特別編 第31話 天然自転車と自然少女
「すまない。こっちを照らしてくれ」
「え?こう?」
「そうじゃない。もっと左だ」
「左……」
「違う。車体主観で左じゃなくて、アタイ主観で左!」
「え?え?ご、ごめん……」
「ああ、違う。アタイこそごめん。別に怒ってないから」
空がエスケープのヘッドライトを使って、茜の手元を照らす。周囲には建物も見えない森の中。茜は自分のクロスファイアの前に屈んで、難しい顔をしていた。
時刻は日没してすぐ。まだ走りたいところだが、茜のマシントラブルのせいで立ち往生している。
フロントギアのケーブルが切れたのだ。それも自然に切れてしまったため、切断面がケーブルの付け根の端……いわゆるタイコと呼ばれる部分に限りなく近い。
ほつれた金属線は、本来の穴から出にくくなっていた。このタイコを取らないと、新しいケーブルを突き刺せない。そのため、必死でつつき出そうとしているのである。
「ブレーキレバーの影だからな。しかも暗くて手元が見えないとか……」
「ねえ。それってブレーキレバーごと分解したらダメなの?」
「うーん。メンテナンス環境の整った室内ならともかく、この場所だと部品を紛失する危険があるからな……」
まるで懐中時計のように、小さな部品がかみ合ったデュアルコントロールレバー。これはブレーキレバーの中に変速ギアの操作部分を内蔵する構造で、中身は細かい部品が複雑に絡み合う。
しかも、バネ仕掛けで動いているのも問題だった。分解するときに気を抜くと、バネがすべての部品を飛ばしてしまう。野外でそれをやられたら紛失間違いなし。
というわけで、分解せずにタイコを出さなくてはならない。だというのに、作業する自分の手が影を作る。光を遮ってしまう。
「茜。これってもう店に持ち込んだ方が早くない?」
「アタイもそんな気はしているんだが、このあたりに土地勘もないからな」
こんな時に限って、二人ともスマホが充電切れ。昨日は綺羅たちのペースに巻き込まれてしまって、充電し忘れたせいだろう。ミスり速報をかけっぱなしで走るのも問題かもしれない。
「困ったね。これじゃあ助けを呼ぶことも出来ないよ」
「悪いな。まさかアタイが空の足手まといになるとは……」
「え?いいよ。友達だもん」
「……お前、昨日は何て言ってたっけ?」
自分の事となると、周囲に気をつかう。そのくせ相手の事となると、自分に気をつかうなと言う。空の言い分は少し矛盾していた。
「自己犠牲が美徳と思うなよ」
「え?な、何それ?じこぎせー?」
「ほんっっとに、それを素で言ってくるんだから凄いよな」
ああ、痒い。体中が痒い。と、茜は感じた。
「とにかく、町までどのくらいの距離かは分からないが、コースに沿って走るぞ」
「え?でも、変速ギアが使えない状態なら、進まないんじゃないの?それに茜って根っからのトルク型だし、パンチャーだし」
「う……まあ、確かに」
茜の場合、変速ギアのこまめな切り替えと、瞬発力を活かした走りをする特性がある。細くても引き締まった筋肉質な脚は、その象徴とも言えるだろう。ちなみに空はルーラーで回転型の癖を持つため、あまり脚に筋肉はついていない。
「あ、あの……お困りですか?」
空と茜に、一人の少女が話しかけてきた。年齢は空たちと大差ないだろう女の子だ。
フェミニンショートの茶髪に、ダッフルコートとニーハイブーツ。下はショートパンツかミニスカートだろうか。この寒いのに、すらりと長い生足が目立つ。
「ん?……チャリチャン参加者か?」
茜が訊くと、少女は首を横に振った。
「……観戦客。でも、気になって――」
勇気を出して声をかけたと、そういう事らしい。
「まあ、沿道で自転車修理していたら、そりゃ気になるか」
茜が納得する。少女は自信なさげに、胸の前で手を組んだ。地面に視線を落としながら、しかし茜たちに言う。
