第33話 孤高の青年とトライアスロンバイク
「まあ、あれだ。御愁傷さんだな」
「うう……」
もう何度目になるか、唇を拭う空。物理的な残留はもうないと思うが、これは精神的に来るものがある。
「助けてよ。茜」
「無茶言うなよ。アタイがあの時どう割って入ればいいんだよ」
「えっと、茜が代わりに犠牲になる?」
「お前も大概酷いな。しかもアタイにだけ」
コースに戻ってから、既に2時間近くが経過していた。エイプと出会ったところはまだ街中だったというのに、気付けば農村。というのだろうか……
本州を半分以上走って思うことは、日本の景色は何処もさほど変わらないなという事。もしかすると植物の分布や農作物の違いがあるのかもしれないが、そんなところに目が行くほどの興味はない。
あえて言うなら……
「ラーメンは西に行くほど細くなる気がするよな。気のせいかもしれないけど」
「あ、お昼ご飯にする?」
「ああ、そうしようぜ」
空たちが摂取するのは、一日に3~5食。消費カロリーの高い自転車において、ちょっとでも油断して食べ忘れると急激に痩せる。かといって一度にお腹の中に入る量にも限界があるので、取り方が重要になるわけだ。
加えて、財布の中にも事情がある。計算上はまだ金額に余裕があるが、いつ不測の事態が発生するか分かったものではない。昨日のように車体が壊れることもあるかもしれないし、これまた昨日のように一泊の代金が浮くかもしれない。
「――ねえ、茜。コンビニにしようか」
「ああ、そうだな」
日の高いうちに、少しでも長い距離を走っておきたい。だから昼ご飯に時間を掛けたくない。そんな状況だ。
『さあ、雪道を抜けたオンロード系選手たちが、ようやくオフロード系選手たちと入り乱れ始めましたね。まあ、中にはオンロード系なのにずっとトップクラスの選手とか、オフロード系なのに雪に足止めされた選手もいますけど。
この戦況の中、もたもたしていると順位が大きく入れ替わりますよぉ。
さて、今やっと雪道を超えた史奈さんですが、すでに100位圏内の順位まで復活。通称「フミナ・キャノン」で巻き返しを図るようですよぉ』
そんな実況が入り、後ろから風が吹く。噂をすればと言ったところだろう。轟々と道を震わせるロードノイズ。そして中継車のエンジン音。
風間史奈が、空たちの横をすり抜けていく。
「うひゃあっ」
「空、気をつけろ……つーか、近くにいただけで飛ばされそうになるなんて、どんな風圧だよ」
茜が突っ込む頃には、風も止んでいた。キャノン砲の弾丸に例えられるのも納得の速度と迫力だ。
「今、ミス・リードが言ってたよね。史奈さんは100位圏内だって……」
「ああ、つまりアタイらは100位前後って事だな」
とはいえ、トップとの差がどのくらいなのか、最後尾とのタイム差や距離差がどのくらいなのかも分からない。
「お昼ご飯は、2回に分けようか」
「ああ、そうだな」
満腹まで食べた直後に走るのは難しい。かといって、お腹が落ち着くまで待つことも出来ない。ならば一度の量を制限して、回数を増やす。これもチャリチャンならではのテクニックと言えるだろう。
コンビニでおにぎりなどをいくつか購入して、半分を自転車に積み込む。茜は背中のポケットに、空はキャリアーバッグに。
「そのポケットって、結構大きいよね」
「ああ、もともと、ロードバイクなんかに荷物を積むところは無いからな。ポケットに整備用工具も携帯食料も何でも入れるんだよ。サイクルジャージの利点だ」
ピッチリしたシルエットのジャージだが、その機能は意外と多い。細い腰の後ろを膨らませた茜は、ここで食べる分のおにぎりのフィルムを剥き始めた。
