第12話 おてんば娘とおぼっちゃまの自然公園トレイル

 雪のまばらに降り積もった地面は、土と木の根に覆われたオフロードを形成していた。途中のアップダウンはあまりにも激しく、道は複数に分かれている。幅も傾斜もランダムな状況は、自然公園ならではだろう。

(幸い、思ったより雪は無いな。木々が受け止めたからか?)

 こんもりと木の上に積もった雪は、地面に落ちずに止まっている。たまにドサッと落ちてきそうだが、運悪く直撃することはないだろう。

(ん?あれは……)

 その前方に、一台のバイクが止まっているのが見えた。間違いなく、さっきの次郎だ。

「よぉ、次郎。また会ったな」

 茜は次郎に話しかけるため、自転車を止める。ベンチに座って休憩していた次郎は、茜を見て言った。

「ああ、もう追いついてきたのか。余裕だと思っていたが、案外やるものだな。女のくせに」

「女でも男でも関係ないね。オフロードっていうのは見た目の数倍の体力を持っていかれる。侮ったやつからペース配分を間違えるんだ。今のお前みたいにな」

 図星を突かれた次郎は、悔し気にうめく。そして何を思ったか、ポケットからハンカチを取り出してベンチにかけた。

「座りたまえ。君と話がしたくなった」

「アタイと?」

「ああ。嫌ならいい。先に行きたまえよ。その車体でどこまで行けるか分からないがね」

「言ってくれるな。まあ、いい。そのハンカチは不快だからどけろ。アタイは木製ベンチに座るとき、木の質感を楽しむってこだわりがあるんだ」

「こんな切り株を横倒ししただけの場所だぞ?まあ、君がそうしたいなら結構だが」

 少しだけ、次郎は笑った。茜もつられて笑う。次郎の言うように木を倒して二つに割いただけのようなベンチは、季節も相まって冷たく、ささくれ立っていた。


「私はね。本当なら何の努力もしなくていい人間なんだ。父は貿易会社の社長で、私はその後継ぎの一人息子。分かるだろう?私にはこれ以上何も必要ないんだ」

 唐突に身の上話をし始める次郎を、茜は隣に座って見ていた。

「ふーん。じゃあ、どうして自転車に乗っているんだ?ただの金持ちの道楽なら、チャリチャン3日目まで残ってないだろう」

「それは……何かを求めてみたかったんだ。自分の力で手に入れない限り、つかめないものがあるだろう?それが欲しかった。だから自転車は最高なのさ。ペダルを漕がないと進めない。誰も代わりに漕いでくれない。素敵じゃないか」

 大きく手を広げて、その自転車好きをアピールする次郎。

「まあ、君のような一般市民の少女には難しい話かな?おおよそ君が自転車に乗っている理由は、金がないとか、免許がまだ取れないから、とかいう理由だろう?」

「いや、アタイもあんたと同じだよ。たとえ免許が取れる歳になっても、多分取らないし乗らないさ」

「そ、そうなのか。失礼した」

「謝るのかよ。アタイも調子狂っちゃうぜ?」

 茜は両足をパタパタさせながら、楽しそうに笑う。なんだか機嫌がよかった。

 次郎とは職種が違うが、茜の兄も実家を継ぐことになっている。後継ぎっていうのは少しだけ窮屈だから、次郎のように趣味を見つけるのも苦労するのだろう。

(アタイの兄貴も、次郎みたいに何か趣味でも見つければいいのにな。そしたら……アタイには構ってくれなくなっちゃうかな?)

 そんなことを考えながら地面を見つめる。

「なんか、アタイもお前を誤解していたかもな。金持ちが道楽で乗ってんだとばかり思ってた」

「そ、そんな言い方は無いだろう」

「ははっ。まあ、お前もさっきはアタイに失礼なこと言っただろう。これであいこにしてやるよ」

「ふーむ……釈然としないが」

 顎に手を当てて考える次郎に、茜は笑って言う。

「まあ、金持ちだろうが貧乏だろうが、サドルの上じゃ一人のライダーに違いはないよな?」

 次郎が顔を上げると、すでに茜は自転車に跨っていた。辺りは暗くなってきている。茜はヘッドライトを強めで光らせると、それでも若干悪い視界を覗き込むように、目を光らせた。

