第18話 袖振り合う縁と日々のメンテナンス
「あぁーっ!海岸線なげぇよ!」
日が落ちてから何時間が経過しただろうか。もう深夜だというのに、まだ茜たちは砂浜を走っていた。
いや、もはやその表現すらも正しくないかもしれない。なぜなら自転車に跨って進む時間より、降りて歩く時間の方が長いからだ。体力が底を尽きたことや、車体が砂に埋まることなどから、自転車は歩行器と化している。
「こんな使い方になるなんて……ごめんね。エスケープ」
「いや、自転車に謝んなよ。一緒に歩いているアタイまで惨めになるだろうが」
実際、はたから見ると惨めである。誰が見ても格好いいスポーツバイクを、なぜ不釣り合いな砂浜で運用せねばならないのか。たまに来るMTBやファットバイクが平然と追い抜いていくものだから、余計に空たちがダサく見える。
「このフィールドに限り、ボブみたいなビーチクルーザーが欲しいな」
「っていうか、何のために僕らは走っているんだろう……」
もう何度繰り返したか分からない繰り言を連ねつつ、再び自転車に跨っては沈み、降りては歩く。
「もうやめよう。今日はここで宿探しだ」
茜は歩くことを放棄して、ミス・リードに凸電をかける。
『あ、茜さんから凸電ですねぇ。どうしましたぁ?』
「ああ、すまないが、この近くで宿を取りたい。できれば安いところで頼む」
『……茜さん。すみませんが、そのあたりに宿はありませんよ。っていうか、人里自体が少ないところになってしまいましたねぇ』
「え……マジで?」
『ええ。その辺は海水浴場として運営されているので、夏にはいろいろあるんですよ。逆に言うと、この季節は何もないことが多いです。民宿は多いんですが、冬はやってないみたいですねぇ。しかも海水浴もメジャーどころじゃありませんし』
「そ、そこをなんとか……」
『うーん。場所に不釣り合いな高級リゾートホテルなら、何かの間違いで数件建っているんですけど……六桁からですし、完全予約制ですよぉ』
それはそうだろう。むしろ今までよく飛び込みで宿泊できていたものである。どう足掻いても絶望だ。
『そこからコースアウトして頂けるなら、コースを十数キロほど離れたところに市街地がありますよぉ。市街地と言ってもたかが知れていますが、そこなら見つかるかもしれません』
「でも、それって往復30km近くになるって事だろう?さすがにきついぞ」
仮にもレース中に、無駄に30km走るのはタイム的にも体力的にも勿体ない。何より今から10km以上も走り回る体力が残っているか不安だ。いや、精神力の方が不安か。
「茜。僕、眠くなってきちゃったよ」
「いや、ここで寝たらまずいだろう。いろいろと」
1月の風を浴びながら野宿は正気の沙汰ではない。何とかして宿の確保が必要だ。最悪の場合は……
(恥を忍んで、民家にお願いするしかないか……しかし)
もう夜も遅い。そろそろ寝静まるご家庭もあるだろう。田舎に泊まろうとかいう企画もそうだが、時間が遅くなると交渉ができなくなる。
こうなったら、多少のロスを覚悟して市街地へ進路を取った方がいいか……と思ったその時だった。
「Hey!空ちゃん&茜ちゃん。奇遇じゃないか」
近くの道路から、大きな声が聞こえた。この声は……
「ボブさん。ボブさんですよね」
「いや、再登場が早すぎるだろう。こういう時って満を持してとか、忘れたころに出てくるもんじゃないのかよ」
「Oh……茜ちゃんが何を言いたいのか、俺には分からないぜ」
完全にふざけた小芝居をするボブ。だがしかし奇遇な再会であることは本当であるらしい。
「さっきまでこの辺で、またチャリチャン出場者を待ってたんだよ。同じところで犯行を繰り返すとバレるだろうし、何よりさっきのところは警備が強化されたからよ。まったくJesusだぜ」
「ジーザスなのはお前の考え方だろ。いい加減に懲りてくれよ」