「やっぱり、本格的な人はジャージを使うんだね」
茜には申し訳ないが、空はそのジャージをあまり魅力的だと感じない。なにせ体に張り付くような窮屈さは格好いいと思えないし、この真冬には寒そうなのだ。
「まあ、あとは競技に寄るだろう」
「競技?」
「ああ、例えばピストバイクの場合は、そもそも長距離を走らないからな。携帯食の保持も考えなくていいんだ。あ、史奈さんや
「ってことは、トライアスリートは補給食を摂らないの?」
「いや、さすがにバイクパートでは摂るはずだ。っつっても、本当に軽い補給にとどまるだろうけどな。そこで登場するのが、ベントーボックスだ」
そう言うと、茜は近くの自転車を指さした。同じコンビニに用があったのだろうその黒い自転車は、一見するとロードレーサーのようだ。
ただ、ハンドルは前方に向かって反り返るブルホーン。そして肘を乗せて走るためのDHバーを搭載している。まるでSFマシンか、あるいは何かの武器のような形状。
その車体のサドルの後ろ。後輪の上に、突起があった。フレームから着脱できるらしいこの部分は、空力抵抗を抑えるための部品であることが容易に想像できる。
「実はこれ、中が空洞なんだよ。で、いろんなものが収納できる仕組みになってる。これをベントーボックスって言うんだ」
「へぇ。ベントー……お弁当箱?」
空は冗談めかして言ったが、茜は笑わない。どころか、真面目な顔で頷いた。
「ああ、どうやら『弁当』って文化は海外では珍しいらしい。一つの箱に食事を詰めるっていう考え方が……ってところか?アタイも詳しくは知らないんだけどさ。フランスの方では、弁当の事を
つまり、このベントーボックスとは、本当に弁当箱という意味らしい。
「まあ場合によっては、アタイらが使っているトップチューブバッグや、サドルバッグを、ベントーボックスと総称することもあるんだぜ。アタイらの使い方だと、ツールボックスって言い方がしっくりくるけどな」
「へぇ。同じものなのにお弁当箱だったり、お道具箱だったりするんだね」
「……アタイが驚いたのは、お前が平気で名詞に『お』を付けたことだけどな……」
「え……あ」
茜の言わんとすることが、空にも伝わったらしい。
「べ、弁当。弁当箱だよね」
「いや、言い直さなくていいだろ」
そんな会話を続けていると、後ろから影が伸びた。二人で振り返れば、そこには背の高いすらっとした男性が立っている。冬用の長袖ウェアに身を包んだ、いかにも自転車乗りといった服装だ。
背中まである長髪を後ろで一つに束ね、切れ長の目に怪訝な表情を湛えた彼は、
「あの……私の自転車に、何か用ですか?」
この自転車の持ち主らしい。手にはコンビニで買ってきたのであろうカップ麺を持っていた。蓋のふちから湯気が出ている。
「ああ、すまん。悪さをしていたわけじゃなかったんだ」
「ごめんなさい。お兄さんの自転車、かっこよかったから、つい……」
二人で誤解を解く。たしかに自転車泥棒か悪戯だと思われても仕方ない距離のやり取りだった。
「……」
睨みつけるように、男は空の目を見る。次に茜の目を、まるで眼光だけで相手を威嚇するようにしっかりと……
見られた空は目をぱちくりとして首を傾げ、茜は身長差から上目遣いに目線をぶつける。相手の身長は、およそ175~180と言ったところだろうか。茜より頭一つ分高い程度だ。痩せているのに、威圧感だけは大きい。
しかし、小さな声で、彼はつぶやく。
「ああ、そうだったんですね」
そして、手を差し出した。その腕には、チャリチャン参加者の証である腕輪が付いている。
