた雪を選んでラインを決める。イメージとしては、ザクザクの雪に車輪を乗せて、沈まないように転がす感覚。
ついに、先ほどの……なんか名前が長い奴に追いついた。
「次郎垣内さん」
「な、なんだね?さっきの金額では足りないのかい?」
「いえ。受け取れません。返しに来ました」
「そんな必要はないだろう。取っておくがいい。私は急いでいるんだ」
本人が言う通り、ペダルを忙しそうに漕ぐ彼。しかしケイデンスとは裏腹に進まない。
(あれ?この人、ギアを下げ過ぎてるんじゃ……)
そう思った空が、改めてその車体のギアを見る。
(――え?)
そのギアは、空が知っているどんな車体とも違ったものだった。
フロントはシングルギア。それもチェーンリングが非常に小さい。なんならBBシェル(BBハンガー)と大差ない大きさだと思えるほどだ。錯覚込みで。
そしてリアにはあまりにも大きなスプロケット。ブレーキディスクより大きなギアを筆頭に、ロード用かと見間違うほど小さなギアまで合計12段も装備している。その形状は極めて異質に見えた。
(凄い。けど、こんなギア比で進むわけがない)
そう、空は思う。本来なら自転車のギアは、フロントがリアを超える大きさで然るべきだ。ペダル一周分の回転を一周以上に増加させるから、自転車は歩くより早いのである。
そういったチェーンリングシステムの常識に照らし合わせれば、まったく合理的でない形状だった。これでは自分の足で走った方が早いのではないかと思うほどの次元だ。
「あの、次郎内垣さん」
「なんだね?質問なら手短にしたまえ。それと、私を呼ぶときは次郎でいい。長いからな」
カリカリした様子で走り続ける次郎は、強力なブロックタイヤで氷をつかみながら確実に進んでいく。その安定した走りは、さすがMTBといったところか。
「次郎さん。どうしてそんなに急ぐんですか?」
「ああ。さっきの少年が気に障るからだよ。あのファットルック車の男さ」
「鹿番長さん?」
「名前は知らないな。ともかく、言うに事かいて私の自転車に、値段ばかり高くていざ走ると遅い自転車だと言ったアイツを許せないんだよ。私は!」
ああ、確かに言いそうだ。と空は納得した。鹿番長は高級バイクを嫌っていたし、次郎のMTBは誰が見ても高級だとわかる見た目をしている。なにしろチェーンもスプロケットも金ぴかなのだ。
「なるほど。スペシャのSワークスか。確かに高級だな」
追いついてきた茜が言う。
「ほう。君はこの車体を知っているのかい?若いのに優秀だな」
感心したように次郎が言った。置いてけぼりを食らったのは空である。
「ねえ、茜。僕にも分かるように解説して」
「そういうのは持ち主の次郎がやれよ。もしくはミス・リード」
そう茜に言われて、次郎は仕方なくペースを落としながら二人と話す。
「この車体の名前は、SPESIARIZED S-WORKS
私は知り合いに頼んでアメリカから輸入してもらったが、この車体は日本で代理店を通して入手するのが困難だ。なにしろ本気のプロ向けだからね。100万円もしたよ。
フレームはフルカーボン。ホイールもカーボン。加えて12段変速と27.5inホイールを搭載。安定した3チャンバー・エアサスペンションに、もちろん油圧式のディスクブレーキ。まるでエンジンのついていないオートバイとでも言おうかな。いや、違う。オートバイなどのチープな車体を超える。この車体は地上で最もハイスペックな、最新鋭テクノロジーを集結したバイクだ」
まるでモーターショーのセリフをそのまま読むかのような次郎の口調。これでレースクイーンでもいたら最高だっただろう。この寒いのに茜以上に露出度の高い衣装を着る女性がいるかどうかは知らないが。
「変速ギアはスラムのXX1イーグルか。日本じゃあまり見ないよな。アタイも初めて見る」
「初めて見る割には、よく知っているじゃないか。なかなか優秀だよ」
変速ギアのメーカーは、大きく分けて3社しかない。日本のShimano.アメリカのSRAM.そしてイタリアのCampagnolo.この3社が大手だ。もちろん小さなメーカーも多数存在するらしいが、あまり知られていない。