「ボブさん。あんまりしつこいと嫌われますよ」
Honda Vamos4に乗ったボブは、空たちの話をジョークと断定して笑い飛ばす。笑われた空たちは冗談のつもりは無いのだが。
「ところで、空ちゃんたちは何をしていたんだい?見たところ、自転車に乗っていたわけじゃなさそうだけど……この先はどんどん人里を離れるから、暗くなる一方だぜ?」
「ああ、泊るところを考えていたんだよ。そういえば、お前は地元民だったよな?」
茜が訊く。要するに、もし泊まれるところを知っていたら教えてほしいと言うつもりだった。ミス・リードは何もないと言っていたが、この手の田舎なら地元民の口コミの方がインターネット検索より役に立つ可能性がある。
ミス・リードの情報源が何かは知らないが。
まあ、茜としては本当に、宿泊施設を知りたかっただけだった。しかし、
「ボブさん。お願いします。一晩泊めてください」
「おい、空!?」
空はボブの家にお泊り交渉を持ちかけてしまった。茜としては予定外だ。まして、
「Wow!Oll Light.いいぜ。俺の家にご招待だ。乗りな」
などと、二つ返事で返されるなんて、想定の範囲外を二周ほど哨戒しても見つからない結果である。
(アタイとしては、ボブと関わり合いになりたくないんだが……)
と、人間的な相性として拒否したい気分になる茜だったが、
(……背に腹は代えられないか)
しぶしぶ納得して、世話になることにする。
「よし、じゃあ乗ってくれ。俺の車がバモス4で良かったぜ。Thank you God!」
「お前、神なんか信じてんのかよ」
「Of course!キリストじゃないけどな。まあ、Japanには8,000,000の神がいるだろう。そのうちの2、3匹は信じているぜ」
「
「あの……せめて信じている神様の数くらい2柱なのか3柱なのかハッキリ覚えましょう。あと獣みたいな数え方は失礼です」
「Oh――じゃあ、2人だ。サーフィンの神と、セックスの神と、酒の神を信じるぜ」
「3人じゃねぇか!」
何はともあれ、2列シートと大きな荷台を併せ持つバモスは、確かに都合がいい。空と茜の自転車、さらにボブの自転車と、3台積んでも余裕がある。茜は後部座席に、空がなぜかナビシートに座る。
「うわぁ。屋根もドアもない」
「珍しいだろう?最高にCoolだ」
「アタイから見たら、自動車なんかどれも同じだがな」
素直じゃない茜の発言を聞き流し、ボブは車を走らせた。
「到着だぜ。Angelたち!」
ボブに言われて、空たちは降りる。
「うぅ……やっと着いたか……おえぇえっ、ごめっ、アタイちょっと吐いてくる」
「Oh……茜ちゃんは車酔いするタイプか。しかも俺のオープンカーで?……ちょっ、吐くってその辺に!?一応そこ俺の庭なん……」
「おぼろろろろろ」
車に揺られること、20分強。そこには海の家があった。アメリカン浜茶屋BOBという店名らしい。
「ここが、ボブさんのお家……?」
「そうだぜ空ちゃん。俺の経営するサーファーズハウス風の浜茶屋だ。ちなみに店舗兼マイホームでもある。Welcome to My home!」
真っ白な壁に統一された外観。ドアを開けると、中には南国風の観葉植物。冬の寒さには弱いので、この時期は屋内に置いているらしい。当然だが土足のままで入れるスタイルらしく、床は板張りだ。
壁にはサーフボードがたくさん並び、その中の一つは天井近くに吊るされている。それがボブの愛用品で、他は客に貸し出す用なんだとか。もちろん、レンタル代を取る商売である。
壁にはいくつもの写真――ボブや仲間たちが映っているもの――に紛れて、サーフボード教室のポスターも張ってあった。ボブがインストラクターらしい。
「かっこいい……」
空がぼそりと零す。その小さな称賛を、ボブは聞き逃さなかった。