「私が食事を終えるまででよろしければ、その車体、自由に眺めていてください。格好良いとはよく言われますし、気になるのも分かります。そして、オーナーとして少し嬉しくもあります。まるで自分が褒められたようだ」
にこやかに言った彼は、先ほどまでの威圧感を消すようにして数歩下がった。どうやら、空たちを怪しい人物でないと認識したらしい。
彼は手首に下げたコンビニ袋の中から、カロリーメイトを取り出して、ベントーボックスに入れていく。それが終わるとカップ麺――天ぷら蕎麦だ――の蓋を剥がした。あらかじめ蓋の上に置いておいた割りばしを、
パキン
口にくわえて割り、立ったまま食べる。その姿は行儀がいいとは言い難くも、不快感のないものだった。こういうのを、そう――小粋……と言うのだったか。
麺を箸で摘まみ、スッと持ち上げる。再び低く構えて口へ運び、
ズズズッ……
豪快に一口ですすり上げる。口に吸いこまれる直前、空中に投げ出されて跳ねる蕎麦。雫となって輝くつゆ。そして……
一緒に巻き込まれる髪の毛。
「ごほっ、ごほっ……しまったー……」
右側頭部から生えている分の、後ろに束ね損ねた髪をすすってしまったらしい。指で根元から引っ張ると、口の中からずるずると出てくる。
忌々しそうに耳にかける。しかし、蕎麦を喰らおうと俯くと、またしても髪が下りてきてしまった。また耳にかける。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
ついに見ていられなくなった空が、彼に話しかけた。彼は少し驚いたような表情をした。
「み、見られていましたか……ところで坊や。少しの間、これを持っていてください」
「は、はい」
カップ蕎麦を空に渡した青年は、髪を解き、もう一度結び直す。先ほどまでの緩い束ね方ではない。前髪も含めて、きっちり総髪だ。
そうしてみれば、彼はシュッとした男前だった。空とは違った意味での美丈夫である。
「ああ、ありがとうございます」
再び、彼はカップ麺を受け取る。その際に気づいた。空の腕にも、自分と同じ腕輪があると……
「まさか、貴方たちもチャリチャンの参加者?」
「え?……はい。御堂空です」
「諫早茜だ。つーか、空はともかくアタイは分かるだろう。このジャージにこのレーパンだぞ」
普通に白のダッフルコートとテーパードジーンズの空はともかく、茜はどう見ても自転車選手の格好である。足りないものはヘルメットくらいだ。
だというのに、この男、
「ああ、すみません。女性の服に至っては無知ですので、気付きませんでした」
などと言い出す始末である。間違っても今の茜の服装がファッションセンターに出ることは無いだろうし、流行ることなど100年ないだろう。
「はぁ……あんた、どこかでズレてるよな。学校にいるときの空なみに」
「え?僕って学校でそんな扱いなの?」
『おお、これはどういう風の吹き回しでしょうかぁ。
エントリーナンバー019 カナタ選手。噂の中学生コンビこと、空さんと茜さんに接触ですぅ。いままで他の選手と話しているところなど見たことがなかったですし、報告によれば『一緒に走ろう』と誘っても断られたという話さえ聞いていますが……』
ミス・リードですら困惑するらしい、その男の名前は、
「カナタと申します。
「あ、ご丁寧にどうも」
「たまにいるよな。アタイら以外の本名エントリー」
カナタと名乗った男性は、カップ麺を食べ終わると、コンビニのゴミ箱にカップを放り込む。
「それでは、私はそろそろ、レースに復帰します」
