第32話 空飛ぶ猿とトライアルバイク

『はいはーい。皆さんお久しぶりですねぇ。ミス・リードですぅ!

 ……なんか、24時間ずっと放送しているはずなんですが、凄い久しぶりに感じるのは何故でしょうかぁ?

 チャリチャンも10日目ですねぇ。もう残すところの日程は半分ほど……

 と、言いたいところなのですが――初日が午後2時スタートで、そこから24時間×21日で開催しているため、実際には22日目の午後2時まであるんですねぇ。皆さん気付きましたかぁ?

 まあ、なんにしても遠くまで来たものですねぇ。すでに皆さん、兵庫県に差し掛かっているのかなぁ。結構ばらけているので、何とも言いにくいですねぇ。

 さて、現在注目の選手は……』


 ミス・リードの生き生きとした声が、空のヘッドセットから流れる。

(昨日はバッテリ切れになっちゃったから、本当に久しぶりな気がするね。まあ、一日聞いてなかっただけだけど)

 スマホの弱点。それは完全放電すると、社外品の充電器が使えなくなることだ。なんでも、純正の充電器から信号を受け取らないと充電する回路に切り替わらないとか何とかだそうだが、詳しいことは分からない。

 とにかく、空はケータイショップに行き、二人分のスマホを充電していた。そしてある程度バッテリが回復したところで、社外品の充電器に切り替えている。

(これなら、乾電池で充電も出来るから、走りながらでも大丈夫だね。今度から沢山持ち歩こう)

 要は完全放電さえ避ければいいわけだ。そう考えながら、茜のいる自転車屋へと向かう。


 その間に、茜は自転車を修理に出していた。ついでにリアのケーブルも変えた方が良いと勧められたが、茜はこれを断った。何となく、使えなくなるまで使いたいのだ。たかがケーブルの一本でも。

(まあ、ケーブルの予備もあるし、昨日みたいに面倒な位置で切れなければ、アタイは自分でも修理できる)

 なので、フロントケーブルだけを交換した状態で、店を出る。やっぱり寒い。

「お、いいタイミングで来たな。おーい、空ー」

「あ、茜。充電してきたよー」

 空が大声をあげながら、両手を振って近づいてくる。そして振り上げた両手をハンドルに戻してブレーキ。

「クロスファイアは、治った?」

「ああ、ばっちりだ。ちょうど終わったところだよ」

「よかった」

 そう言葉を交わした空と茜は、お店の看板をすっと見る。別れ際にみのりが教えてくれた店だ。偶然にもコース沿いにあって助かった。

「ほんと、どこにでもあるんだね。トアルサイクル」

「まあ、全国チェーンだからな」

 空と茜が出会った日、一緒にライトを買いに行ったのも、トアルサイクルだった。それとは、まあ別の店舗なのだが。

「面白い店員さんとか、いた?」

「いや、普通だったな。さすがに自転車に詳しい店員さんばかりだったけどさ」

 そうそう面白い店員がいる自転車店もないだろう。仮にあるなら行ってみたい。と、この時は二人とも、そう思っていた。



『た、大変。大変ですぅ。みなさん、You-tubeはご覧になっていますかぁ?

 最近バズってるYou-tuber 『三人ぽっちチャンネル』のエイプさんが、昨日未明、犯行声明を出した模様ですぅ。えっと、彼は動画内で、本日チャリチャンコースに侵入し、危険運転を行うと表明しました。

 え?動画を出してもいいんですかぁ?……本人に許可を取っている?本当ですかぁ。

 それでは、皆さんにその動画をそのまま放送しますぅ』


 何やら焦った様子で、しかしどこか演技臭く、ミス・リードが言う。空たちは顔を見合わせて、ミスり速報を映像付きのモードに切り替えた。

 いつもは声だけを届けてくれるスマホが、画面にミスり速報の映像――つまり、三人ぽっちというYou-tuberの動画を表示する。ちなみに、スマホで動画を見ながらの運転は危険なので、マネしてはいけない。空と茜は特殊な訓練を受けています。