「HAHAHAHA!そうだろ、そうだろ?俺の夢が詰まった空間さ。あー、ちょっと待ってろよ。今、暖房入れるから……」
エアコンを操作したボブは、近くの椅子を手繰り寄せて座る。そして手のひらをかざし、空たちにも適当に座るよう促した。
「で、もともと宿泊施設としては作ってねーんだけど、スタッフルームに布団があるのさ。従業員がくたくたになって帰りたくないって言いだしたり、サーフィン仲間が飲んで酔いつぶれちまったりするからな。そこを使ってくれ」
「あ、ありがとうございます」
空が恐縮気味に言う。
不意に、お腹の虫が鳴った。空は慌ててお腹を押さえて赤面する。考えても見れば、良平たちと昼食を取ったあと、何も食べていない。自転車というカロリー消費の激しい運動において、食べ物を取らないのは自殺行為だ。俗にハンガーノックと言う。
「OK!チャーミングなお腹の音だな、空ちゃん。なんなら何か適当に作るぜ。その間にシャワーでも浴びていたらどうだ?……ああ、タオルはその辺にかかっているやつ、どれでも好きなのを使ってくれ」
もちろん海の家なので、厨房や更衣室、シャワールーム等は完備されている。住んでは住みやすく、友人を招くにも最適な空間と言えるだろう。
「じゃあ、とことん甘えるとするか。行くぞ、空。シャワーだ」
「え?あ、うん。そ、それじゃあ、お借りします」
アルミの扉に不安な鍵が付いた、個室の手狭なシャワールーム。男女共用になっているのは、海の家だからだろう。場合によっては屋外にシャワーを設置しただけのところもある中、屋内にあるだけマシである。
その中でシャワーを浴びながら、空は思った。
(そういえば、僕はまだ女だと思われているのかな……)
とても気になるところだが、本人に確認する方法が思いつかないので、忘れることにする。何かの拍子で発覚することがあっても、それはボブに全責任のあることだ。
その晩ボブが振舞った夕食は、この店で出しているメニューの中でも人気のあるものなのだそうだ。
意外なボリュームとカロリー、そして塩分を内包したマカロニ&チーズ。しっかりした食べ応えと深いコクが、自転車で疲れた身体を駆け巡る。成長期の中学生を満腹にさせるに十分な重さだ。
ミディアムウェルで焼かれた硬いステーキ。最初こそ顎を鍛えるトレーニングか拷問だと思ったが、これが美味い。バターとガーリックで重武装した肉の旨味は、お肉を食べるというより牛を喰らうと形容すべきインパクトだ。
野菜も当然ある。フライドオニオン&ポテトだ。ヘルシーと言う概念はボブの店にはない。小さな厨房に似合わない大型フライヤーが無言で語っているだろう。油なくして食事はないと。
「ふぅ――喰ったな。これ以上ないくらいに――」
茜が遠い目をして言う。もともと大食いの茜は、まったく遠慮なく出された料理を平らげた。
「ごちそうさまでした。あの……すみません。泊めてもらった上に、このようなおもてなしまで」
過食気味の空が、恐縮しつつ言う。するとボブは笑って親指を立てた。
「It's my pleasure.こういうことがしたくて、この店を始めたわけだしな。ちなみにアメリカン浜茶屋BOBは、ひそかに一年を通して営業している。近くに立ち寄った時は来てくれ。カフェ&レストラン感覚で」
事実、冬でも食事だけ目的に来る人もいるらしい。
ふと、空は店内の片隅に目をやる。そこには自転車が2台、並んで立ててあった。
一台は、空も乗ったRAINBOW BEACH CRUISER 26”MEN’S BLACK COMPONENTS Shade of Pale “BOB Custom”だ。もう一台が……
「ああ、その自転車が気になるのか?俺のもう一台の愛車だ。RAINBOW BEACH CRUISER 16" FD-1 “BOB Custom”って名前だぜ!」