「あ、はい。頑張ってくださ……」
「ちょっと待てよ」
自転車に跨ろうとしたカナタと、見送ろうとした空。その二人を茜が呼び止める。空は、
(ああ、いつものやつか)
と思った。そしてその通りである。
「なあ、カナタさん。せっかく会ったんだ。アタイらと勝負しないか?」
「ほら、やっぱり」
空が小声で言うが、カナタは首をかしげる。
「勝負?」
「ああ、ほら。ミスり速報で話題になってるだろ。アタイらがあの『噂の中学生コンビ』だよ」
「いえ、存じ上げませんが?」
「は?」
「すみません。私は、ミスり速報をあまり聞かないのです。誰が勝っているだの、負けているだの。そういった雑念はペースを乱す行為になりますから」
「そ、そうなのか。悪かったな……」
茜が顔を真っ赤にする。それはそうだ。自分が有名人だと思い上がっていたのだから、恥ずかしい。
「じゃあ、勝敗は気にしていないんですか」
空が訊くと、カナタは真っ直ぐな目をして答えた。
「はい。私が最後に勝つことに、揺らぎはありませんから」
「へ、へえ……」
大した自身である。
「ですが、有名な方たちとは露知らず、御無礼をいたしたのは事実です。もしよろしければ、あなた方が言う『勝負』を受けさせてもらいましょう。ペースを崩さぬ程の余興でよろしければ」
髪を解き、再び前髪を下ろせば、後ろ髪だけを縛りなおすカナタ。さらに彼は自転車に掛けてあったヘルメットを手に取った。
流線型の、表面に隙間のないヘルメット。ゴーグルが一体化したデザインのそれは、TTやトライアスロンで使用される特殊な形状のものだ。それをかぶった彼は、まるで宇宙警備隊かエイリアンの様である。
「勝負は、エンデューロレースの応用版でいいですね?」
カナタが言えば、
「ああ、それならアタイらもカナタさんも、ペースを維持できるってわけか」
茜が納得する。取り残されたのは空だった。
「え?茜。エンデューロって何?先週の次郎さんのやつ?」
「いや、あれはMTBレースの方のエンデューロ。今話しているのはロードの方のエンデューロだ」
MTBとロードでは、同じ自転車競技でも共通性がない。そもそも主催する団体や公式協議連盟も違うので、完全に断絶していると言ってもいい。
そこにきて、お互いが偶然にも全く違うレースに『エンデューロ』と名付けてしまったからややこしい。
MTBで言うそれは、『ダウンヒルレースの上りもあるバージョン』だ。基本的には下り坂のタイムを計測し、数本の合計タイムを競う。ただし、制限時間以内に登りを走らなければ失格となる。
一方のロードで言うそれは、『耐久レース』と銘打てば分かりやすいだろう。決められたコースを制限時間いっぱい走って、周回数を競う。そんなところだ。今回は周回コースではないので、単純な距離を競うことになる。
「それじゃあ、今回は制限時間3時間。スタートはこのコンビニ。当然ながら、3時間後に少しでも先に進んでいた方が勝ちだ。いいな?」
茜が確認する用に言って、みんなが頷く。
「それで、スタートの合図はどうしますか?」
「ああ。いつもミス・リードに任せてるよ。今回もそうしよう」
「という事は、私もミスり速報をオンにしなくてはなりませんね。ゴールの合図も、リード嬢にお任せで構いませんか?」
「ああ、大丈夫だろうさ」
茜はそう言って凸電機能を使い、彼女に確認を取る。当然、返事はオーケーだった。
『それでは、3人とも準備は良いですかぁ?ピッタリ3時間が経過したら、こちらの方でお伝えします。少なくとも10秒前にはカウントを入れますねぇ。それでは、レディ……ゴー!!』
ひゅんっ!!