 映像内に移っているのは、ガレージのようなところにソファを持ち込み、そこに座る三人組だった。わざわざソファを持ってくるところから映っている。

「あーっ重かったわ!しんどいしんどい」

「ぶふっ、御苦労」

「はいはい、さっさと挨拶せな」

 座った三人のうち、一番左の女性が促す。すると、向かって右端の男がテンション高めに自己紹介をしだす。

「もんちきわー!エイプや」

 エイプと名乗るのは、猿顔の男。動画のせいで分かりにくいが、小柄で筋肉質な印象を受ける。金髪のソフトモヒカンと黒いもみあげが目立つ男だ。

「ぶふふふっ。あ……あ――ぽるこうです」

 真ん中に座る、太っちょな男が言う。メガネと坊主頭の、少し聞き取りにくい声の男性だ。

「そして、紅一点。サンゴやえ。よろしゅう」

 一番左の女性。重そうな一重瞼の、出っ歯が気になる顔立ちの女性が名乗る。黒髪の姫カットがさらに痛い。

「ブッサイクばっかりやんな」

「ちょっ、エイプ。うちまで不細工あつかいは酷いわー。これでもレディなんやえ」

「ぶっふふふ、不細工、事実」

 3人で笑い合う。そして、急に真顔になったエイプが、本題を話し出した。

「なあ、今『チャリチャン』って企画やってるやん?知っとる?知っとる?」

「いや、さすがに知ってるえ。あんたの友達も出てるんちゃうかった?何って言ったっけ?美汐ちゃん?」

「いや、本名やめたれや。ニーダ。ニーダちゃんやって」

「ぶっふふふふ。個人情報流出」

「で、それがどうしたんえ?」

 サンゴが訊くうちに、カメラにぽる公が近づく。どうやらこのカメラは三脚に固定されているようで、アングルを変えるのはぽる公の役割らしい。

 ドアップになったエイプは、無精ひげを撫でながら言う。カメラを持つぽる公に対してではない。この動画を見るであろう大会関係者に向けてのメッセージだ。

「チャリチャン。ママチャリでもMTBでも出場可能で、すべての自転車の頂点を決める大会らしいな。せやけど、俺に言わせれば足りへん、足りへんねん。なあ、地べた走るだけがチャリなんか?ちゃうやろ?せやから、俺がこの大会をぶち壊したる」

 カメラが引いていく。するといつの間にか、エイプの正面には自転車があった。どうやら、アップになっている隙にサンゴが運んだらしい。一発撮りとは思えないチームワークだ。

 その自転車は、奇妙な形をしていた。20inホイールに、太めの2.25inタイヤ。そしてリムの内側には、ファットバイクのようにリムホールが開いている。

 何より目を引くのは、フレームだ。サドルが付いていない。シートポストもない。一見すると、シートチューブすらないように見える。これはサドルを外したのではなく、元々サドルをつけない設計なのだ。

 結果として、ハンドルから後輪まで、まっすぐな鉄パイプがあるのみになる。その中間にはペダルが付いているが、チェーンリングは非常に小さく、変速ギアもない。そのため、チェーンもフレームと水平に通っている。

 すべて真っ直ぐ、一本の棒のような自転車。

「まあ、見ててや。このMONTY 221KAMEL11で、お前らの大会をぶち壊したる。コースに勝手に入って、前の動画の商店街みたいにしたるからな」

 宣戦布告――選手登録も出場もしていない彼は、勝手にコースに入ると宣言したのだ。まあ、ボブさんを始め何人かが既にやっている気がするが。



『以上が、エイプさんからの宣戦布告でしたぁ。今、自衛隊や機動隊にも協力してもらいながら、コースを厳重に封鎖中ですぅ。周辺住民の皆さんには、ご迷惑をおかけしておりますぅ。

 選手の皆さんは、コースアウトする際には気を付けて出て下さい。また、レースに復帰する際は、選手の証である腕輪を見せてから復帰してくださいねぇ。それと、絶対にエイプさんを侵入させないという保証はありません。各自、気を付けてください』