中でもママチャリからスポーツバイクまで幅広い層をサポートするのはシマノで、その市場は国外でも広く、日本においては9割以上を占める。カンパニョーロはロードバイク専門で部品を作っているため、現在MTBには着手していない。
スラムは日本国内において珍しい車体だった。そもそもロード用コンポならともかく、オフロード用の上級グレードとなれば、茜が見たことないのも頷ける。
余談だが空の乗るエスケープR3.1もスラムを使っている。現行モデルではシマノに移行したようだが、従兄からもらった車体なのでモデルが古い。
「とにかく、私の車体は高性能な機体なんだ。君たちの乗るような初心者向けとは違うのだよ」
「あぁん?」
茜が苛立つ。と、同時に鹿番長の気持ちも少しわかった気がする。きっとルック車だとか走るガラクタだとか散々に言われて高級車を嫌ったのだろう。確かに自分の愛車を悪く言われるのはどんな形でも嫌なものだ。
「何か文句があるかね?少女よ」
「あるね。確かにスペック表で低性能なのは認める。それは実測データに基づくものだろうから、アタイが何を言ったって覆せない事実だろうさ。でも、走り自体はどうかな?」
茜が空を抜いて、さらに次郎まで抜き去る。
「ほう、これがシクロクロスの加速か」
次郎もそれを見て感心しつつ、加速する。ギアはこれ以上上がらない。ケイデンスで稼ぐだけだ。
「私の本気も見せてあげよう。世間知らずのお嬢様にね」
闘争心をむき出しにした次郎が、標的を茜に変える。
(よし、ついて来いよ。アタイの力を見せてやる)
茜もケイデンスを上げる。こちらはまだギアに余力があるが、雪の抵抗が多くて結局上げられない。フロントを1速で維持したまま、リアだけ高いギア数に変更する。タスキ掛けとか斜め掛けと呼ばれる行為だが、フロントが2速しかないロード用コンポーネントでは特に禁止されていない走り方だ。
フロントが3速の――空のエスケープみたいな車両なら、斜め掛けが禁止されている。大きいチェーンリング同士にかけるとチェーン長が足りなくなるし、逆ならプーリーを最大まで使ってもチェーンがたわむからだ。
一方のロード用は、その心配がない。微細なギア比の変速を視野に入れている分、段数の割に変速幅が小さいことに由来するのかもしれない。そもそもフロントが2段しかない分、チェーンに角度が付きにくいのかもしれないが。
(とはいえ、フロント最小のままリア最大はさすがに擦れるよな……)
フロントディレイラーにチェーンが当たり、回転させるたびにガチャガチャと音を立てる。恐らく掠めている程度で、数ミリの誤差だと思う。
茜は左側のブレーキレバーを軽く内側に倒した。トリム調整という機能だ。シフター内に1速目と2速目の間の段数が2段ほど用意されており、変速しない程度にディレイラーを動かせる。
(これでよし、だな)
このトリム調整機能の実装で、現代のロードバイクやシクロクロスはライダーの意思に沿った変速を実現したと言える。それ以前は2×10が必ず20になるとは限らなかったが、今の20段変速は本当に20段フルに使用できる。
(なるほど。フロントディレイラーか。私のエンデューロにはない機能だ)
次郎は少し悔しそうに目を細めた。
高級自転車ほど尖った性能を持つことが多く、その分機能を減らすこともよくある。例えばピストならフリーハブを持たないし、そもそもスポーツ自転車は前かごやシリンダー錠をほとんど装備しない。
結局、値段だけで最強の自転車が決定しないという裏付けだった。
(だが、私を甘く見ない方がいい。君は私をこう思っているのだろう?金持ちの道楽で自転車の値段ばかりを自慢する、と……)
次郎はハンドル左側に取り付けられたシフターのようなコントローラーを操作する。もちろんフロントがシングルギアなのだから、左にシフターなど存在しない。
(私だって、確かな実力でここまで来たつもりだ。そもそも、金持ちの道楽ならクルーザーなりセスナなり他にあるだろう。私がMTBを選んだ理由は、私の純粋な想いだ!)