「それじゃ、アタイはもう行くぜ。もともと休憩の予定もないんだ。空とも勝負中だしな」

「ま、待ちたまえ。私も行こう」

 慌てた様子で、次郎も車体を立て直す。

「はぁ?この狭い道を並んで走ろうっていうのか?言っておくが、オフロードでスリップストリームに頼る意味はあまりないぞ」

「違う。君に勝負を挑みたいんだ。そうだな……短期決着がいい。勝負は公園を抜けるまででどうだね?」

 次郎が強気に言う。


「これは決闘だ。君と、私の、1対1だ」

「はあ?まあ、いいけどさ。どうしてアタイと?」

 茜が律義に聞く。勝負好きの茜としては、こういうのは嫌いじゃない。ただ盛り上がりに欠ける。本気を出すためにも、戦う理由は明確にしてほしい。

「そうだな。プライドだ。私の愛車、エンデューロが金持ちの道楽と思われたままでは気持ちが悪い。このプロ仕様の自転車が私にふさわしく、逆に言えば私がこの高級車にふさわしい実力の乗り手だと、君に思い知らせたい」

「つまり……お前がアタイに勝つってことか?その自転車を使いこなして?」

「そうだ。君は見たところ、自転車に詳しいようじゃないか。ならば君を相手に見極めさせてもらう。私の実力と言うやつを……」

 そう言われても、茜だってライダーをプロデュースしているわけでもなければ、特別オフロードに特化した有名選手と言うわけでもないのだが、

「まあ、いいか。それなら何か賭けようぜ。お前はプライドか?まあ、アタイに負けたらズタボロだろうな」

 フィールドはMTBが圧倒的に有利なオフロード。バイクの値段は実に6倍以上。年齢だって本当は倍以上。要するに圧倒的なビハインドで始まるこの勝負、負けたら次郎に言い訳できるところなど一切なかった。

「そうだな。私はプライドを賭ける。もし足りなかったら金銭の要求でもなんでも言いたまえ。ところで、君は負けたら何を失う?」

「そうだな。それじゃあ……」

 茜は少し考えたのちに、差し出せるものが何もないことに気づく。

「何も思い浮かばないかね?」

「ご、ごめん。アタイが馬鹿だった」

 急に恥ずかしくなった茜は、ハンドルに肘を乗せて眉間を押さえる。大笑いした次郎は、続いて条件を出した。

「よし、決めた。では君が負けたら、そのことを出場者全員に報告しろ。いいな。これなら君もプライドを賭けられる。条件は対等だ」

「どうやって……あ」

 言いかけて気付いた。ひとつだけ、次郎の言うことを実行する方法がある。

 次郎は頷くと、スマホを取り出す。金持ちのスマホなら24金メッキでも全体に施したダイヤモンドたっぷりのスマホかと思ったら、普通のXperiaだった。ここでappleじゃないのも意外だ。

 当然、使うのはミスり実況の電凸機能だ。

『はいはい。こちらミス・リードですよぉ?次郎垣内さん。どうしましたぁ?』

「ああ、これからここにいる……名前は何と言ったかな?」

「茜だよ。っていうか、アタイの名前も覚えていなかったのか」

「そうそう。茜君だ。私はここにいる茜君と決闘をする。お互い合意の上での勝負だ。公園を先に抜けた方が勝ち。シンプルな勝負だろう?」

『おお、面白そうですねぇ。そういうことなら、私の能力全てを使ってでも実況させていただきますよぉ。えっと……それで?』

「何、それだけだ。この放送を聞いている人たち全員が見届け人だ。お互いのプライドを賭けるのでね」

 次郎はにやりと、強張った様子で笑みを浮かべた。緊張しているのだろう。次郎にとっては初めての決闘だった。誰かと競うのがこんなに怖くて、こんなに楽しいものだったのかと驚く。まだ始まってすらいないのに、胸が高鳴る。

『それでは、お二人とも用意はいいですかぁ?僭越ながら、このミス・リードがスタートの合図をさせていただきます。ちなみに、公園の出口にはカメラが仕掛けてありますから、僅差でゴールした場合は写真判定もさせていただきますよぉ』

 実況者として常にネタに飢えているミス・リードは、この状況を最大限に楽しむつもりである。

「よし、任せたぞ。それでは、私は準備できた」

 通話を切り、スマホをポケットに戻す。

「茜君は……聞くまでもないか」

「当然だ。早くしろよ」

 既に臨戦態勢に入った茜が、軽く右足でペダルを蹴る。ビンディングシューズがガチャリと音を立ててセットされる。


『それでは、よーい……スタート!』


 先に地面を蹴ったのは、茜だった。しかしスタートダッシュでリードしたのは、意外にも次郎である。

(っく、速い)