 ミス・リードがいつになく真面目に話を締めて、映像は警戒中の機動隊員に切り替わる。テレビで見るような、透明な防弾シールド。フルフェイスヘルメットに、防弾チョッキ。本気の警戒だ。

 バリケードとして、持ち運びできるフェンスも並べられていた。その上には有刺鉄線まで巻かれている。まるで現代の馬防柵だ。

「おいおい、空。前見てみろよ。映像通りだぞ」

「ほ、本当だ……その、エイプさん?って人、そんなに危ないの?」

「さあな。アタイはその……ユーチューバーとかいう奴には疎いんだよ。あのぶんぶーんとか言う奴しか知らない。空は?」

「え?えっと、さ、最近、バーチャルユーチューバーにハマってるけど……」

 空の言ったことは、ほぼ「2次元の美少女が大好き」という意味にとれる。別にアニメオタクと言うわけでもない空は、少し恥ずかしそうだった。しかし、そもそもバーチャルユーチューバーと言うのが何なのかよく分かっていない茜は、

「そうなのか。今度アタイも見てみるか」

 などと軽く流す。まだようやく四天王の五人目が決まったばかりで、あまり知名度のない単語だ。知らないのが普通なのかもしれない。

「ところで、あの自転車って何?」

 空が話を逸らそうと、別な話題を振る。

「ああ、あれはトラ車だな」

「とらしゃ?」

「ああ、正式には、トライアルバイクって言うんだが……」

 そこで言葉を切った茜は、目の前の交差点に信じられないものを見た。

「空、ブレーキしろ」

「え?ええっ?」

 急な茜からの指示に、空がブレーキを掛ける。

 その目の前に、エイプが降ってきたのだった。



 その数秒ほど前、機動隊員の一人が、コースに接近する一台の自転車を見つけた。

「そこの自転車!止まりなさい。ここから先は大会コースです」

 メガホンに向かって叫ぶ、音割れ気味の声。それを聞いた自転車の乗り手、エイプは笑った。

「分かっとるで。俺かて猿やないんやし、立ち入り禁止なことくらい解るわ。アホかい」

 しかし、速度を緩めない。どころか、さらに速度を上げていくではないか。

「止めろ!」

 隊員たちがシールドを構える。地面に突き立てて、衝撃に耐える備えだ。

「おお、ええね。ええね。そうやってしっかり構えとってな」

 エイプが、前輪を跳ね上げる。急激なペダリングで車体をまくり、長いステムとハンドルで前輪の位置を調整。そして、身体を使って跳ねる。自転車ごと――

「倒れんようにな!」


 ガガン!


 防弾シールドを踏み台にして、高く、遠くへと、飛ぶ。

 自転車が、宙を舞うのだ。その先には、有刺鉄線のバリケード。

(なんや!本気やないかい!?)

 エイプはとっさに、空中で車体を捻る。後輪を前に投げ出すようにして、車体の向きを横にする。それによって、バリケードにタイヤをぶつけないようにするのだ。

 仮に当たったらパンクする。その状況で、エイプは笑った。

(おもろいやん。めっちゃスリリングや)

 機動隊の頭上を超え、フェンスも超えて、彼はコース内に侵入する。そして、着地。


 シュタァン!


 サスペンションはついていない。代わりに、身長の割には長い手足をフルに生かし、衝撃を吸収する。仮にサドルが付いていたなら、腰を強打していただろう。しかし、この車体にサドルは無い。タイヤに当たりそうなほど腰を落としても、大丈夫だ。