風を切る音とともに、真っ先にコンビニの駐車場を飛び出したのはカナタだった。まるで刃物のような細身の車体が、地面すれすれを飛ぶツバメのように走る。
「は、速い!?」
「ああ、トライアスロンバイクっていうのは、そういうもんなんだよ」
茜はこのことを、十分に知っていた。
『さあ、全国のロリコンショタコン……もとい中学生コンビファンの皆様、お待たせしました。昨日は見ることのできなかった、局所レースのお時間ですぅ。
今回彼らが相手にするのは、カナタさん。乗っている車体はCEEPO
そう。日本のメーカーであるCEEPO社が開発した、バイパーの最高グレードモデル。一台100万はくだらないフラッグシップですよぉ。自転車で7桁って、意外と少ないですよねぇ。各メーカー1~3台くらいしか出してないと思いますが……
さて、このトライアスロンバイクと呼ばれる車体ですが、普通のロードレーサーバイクとどこが違うのかご説明しましょう。
ロードレースの場合は、集団で走ることが前提になりますぅ。なので、結構小回りの利く車体が採用されるんですねぇ。じゃないと衝突しちゃいますから。一言で表すなら、コーナリング重視ですぅ
一方トライアスロンは、団体での協力が禁止。それに敵を風よけに使うのも禁止されます。なので一人で悠々と走れるよう、
ロードレーサーはサドルが後輪の真上、ハンドルが前輪の真上に来るくらいが特徴ですぅ。どちらもホイールベースのギリギリくらいですかねぇ。それに比べると、トライアスロンバイクはサドルが車体の中間、ハンドルが前輪軸のやや前というか、ホイールベースの外まで出ることもあります。
つまり、全体的にトライアスロンバイクの方が重心が前ですねぇ。でもペダルの位置は変わらないので、トライアスロンバイクの方が脚が垂直になります』
そこまで説明したミス・リードは、うーんと唸る。何かしっくりくる例えを出したがっているようだ。そして、ポンと手を叩く。その音がマイクに乗って子気味良く響いた。
『つまりトライアスロンバイクは、壁に手を付いて立ちバックで入れるような姿勢ですねぇ。
え?こんなところでするの?恥ずかしいよぉ……って感じの姿勢ですよぉ。
対するロードレーサーは、ベッドの上で後ろの穴に入れる姿勢ですねぇ。あ、こちらもバックですよ?
え?そっちの穴は違っ――いぎぃっ、って感じの姿勢ですぅ』
「大体合ってそうなのが腹立つなアホリード!」
見比べれば一目瞭然だ。カナタが脚を垂直に下ろして、上半身を水平になるまで倒すスタイル。腰を上に突き出し、体重はハンドルに乗せて、姿勢を低くしている。
一方の茜は(厳密にいえばシクロクロスだが)、脚をやや前に下ろして、上半身を丸めてアーチを描くスタイル。自然な形で自転車と一体化しているため、重心は前と後ろに等分している。
例えがミス・リードらしいという最大の問題点さえ除けば、8割がた間違っていない解説だ。
「女性だと言うのに――いや、もはや性別抜きに、なんて破廉恥な放送を……このような放送が許されるのですか?それとも、私が古いのか……」
「いや、カナタさんの感覚が正常だと思うぜ」
「茜さんもそう思いますか。よかった。女性はそのような貞淑さを持って然るべきです」
実は、カナタが実況を聞かなくなった最大の要因は、このミス・リードのあばずれ加減に嫌気がさしたからだ。なぜか多くの民衆に人気だと聞く彼女の実況は、彼の感覚で言えば受け入れがたい。
とはいえ、今回は終了の合図をミス・リードが出してくれることになっている。つまり最小でもゴール直前でもう一度、この売女の隠語を聞くことになるわけだ。
スタートから数分。カナタが地味に先行し始めた。お互いにまだ本気のアタックは仕掛けていない。ただ巡航するのみ。