(これがギアの軽さの差だよ。脚力の差ではない)

 実際、茜もウィリー寸前の走り出しを快調に決めている。それでも次郎の方が安定して走りだしたのは、ギアの差に加えてサスペンションによる安定感もある。

 乗り手の技量と言うなら、次郎がすぐにダンシングに切り替えたのも大きな違いだろう。そのために次郎は手元のコントローラーを使って、サドルを大幅に下げている。

 車体が跳ねることを前提にしたオフロードでは、サドルなんて使わない方が安定する。そんなことは茜も分かっていたが、茜の車体にドロッパーポストなんかついてない。

 木の根が複雑に絡み合う地面。次郎のサスペンションは衝撃を柔らかく吸収していた。突き上げられた瞬間に作動するサスペンションは、タイヤが宙に浮く前に長さを戻し、地面に車体を押し付ける。

(まるで飛んでいるみたいだな。本当に同じ地面を走っているとは思えない)

 茜の車体も、そのアーチ状のトップチューブが多少の衝撃は緩和する。とはいえアルミフレームである。あまり無茶をすれば歪む可能性もあるし、何よりサスペンション付きの車体と比べるのはあまりに無理がある。

 結果、茜は段差に乗るたびに、車体を跳ね上げることになる。その分の垂直方向に使うエネルギーは、はっきり言って無駄な体力消費だ。

(いや、それを抜きにしても、性能の差が顕著だな)

 お互いに、この路面でギアを上げることも出来ない。問題は軽いギアを踏んだ時、そのエネルギーが車体にきちんと伝わっているかどうかだ。

(本来、サスペンションがついている車体は、ペダリングのロスが多いはずなんだけどな)

 ペダルを踏みこんだ時、特にリアサスが、その力を吸収してしまうことがある。つまり推進力に使うはずだった脚力を、サスペンションが奪ってしまうのだ。だからこそ安物の場合は、サスペンションをつけるのも善し悪しとされる。

 安物ならばの話だ。

(私のサスは、速い動きが求められる衝撃で作動し、遅い動きで踏みつけられる重圧はロックする。つまりペダリングの力は吸収せずに、地面からの突き上げだけを判断して可動するんだよ)

 チートと呼んでも差し支えない性能だった。それゆえにサスだけで見ると、オートバイ以上の技術がつぎ込まれている。

 フルリジットのような加速度と持久力。そしてフルサス特有の安定感と衝撃吸収の両立。それも半端な妥協ではなく、最高性能を維持した両立だ。

(オールラウンドと言うと、全科目平均点のような印象だろう?だがオールマウンテンは違う。全科目満点の性能。あえて言うなら、オールパーフェクトだ)

 もちろん、この車体の調整は一朝一夕にできるものではない。ストロークの幅やリバンプの強さなど、路面を予想したうえで最適な調整を行う必要がある。

 つまり、その調整を実現する次郎は、この車体の癖を体に覚え込ませ、その特性を勉強しきったライダーなのだ。この判断力と繊細な技術は、金を積んでも手に入らない。


(認識を改めるぜ。次郎……)

 分かれ道。次郎は迷わず右を選ぶ。茜もそれについていく。こうなったら同じコースをずっと追従するのが決着をつけやすい。後から運が悪かったとか、道を間違えていなかったら勝っていたとか、そういう禍根を残さないためだ。

 凹凸の目立つコーナーを、次郎は普通に曲がっていく。あまりにも綺麗に曲がるものだから、これを見ている人は簡単にできる行為だと思うだろう。それこそ素人なら、ただ曲がっただけだと勘違いするはずだ。

 それは違う。

 茜はブレーキをかけて、大きく車体を減速させる。そのままドロップハンドルの上を持ち、跳ねる前輪を押さえつける。

 押さえつけると言っても、力任せに体重をかけて押し込むわけではない。むしろ逆。肘を柔らかく使い、弾んだ車体を瞬時に地面に添わせる。そうしないと車体が空中に飛んでしまう。

 車輪が空中に浮かぶことは、ハンドル操作が一切できなくなることを意味する。それをコーナーで体重を傾けているときに発生させるとどうなるか。想像に難くない。

(どうだね?これがオールマウンテンの力だ)

(くっ、アタイもMTBに乗ったことはあるけど、そこまで使いこなせなかったな)

 サスペンションの必要性は、衝撃吸収より接地性だと言う人もいる。このコーナーで開いた距離を痛感しながら、茜は勝負所をうかがっていた。

 一方、道は激しい登り坂になり、雪はより深くなってくる。と言っても2~3cmだが、地面を覆うには十分な状態になる。

 その道には、すでに自転車のタイヤ痕と、何度か足を付いて止まった跡が残っていた。真っ白な雪に、そこだけ土の色が汚く出ている。

(私より先にこの道を走った参加者がいる。つまり、この道が正解と言う意味か?)