 これが、トライアルバイクの真骨頂。乗り手の動きを妨げず、テクニック次第でどんな状況にも対応する。

 通常のMTBなら、様々な装備によってオフロードを走破する。対してこの車体は、装備を外すことでライダーの真価を引き出す設計だった。

「うっきぃぃい。コース侵入、果たしたで!」

 エイプが雄叫びを上げる。その耳についたインカムマイクに、サンゴの声がした。

『エイプ。早速やけど、後ろを振り返ってくれひん?二人組がおるやろ。その子ら、噂の中学生コンビやえ』

 どうやらサンゴは、別な場所でモニタリングをしているらしい。動画の編集や撮影指示に至るまで、彼女の仕事だ。

「何と!偶然にしても出来過ぎてるなあ。分かった分かった。ほな、撮影頼んだで。ぽる公」

 エイプが言うと、それをどこかで聞いていたぽる公が頷く。ドローンを飛ばして撮影する、カメラ係はぽる公だ。

 そして、主役となるパフォーマーが、もちろんエイプ。

「さあ、茜ちゃん。空くん。楽しもうや」


 ウィリーしたエイプが、そのまま車体を反転させる。正面から空たちに向き合った彼は、そのまま後ろ向きに進み始めた。

「え?あ、あれって……」

 空が驚く。

「ああ、アタイも技名は知らないけど、バランス感覚だけでバックしてやがるんだ」

 分析する茜も、自分ではできない技だ。

 ウィリー状態から前輪を垂直に落とせば、後輪は後ろに下がる。この時、ペダルを後ろに回すと、後輪はそのまま勢いだけで後ろに回るのだ。あくまでペダリングは、後輪の動きを妨げないために回すだけである。別にペダルから推力が生まれるわけではない。

 なので、

「固定ハブ?」

「いや、フリーハブだ。それでも、出来るんだよ。ああいう動きがさ」

 空の問いかけに、茜はそう答えた。満足そうに、エイプが頷く。

「はっはっはっ。せやで。ママチャリかて頑張ったら出来るがな」

 再び反転して背を向けたエイプが、二人の行く手を塞ぐように両手を広げる。

「まあ、タダでええから見といてや。俺のショータイムや」

 再びハンドルに手を戻したエイプ。両手放しの運転は苦手だ。なにしろ、そんな『見た目重視』のテクニックなど、トライアルでは使わない。ロード乗りなら車体を安定させて直進するために習得する技術だが、やはりこれもエイプの得意分野ではない。

(ま、俺は踊るのも苦手やし、前に進むんも苦手やさかいな。別に謙遜ちゃうで!)

 ぽん、と軽快に、車体を跳ね上げる。そのまま近くの中継車に、ぶつかるように飛び掛かった。ボンネットに前輪をかけると、そのまま真上に飛んで後輪を乗せる。次はルーフ。同じように前輪から乗る。

 ステアケースと言うテクニックだが、この場にいる誰も、その技名までは知らなかった。実はやっているエイプ本人も知らない。

「何をしているんだ!危ないぞ。降りなさい!」

 中継車に乗っていた撮影スタッフが、エイプに怒鳴る。しかしエイプは平然と、ルーフの上で停止していた。

 車体を後ろに引くようにして、達磨落としの要領で車体をバックさせる。そして再びペダルを前方に回す。これを繰り返すことで、小刻みに前後に揺れ続けることができるのだ。通称を、スタンディングスティル。


「カメラマンさん。ゆっくり見てってくれや。俺のテクニック。ほんで、ミス・リードちゃんに実況付けてほしいねん。よろしゅうな」

 中継車が走行中であるにもかかわらず、彼は平然とその上で技を繰り出す。前輪を上げたまま停止する『ダニエル』。再び前輪を戻したと思ったら、この狭い中で方向を変える『フロントホッピング』。そして、後輪を上げる『ジャックダニエル』。

 ひとつひとつの技自体は、トライアルに参加したことがある人物なら可能な技だ。しかし、20km/h程度で走行中の車の上というのは特殊だろう。

 彼にとって、技とは数を覚えるものではない。ひとつを磨くものだ。

 例えば、誰でも出来る飛び下り行為『ドロップオフ』。

 これは、ただ高いところから低いところに落ちるだけのテクニック。やや前輪を引き上げ気味にして走り、そのまま落ちて着地すればいいだけの技である。なんならママチャリでも無意識にやっている事だろう。歩道から道路に行くときに使うあれだ。

 それは、高さや状況によっては高い技術を必要とする。そして、エイプのドロップオフは常識を凌駕する。

「行くで!これが俺の、ドロップオフや!」

 走っている車のルーフ。150cm前後の高さから、真横に落ちる。当然、地面は横に流れている。エイプの主観で、右から左へ。


 ズバババァァアアアッ――ダン!