「私、森泉みのりって言います。多少の自転車知識はあるので、力になれたら……」
「おお、そりゃ助かる。アタイは諫早茜。よろしくな」
「御堂空です。よろしく」
二人が名乗ると、みのりは視線を上げた。
「あ、あの――噂の中学生コンビ?」
ミスり実況で何度か聞いた名前。不鮮明ではあったが、映像でも確認していた。実際に会ってみると、印象が大きく変わる。各所で多方面に戦いを挑んでいるという話だったので、もっと怖い人たちだと思っていたのだ。
「アタイらも有名になったな」
「なんだか、恥ずかしいね」
ついにはクロスファイアを横倒しにして修理する形になり、格闘する事15分。みのりが出した結論は、
「……うーん。これは無理かなぁ?」
という、シンプルなものだった。ちなみに、茜が年上に対して敬語を使わないせいか、みのりもいつのまにか敬語が抜けている。
「やっぱりダメか。まあ、アタイらもそんな気はしていたけどな」
まあ、無理だと判明する事にも意味があるので、あまり落胆はしない。大事なのは出来ないことと出来ることを整理して、出来ることを選択する。それだけである。
「みのりさん。この近くに自転車屋さんはありますか?」
空が訊ねると、みのりは困ったような顔をする。地元民ではあるが、この辺にはあまり詳しくない。スマホを開き、検索を掛ける。
「隣町に一軒あるね。それから、違う町にも一件。どちらも同じくらい遠いし、閉店時間ももうすぐだけど……」
となると、移動している間に閉店してしまうだろう。仮にギリギリで駆け込んだとしても、即日で修理は不可能だ。
「ごめん。こんなスマホで調べられる程度のことしか教えられなくて……」
「いや、十分だよ。アタイらはスマホの充電切れちまったから、助かる」
となると、作戦としては本当に変速ギア無しで走るか、もしくは翌日になってから修理に駆け込むか……
「それはそうと、この自転車って……」
空が興味を示したのは、みのりが乗っていた自転車である。
すべてが木材で出来た、しかし未来的なシルエットを持つ車体。走るのかも怪しい見た目だが、みのりはこれで自宅から20kmの距離を走って来たらしい。
「スクリィブル25って言うんだ。私がゼロから作り上げた、天然素材の手作り自転車だよ」
「手作り!?」
「マジか……ぶっ飛んでんな」
いくら自転車に理解がある空や茜でも、自分で車体を作ろうとは思わない。まして、天然素材で。
「本当だ。この車軸も木材で出来てる。それにペダルも……」
「まるでミショー型ベロシペードだな。ペニー・ファージングよりさらに古臭いぞ」
「えへへ。でも、この辺のサスペンションはどうかな?ネットで見た新型車体を、見よう見まねで参考にしたんだけどね。オフロードも走れるよ」
みのりがそう言うと、茜は笑った。
「はははっ、冗談だろ。ボーンシェイカーでオフロード?みのりさん、さすがにそれはないぜ」
「うー……本当だもん。実際に私は山の中を走って来たからね」
「ふーん」
「あ、疑ってるなぁ。じゃあ良いよ。乗せてあげるから、ちょっと走ってみて」
ずいっ。と差し出されるスクリィブル。その車輪は見るからに不安定で、車体も重そうだ。正直、これでオフロードを走るなんて考えられない。
ただ、
(見た目で判断するのは、アタイの悪い癖か。ミハエルにしてやられたという、あれもあるからな)
乗らず嫌いは良くない。と、茜は思い始めていた。そこにこの車体である。
「よし、じゃあアタイが乗って無事だったら信じるよ。ただし、山育ちのアタイの乗り方は荒いからな」
「うん。私もテストパイロットが欲しかったんだぁ。自分ではあんまりスピード出せなかったり、コーナーで怖くて減速しちゃうから」
みのりが嬉しそうに頷いて、お互いに承諾した。
「じゃあ、茜が無事だったら、僕も乗せてね」
「アタイは実験台かよ。まあ、いいけどさ」