その流れの中で、空は後ろからカナタを観察していた。
「ねえ、茜。カナタさんのペダル、軽そうだね。電動アシスト?」
「いや、違うと思うぞ」
茜は首を横に振る。実はプロロードレースの業界でも、フレーム内部に組み込める小型モーターを使った不正は増えている。だから絶対にありえないとは言い切れないが……
「少なくとも、外見上はモーターもバッテリも見えない。だから恐らく、電動アシストの線は少ない」
しかし、スムーズに進むカナタ。その足取りにはぶれもなく、筋肉が脈打つような様子もない。当然、息が切れた様子もない。
「あれは、空力抵抗を限界まで下げた結果だ。エアロフレームやディープホイールで空力抵抗を下げて、しかもDHバーで低い姿勢を取る。そのうえヘルメットも穴が開いてないだろう?あれが空力的に理想の形なんだよ」
「あ、そういえばロード用はヘルメットに穴が開いているよね。あれって何で?」
「蒸れないように、だな。逆に言うと、カナタさんが使ってるTT用は蒸れる。将来的には禿げるかもな」
相手に聞こえていないことを前提に、好き勝手に噂する茜。いや、聞かれていてもこの調子か。
茜が、スマホを操作する。ミスり実況のいいところは、画面に凸電ボタンが大きく表示されることだ。手にグローブをはめたまま、トップチューブバッグにスマホを入れたまま、そして走り続ける姿勢のまま、通話ボタンを押せる。
「ミス・リード。この先の地形はどうなる?」
『ああ、茜さんのペースで現在位置からですと……もう数分で登り坂になると思いますよぉ。峠ってほどでもないですけどねぇ。ここからはゆったり登りと、ゆったり下りですぅ。そこから街中に入っていきますよぉ』
「ありがとよ」
ボタンを押して、通話を終了する。
「茜。作戦があるの?」
「ああ、天仰寺を相手にしたときにも使った方法だが、ヒルクライムで勝負をかける」
「そっか。坂を上るときはスピードが落ちるから、あんまり空気抵抗を気にしなくていいんだね」
空が納得すると、茜は頷いて前に出た。そのままペダルを止める。後ろに入れという合図だ。
茜を風よけに使うことで、空の体力が温存できる。ぶつけるくらいの気持ちで車体を引っ付けることができるのも、お互いの信頼関係の賜物だ。
「空、あの必殺技、使えるか?」
「え?うん。いいよ。でも、茜は?」
「安心しろよ。アタイはそもそもパンチャーだ。短距離なら普通に負けないぜ」
カナタを観察して分かったことがあるとすれば、こいつは誰かと走るのが苦手だという事。おそらくずっと一人きりで走って来たのだろう。
なら、ペースを乱すような行為をすればいい。数分の間、相手との距離差を意識しながら追走する。無理に追い抜かすことはしなくていい。
「さあ、来たぞ。坂だ」
「うん。準備できてる」
空の声を背中に受けて、茜はハンドルを切った。空の目の前に景色が広がり、風が顔に当たる。
「それじゃ、行ってこい!」
「おっけー」
身体を左右に揺らして、ペダルを漕ぐ。体重のほぼ全てを片方のペダルに乗せて、しかしバランスを崩さないように、反対側のバーエンドバーにも力を加える。
『おおっと、ここで出ました。空さんが赤い彗星さんと戦った時に編み出した必殺技。スカイ・ラブ・ヒルクライム!これは速い。スピードガンでの計測は42km/hですぅ。斜度5%はあるはずなのですけど。
一方の茜さんも追撃。こちらはパンチャー特有の瞬発力を活かして、普通に加速。空さんの必殺技に対して通常攻撃で返す。もともとの坂道での能力差がうかがえます。
対するカナタさんは速度を落としています。これは順位が入れ替わるか?』
(あれ?僕の必殺技にいつの間にか名前が付いてる?)