 やや左に車体を傾けた状態で着地。タイヤが左に流されるのを利用して体制を整える。そのまま小回りを利かせて右折し、すぐに空たちと並走した。

 必殺の通常攻撃。とでもいうインパクトの強い大技。いや、大技へと昇華された初歩技を、彼は見せつけた。

「す、すごい。凄いですエイプさん」

 空が惜しみない拍手を送る。

「ははっ、そないにしてハンドルを離しながら走れる空君も凄いで。俺は無理や。いや、サドルがあったらやるんやけどな」

「え?そうなんですか?」

「まあ、俺かてこうすれば、両手放しは出来るけどな」

 前輪を軽く浮かせて、その間にハンドルを180°回転させる。長いステムのせいで前方に突き出ていたハンドルが、逆向きになる。そこにエイプは腹をくっつけた。サドルの代わりにハンドルを、腰の代わりにお腹を使ってバランスを取る。

「ほら、これならどないや?」

 両手を離して翼のように広げたり、巨大ヒーローのように前に向けたり、空と同じように手を打ったりする。まるでゼンマイ仕掛けで動く、シンバルを持った猿の人形のようだ。

「うわぁ。面白い」

 空が目を輝かせるのを見て、茜はため息を吐いた。こうなってしまうと、空はレースよりこっちに夢中になる。元々、ヘンテコ自転車に対する空の興味は深かった。メカや技術に惹かれるあたり、こいつも男子なんだな。


「凄い自由にバランスを取ってますよね。どうやっているんですか?」

「ああ、これ?じつは重心の移動と、ホイールベースの長さにポイントがあるんや。普通の自転車はバランスを前後に崩さないように、ホイールベースの中心に重心を持って来るやろ。例えば空君、エスケープ見てみ見てみ?」

 空は自分の跨っているエスケープを見る。というか、紹介もしていないのにエスケープの名前を知っている当たり、有名な車体なのだな、と再認識する。空が有名なのか、自転車が有名なのかは分からないが。

「えっと、ホイールベースの中央に、ペダルとサドルがありますね」

「そうやろ?まあ、サドルは若干リア寄りやね。で、ハンドルも前輪寄りやけど、この身体に直接触れる三か所が、全部綺麗に中央に収まるんや」

 一方、エイプの乗るモンティには、サドルがない。身体に触れているのはハンドルとペダルだけだ。

「このモンティは、ハンドルが前輪の真上。そしてペダルが後輪のすぐ前や。見てみ。ペダルを回すと、後輪の真横まで来るんやで」

 BBシェル自体が、リアタイヤとぶつかる寸前に設計されている。20inの小径ホイールと相まって、その位置は限りなく後輪に近い。チェーンの長さは最小限だ。

「せやから、ちょっとまくってからペダルに体重をかけると、ウィリーのままの姿勢を維持できんねん。ジャックナイフする時も、一回ハンドル突き出してから体重かけるだけやな。簡単やで。簡単」

「ほ、本当ですか?」

「ほんまほんま」

 嘘である。

 車体はあくまで、バランスを崩しやすく作られているだけだ。なので下手な人が乗ると、簡単に転ぶだけで終わる。

 例えば今エイプがやっているジャックナイフも、初心者がやると左右にバランスを崩して倒れる。思い切りが足りないと維持できない姿勢で、しかし思い切りよすぎるとピッチオーバーする状態だ。

 ただ、この扱いにくさこそが、常識はずれの走りを実現する。安全な自転車は平凡な自転車。危険な自転車こそ非凡な自転車なのだ。


『トライアルバイクは、バイクトライアルと呼ばれる競技のために作られた車体ですねぇ。足を地面につかないまま、障害物をクリアしていくタイムアタックですよぉ。

 まあ、自転車版のSASUKEだと思ってくだされば分かりやすいですかねぇ。普通のMTBでも可能なのですが、より高く飛ぶために装備を外した車体ですぅ。

 テクニックの難易度や見た目を競うのではなく、あくまで障害物を越える方を競うのが特徴ですねぇ』


 などと、ミス・リードはのんびりと実況を始める。

「ミス・リードちゃん。そんなんええから、いつものエロいやつ聞かせてくれや」

『……り、リクエストされるとやりづらいんですけど……分かりましたよぅ。あはーん、階段の手すりが擦れて、クランク感じちゃいますぅ。しゅごいのきちゃう。おっきい階段飛んじゃう。ら、らめぇ……これでいいですかぁ?』