3人は、歩いていける範囲にあった自然公園に来ていた。夜になれば誰もいなくなるここは、適当に飛ばすにはうってつけだ。
「じゃあ、コースは自由。時間は、茜ちゃんが満足するまで。集合場所は、この公園入口のベンチね。私は空君と一緒に、ここで待っているから」
「はいはい。それじゃあ、行ってくるぜ!」
茜がペダルを漕ぎだした。思ったよりもゆっくりだ。
「あ、あれ?茜ちゃんって、もっと激しい乗り方をするんだと思ってたけど」
ベンチに座って首をかしげるみのりに、空が答える。
「いえ、茜は最初から無謀な走り方はしないんですよ。ああ見えて、車体との信頼を大事にするタイプですから」
何度か自転車を取り換えっこした空は、茜の走り方を知っていた。
「多分、3周になると思います。最初の一周は、自転車の性能を確かめるため。次の一周は、コースの形状を把握するため。そして、ファイナルラップが本番ですね」
「ふーん。そうなんだぁ」
みのりは脚をパタパタさせながら、ベンチの背もたれに上体を預ける。ニーハイブーツとコートの裾。その間の太ももが気になった。こういうのを絶対領域などと呼称するらしいが、なるほど視線が引っ張られる。空も健全な男子だ。
その視線に気づいたらしいみのりが、にやりと笑う。
「なぁに?空君。気になるの?」
「えっ、あ、いや……ごめんなさい」
反射的に顔を反らした空に、みのりは少し悪戯をしたくなる。普段は人見知りがちで、あまり人と話さない。その反動で、少しでも仲良くなった相手には積極的なのがみのりの悪い癖だ。
「見ても……いいよ」
「え?いやいやいや……」
そっぽを向き、手のひらで顔を隠す空。典型的な見てませんアピールだが、本当に指の隙間まで閉じている。
(かわいいなぁ。空君……)
もっと楽しみたいところだが、あまりやっても困らせるだけだろう。みのりは空の肩を叩き、冗談だと告げる。
(意外に乗れるな)
車体の性能としては、DIYだとは思えない程によく、しかし競技用シクロクロスと比べれば、明らかに悪い。これは比べる対象が悪いだけだろう。
茜が普段乗っているクロスファイアは、ドイツの有名メーカーであるセンチュリオンが本気で制作したノウハウを、そのままリーズナブルな価格帯にデチューンしたモデルである。
それに対してみのりのDIYは、所詮は女子高生が趣味で作っただけの産物。日曜大工の範疇を超えない。これでメーカー品より傑作が生まれてしまったら、それこそ世界を揺るがす内容だろう。
(つーか、比較対象になるだけでも優秀なんだよな……趣味でこれを作れる高校生って、将来は何者に成長する天才だっての)
ホイール内部のサスペンションは、若干横にぶれてしまう。そのせいでクイックな操作ができないばかりか、オフロードではまっすぐ走ることさえ難しい。とはいえ、それが原因でタイヤがフレームにぶつかることは無い。誤差の範疇だろう。
ハンドルはセミドロップで、フラットとバーエンドは独特な形状をしている。エルゴグリップとして作成したのか、それともエアロ効果を狙ったのかは不明だが、一般的なハンドルより握りやすい。この点に関してはクロスファイアを超えている。
ハンドル周りは堅い杉で出来ているため、重さはあっても折れることは無い。この頑丈さは安心感をくれる。
本気でぶん回してもいいという安心感だ。
「はい、コーヒー」
「あ、ありがとうございます」
みのりから手渡された缶を、空は手のひらで包むようにして持つ。右手で持って、左手を重ねることで、右手を温める。つづいて左右を入れ替えて、左手を温める。寒い日に空が何となくやってしまう癖だ。
「それにしても、やっぱりアルミも乗り心地がいいね」
「気に入ってもらえて、よかったです」
自動販売機まで行くために、みのりは空のエスケープを使った。みのりとしては自販機の場所は知っていたが、歩いていくのが面倒だったのだ。