(しかも、だっせぇ)
勝手にスカイ・ラブ・ヒルクライムと名付けられたその技は、一時的にだが速度を上げてくれる。今のところ、空くらいしか使えない技だ。
ぐんぐんと速度を上げて、ついにはカナタを追い抜く。そのまま無理を押してでも加速。この坂で相手の体力を消耗させるつもりだ。
(さあ、乗って来いよ。カナタさん。アタイらに挑んで来い。そうすれば……)
(……そうすれば、私の体力が持たない。なるほど。考えたものですね)
しかし、カナタは自分のペースを崩さない。抜かれてもいい。いつでも抜き返せる。そんな思いがあるからだ。
(茜さん。あなたは好戦的すぎる。だから私のような、堅実な走りをするライダーと戦うには向かないのです。私が往くのは王道。あなたのペースに呑まれはしない)
つまり、抜かれても気にしない。茜の挑発に乗らないことにしたカナタは、ただ路面の傾斜とだけ対峙する。
右側のレバーを、3回クリック。リアの変速ギアが、3段軽くなる。
『カナタさんが乗るバイパーRには、新型DURA-ACE 9100 Di2が搭載されていますぅ。この機能は画期的ですよぉ。
従来の変速ギアは、人力とバネ仕掛けによって動く絡繰りでした。レバーでワイヤーを引っ張って、人力で変速するシステムですねぇ。一方のDi2は、なんと電動。スイッチ一つで変速し、コンピューターで制御するシステムですぅ。
今まで手動で行っていたトリム調整も、もちろん全自動で制御可能。このためにフロントディレイラーにレーザーセンサーを取り付け、チェーンの動きを常に監視しているのだそうです。
ちなみに私ことミス・リードも、放送室で常に監視されている状態ですよぉ。24時間の実況に合わせて、補給食やトイレまで皆さんに中継されています。気付きましたかぁ?』
そんなミス・リードの戯言も、カナタの耳には入らない。もう一段、変速ギアを落とす。すると、今度は勝手にリアの段数が上がり、代わりにフロントの段数が下がった。
シンクロシフトと呼ばれるシステムだ。あらかじめPCやスマホと接続して設定しておけば、あとは自動で変速ギアのフロントまで切り替える。そのため、通常のレーサーが行うフロント操作とリア操作の両方を、リア操作だけで賄える。
彼のハンドルに、フロントの操作レバーはない。煩わしい変速を自動化することで、彼の体力と精神力は全て、ペダリングにつぎ込める。
これこそ、現代の最新技術だ。
(さて、どの程度の差が開いたのかは気になりますが……かといってリード嬢に尋ねるのも抵抗がある。私は、このまま後ろを走らせていただきます)
あくまで自分のペースを貫く。その戦い方は、鹿番長やミハエルのような好戦的な相手とは違う。しかし、三尾やユークリットのように勝負を捨てているわけでもない。
最後に勝つために、今はただ山と向き合う。
(もともと、私の敵は人間ではない。この地球と、自分自身が最大の敵です)
カナタは、そういう男だった。
「ねえ、乗って来ないよ。カナタさん」
「ああ、そうだな。作戦失敗だ」
ふたりともギアを落として、ペダリングの回数を増やす。一見すると運動量が上がったように見えるかもしれないが、実際には身体を休める技だ。使う筋肉を変えることによって、先ほどの疲労を回復する。
逆に言えば、回復を必要とするほどの力を使ってしまった。脚がジワリと熱い。腕も痛くなる。ハンドルを引きつけてゆすり続けた結果だ。
「カナタさんは、体力を温存しているよね」
「まあ、な。アタイらが勝手に消耗しただけに終わっちまったってわけか」
「はっはっは。なかなか上手くいかないものだな。ご両人」
空と茜に、上から声が降ってくる。それは……
「久しぶりだな。ミハエルさんよ」
「ああ、3日ぶりかな?泣き虫お嬢さん。それとヒモの少年」
ピンと伸びた背筋。黒くて丸いヘルメットに、トレンチコートとクラシックスタイルスーツ。
そして大きな前輪と、小さな後輪。ペニー・ファージングの乗り手、ミハエルだ。
「いやー、
彼は相変わらず、人を煽るのが上手い。今だって茜が一番イライラするのはどんな言葉なのかを予想して、揺さぶるように話をしてくる。わざわざ嘲るような態度込みで。
「アタイらに喧嘩売ってどうすんだよ。また戦いたいのか?」
「ふむ。吾輩としては、それもいいと思ったのだが……先客がいるのだろう?カナタと言ったな」
ミスり速報で聞いていたらしい。彼はさらに話を続ける。
「カナタ相手はやりづらいだろう?じつは吾輩も昨日、競争を吹っ掛けてみたのだ。しかしいくら煽ろうと、奴は乗って来ない。結局は吾輩が勝ったのだがね。勝った気がしないのだ」
「勝ったんですか?」
「うむ……まあ、相手は乗って来ないのだから、吾輩だけが道化の様だったよ」
どうやら本当に落ち込んでいるらしい。目線は高いまま、しかしやや俯き加減で走っている。
それを見て、茜はにやりと笑った。
「なあ、ミハエルさん。アタイらと勝負しろ」
「ん?しかし君たちはカナタと……」
「関係ないね。敵が一人増えようが二人増えようが、全部まとめてぶっちぎってやるって言ってんだ。お前の事も、カナタのついでに倒してやるよ」
その茜の挑発に、ミハエルは不思議な印象を抱いた。明らかに煽ってきていると言うのに、そこに不快感がない。それは何故だろう?