「めっちゃ棒読みやん!」

 勢いをつけて走り出すと、軽くジャンプ。そして階段の手すりに車体を乗せる。フレームとクランクで手すりを挟んだまま、勢いだけで手すりを滑る。すると、重力に逆らって階段を上るのだ。前に行く慣性のおかげである。

 ガリガリと、金属同士がこすれ合う音がする。もし暗ければ、火花が散る様を見れただろう。こういったテクニックのために、トライアルバイクのフレームの下には金属製の部品が付いている。アンダーガードと呼ばれるものだ。

 そのまま数段の緩やかな階段を上り、最後はジャンプ。手すりから地面へと、山なりに落ちる。

 そんな技で一瞬のうちに階段を上ったエイプを、空と茜が追う形になる。こちらはいつも通り、自転車を担いでのランニングだ。

「さあて、一通りにぎやかしたし、そろそろ帰るわ。楽しかったで。二人とも」

 そう言ったエイプが、コースの横に止められた中継車に飛び乗る。そこからフェンスを越えてコースアウト。最後まで、空中での戦いを見せた男であった。


「……」

 茜が、何かの違和感を感じる。どこかでつじつまが合っていないような……

「どうしたの?茜」

「いや、ちょっとな。気になっただけだ」

「何が?」

「ああ、確証はないんだが……ん?」

 思案顔で俯いた茜は、その路面に何かが落ちているのを発見する。

「これは、運転免許?」

「あ、エイプさんのだ」

 先ほどのコミカルな男が、真面目な顔で写真に写っている。むしろこっちの方が笑えるのは何故だろう?

「こんなの落とすなよ。住所や本名もろバレじゃないか」

「た、確かに。でも、エイプさんに届けてあげようよ」

「うーん。レース中なんだけどな……」

 迷う茜であったが、途端に何かを思いついたような笑顔になる。悪い顔だ。

「そうだ。ちょっとエイプを追ってみよう。意外と凄いものを見ることができるかもしれない」

「え?」

 空に説明する時間も惜しいとばかりに、茜はコースアウトを申し出る。警備員がすぐにバリケードを退かして、二人を通してくれた。

 エイプの自転車は、ギア比が1:1に限りなく近い。走ればすぐに追いつく。しかし茜は、一定の距離を保ちながら走っていた。空もそれに倣う。



「あ、木島ディレクター?俺や。エイプや」

 コースから少し離れたところで、エイプはどこかに電話を掛けていた。車にもたれかかり、けだるそうな様子だ。

「ああ、分かってるで。選手に怪我させない程度でやったらええんやろ。さっきの侵入かて、空君たちの目え見てから跳んだわ。それより有刺鉄線のバリケードなんて聞いてないんやけど……」

 ガリガリと頭を掻き、困ったように言う。電話の向こうの声は、エイプに何かを説明しているようだった。

「ああ――ああ……分かっとるわ。ほな、次に注目選手が近づいてきたら言ってな。――おう。ギャラは指定の口座に振り込んでくれ。……大丈夫や。チャリチャンは盛り上げたる。お前らは茶番を続けてくれや」

 電話を切ったエイプが、んー、と伸びをする。


「やっぱりな」


 その後ろから、茜が出てきた。空もおずおずと続く。

「あれ?茜ちゃん?それに空くんも、どないしたん?」

 にこやかに両手を広げたエイプが、

「てか、いつから居たん?」

 急に睨むような表情になる。先ほどまでの愛嬌は無い。まるでヤクザのような威嚇。それに負けない茜の眼光が、火花を散らす。

「お前が電話をかけ始めた辺りから、ずっと聞いてたよ。相手は木島ディレクターって言ってたな。チャリチャンの運営か?」

「……なんでそう思うん?」

「いつもなら部外者をコースから追い出したがるミス・リードが、今回は実況に回っていたからな。ボブさんの時はちゃんと警告していたのに、だ。それに、お前のインカム、ミス・リードと繋がってただろ?会話できてたもんな」