「この公園、よくお父さんに連れてきてもらったんだよね。奥にアスレチックエリアとか、展望台もあってさ。その都合で、公園周りの事は詳しいんだよ」
「へぇ。展望台ですか。ちょっと行ってみたいです」
「うーん。暗くなると何も見えないけどね。朝になると綺麗なんだよ。公園が一望できるの」
このベンチがあるエリアも、昼は綺麗なのだろう。タイル敷きの地面と、立ち並ぶ樹木の組み合わせ。節電のためなのか、街灯は消えていた。ロンドンの古風なガス灯を思わせるデザインの街灯だ。
そんな二人の目の前に、茜が現れる。現在2周目を終えたところで、これから3周目だ。恐らくそれが最後になる。
「よう。案外悪くない乗り心地だぜ」
自転車を降りることなく、茜が言う。
「そうでしょー。私の自信作だもん」
「茜―、次の一周が終わったら僕にも貸してね」
二人に言われて、茜は手を上げて答えた。ここからが本気だ。
「え……」
みのりが小さく息を漏らした。リアクション芸などではない、素の驚愕だ。
茜の速度が、急に上がったのだ。その馬力のせいで、前輪が浮き上がる。そのまま捲れてしまいそうになるのを、茜は力ずくで押し戻した。後輪が滑り、前輪が接地する。
木目を互い違いに合わせた3重構造のフレームは、それでも大きく歪んだ。麻縄がキリキリとフロントフォークを擦り、ブレーキ周りの部品は剥がれかける。
「あれが、茜ちゃんの本気……?」
「はい。あれって気に入った車体でしか出さない本気ですね。きっとスクリィブルを好きになったんだと思います」
「ふーん」
みのりとしては嬉しいような、心配なような、複雑な心境である。まさかあんなに激しい乗り方をするとは……いや、出来るとは思っていなかった。オフロードに特化したライダーがどのようなものか、みのりは分かっていなかったのだ。
(はっ、これでフリーハブでも搭載していたら、ダウンヒルで思いっきり使えたかもな)
山の上にある展望台から、一気に階段を駆け下りる。がたがたと車体が悲鳴を上げる中、滑り気味な車輪を無理矢理グリップする。
前輪に体重を預けて、滑る後輪を宙に浮かせる。前後上下に揺れるホイールを地面に押し付けて、地面の凹凸に沿わせる。手足を使って車体を揺らし、段差に車輪をぶつけていく。当たった瞬間に腕を引いて、乗り越えた瞬間に押し出す。
繊細な操作と、それを支える運動神経。さらには車体性能と強度。加えて、恐怖心を取り払う気持ちの強さ。全てが合わさってできることだ。
しかし、勇気と無謀は違う。
その差を分けるのは、結果だった。成功者の無謀を勇気と呼び、失敗者の勇気を無謀と呼ぶ。
ぎぃぃぃぃ――ブッツン!
フロントサスペンションの役割を果たしていた麻縄が、度重なる衝撃に耐えられず千切れる。
(嘘だろオイ――)
その瞬間、すべてがスローモーションに見えた。心拍数が上がり、感覚が研ぎ澄まされる。が、それでどうにかなるものではない。本当にコントロール不能になった時、覚醒する脳が見せるのは、絶望の詳細だ。
麻縄の破断により、フロントホイールが外れる。ついに横倒しになったホイールはフォークに絡まり、頑丈な杉のバネが割れる。
茜は必死に足を着こうとしたが、ペダルから足が離れない。回転ではなくスイングで前進する構造上、ペダルは靴を乗せる板ではなく、靴を挟み込む輪のような形になっていたのだ。
それでも、このまま頭からぶつけるわけにはいかない。ヘルメットもかぶっていないのだ。だから、ペダルを引きちぎる勢いで足を延ばす。
クランクの付け根が折れる。ドリルで穴をあけて軸を通していた分、そこの強度は他より弱かった。それによって茜は足を着くことができたが、今度は後輪が脚に引っ張られる。
自分の後頭部に迫る後輪を、茜は手で振り払った。捻じれるような力を加えられた後輪は、やはりハブ受けから折れる。リアエンドを消失したフレームは左へ飛び、後輪は右へ。
「はぁ――はぁ――はぁ――ごほっ、がっ、あ……くそっ、アタイは――」