「あ、これもボブカスタムなんですね」
どうやらボブは自転車を改造しないと気が済まない性格らしい。もっとも、スポーツバイクやビーチクルーザーに至っては改造も楽しめる車体が多い。珍しい好みでもないが、
「いちいちボブの名前を入れたがる辺りは鬱陶しいな。自分だけ特別感を出したいんだろうけど、ただでさえ長い名前がさらに長くなる」
「Oh……茜ちゃん。ズバッと言ってくれるぜ……」
確かに面倒くさい表記である。
「でも、面白い車体ですね」
16×1.75の小径タイヤを搭載した折り畳み式自転車。それだけならどこにでもありそうな車体だが、ひときわ目を引くのは右サイドに突き出た2本の棒だ。
「これが、ボードキャリーって装備だ。こうしてサーフボードを積むことができるんだぜ。超Coolだろ?」
店の奥にあったボブ専用のサーフボードを、ボードキャリーと呼ばれた棒に引っ掛ける。こうすれば両手でハンドルを握ったまま、ボードを運べるという寸法だ。ちなみにレインボー社の純正部品であり、標準装備品だったりする。
「かっこいい……」
空はなにやら気に入ったようだが、茜にしてみればバランスを崩しかねない運用方法だと思うばかりだ。タイヤがジュニアMTB規格なのも不安だし、シングルギアで後バンドブレーキというのも安物のママチャリを想起させる。
(まあ、走り自体よりサーフボードとの親和性を狙った車体か。乗ってて楽しいとは思えないが、コンセプトはしっかりしているのかもな)
と言いかけたのを、茜はしっかり心の中にとどめる。もともとサーファー向けの車体なのだ。ライダー目線から何を言ったって無意味だろう。
「まあ、大事に乗ってやれよ。ボブにとっては大事な車体だろう?」
と、最低限それだけは言う。
アメリカンな雰囲気の店内に、ビーチクルーザーは映える。もっとも、それが錆びていなければの話だ。
この手の錆は見た目を悪くするだけでなく、車体のスムーズな動きを妨げる。どころか、最悪の場合は腐食し、そこから破断する可能性さえある。素人が思っているより事態は深刻化しやすい。
「Hmm……まさか、自転車にメンテナンスが必要だなんて、俺は思ってもいなかったからよ」
「まあ、そういう奴はアタイのクラスにも沢山いるけどよ……」
「っていうか、それは半年前の僕かもしれない」
事実、日本には自転車の車検を義務付ける法律がない。さらに日本人の気質上、義務化してもらわないと行動できないという消極的な面もある。仮に自動車の車検を任意にした場合、大半の国民が車検を行わないだろう。電車や飛行機でさえ点検しなくなりそうだ。
まして、近年まで車両と認識されず、準歩行者のような扱いを受けてきた自転車。乗り手の意識が低いのも納得である。しかしラジコンやミニ四駆でさえメンテナンスを必要とするのに、自転車に必要ない訳がない。
「……しょうがねぇな」
茜が立ち上がり、空の肩を叩いた。
「うん。そうだね」
空も立ち、エスケープのキャリアバッグから工具を取り出す。
「What?いったい何を?」
「アタイらが、基本的な手入れを教えてやるよ。一泊の礼だ」
「まず、タイヤの空気が甘いように思えます」
空が気になったのはそこだった。鹿番長から、ファットタイヤは気圧を下げて乗るものだと聞いている。ただ、いくらなんでも限界はあるだろう。まして4~5in程度の太さならともかく、1.75in程度なら不安だ。
「たとえば、BMXみたいに跳ぶことを想定するなら30psiまで足りないくらいでもいいかもしれないが、砂浜を大人しく走るなら40psiくらいあってもいいと思うぞ。アタイもよく知らないけどな」
最終的には好みに頼ることも多いが、大体の場合はタイヤ横に打刻された適正気圧に従うのがベストである。これはどんな自転車でも、空気が入るタイヤであれば確実に打刻されていると思っていい。