 つまり、今回の事件はドッキリだ。表向きでは『コースに侵入した迷惑Youtuberと、それを阻止する運営』という図式。実際には『運営に雇われたYoutuberが、大会の宣伝を兼ねている』わけだ。

「あっちゃあ……知られてしもうたら、しゃあないな。消えてもらお……」

「いや、言いふらす気はないけどさ」

「……え?」

 ポカンとするエイプに、茜は勝ち誇るように笑う。

「まあ、面白い企画だったからな。レースとしては成立していないんだけど、いいさ。それにアタイは、そんな用事できたわけじゃない」

「あ、あの、エイプさん。運転免許、落としましたよ」

 空が免許を差し出す。それを受け取ったエイプは、さらに青ざめた。

「お、おう。すまんな……あ、これって――」

「大丈夫だよ。個人情報なんて控えてないし、それで脅しをかける気もないから」

「そもそも僕たち、エイプさんに楽しませてもらいましたから」

 茜にとって、エイプのマッチポンプを暴くのは興味があったからだ。それ以上のつもりはない。空に至っては、本当に落とし物を届けに来ただけだ。

(ああ、純粋なもんやな)

 いつからだろう。ギャラが貰えないなら自転車に乗らなくなったのは。

 少なくとも、少年時代はただ、同級生に自慢したいだけで技を磨いていた。それは純粋だったころのエイプの話。

 Youtubeに動画を投稿しだした頃も、ただ面白い自転車をみんなに知ってほしかっただけだ。だからこそ、同じく純粋に活動していたニーダに出資したのだった。

 ただ、最近はチャンネル登録者と、広告収入にだけ目を向けていた。ほんの少しの話だ。期間にしたら半年も経たない話。

(アカンな。金の話は調子狂わせるわ。いまも俺、てっきりこの二人に『たかられる』んちゃうかと――)

 そんなはずがないのに。このキラキラした目の少年が、そんなことをするわけないのに……

「え?エイプさん、どうしました?」

 エイプが空の肩を掴む。そして柔らかな頬を両手で押さえると、そのまま――


 ぶっちゅううううう


 空の唇に自分のそれを重ね、思いっきり吸う。

「んっ!!?んんん、んん――!!む、んー、んー」

 必死に暴れて抵抗する空だが、エイプは離さない。彼曰く「挨拶みたいなもん」が、惜しげもなく押し付けられる。ついでに舌とかも。

「そ、空?……あ、あわわっ」

 茜はどうしたらいいのかもわからず――そもそも事態の急展開についても行けず、おろおろするばかりだった。助けに入りたいところだが、密着した二人のどこにどう手を入れていいのかも分からない。

 いっそエイプを羽交い絞めにするべきか?いや、抱き着くみたいな形になるのは嫌だ。じゃあ空を抱きかかえて引き剥がすべきか?ダメだ。

「アタイはどうしたら――」

「ぶっ叩けばええんやえ」

「え?」


 すぱぁあん!


 突如現れたサンゴが、大きなハリセンでエイプを叩く。

「痛ったあああ!何すんねんサンゴ!」

「それはウチの台詞や、エテ公!見境なくサカりよって、しかもおのこに手え出してどないするんえ!」

「これは俺の挨拶や。男とか女とか関係ないわ」

「アホか!……えっと、空君やったっけ?ゴメンえ。トラウマになったりしたら言うてな。こいつの命で償うわー」

 にこやかに物騒なことを言うサンゴに、空はどう反応していいのか分からず後ずさる。

「おい、空。ひとまず逃げるぞ」

「う、うん」

 よたよたと自転車に跨り逃げる空と並んで走りながら、茜は

(アタイじゃなくてよかった)

 と、薄情なことを思っていた。

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