茜が自分の目をまっすぐ見ているからだろうか?いや、ちゃんと前方確認もしている。そもそも走りながら目を合わせ続けてはいない。なのに、なぜだろう?茜が自分をまっすぐ見ている気がしてならないのだ。
前に会った時は、もっと生意気な少女だと思った。そんな少女が、今は違って見える。
その原因に最初に気づいたのは、空だった。
「ねえ、茜。怖いの?」
「う、うるせぇ」
「ミハエルさん。茜はあの時のこと、気にしているみたいなんです。だから、貴方が怖いんだと思います」
「やめろ空。アタイはそんなんじゃない」
そんな二人の話を聞いて、
(ふむ……なるほど?)
ミハエルも何となく察した。目の前の少女はイップスか何かに陥っているらしい。自分の恐怖……ペニー・ファージングの恐怖を、きっちりと感じてくれたのだろう。
(前回は、この車体を馬鹿にしていたな。今回はそれがない。だから彼女の言葉に、嫌味が含まれないのか……?)
漠然と、ミハエルの中に答えが見えてくる。
彼女と戦いたい。その気持ちが強くなってきた。
「ミス・リード。聞こえるか?吾輩もミス茜と戦いたい。カナタとは別口で、勝負だ」
『え?ええっ?……茜さん。その小さい体で二人の男性を相手にするんですかぁ?しかも同時に?』
「そうだけどお前が言うと違う意味に聞こえるな。つーかアタイの身長は大きい方だろう」
茜がツッコミを入れているうちに、ミハエルはさっさと話をまとめる。
「ここから100km以上で、丁度いいくらいの目印はあるだろうか?」
『うーん……じゃあ110km先のショッピングモールはいかがですかぁ?近くに行ったら私が教えますから、ゴールを間違うことは無いと思いますよぉ』
「ふむ。よいな。そうしよう」
トントン拍子に、ゴールが決まる。ミハエルが勝手に決めているとも言う。
「ねえ、茜。これって同時に出来るの?」
「ああ、さすがにあと2時間半で110kmは走らないだろう。つまり、タイムリミットで先にカナタさんと決着。そしたら改めてミハエルと勝負だ」
そう言いながら、茜はハンドルの下を握る。その意味を理解した空が、茜に寄って行った。
「まあ、既に戦いの火ぶたは切られたようなもんだけどな!そうだろうミハエル」
茜がすぐに加速する。スタートの合図はいらない。立ち止まってスタートをするほどの余裕はない。
それは、ミハエルもよく分かっているのだろう。何しろ、後ろに既にカナタが迫っている。
「吾輩はカナタと戦う気はないが、まあいい。今回はそれに合わせよう」
「私も、ミハエル殿との勝負は昨日ついたと思っていますよ」
二人は全く、お互いを敵視していない。そもそもミハエルの出した条件に当てはめるなら、カナタとは違ったリングでの勝負だ。
(私の敵は自分自身と、この地球のみ。勝利への欲を捨て、感情を殺す。それに結果が付いてくるだけです)
(吾輩が挑むのは、ミス茜、ただ一人だよ。挑発に乗らないカナタはもちろん、勝負にさえ乗って来ないそぶりのミスター空にも興味はない)
(アタイが全員をぶっちぎる。シンプルじゃないか)
(わーっ。いろんな自転車がいっぱいだね。僕たちも頑張ろう、エスケープ)
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