いわゆるママチャリや、子供用自転車。果ては荷車や車椅子に至るまで、適正気圧がタイヤごとに存在する。自動車や飛行機にも気圧表示があるのは言うまでもない。
「All right.ところで、その空気圧っていうのはどう図るんだ?」
「えっと、フロアポンプにケージがついている場合もあるんですけど……ちなみに、ボブさんは普段どんなポンプを使ってますか?」
「ああ、それならそこにあるビーチボール用のやつを使うことが多いぜ?」
ボブが指さした先にあるポンプを見る。気圧ケージはついていない。これでは図ることは難しいだろう。
「ケージ付きのポンプを持っておいても損はないかもな。大体どこの店にいっても3000円くらいで売ってると思う。アタイが普段使っているのも4000円くらいだ」
茜が言うように、エアポンプで異常な値段のプロ仕様などほとんどない。たまに1万円を超える商品があることを除けば、ママチャリ用だってスポーツバイク用だって大差ない価格だ。
「あと、自転車に体重を思いっきりかけて、少し凹むくらいにセッティングするっていう方法もあります」
と、空がさらに代案を出す。茜はそれを聞いて、冷たく言い放った。
「アタイは却下する。その考え方は間違っているからな」
「え?いや……確かにケージよりは不安だけど、結局はライダーが乗りやすいかどうかだろうから、本人の体重を基準にフィーリングも大切だと思うけど……」
空が反論する。自転車関連の事で、明確に空が意見を返したのは初めての事だった。普段の空は、茜の言うことなら正しいと考えることが多かったからだ。
でも、いろんな自転車を見て、いろんな人がいると再認識した空は、珍しく自分の意見を語る。茜はそれが気に入らなかった。何より、茜の言っている方が正しい意見だ。メーカーもそう判断するだろう。
「あのな。自転車っていうのは高速で段差に乗った時に、一番パンクしやすいんだ。その瞬間だけは体重の数倍の衝撃がかかるからな。だから体重で形状が変化するような空気の入れ方じゃ、危険なんだよ」
「そ、そんなのは一部のオンロードレーサーの理屈でしょ。ボブさんはそんなに速くないし……そもそも、使っているタイヤは一台が小径。もう一台がセミファットに近い2.5inだよ?だから少しくらい気圧が低くても大丈夫だよ」
「百歩譲って、ファットバイクみたいな4inなら納得もするさ。こいつのは2.5inだぞ。危険だ。まして小径車の方は1.75だろ。太いって言ってもMTB以下。アタイが昔乗っていたジュニアMTBと大差ない。玩具だろうが」
「でも、小径なら体積が少ない分、空気圧が逃げるところも限られてくるでしょ。それに今まで自転車のメンテナンスをしたことがない人に、いきなり専門的なことを要求したって無理だよ」
「甘やかすなよ。空だって半年しか乗ってない初心者だろうが。それでも空はきちんと整備しているし、知識も付けている。それはお前が勉強して乗り続けた結果だろうが。結局、そうやって必死にならないと乗れないのが自転車なんだよ。購入したら乗れるとか、補助輪が取れたら心配ないとか、そんな甘い考えを植え付けるな」
「でも、免許も試験もいらないのが自転車のメリットでしょ。だったら気楽に乗って何が悪いのさ。僕だって初めて乗った時は、何も知らなかったし……茜がいろいろ教えてくれたから、僕は楽しく勉強できたんだ」
「……」
「……」
お互いに、喧嘩しているのか褒め合っているのか分からない状態に気づいて顔を赤くする。茜は目を反らしたら負けな気がして睨んだが、空は本気で怒られているんだと勘違いして今にも泣きそうだった。
「Ah~まあ、その、なんだ。二人とも俺のために争わないでくれよ。俺は見ての通りBigな男だから、空ちゃんの意見も茜ちゃんの意見も取り入れるぜ。な?」