 と、次郎は予想するが、すぐにその考えが甘いことに気づく。

(違うな。私と同じく、この道を先に走った参加者も手探りだったはずだ。つまり、前に走った者が道に迷っていたなら、私も同じく道に迷うということか)

 前方を見て、登っていく。もしこの道が行き止まりなら、そこまで到達した参加者が戻ってくるはずだ。誰も戻ってこないなら、少なくとも行き止まりには続いていないことを意味する。

(迷いが生じたか?ここで追いつけるかもな)

 茜はここを勝負どころと見定める。ギアを2速ほど下げて、しかしケイデンスは倍近くまで上げる。速度自体は急上昇。次郎にどんどん接近する。

(いくら雪が積もっているといっても、まったく溶けていなければアイスバーンにはならない。土の上に積もった新雪なら、滑る心配はなさそうだな)

 冷静に分析しつつ、次郎のすぐ後ろに迫る。道幅は狭く、横を抜けるような隙間は無い。道の両サイドには木が並んでおり、地形も不安定だ。無理に抜けようとすれば木に衝突するか、あるいは崖のような斜面を転落するか、だ。


 方向的には合っている。次郎は本能とGPSの大雑把な情報から、そう確信していた。このまま走り続ければ、先にゴールするのは自分だと……

 しかし、実際にたどり着いたのは全く別の場所。展望台だった。

 展望台と言っても、小高い場所に大きめの櫓が組まれ、そこにベンチとテーブルを設置しただけの簡素なものだ。柵の向こうは崖になっており、下には公園の出口も見える。つまり、平面的に見れば方角は合っていたことになる。

(しまった。道は続いていなかったのか。しかし、この崖を降りるわけにもいかないだろうし……ううむ)

 真っ暗で見づらい崖下を、ご自慢のヘッドライト、FLUX 900 HEADLIGHTで覗き込む。

 下を見れば、崖の高さは10メートルほど。傾斜は100%ほどだ。熟練のダウンヒル選手ならいけるかもしれないが、自分では無理だとあきらめる。

(ええい仕方ない。迂回するか)

 次郎は軽くハンドルを切り返し、今来た道とは別の道に入っていく。急激な下り。サスペンションをフルに使って、ペダリングに頼らずに速度を上げていく。

 茜も、その後ろを行く。こちらはブレーキをこまめに使って段差を乗り越え、ペダルを小刻みに動かして加速する。という不安定な速度での追走だ。ひと時も地面から目を離せない。雪に隠れた段差を探しながら走行する。

(次郎め……度胸があるじゃないか)

 並の自転車乗りなら、下りは速度を落としてしまう傾向にある。まして段差が多かったり、コーナーが増えれば、体感速度は倍増する。暗さも相まって、見通しが利かないこともネックだ。

 そんな中でも自信をもって加速できる次郎は只者ではなかった。恐らく自転車で通ることを計算していないだろう急角度のコーナーを、彼は難なく曲がっていく。

(アタイは曲がるのも一苦労だっていうのに――)

 とはいえ、この状況でヘアピンコーナーを確実にクリアする茜も、優れた技術を持ったライダーに違いはなかった。雪や柔らかい土でスリップする車体を、完全に押さえつけて曲がり切って見せる。

 何より、コーナーで開いた差を、その後の直線で必ず埋めていく。一瞬のうちにトラクションをかけて加速。ひとたびスピードに乗った車体は、重力にひかれて勝手に速度を上げる。

 これは、ドロップハンドル特有の低い姿勢が一躍かっている。空気の抵抗がないうえに、人間の身体で一番重いとされる頭部が下を向くのだ。スカイダイビングにヘッドダウンという技があるが、それと同じ原理で加速する。