すんでのところで命拾いした茜は、まず自分の身に怪我がない事を確認し、次に飛び出そうな心臓を押さえながら胃液を吐き捨てる。鼻にまで逆流した胃液が染みる。頭にまで突き刺さるような痛みだ。
それはいい。問題は……
「すまなかった!いや、すみませんでした!」
せっかくの作品を一台、木っ端みじんに破壊した。その罪悪感から、茜は戻って早々に土下座していた。その周囲には、先ほどまで自転車だった木片が並ぶ。
「え?いや、いいよ。私の方こそごめん。まさかこんな簡単に壊れるとは思わなくて」
「いや、アタイの乗り方が乱暴なせいだ。本当に、その……弁償とかで許してもらえる問題じゃないよな。もうアタイに出来ることなら何でもするから」
「ななななっ。いいよ。もとはと言えば、私の設計ミスだもん。あんなに自信もってオフロードで使えるって言っておきながら、こんな結果になっちゃうなんて、私こそごめんなさい」
茜に合わせて土下座スタイルを選んだみのりは、実を言うと本当に怒っていない。そもそも、貴重な実験ができたと喜んでいるくらいである。
(ああ。そう言えば板バネって、クッション性と耐久性が反比例するものだった。それに麻縄はやっぱりまずかったなぁ。パームロープにすべきだった。リアエンドも、ペダルの幅を広げないように薄くしたのが裏目に……)
などと、既に次の試作品の構想に移っている。
そこに、空がもうひとつの問題点を挙げた。
「ところで、みのりさん。自転車無しでおうちまで帰れるんですか?」
「あ……」
みのりの家からここまで、自転車で数時間かかっている。スポーツ自転車ほどの速度はないが、それでも歩くより速い車体で数時間だ。つまり、
「今から歩いて帰ったら、朝になっちゃう……」
なかなか絶望的な状況である。
「うにゃあぁあ。明日から学校なのにぃ」
「つーか、アタイらも宿を探さないとまずいぞ。最悪の場合は野宿じゃないか」
「うん。そうなんだけど、移動手段が限られてくるよね」
みのりのスクリィブルは大破。
茜のクロスファイアは、走れないこともないが、ギアが上がらない。
空のエスケープは無事だが、2人乗りに対応する強度はない。
そして、頼みのミス・リードへは連絡できない。みのりのスマホは選手登録されていないので、ここから凸電機能が使えないわけだ。
「自転車をここに置いて、タクシーで移動する?」
「その間にアタイらの自転車を盗まれたり、撤去されたら困る。つってもスポーツバイク2台を乗せて走るタクシーなんかないだろうし……」
「みのりさん。電車とかバスとかはどうですか?」
「うにゃ……ここってバスは昼間に朝と夕方に1回通るだけだし、電車も線路もないよぉ」
こうなったら仕方ない。3人は頭の中に、これぞ最終手段と言わんばかりの答えを用意した。
「ここで野宿、だな」
「僕たちにとっては、初日以来だね」
「あ、二人とも経験あるんだ。それなら安心だね」
茜と空は、初日に無人駅で寝ている。その状態に近いだけだろう。もしかすると気温が高い分、その時より楽かもしれない。
「それじゃあ、焚火でも起こそうか。キャンプみたいで楽しくなってきたよぉ」
みのりのリュックサックの中には、マッチや蝋燭などもあった。幸い公園であるため、薪にも困らない。
「しかし、なんで都合よくこんなにいろいろ持ってんだよ」
「私、大概のキャンプ用品は常にリュックに入れっぱなしなんだ。じゃないと忘れ物しちゃうからね。ほら、鉄板とか、金網とかもあるよ。残念ながら、肝心の食材がないけど……」
空気が乾燥するこの時期は、火もよく燃える。決して大きくない焚火だが、近くにいると驚くほど温かい。
「見つからないようにしないとね。消防法で言ったらアウトだし、そもそもこんな時間まで未成年が出歩いているのも、本当はまずいから」
みのりが言う。その表情はいたずらっ子のそれであり、本気で反省しているわけでもないのが見て取れた。