ボブが気を使って言ってくれる。すると、茜も空も思い出したように手のひらを叩いた。
「そういえば、どうせ乗るのはボブなんだから、どうでもよかった」
「そっか。ボブさんが好きな方を選べばよかったんだ。僕には関係ないし」
「え?ちょっ……二人とも冷たくない?ねぇ?いやReally?」
ちなみに自転車のタイヤは、きちんと空気圧を測った方がいい。とはいえロードバイクなどに使われる気圧計は低圧での計測に信頼性がないし、BMXやファットを好む人はほとんどフィーリングで抜く傾向もある。
つまりどちらも正しい意見なのかもしれないが、素人の判断で適当に入れるのと、玄人が磨き上げた感覚で適当に入れるのとでは訳が違うのも覚えておこう。
「このチェーンも酷いな。錆びてるのは今更だが、泥も酷いたまり方だ。屋内に保管してあるとは思えない」
「まあ、砂浜を走るんだもん。こうなるよね」
空がチェーンを指で撫でる。それだけでも指に砂と錆が付き、ザラザラして痛い。
「Hmm……これはどうしたらいいんだ?」
ボブが首をかしげる。空と茜も首を傾げた。なにしろここまで酷い状態に遭遇したことがない。
「……茜、とりあえず、錆を落とすところからやってみる?」
「そうだな。ダメで元々だと思ってくれ」
錆落とし用のオイルがあればよかったが、残念ながら手持ちの中にない。仕方がないので潤滑用のオイルを使ってみる。
「……意外といける」
「だよな。アタイも似たような経験があるけど、わりと万能なんだよ。それ」
いくら何でも錆びすぎているので、綺麗にはならない。格段にマシになる程度である。
「こうなる前にメンテナンスは必要だったかもな。とくに海水に濡れた時は、水を使って洗うだけでもマシになるぞ。ただの水で錆びる方が、海水で錆びるより幾分かマシだ」
「あと、融雪剤も結構酷いよね」
自転車の可動部は、何の塗装もコーティングもされていない金属のむき出しである。そして錆は、金属だったものが変化した状態である。錆びた分だけ元の金属が減っていることを忘れてはいけない。
あらかたの錆を落とすと、次に気になるのが泥である。どこから湧いて出ているのか、回せば回すほど表面に浮いてくる。もちろん、ベアリングの奥に入り込んだ砂が、表面に顔を出しているのだ。
「ここはディグリーザーだろうな。空、持ってるよな?」
「うん。これでいい?」
よくあるスプレータイプのディグリーザー(要するに洗浄液)。これがスプレーである意味は、あんまりない。なぜなら結局、雑巾などで擦るからだ。
「要らないボロ切れなんかを使って、チェーンを磨いていくわけだ。この時チェーンを引っ張りすぎると外れるから、気をつけろよ」
「っていうか、シングルギアなら完全にチェーンを外して漬け込んだ方が早いんじゃない?僕ならそうするよ」
「要は分解してビニール袋に入れ、ディグリーザーを揉みこんで漬け置く方法だな。たしかに綺麗になるけど、いちいちボルトオンされている車輪を外すのが面倒くさい。これがQRなら試す価値はあるけどな」
車軸がボルトで止まっている場合、専用の工具を使って左右のナットを緩める必要がある。大概は14~15mmのレンチを使う場合が多い。ママチャリやビーチクルーザー。あるいは安いルック車に多く見られる仕様だ。
「このプラスチック製のキャップを外すと、六角形のネジが出てくるんです。でも、確かに面倒ですね」
空がそう言うと、ボブも顎をさすりながら困った表情になる。
「Sorry.悪いな、空ちゃん。俺は面倒くさいのが苦手なんだ」
「はい。分かりました。それじゃあ、このまま分解せずに磨いていきますね」
チェーンにディグリーザーを吹き付けて、それを布切れで擦っていく。ちなみに今回使用する布切れは、ボブが着なくなったボロボロTシャツだ。もはや布と呼べる物体であれば何でもいい。使い捨てだと思ってもらいたい。