 レース用に開発された低いヘッドチューブと、ロードレーサー由来のジオメトリを持つシクロクロス。その特性はオンロードでもオフロードでも、速度だけは一流だ。

(だが、安定感はないな。そういう意味では、私のエンデューロが最速だ)

 後ろを振り向く余裕さえ見せる次郎。その走りは、このオフロードでも安全そのものだった。


『さあ、皆さんが気になっている茜さんと次郎垣内さんの決闘ですが、現在は次郎垣内さんが有利に進行している感じですねぇ。茜さんは後を追うように走行。着かず離れずの状態で1~2馬身差を保っています。

 次郎垣内さんが乗るSPESIARIZED S-WORKS ENDURO FSR CARBON 27.5は、プロ仕様車体として最高性能でロールアウトした車体ですぅ。その価格はなんと驚きの$10,000ですよぉ。い、ち、ま、ん、ど、る。

 その開発のために、何台もの試作実験機を作り、何人もの優秀なテストライダーを雇っています。値段の高さは伊達ではありません。いいえ。開発者の苦労を考えれば、これは決して高い値段ではないでしょうねぇ。

 例えばリアサスの取り付け。BBシェルからシートチューブを直線で結ぶために、manfaと呼ばれるパーツを取り付けています。この部品の厚さや剛性も、去年のモデルから見直されて数ミリ太くなっているとのこと。このたった数ミリにかけるこだわりが、毎年進化を見せる自転車業界の本気です。

 転倒すれば無事では済まない中、世界中の実力者たちの命を預かる重圧。そんな中で開発を繰り返され、完成するのがプログレード車両。

 日本にとっての自転車は、学生が免許を取れないうちに乗るもの。自動車未満の準歩行者と認識されることも多いでしょう。しかしアメリカに言わせれば、これは最高のアクティビティであり、自動車でも走行不能の土地を軽々と越える乗り物。

 自転車を自動車未満と見るか、自動車以上と見るか。その国民性が問われるところでもあるかもしれません。

 ご覧ください。この迫力の映像は我々がコースに設置したカメラで、リアルタイムに撮影されている無加工の光景です。CGを超える?魔法みたい?あはははっ、正真正銘、自転車が走っているだけですよぉ』


 ミス・リードの言う通り、平均的な日本人の目には現実のものとして映らないだろう。何しろ今の次郎は階段をガタガタと下り、その勢いに任せて次の階段を上っているのだ。

 前後のタイヤは本体と別の生き物のように上下し、丸太と土でできた不規則な階段を駆け上がっていく。ハンドルは揺れることなく、前輪も弾かれることなく進行方向を目指す。仮にアニメで放送したらダイナミック作画だと言われかねない。

 一方、茜は大きく遅れ始めていた。

 階段を下るとき、車体は上下に大きく揺れる。低いハンドルは抑えが利かず、高いサドルは容赦なくお尻に当たる。いくらレーパン穿いた女の子でもさすがに痛い。

 しかも、登り階段を攻略するほどの能力はシクロクロスにはない。この車体はあくまで、わずかな段差を越えられるロードバイクのマイナーチェンジでしかなかった。フレームの設計こそ完全に見直されているが、ロードと共用の部品も多い。

 そのため、茜はシクロクロスレースのセオリーに則った階段の登り方を実行する。なんてことはない。自転車を担ぎ上げ、自らの足で階段を駆け上がるのだ。遅いことは百も承知だが、それ以外の方法がない。


『あらら……この階段セクションで茜さんが大きく突き放されましたねぇ。もう次郎垣内さんの背中が見えないんじゃないですかぁ?

 まあ、それはさておき、シクロクロスを担いで走る姿は様になっていますねぇ。一瞬でブレーキをかけて自転車から降り、肩にトップチューブを当てて担ぎ上げる。完全に停止する前に足を付いてしまうあたり、レースで培った技術ではありませんねぇ。

 独学、でしょうか?まあ自転車を独学で学ぶ人は多いですけど、トレイルの走り方……まして階段の登り方まで学習するとなると、どんな環境で自らを鍛えたのか。茜さんの出自がさらに気になるところです。期待のルーキーですよぉ』


「うるせぇ」

 ミス・リードに聞こえていないことを承知で、茜はつぶやく。

 ロードレーサー志望の茜にとって、トレイルが走れることは何の自慢にもならない。もちろん鍛えた覚えもない。ただ家が山奥にあったから、実生活で走るしかなかった。それだけだ。

 そんな女子中学生の茜は、普段の登校時はこのくらいの山道を平然と走っている。しかも学校指定のスクールバッグを背負って、セーラー服がなびくのを気にしつつ、これまた指定のローファーで片面フラットのペダルを踏みながら、だ。

 大幅なハンデを背負ってトレイルを走るのは、茜にとって日常茶飯事だった。だからこそ、逆境には慣れている。だから……

(今、ようやく面白くなってきたところなんだよ。茶化してないで盛り上げろ。アタイの逆転劇を!)