「まあ、アタイらは腕輪があるから、チャリチャン運営が保護者として同伴している扱いになるんだけどな」
「え、そうなの?じゃあ見つかったら怒られるのは私だけ!?」
「僕、そこにちょっと疑問があったんだけどさ。書類上だけ保護者って名目を立てても、結局は保護してくれないよね」
空が口にした不満は、じつは参加者からも観戦客からも、なんなら大会に関わりのないメディアからも示唆されている。当事者である空たちは知らないが、ネットでは『【悲報】チャリチャン運営。中学生を野宿させる』などとスレが立っていたくらいだ。
「あ、そう言えばチョコレートがあったよ。食べる?」
「サンキュー。助かる」
「ありがとうございます」
板チョコを3つに割って、振り分ける。これが晩御飯。そして明日の朝ご飯は無い。
(せめて食材があれば、キャンプ料理でも振舞ってあげられたんだけど……まさか冬の自然公園で現地調達も出来ないだろうし、空君のエスケープを借りて買い出しに行こうにも、お店なんか空いてないしな……コンビニも遠いし)
公園内には池もあったが……
「まさか勝手に池で釣りをするわけにもいかないよね。そもそも竿もないし、あの池に魚がいるのかも知らないし……」
ふと、口を突いて出た言葉に、空が反応した。
「みのりさん。釣りが趣味なんですか?」
「え?ああ、うん。どちらかと言えば私より、お父さんの趣味なんだけどね。いろいろ影響されちゃって……」
「へぇ。どんな釣りをするんですか?」
「うーん……意外と渓流釣りが多いかな。お父さんは造船所で働いているんだけど、仕事で船を弄っていると、休みの日くらい船を見たくないみたい。あ、でも大物狙いの事もあってね……」
二人が楽しそうに話しているのを、茜は無言でぼんやりと眺めていた。
(確か、空は釣りが苦手だったはずだよな。あの餌がダメだとかで……なのに話し始めると聞き上手って、どういう事だよ)
クラスでも、空が友人数名のグループにいることは多かった。決してグループの中心というわけでもないが、必ずどのグループにも空がいる。なんと女子だけのグループにもちゃっかりいて、マスコットキャラのように弄られているのだ。
興味のない話にも食いつき、相手の語りやすい状態を作る。だから空はいろんな輪に入っていけるのだろうな。と、無言で茜は考える。
(アタイは興味のある話だけするし、そうでない話にはついて行けない。そりゃ、クラスで孤立もするわけだ)
ドラマの俳優がイケメンだの、この前買った服がフェミニンだの、ボカロの新曲が泣ける歌詞だから書籍化してほしいだの、そう言った話になると茜は聞き役にも徹することができない。
そのくせ、自転車の話題になると誰もついてこないディープな話を繰り広げるわけだから、空でもなければ茜の話についてこないのだ。
(マニアックな話を近くで延々聞かされるっていうのは、確かに苦痛かもな)
釣りの話をする空とみのりを見ながら、茜はそう感じていた。きっと自分に自転車の話を聞かされたクラスメイトも、同じ気持ちだったのだろうか。
「――でさ。お父さんが先月、7万も出して大物用のリールを買ってくるんだよ。金ピカのやつ」
「凄いですね。なんて名前なんですか?」
「えっと、shimano Tiagraって言ったかな?」
「え……」
空がそのリールの名前を聞いて驚いた。そして茜に目線を向ける。空は正直、釣り具に一切の知識がない。当然、リールの名前なんて聞いたことがなかったはずだ。
その空の視線に気づいた茜は、ぼんやり聞いていた声を頭の中で整理する。
「ああ、そうだな。アタイの変速ギアと同じ名前だ」
「そうなの?」
みのりが訊き返す。
「ああ、アタイの自転車のクランクとか見てもらったら分かると思うぜ。ほら」
クランクにTiagraの文字。ブレーキレバーにも、リアディレイラーにも目立つように書かれている。