「こうやって泥を取ったら、チェーンをさらに回して、また磨きます。細かいところが気になるなら、歯ブラシを使うのもありですね」
「本当はチェーンクリーニング用のブラシも自転車屋で売ってるけどな。出来栄えに大きな違いはないってのがアタイの見解だ。ただ、歯ブラシは使い捨てになると思ってくれ。耐久性はチェーン用ブラシの方が上だ」
なんにしても、綺麗になったと思ったら、また泥が奥から滲み出てくる。無限ループのように続く作業。根気強くやっていくしかない。
「ここまでやったら、あとはオイルアップだな。潤滑剤をチェーンに注して、ペダルを回して馴染ませるだけ。簡単な作業だ」
オイルをチェーンの一コマ一コマに塗布していく。手っ取り早い方法としては、ペダルを回しながらチェーンにオイルを当てていくことだろう。勝手にチェーンの方が動いてくれるから、オイルを動かす必要がない。
「ついでに、ハブを留めているナットにもオイルを注しておくといい。仮に変速ギアがついていたら、その可動部にもな。で、フロントのキャリパーブレーキなんだが、ピボット……この真ん中のネジとかも注油する」
茜が指さしながら、一つ一つの個所を説明していく。ボブはその真剣さに、少し引きながらも見ていた。
「ちなみに、ハブ本体やBBには、注油しないように気を付けてください。ここは特殊なグリスと、専門的なグリスアップ技術を必要とするところですので、初心者が手を出すのは危ないとのことです。えっと……僕も、やったことがないんですけどね」
BB……ボトムブラケット。自転車のフレームとクランクを繋ぐ回転部分だ。人間の体重を支えながら、縦方向のみに回転する部品。素人がいじっていいような場所ではないとされる。
そこに入っているグリスは、オイルによって溶ける可能性がある。つまり逆効果になる危険があるから弄ってはいけない。適当に分解するとボールを紛失する危険があることも怖いのだ。あとは自己責任か、もしくは専門店で。
「あと、言うまでもないかもしれませんが、ブレーキパッドにオイルが付着しないように気を付けてください。ハブブレーキの場合は、ハブにも当たらないように」
大概、ママチャリの前輪はハブブレーキである。なので間違ってもホイールにオイルを垂らしてはいけない。後輪は車体によって違うと思うが、スポーツバイクでなければ恐らく心配いらないだろう。
「OK!OK!……ところで、茜ちゃん。そっちの車体はコースターブレーキなんだけど、大丈夫かい?」
「え?……あっ!ああっ!」
注油してから思い出した。コースターハブの場合はパッドが内蔵されているから、ハブに注油してしまうとパッドにも当たる可能性がある。
「すまん。アタイがうっかりしていた。た、多分かかると思うんだが……」
重い車体を持ち上げた茜は、足をうまく使ってペダルを回転させる。浮き上がった後輪は空転し始める。ここでペダルを逆回転。すると後輪は止まった。
「No problem.きちんと機能しているようだな」
「いや、分からねぇ。なあ、ボブ。ちょっと試運転していいか?人が乗った状態で止まらないと、ブレーキが利いているとは言えない。頼む」
深々と頭を下げる茜だが、もうすっかり夜中である。
「気にするなよ。茜ちゃん。それに、コースターブレーキの元々のレスポンスを知らないと、正常に機能しているかどうかも測りにくいんじゃないか?」
「うぐっ、確かに……」
ボブの言う通り、茜の感覚ではブレーキの強さがどのくらいか分からない可能性が高い。少なくとも茜のクロスファイアに付いている機械式ディスクブレーキよりは弱いと思うが、それは仕様だろうという話。
「ねぇ、茜。今ネットで調べたんだけど、そこはグリス塗れでも一応は機能するみたいだよ。むしろグリスアップ状態で使うことが想定されたブレーキなんだって」