次郎が乗るエンデューロのシートポストが、自動で下がる。このシートの高さを手元で調整するのが、先ほどのコントローラーだった。
わずか数センチ程度下げただけだが、サドルの高さ数センチは走りに劇的な違いを与えてくれる。今までほど楽に漕げるわけでもないが、代わりにペダリングの速度は上がる。結果――
次郎の脚力と相まって、ケイデンスは160を超える。
(う、嘘だろう。こんな速さで追いついてくるなんて――)
茜も驚いていた。仕方なしに速度を上げるが、追いつかれる。
焦った茜は、すぐにギアを上げてフルアウターに変速。ドロップハンドル下部を握り、持ち前の脚力でトラクションをかける。茜がひそかに得意とする急加速だった。
しかし、忘れてはいけない。
ここは雪の上。しかも融雪剤を中途半端に撒かれ、水を湛えたアイスバーンに近い状態だということを。
「う、うわぁあっ」
茜が再び滑る。今度は両足のビンディングをつけたままだったので、足を付くことすらできない。
「無様なものだね。残念だよ」
転倒した茜の横を、次郎が通り過ぎていく。とはいえ、次郎の走りも慎重そのものであった。
スタッドタイヤならともかく、ただのゴムタイヤではアイスバーンに対抗するのは難しい。もっとしっかり凍っていれば話は別だが、夕暮れの時間帯も相まって最悪のコンディションだ。
「くそっ――」
茜が立ち上がる。蚊帳の外にいた空がようやく、茜に追いついた。
「大丈夫?――うわぁ。酷いアザだよ。茜」
「このくらいの怪我なら、大したことないさ。それよりアイツに追いつくぞ」
茜が自転車を起こす。軽く点検して、ディレイラーハンガーやスポーク、フロントフォークなどが折れていないか確認。今までだって折れたことはないが、これからも大丈夫という保証はない。
「おっとと」
覗き込んだ時に、靴が滑って転びそうになる。自転車で走れるかどうか以前の問題で、そもそも立っているだけでも厳しい路面状況だった。ファットバイクのように接地面積が大きければマシなのかもしれないが、根本的に走れない。
「これ、とりあえず凍ってないところまで、自転車を押すしかないね」
「そうだな。幸いにも全部が凍っているわけじゃないみたいだし、道路の端なら走れるかもしれない」
怪我が痛む影響もあるかもしれないが、とにかく自転車を押して移動する。おぼつかない足取りながら、それでも一歩一歩、上から下に靴を置くようなイメージで。
と、その後ろから、また一台のMTBが接近してきた。雪のように真っ白な車体だ。
高校生くらいだろう。スッキリとした目鼻立ちに、細い顎。耳にかかる程度の長さまで伸ばしたまっすぐな髪の毛。少し背の高い青年である。
「おい、危ないぞ。ここ凍ってるからな」
茜は親切心から叫ぶ。叫んだところでもう遅いような気もする距離だが、同じように滑るにしても、せめて受け身が取れればいいだろう。
そう思っていたのだが、結果は意外な形になる。
そのMTBは、まったく滑らなかったのだ。バチバチと大きな音を立てながら、茜たちの横を通り過ぎる。それも速度を落とさないまま。
「忠告ありがとう。でもさ、こういうところ、俺様の得意分野なんだよなぁ」
すれ違いざま、そんなことを言っていた。
「あいつ、凄いな」
「あれって、いったい……」
取り残された二人はあっけにとられる。
『ここで、大注目の中学生コンビ、空さんと茜さんが抜かれましたぁ。
今抜いていったのは、エントリーナンバー230
このアイスバーンでも滑らず、雪に埋もれても突き進む圧倒的な馬力と安定感。これがスパイクタイヤの力でしょうか?それとも、現在大注目のテクノロジー、2WDの能力でしょうか?
そう。なんと彼の愛車、DOUBLE ATB-typeは二輪駆動の自転車なのですぅ。自動車で例えるなら4WDのように、前輪と後輪が両方とも動輪になっているマウンテンバイク。その実力は未知数と言えますねぇ。
いいですねぇ。前も後ろも回されていくタイヤ……私も前から後ろから輪姦されたいですぅ』
「そんなのあるの?」
空が驚く。茜は自転車を立て直しながら、記憶をたどってみた。
「ああ、そういえばあったかもしれない。割と昔からあるコンセプトみたいなんだけど、思ったほどのスペックを持たなかったことから生産量も少ない。まあ、要するにミーハーな素人向けの飾りみたいな自己満足装備だな」
「でも今、茜が滑って転んだところを走っていったよ」
「う……それは、まあ――」
「茜って、結構食わず嫌いするタイプ?」
「ご、ごめん」
割と素直に認めた。もともと実力主義なタイプの茜は、競技用自転車としては名前すら上がらない2WDに対する知識が少ない。
「ああ、話してないでアタイらも行くぞ」
「うん。このお金も返さなきゃいけないもんね」
ザクザクした溶けかけの雪を踏みしめて、再び走り出す。
『快調に飛ばす次郎内垣三郎右衛門選手。ここで一度ストップです。そう、迷いどころですよねぇ?分かれ道ですものねぇ。
本大会では道路を借りることができなかった区間というのもありまして、この場所は自然公園を丸ごと貸し切りました。この季節は見所が少ないですが、春になると桜が綺麗だったり、夏になると川遊びもできるらしいですよぉ。夜には花火やアレを楽しみに来る若者もいるそうです。いいなぁ。私も茂みの奥で抱かれたい。
で、せっかく貸切るならコースを自由にしようという考えから、自然公園内は自由に走行していいことにしております。つまり分かれ道の連続ですねぇ。あ、道に迷って逆走したり、公園内をぐるぐる回り続けたりしないように気を付けてくださいねぇ。
ちなみに、入ってすぐの道を右に行くと、距離の長いソフトなトレイル。左に行くと、距離の短いハードなオフロードです。私からのヒントはここまでですよぉ』
ミス・リードの案内を聞いて、次郎はフンと鼻を鳴らす。
「それなら、私はハードなオフロードを選ぼう。このレベルのオールマウンテンを駆使するのだから、当然だ。ところで……君はどうする?」
サングラスを上げた次郎は、振り返ることなく後ろの青年にも水を向ける。
「俺様か?そうだなぁ……ソフトなオフロードを選ぼうかな。ゆっくり自然の雪化粧を眺めるのも悪くないや」
2WDを駆る綺羅が、優雅にそう言った。尊大な態度とは裏腹に、甘く優しい声音だ。
一方、剣呑そのものと言える声で次郎は言う。
「君のようなルック車風情なら、その方が無難だな。まあ、転ばないように気をつけたまえ。段差に乗り上げた衝撃でフレームが折れたら大変だ」
「ん?これがルック車に見えたか?一応クロモリフレームだし、耐久性は十分だ。心配いらないな」
「ならいいが、私のような油圧式デュアルサスならともかく、フロントにすらサスペンションを持たない君がどれほどの走りをしてくれるのか、もう会うこともないから最後に聞いておきたくてね」
「そうか?また公園の出口で再開できると思うぜ。だって貴様、遅いだろうからな。それにフルリジットをルック車だと思っているなら大間違いだ。俺様は貴様以上の段差を越えることも出来るかもしれないぜ?」
言葉だけで激闘を繰り広げた二人は、それぞれの道を選んで走る。
次郎は左。大きく下る坂道を、サスペンションでなだらかに下る。
綺羅は右。軽い上り坂を、2WD特有のグリップ力で急激に上る。
空と茜は、それから1分後に分かれ道に差し掛かっていた。
「どうしよう……」
「まあ、どっちみち公園を抜けたら合流することになるだろうし、二手に分かれてみるのも一興かもしれないな」
茜が軽く言う。狙ったように、ミス・リードが放送で教えてくれる。
『もしも分かれ道が終わった後、合流しようとしているなら朗報ですよぉ。自然公園を抜けた先にコンビニがあるんです。1kmくらい離れていますけどね。そこで待ち合わせておけば、確実に合流できますぅ』
あまりにタイムリーな内容だったので、茜と空はお互いに自分のスマホを確認してしまう。もしかして電凸していたかと思ったのだが、
「してないよな?」
「してないね」
二人で顔を見合わせて、首をかしげる。
『ああ、私に電凸したかな?って思った空さんと茜さん。大丈夫です。してませんよぉ。じゃあどうして解ったのかと言うと、そこに定点カメラがあるのと、GPSで行方を追っていたから、と言うのが理由です。実況者特権ですねぇ。盗撮し放題ですよぉ』
そういうことらしい。
「さて、アタイは左に行ってみるか。もともとシクロクロスはトレイル用に開発されているし、家の周りが山道だから慣れているしな」
「じゃあ、僕は右だね。でも、どっちにしてもアスファルトじゃないんだよね?走れるかな?」
「さあな。まあ、ヤバくなったら電話してくれ。いくら大きな自然公園でも、最悪の場合は歩けば何とかなると思うけどな」
少し競争気分の茜は、颯爽と坂道を下っていく。
『おおっと、仲のいい中学生コンビ、空さんと茜さんが二手に分かれましたぁ。まあ、そうなることを私も期待していたんですけどねぇ。これは実況者として目が離せません。この公園には中継車は入れませんが、定点カメラを複数仕掛けているので、そちらで実況していきますよぉ。もちろん、声だけ聴いている皆さんにも分かりやすくお伝えしていきます』
ミス・リードも、いつも以上に楽しそうだった。
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