「え?なんで?」
「ああ、シマノっていうのは、ベアリングなんかを作っていた会社だったんだ。それで、精密で高性能な可動部を使う製品として、自転車やリールに手を出したんだな。だから、TiagraやDURA-ACEなんかの商品名で、リールもコンポも出ているのさ」
自転車にとって必要なのは、摩擦抵抗なく回転し続けること。それでいてペダルの力を伝道すること。下り坂ではスムーズに空転し、上り坂では急激な負担に耐える。そういう技術だ。
釣りにとって必要なのは、仕掛けを投げる瞬間にしっかりとブレーキをかけ、放つ間にどこまでも糸を伸ばすこと。それでいて巻くときに素早く巻けることだ。当てる際にはすぐに反応し、それでいて遊ばせるときは大いに遊ばせる駆け引きに、耐える性能が求められる。
山に挑む自転車と、水に挑む釣り。分野は違えど、人間が本気になるとき、そこには高い技術を持ったメーカーが寄りそうのだ。
「まあ、アタイは釣りの方は素人だけどな。それでもシマノがTiagraの名前を与えたなら、多分本気で開発しているはずだぜ。この名は、形ばかりの玩具に与えるものじゃない」
「茜ちゃん。詳しいね」
「ん……あー、まあ、普通だよ。つーか、みのりさんこそ詳しいんじゃないのか?」
「えっと、私はあんまり、ね。名前とかはよく分からないんだ。実物を見れば構造は分かるんだけどさ」
この手の機械を見た時、どこにどのネジが繋がり、どのバネがどこに作用し、どの部品が何のためについているのかを理解する能力を持つ人がいる。みのりはまさにそれだった。この能力は男性が持つことが多く、女性が持つのは珍しい。
説明書を見ないで機械を使う女性は多いが、それが上手くいくケースは珍しい。みのりは、説明書なしで上手くいくタイプだ。だからこそ自転車を自作できる。
「専門書とにらめっこしていたアタイとは逆だな。どっちかって言うと、空みたいなタイプか」
「え?僕なの?」
そんなやり取りをする空たちを他所に、みのりは変速ギアの段数を数えていた。
「いち、にい、さん……空君のが8段で、茜ちゃんのが10段なんだね。チェーンの細さも違う。茜ちゃんのが細くて、その分歯車の感覚も狭いのかな?」
「ああ、そうだな。ついでにアタイのはオンロード用ギアで、空のがオフロード用ギアだ。オンロードギアの方が小刻みな変速が可能で、オフロード用ギアは大胆な変速を得意としている」
「でも、僕の車体がオンロード用で、茜の車体がオフロード用なんです。なんだかチグハグですよね」
状況に応じて、様々な研究を繰り返す。そして顧客からの意見をもとに、メーカーが新商品を開発する。その流れは、物作りの根幹だ。みのりは考えた。自分も、こうやって多くの人がかかわるような商品を作りたい。と……
そのためにも、まずは木製自転車を知ってもらわないといけない。とりあえず、壊れたスクリィブルを作り直し、きっと今度こそ成功させてみせる。
まあ、まずは自己満足ができるようにならないと、その先にも進めないが。
みのりがキャンプの思い出などを語り始め、いろんなところに行った話をすること、小一時間。興味深そうに聞いていた空たちは、いつの間にか静かに寝息を立てていた。
(やっぱり、一日中走っているんだもん。疲れるよね)
みのりも疲れていたが、こうなると寝るわけにはいかない。この寒いのに焚火を消すわけにもいかず、当然だが公園で火事を起こすわけにもいかない。火の番はしていないといけないだろう。
それと、空たちの自転車も見張っておかないといけない。誰もこんなところに来ないと思うが、仮にきて盗む輩がいたら大変だ。
(お父さんには『朝までには帰るね』ってメールしておいたけど、もしかしたら昼になるかもしれないにゃあ……学校はどうしよう)
あれこれと考えながら、みのりは自分の着ているコートを茜にかける。
(さっぶ……茜ちゃん、この寒さの中でよくねむれるにゃあ。まあ、私も寒さには強い方だけど)
近くから薪を取って、火にくべる。そうして、長い夜は過ぎていくのだった。
そして、朝――
みのりと空の楽しそうな話し声で、茜は目を覚ました。
「あ、茜。起きた?」
「おはよう、茜ちゃん」
どうやら二人とも早くから起きていたようだ。意外と朝に弱いらしい茜は、かけてあったコートを見る。
「これ、みのりさんの?」
「そうそう。寒そうな格好だったから、ね」
「ありがとう。おかげでよく眠れたよ」
どこかで見たことがあるジャージを着たみのりは、茜からコートを受け取ると、大雑把に羽織った。
「さっき、ちょっと空君の自転車を借りてね。近くのコンビニまで買い出しに行ってたんだ。朝ごはん、食べるでしょ?」
「あ、ああ」
昨日の夜から何も食べていなかったため、かなり腹ペコだ。成長期ゆえか、それとも自転車乗りだからなのか、寝起きであったとしても食欲はある。
ちなみに、みのりの言う「近くのコンビニ」とは、ここから自転車で20分ほどかかる隣町のそれだ。道が分かりにくいため、空に自転車を借りて行った次第である。その間は空が火の番をしていた。
「僕、てっきりもっと出来合いの物を買ってくると思ってたんですけど」
「にゃははっ。せっかくキャンプ気分なんだし、こういうのも悪くないかなって思ってね。それに寒いから、あったかいものを食べたいでしょ?」
暖を取るための焚火とは別に、石を組んだコンロに火が灯っている。その上には金網が置かれ、片手鍋と小さな鉄板が乗っていた。これらはみのりが常に持ち歩いていたものである。
そして、鉄板で焼かれているのは目玉焼きとベーコン。狭い鉄板の上だというのに、うまく白身を集めてスペースを作り出している。少し目玉焼きがいびつになってしまうのは御愛嬌と言ったところか。
「器用なもんだな……ぶえっくしゅん!」
「うわっ、茜。くしゃみが入るって」
「ああ、胡椒が効いたのかな?……先に鉄板に塩と胡椒を敷いて、それから卵を落とすと、目玉焼きの表面が綺麗に見えるんだよね。欠点としては、くしゃみを誘っちゃうことだね」
鍋の中には、インスタントスープにミックスベジタブルを入れたもの。食材の調達先がコンビニだったので、やはり限界はある。
「私が本気出せば、鶏ガラとか使ってスープを煮込むことも出来るんだけどね。家族でキャンプとか行くと、夜にバーベキューやって、その時の余り物で朝のスープを作ったりすることもあるよ」
「へぇ……灰汁が出やすいって聞きますけど、それも付きっ切りで掬うんですか?」
「んーん。あれは卵の殻とか白身なんかを使うと、くっついて固まるから楽なんだ」
ある程度まで煮込んだら、鍋とフライパンを端に寄せる。そうして開けたスペースに食パンを並べた。時間は1分とかからない。火力の問題などもあり、大慌てでひっくり返しているうちに焼けてしまう。
「それじゃあ、食べようか」
これまた準備のいいことに、リュックから紙皿を出したみのり。トーストにベーコンと目玉焼きを乗せて、公園のテーブルに並べていく。紙コップにスープを入れてから、スプーンが無かったことを思い出すが、
(まあ、いっか)
気にしない。これも攻略法である。
最高の調味料は、吹き抜ける風と良い天気。そして作り立てという魔法の言葉。
「やっぱり僕は、勝負よりも、こういうのが好きだな」
「アタイもかなりの距離を走ったけど、こういうサイクリングって、したことなかったよ」
そんな二人の笑顔を見て、みのりは満足そうに頷いた。
ライダーの数だけある走り方。みのりが求めたのは、速さでも快適さでもなかったのだろう。
ならば、スクリィブルは彼女にとって、やはり最高の車体だったのかもしれない。
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