 再び自転車に跨った茜は、下り坂を思いっきり駆け下る。ペダルの面は裏返し。クリートをはめ込めないフラット側だ。

 眼下には10パーセントほどの短い下りと、その先に柵で囲まれた池が見える。次郎のタイヤ痕が、その突き当りを右に曲がっていた。

(あいつはそっちを選んだか。いいぜ。追いかけてやる)

 その下りをノーブレーキで走る。速度は瞬間的に43km/hを記録。突き当りを曲がる瞬間に急ブレーキ。滑り出す車体を横に向けて、計算通りに柵を蹴って方向を変える。そのためにわざわざビンディングを外していたのだ。

 わずかでも計算が狂えば、池に自転車ごと落とされている。その覚悟をもって追走する。

 ビンディングをはめて、池に沿った平坦な道を高速で走る。身体は常に揺れ続け、車体は前に行くのを嫌がるかのようにハンドルを横に振る。

(こんなところでビビる車体じゃないだろう?解ってる。武者震いだよな。アタイもさ。だから、行こうぜ。クロスファイア!)

 段差に弾かれて押し戻される車体を、力ずくで前に進ませていく。ペダルにかかる負担は大きく、茜の体力を削っていく。

 鼻水が出たので、すする。すると鼻が詰まった。

 自転車に乗りながらの鼻詰まりは、オフロード最大の敵である。有酸素運動である自転車の、まして転がり抵抗の多いオフロードでは、肺活量がものをいう場合が多い。その状態で鼻が詰まると、過呼吸を引き起こす原因になる。

 最善策としては、一度立ち止まって鼻をかむこと。ポケットティシューがないなら、速度を落として口呼吸だけで走るのもおすすめだ。間違っても速度を維持したまま、多くの酸素を口呼吸だけに求めてはいけない。嘔吐する危険がある。

 たかが鼻水と侮ってはいけない。素人にはふざけているように聞こえるかもしれないが、いたって真面目な話だ。

 そんなこと、山育ちの茜には言うまでもなかった。

(いい加減にしろよ。鼻水ごときが……アタイの走りの邪魔をするな)

 一呼吸で、両方の鼻の穴から鼻水を噴出させる。両手はハンドルを押さえるのに忙しいので、当然垂れ流しだ。口の周りに粘ついた鼻水が張り付くが、呼吸は確保する。


『おおーっと、ここで茜さんが……

 ……ああ、えっと、茜さんが、次郎垣内さんを追いかけます。その差は少しづつ、縮まっていますよぉ』


 その顔にカメラ越しで気づいたミス・リードすら、いつものように弄るのを躊躇する。それほど酷い状態だった顔を、茜は一瞬の隙をみて腕で拭いた。今度は半袖でむき出しの右腕がベタつくが、気にしない。

 ようやく、森が開けてくる。

 タイル敷きの広場に、ベンチと花壇。雪は地元の消防団などの活動で、端に寄せられていた。遠くには駐車場。そしてゴールの公園出口が見える。

 そこに、次郎の姿もあった。

「ようやく捉えたぜ。次郎!」



 その数秒前。次郎は自転車を止めて困っていた。

 目の前に、幅の広い川が見える。夏場なら子供たちが水浴びをするのに最適だろう川は、深さ的には20~30cmほどの、流れも非常に遅いところだった。人工的に作った川のようで、底までタイル敷きである。

(この車体なら越えられないことはないが、濡れるのは覚悟になるか……)

 季節は冬。つい今朝には大雪が降ったばかりの気温である。また、すでに日も落ちている。さらに冷え込むことは予想できるというものだ。自転車は常に風を受けながら走ることになるので、気化熱で体温を奪われることは避けたい。

 ただ、幸いにも目の前に、飛び石はあった。歩数にして10歩程度。自転車を担いで歩くには決して辛くない距離だ。

(仕方ない。歩くか)

 次郎は自転車のトップチューブを持つ。茜のように肩に担がないのは、リアサスペンションが邪魔になるからだ。

 と、その時、後ろから茜の声が聞こえる。

「ようやく捉えたぜ。次郎」

「もう追いついてきたのか。茜君」

 とはいえ、この飛び石を越えた先がすぐゴールだ。自分の勝利は揺るがない。そう確信して、次郎は飛び石に乗った。

(なるほど。川か)

 と、茜も気づく。

(仕方ないな。空には笑われるかもしれないし、文句を言われるかもしれないが……)

 茜がどうやって川を渡るか。そんなものはもう決まっていた。

 この後もチャリチャンというイベント自体は続くが、本日はこれ以上走れないかもしれない。何しろ、濡れたら体温と体力を大きく削がれることになる。それを解ったうえで、この手段を使おうというのだから。



 後ろから、何かが水に落ちる音。そして一瞬の間に、次郎の足元にも水しぶきが飛ぶ。

 茜が、自転車ごと川に突っ込んでいた。川底をしっかりと捕えた細めのブロックタイヤは、滑ることなく突き進んでいく。

(うわっ、思ったより水温が冷てぇ!?……いや、水温自体はマシかもしれないけど、空気に触れると急激に冷たい)

 いっそ川の中にいた方が温かい。そう思えるほど、濡れた身体に風が当たるのが冷たかった。筋肉は委縮し、血行は悪くなり、足に力が入らなくなる。ペダルを漕ぐ足元だけじゃない。タイヤが巻き上げた水が、背中や頭まで直撃する。

 それでも、入らないはずの力を、無理矢理にでもペダルに伝える。ギアはこの水中でもきちんと切り替えられる。茜の入念なグリスアップの賜物だ。

「な、なぜ。なぜそこまでして私に勝ちたがるのだ!?」

 次郎が吼える。もう勝負はついたようなものだ。この公園を先に出るのは茜だろう。その後ならいくらでも逆転のチャンスはあるが、少なくとも二人だけの決闘は、ここで終わったのだ。

「私がっ……金に物を言わせて自転車に乗るのが、そんなに気に喰わないか?私は、こんなところで負ける程度の男なのか」

 次郎が飛び石を越えながら、力なく言った。もう走る気力も残っていないのか、自転車にまたがる様子もない。

「……」

 茜も自転車を止める。こちらはまだ跨ったまま、それでも次郎に言いたいことがあったから、止まる。

 そもそも相手を認めていなければ、プライドを賭けた勝負なんかできない。

 次郎が取るに足らないライダーだったら、ここで無茶な走りなんかしない。

 そして、本当に勝ちたいだけなら、ここで足を止めたりしない。寒い中、それでも動きを止めて次郎と話をしたり、そんなことするのは……

「次郎。アタイは、お前の走りが好きだ」

「な、に……」

「だからさ。走り。勘違いするなよ。別にお前を異性として好きなわけでもなければ、人間として好きなわけでもないさ。お前の乗っている自転車そのものが好きなわけでもない。ただ、走り方が好きだって言ったんだよ」

 体力だけじゃない。技量、知識、財産。持てる力をすべて使って、走破する。次郎のスタイルは、まさに本格的なホビーライダーや、アマチュアアスリートのそれだ。

 茜もいつしか、その走りを見直していた。一緒に戦ったからこそわかる。ほんの10分ほどだったが、濃密な時間を過ごした。

「ありがとうな。次郎。それじゃあ、アタイは行くぜ」

 再び、茜は出口に向かって走り出す。次郎も、自転車に跨った。

(勝てないな。勝てないはずだ……でも)

 もうすでに、茜が出口に近づいている。その横からは、茜と一緒にいた空色のクロスバイクの少年。そして2WDの青年も合流する。別ルートを通って来たらしい。

(勝てなくても、君と競えてよかった。プライドならくれてやる。安い代金だ)

 なぜか、負けたというのに、嬉しかった。だからこそ、次郎は走る。もっともっと、みんなと一緒に走りたい。自転車の値段が違うとか、速度が違うとか、そんなのはどうでもいい。

「私も、茜君たちと、一緒に……」

 次郎はペダルを漕ぎだした。その時、どこからか声が聞こえた。


「くぅははっ。一緒にぃ?行けたらいいな?」


 まるで悪魔の笑い声のようだった。

 次の瞬間、次郎の視界は大きく時計回りに倒れ始めた。

 100万円のマウンテンバイクが、ただのガラクタに変わる瞬間だった。

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