空がスマホを持ってくる。こんな時、そこそこ頼りになるのがインターネットだ。
「そんな無茶苦茶なブレーキなんか存在するのかよ?」
「うん。ちなみにブレーキの利きについては、ドラムブレーキより弱いとか、むしろ完全ロックするほど強いから扱いが難しいとか、いろいろ書かれているね」
「なんでそんなにレビューがバラバラなんだよ。天と地ほどの差じゃないか」
その辺が、ネットの頼りにならないところである。個人が好き勝手な情報を流すため、どれが正しいのか分からなくなる。
まあ、この場合は全員がそれぞれ正しいのだろう。
「多分、グリスの利き具合によって、ブレーキの感触も変わるんだと思う。だから人によっていうことがバラバラなんだよ。僕の勝手な予想だけどね」
「ああ、そういうことか……」
納得した茜は、再びボブに向き直る。
「悪かったな。もしこれでブレーキの利きが変わったらアタイのせいだ。ごめん」
「HAHAHAいいってことさ。空ちゃんの言うように、この状態でも使えるみたいだからな。それに俺は、そんなにスピードを出さないからフロントブレーキだけで止まれるのさ。だからそのcharmingな顔を上げてくれよ」
ボブは陽気にそう言った。事実、あんまりブレーキの利き具合なんて気にしたことがない。
「と、基本的なメンテナンスはこんな感じだな。今回はビーチクルーザー2台を整備してみたが、ママチャリでも大体同じことが言える。あとはタイヤの気圧は月イチくらいでチェックしておけ。これは最低限だ」
茜が念を押す。ちなみに季節の変わり目には注意してほしい。気温によって気圧が大きく変化する。
「チェーンの洗浄も、汚れに気づいたらやってみてください。今日ほど頑張らなくてもいいので、なるべくこんな酷いことになる前にお願いします」
「おいおい、空ちゃん。俺にそんな難しいことをしろって言うのか?impossibleじゃないか」
ボブが少し苦い顔をする。確かに、この手の分野においては難しいと感じるかもしれない。でも、
「アタイらが実演したことは、決して面倒でもなければ、難しくもねぇよ。まして、クルーザーにボブカスタムって名前つけて改造しているお前なら、簡単なもんだろう」
「自転車は、ある意味もっとも危険な乗り物ですが、安全に乗る方法がいくらでもある乗り物です。ライダーの技術と、それをサポートできる車体。これだけが必要で、あとは何もいらない乗り物だと思います」
そう言われて、ボブは頷く。
「わかったよ。今度からやってみるさ」
それから、茜たちは自分の自転車の洗浄を終えて、ようやく寝ることになる。あまりに多忙な中で疲労していたため、
「ここが、スタッフルームだ。狭いけど布団はギリギリ2枚敷けるから、あとは好きに使ってくれよ。じゃ、お休み」
という、ツッコミどころ満載のセリフもうっかり聞き流してしまった。説明されたままに適当に布団を敷き、
「そういえば、このスタッフルームだけは畳敷きなんだね」
「ああ、アメリカかぶれなのにな。つーかアタイの家、押し入れとか無いからさ。ちょっと珍しいぜ」
などと、少しずれたコメントをする。
「それじゃあ、お休み」
空が布団に入る。寝つきはいい方で、既に寝息は深くなっていた。
(しかし、可愛い寝顔だよな)
と、茜は思う。学校でも密かに噂になるほど、空の顔は中性的だ。なるほどボブが空を女の子だと思うのも無理はない。
肌ツヤもよく、ニキビ一つない顔。しなやかで癖のない髪。いったいどんなケアをしたらこうなるのか。自転車以上にメンテナンスが大変そうである。もし何の手入れもしていないなら不公平にもほどがある。
(まあ、アタイには関係ないか)
女子力については諦めている茜は、気にせずに寝ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます