第28話 白銀の狼とファットトライク
ほとんど丸一日の休息を経て、空と茜は走り出していた。巧さんたちとの別れは名残惜しかったが、今はレース中である。
「また、いつか会えるかな?」
「さあな。アタイらの住んでるところからは、遠すぎだろ」
「そっか。なんだか自転車でずっと走ってるから、いつでも会いに行ける気がしちゃうよね」
能天気な空だが、その意見に茜も頷いた。少なくとも自分たちにとって、陸が続いていることは、自転車で移動できるって事なのだろう。
「まあ、恩を受けっぱなしっていうのも悪いからな。それにアタイも楽しかったし……」
「茜。ほとんど寝ていただけじゃん」
「おいおい、言ってくれるなよ」
2台の自転車は、いつも以上に軽快に走っていく。まるで翼を広げて風に乗っているような気分だ。ペダルを軽く回すだけで、ぐんぐん走りが伸びていく。疲れが取れることに、それほどの違いがあった。
それでも、一日分のタイム差は大きい。本来なら、ほぼ取り返せないほどの差になるだろう。
そう、本来なら……
『はいはーい。こちらはミス・リードですぅ。もう真っ白ですねぇ。全部ぶっかけられちゃって、大変なことになってますぅ。
え?何がって?もちろん雪ですよぉ。滋賀県ってこんなに降るんですかぁ?雪って言うと北海道や東北のイメージがありましたけど、日本海側で内陸寄りなら結構な量が積もるみたいですね。
まあ、昨晩は琵琶湖を中心に東側は雨。西側は雪だったらしく、今後も夜にかけて天気が崩れる模様ですぅ。除雪も追いつきませんねぇ。視界が悪いので、選手の皆様も気を付けてくださいねぇ。
兵庫も酷いですねぇ。あれ?もしかすると……後続の選手たちにはラッキーかもしれませんよぉ?今のうちに追いついて、先頭集団を後ろから貫くチャンスですぅ。
あ、後ろから貫くとか、ごめんなさい。不適切な発言ですよねぇ。恥ずかしくてお嫁にいけないですぅ』
「アタイが知る限り、後ろから貫くって言葉に変な意味は含まれないはずなんだがな……」
「うん。新しい芸風を作り始めてきたね」
空たちが走っているところは、まだアスファルトが乾いている。この先に豪雪地帯があるとは思えないほど、穏やかだ。
幸いにして空たちは現在、中間程度の順位だ――もっとも、距離の長さと参加人数の問題から、まったく集団としての形を成さないが。
「ミス・リード。トップとアタイらの差を教えてくれ」
ミスり速報の凸電機能から、情報を引き出す。これが分かっているのといないのとでは、作戦の立て方やモチベーションが大きく変わるのだ。
『はいはーい。茜さん。それはつまり、今からトップを狙いに行くって事ですかぁ?私も興奮してくる展開ですねぇ。現在トップの選手は、せーのっ』
ミス・リードが何かを言わせたがった。空と茜は何となく察して、声を揃える。
「「『エントリーナンバー001 アマチタダカツ』」」
『はい。大正解です。もう初日からずっと暫定一位。通称ミスター・レジェンドのタダカツさんですねぇ。一位と言ったらこの人みたいになってますぅ。あ、でもスタート直後の暫定一位は、グレイトダディ&クールキッドさんだったんですよねぇ』
「ああ、昨夜は世話になったよ」
『え?グレイトダディさんと会ったんですかぁ。うわぁ、マジですかぁ。いや、GPSでどっかの民家に泊まったなぁって思ってたのですが……』
「そんなことより、タイム差と距離差を教えてくれよ」
茜に急かされて、ミス・リードはコホンと咳払いをする。
『えーと、タイム差はえげつないですよぉ。茜さんたちが今いる地点ですが、タダカツさんが通ったのは24時間くらい前です。
一方、距離差はこの24時間で、たった100kmしか離れていません。雪の影響が大きいですねぇ。何しろタダカツさん。ロードバイクを担いで歩いていますから。まだチャンスはありますよぉ。
あ、それより茜さん。ミハエルさんのペニー手コキしたって聞きましたけど、大丈夫だったんですかぁ?映像見て心配していたんですよぉ』
「ミハエルさんのペニー・ファージングと対戦して、落車した時に手首をコキって捻ったんだよ。絶対略すな!」
的確なツッコミだけを入れて、電話を切る。
「ねぇ。これって、いい状況なのかな?」
「さあな。そもそも自転車レースで、歩いているやつを追撃する状況なんてアタイは聞いたことがない。多分前例のないレースだぞ」
確かに、どう考えても異常なシチュエーションだ。
空たちが自転車を漕ぐ平均速度は、だいたい25km/h程度を維持している。仮にタダカツが歩く速度を5km/hと仮定するならば、100kmの差も5時間で埋まる計算だ。あくまで概算だが。
重要なのは、空たちだっていつまでも自転車に乗れるわけじゃないというところ。雪がどの程度積もっているのかにもよるが、積雪エリアに入れば空たちも歩くことになる。
「追いつけないかもな。空、お前タイラップは何本持ってる?」
「え?ああ、10本くらいなら……でも、どうして?」
100円ショップなどで、主にガーデニングや電線の留め具として販売されているタイラップ。自転車が壊れた時の応急処置や、一部の部品の取り付けにもよく使われる商品だ。ロングライドの際には持ち歩く人も多い。
「ああ。それを使って、フロントホイールとボトムチューブを留めるんだ。するとハンドルが固定されるから、自転車を担ぎやすくなる。長時間にわたって自転車を担がないといけないときの有効手段だ」
「あ、そっか。ハンドルが回ったりすると、担ぎにくくて疲れるもんね」
これはレーサーであっても知らないような知識だろう。そもそも、自転車を担いで長距離を走るような自転車競技などない……と思う。
山育ちで、なおかつ個人の力で自転車を運用する茜にとって、この知識は独学で身に着けたものだった。学校に自転車で行った日の午後、台風の影響でとても乗れない状態になったことがある。
その時に思いついた攻略法だ。まさかレースで活用できるとは思わなかった。
「あ、そうそう。自転車を担ぐときのコツだが、セーラー服よりジャージの方が良い。ただ、学校指定ジャージの布地は滑るから、もしかすると学ランが一番かもな。帰宅部のアタイからのアドバイスだ」
「うん。僕が学ランを着るのもあと1か月くらいだし、何よりセーラー服を着る予定はないから役に立たないアドバイスだと思うよ。あと帰宅部でも、そこまで必死に帰宅していたのは茜くらいだと思う」
走っているうちに、だんだん速度が上がっていく。風が出てきたようだ。単に背中を押してくれる追い風か、それとも吹雪の前触れか。
いずれにしても、まだ乗れる。走れるうちは、しっかり走っていこう。
前方に、1台の自転車が見える。轟々と唸りを上げて、ゆっくりと走る自転車だ。そのシルエットは、少しずつ近づくにつれてハッキリとしてくる。
3輪自転車だ。
それも極太のタイヤが3本。前輪が2本並んでいるタイプである。日本でまず見かけることがない迫力と、驚きの横幅。ライダー自身も大柄で肩幅が広いが、それでも肘を張ってハンドルを握っている。
「こんな車体も参加していたのかよ」
「な……何?あの自転車……」
「さあな。とにかく、追い抜くぞ」
相対速度は、目算で20km/h程度。現在の空と茜の速度が35km/hなので、相手の速さは20km/hも出せてない計算になる。だと言うのに、これだけの威圧感。そして不気味さ。何者かは分からないが、ついに空たちは、その相手を抜かした。
そう、あまりにもあっさりと抜いてしまったのだ。
抜かされた方の男は、にやりと笑った。
「ほう……もしかして、あれが噂の中学生コンビか?ここでコンタクトできるとはな」
男は楽しそうに、ミス・リードに凸電する。
「トライクより、ミス・リード。敵機と接触した。前方の2機、情報をくれ」
『おお、エントリーナンバー322 トライク二等兵さんからですねぇ。お電話ありがとうございます。今あなたを抜いていったのは、エントリーナンバー435 諫早・茜さん。同じく451 ソラさんですよぉ』
それを聞いたトライク二等兵は、さらに笑みを深める。牙をむき出しにするように、凶悪に笑うのであった。
同じ放送を、もちろん空と茜も聞いていた。
『噂の中学生コンビ。聞こえていたら応答せよ』
ミスり速報を通じて、トライクの声が空たちに届いた。茜がすぐに凸電を返す。この方法を使えば、ミス・リードの回線を通じてお互いに話ができる。
「アタイらに何か用か?」
『ふっ……つれないな。俺と勝負をしないか?貴様らの好きな局所的レースだ』
ミハエルといい、天仰寺といい、最近勝負を挑まれることが多くなった気がする。元から好戦的な性格の人が多いのか、それとも茜たちが有名になりすぎたのか。
「まあ、いいけどよ。どうする?お前が来るのを待ってようか?」
同じスタート地点から始めないとフェアじゃない。そう考えた茜からの提案だが、
『必要ない。そもそも、俺を抜いていったのは貴様らだ。そういう意味では、ハンデを負ったのは貴様らだろう』
どうやら、このまま始めたいらしい。
「アタイも、それでいいぜ。ゴールはどこにする?」
『ミス・リードに決定させよう。そうだな……ここから50km地点に、何か目標物は無いか?』
勝負が決定したらしい。ミス・リードはすぐに計測を始める。
『ああ、線路と交差しますよぉ。一応、チャリチャン用に跨線橋を一つ閉鎖していますぅ。その出口にある交差点にカメラを仕掛けているので、そこがゴールでどうですかぁ?』
列車の運行と、チャリチャンの開催を両立させるのは少し難しい。まさかレース内に踏切を組み込んでしまうわけにもいかないし、仮に組み込むと不公平な結果になることはロードレースで証明されている。
そこで、跨線橋などの設備を借りる必要が出るわけだ。今回はそこを超えたところがゴールラインだろう。
「まあ、いいか。アタイは承諾したぜ。そっちは?」
茜が言う。どうせこの先の雪道では自転車を担ぐのだ。それなら話はあまり変わらないだろう。
『よし。俺も承諾した。戦おう!噂の中学生コンビ。その実力を見せてもらう』
トライクも頷く。これでルールは決定だ。先に歩道橋を超えた方が勝ち。シンプルである。
「今回は、スタートの合図もいらないな。このまま走るぞ!」
「うん。僕は何も言ってないのに、いつの間にか参加になっちゃってるけどね」
完全に巻き込まれる形になった空だが、どちらにしても向かう方向は同じだ。今回も付き合うこと自体はやぶさかじゃない。ただ、せめて意見だけでも訊ねてほしかったと思うだけだ。
グングンと、茜が速度を上げる。空もそれに続いて走った。
『さあ、茜さんたちが大きくリードしたこの戦い。後ろから追いかけるのは、トライク二等兵さん。ああ、ちなみに、トライクっていうのは3輪自転車の事ですよぉ。2輪をバイク、3輪をトライク、4輪をクアドラサイクルと呼称しますぅ。
トライク二等兵さんの車体、RUNGU
そして、使っているタイヤは3本とも、4.8inの太さを持ちます。ちなみに一般的なMTBが1.8~2.5程度。鹿番長さんのタイヤでさえ4.0程度の太さしかありません。そう考えると、お化けみたいな車体ですねぇ。
そんな太いのを3本も――普通は入らないですぅ。私は機会があれば頑張りますけど……』
はぁ……と溜息をついた茜は、ミス・リードの話を前半だけ聞いておく。隣で空は首をかしげていた。ああ、分からない方が良いこともあると思う。
「大丈夫か?さらに速度を上げるぞ」
「うん。でも……さっきの人、そんなに速くないんじゃないかな?確かに雪道に強そうな自転車だったけど、オンロードであの速度でしょ?」
たしかに、普通ならオンロード以上にオフロードで速い自転車など存在しない。例えオフロード用に作られている車体でも、やはり速度は落ちるものだ。
しかし……
「アタイはもう、油断しない」
自信満々で勝負を挑んできた、トライクのあの態度。きっと何かあるに違いないのだ。
「ここで大きくリードして、そのまま雪に突っ込む。あとは逃げ勝つだけだ」
「うん。分かったよ」
どこからが積雪エリアなのか、それが大きく勝負を分けるだろう。ファットバイクが雪に強いことは知っている。あとは路面次第だ。
(見失ったか。速いな……噂になるわけだ)
空たちから大きく引き離されたトライクは、しかし焦ってはいなかった。自分のペースだと言わんばかりに、のっそりした走りを続けている。
変速ギアを低速にしているので、速度の割にはペダリングが早い。とはいえ、ペダルは軽くなかった。41kgという、自転車とは思えないほどの重さが原因だ。安いママチャリでも2台分。ロードバイクの5~6台分の車体重量を持つ。
(さて、あまり引き離されても不都合だな。そろそろ、本気を出すぞ……)
横に2本並んだハンドルのうち、左側のハンドルのステム付近。そこには10cmほどの大きさのコントローラーが付いている。電動アシストを起動するための装置だ。
そして反対側には、スマートフォンが付いている。ハンドルバーに、スマホをつけるための市販のホルダーを取り付けただけだ。もちろんミスり速報と繋がっていた。
「トライクより、ミス・リード。電動アシスト装置の使用許可を求む」
通常、電動アシストの使用に許可はいらない。運営側が一度OKした車体は、いくらでも好きに使っていいルールとなっていた。ただ、一部の例外を除いて。
このジャガーノートという車体は、まさに例外にあたる。
『ふふっ、いいですよぉ。トライク二等兵さん。操作パネルの自動リンクを確認。ペダルアシストモードをアンロック。発進タイミングを譲渡します』
ミス・リードからの許可を得たトライクは、操作パネルに手をかざす。
「トライク、ジャガーノート。エンゲージ」
それまでの走りが嘘のように、力強く車体が進む。変速ギアはどんどん上がり、ついには最大比率である30-11Tへ。ペダルは軽快に回る。三本の極太タイヤは、轟々と大きな音を立てて唸った。
『このジャガーノートは、2.1kWのモーターを搭載したお化け自転車なんですよぉ。だから各国の道路交通法で規制されていますし、大会ルール上も、普通に使用させるわけにはいかないんですよぉ。
ちなみに、日本の法律では、24km/hの速度制限と、人力1に対して電動2までの比率で出力制限がかかっていますぅ。
チャリチャンルールはもう少し緩くて、35km/hの速度制限と、30kgの重量を乗せて自走しない事が定められていますねぇ。
で、このジャガーノートは、最大32km/hの速度で、人間を乗せたまま平然と自走しますぅ。つまり、ただのオートバイですねぇ。だからこそ、その機能を使わせないことが必要になりますぅ。
なので、この電動アシスト機能は、チャリチャン運営委員に常に監視されているんですよぉ
もし
ミス・リードが解説している間にも、この車体は空たちを追撃する。
もともと、人力に一切頼らず32kmの距離を走る化け物だ。バッテリー切れの心配は少ない。
「さあ、狩りを始めようか。せいぜい逃げて見せろ!」
目の前に、大きく窪んだマンホールがある。トライクはそれを踏み越えた。軽く車体が傾くが、衝撃は無い。このタイヤで踏み越えられない段差など、存在しなかった。
前方に、左コーナーが迫る。
「方位、
830mmハンドルバーを、左右同時に傾ける。2本に分かれているこのハンドルバーは、ステムの後ろでつながっていた。片方のハンドルを傾けると、同じ角度でもう片方のハンドルも傾く。ふたつの前輪も、常に並行だ。
左右それぞれ独立したフォークが、左に傾けられる。それらが生み出す高低差が、わずかに車体を左に傾けた。それだけで得られる体重移動は大したこともない。大事なのは、前輪の方向だけで曲がること。
まるで4輪の自動車のように、ほとんど傾かないまま曲がる。本来の自転車の軌道とは全く違う、不気味なコーナリングだ。
油圧式のディスクブレーキは、3輪すべてを自由にコントロールする。右側のレバーからは、チューブが2本に分離していた。前輪を2つ同時に止めるためだ。油圧式であるからこそ、左右に均等な圧力がかかる。
この車体は、自転車らしい特徴をペダル以外に残していないのだ。
その数百メートルも先を、茜と空は先行していた。速度だけなら、トライクに負けていない。
「な。油断しない方が良かっただろう?」
「うん。でも、茜は気づいていたの?あの自転車が電動だって」
「ああ。リアホイールに見慣れないほど大きなドラムが付いていたからな。機能としては、電動アシスト以外に無いと思ってた。まあ、2.1kWは予想外だけどさ」
規制としては、ヨーロッパで250W.カナダで500W.アメリカでさえ750Wまでしか認められていない。つまり、2100Wの出力を持つジャガーノートは、ほとんどの国で自転車と認められていないことになる。
ちなみに日本ではワット数に規制は無いが、速度とパワーで法律違反になる。
もっとも、私有地で使ったり、免許を携帯したうえで使うなら話は別になる。何より、この大会に法律上の規制はかからない。
「ところで、ストラトスさんの自転車は、後輪にドラムなんてついてなかったよね?」
「ああ、それはモーターの取り付け位置が違うからな。ストラトスのはBBに内蔵するタイプのモーターだ」
「何が違うの?」
「BB内蔵型は、直接ペダルをアシストする。だから変速ギアの影響を、モーターまで受けるんだ。一方のドラム型――ホイール内蔵型は、変速ギアの影響を受けない。変速した時に安定した出力になるのはホイール内蔵型だ」
話しながら、30km/h前後を維持し続ける。地面は少しずつ白くなってきていた。まだ空のスリックタイヤでも走れるが、徐々に雪が深くなっていくだろう。
「これって、滑るかな?」
「いや、まだ新しい雪だ。溶けている痕跡もない。むしろ地面で結晶を保ってる」
ビンディングを外した茜が、地面を足で擦る。自転車は走らせたままだ。ガリガリと音を立てて、アスファルトをむき出しにした。
「湿っている程度だな。濡れているってレベルじゃない」
「つまり、まだ滑らないって事?」
「ああ、スリップするかどうか確かめたいなら、今みたいに足を着いて確認する方法もある。って言っても、これで滑って転んだらシャレにならないけどな」
「滑らないコツは?」
「お前も知っているだろう。急発進、急ハンドル、急ブレーキの禁止だ。特に、素人はブレーキをかけたり、足を着くために車体を傾けたりしがちだな。最低の愚策だぜ」
茜はそう言って、車体を傾けないまま地面に足を着く。再びガリガリと、アスファルトが靴の裏を削った。
「まあ、あとはアタイらに関係のない話だが、SPD-SLやTIME/MAVICなんかのビンディングシューズを使っていると、クリートが消耗する。アタイはノーマルSPDだから、そんなに心配はないけどな」
靴の裏に仕込まれたクリートによっては、こういった時に性能が違ってくる。ペダルとセットで買うとそれなりに高い商品なので、シチュエーションを考えて購入するのは重要だ。
「でも、茜の靴底ってそれなりにすり減っているよね?大丈夫なの?」
「う……まあ、大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫だと思いたい」
「それって願望だよね?」
「気にすんな。クリートだけなら数千円で買えるだろう」
「いや、レース中にそういう問題じゃないと思うけど……」
話しているうちに、道路に張られたロープが迫る。コースを規制するために張り巡らされたものだ。一見すると行き止まりに見える。
その先には、歩道橋があった。交差している道路はチャリチャンコースとして閉鎖していないようで、自動車が往来している。そのため歩道橋を一つだけ閉鎖したのだろう。
「上るぞ。空」
「うん」
自転車を担いで、自分の脚で駆け上る。まだハンドルは固定しない。
「狭い階段だな」
「うん」
茜が前、空が後ろになって走る。こういう時、階段にスロープが有るか無いかは重要だ。仮にスロープがあったなら、スポーツバイク特有の軽さとギア比を武器に、乗ったまま走ることも出来る。
残念ながら、この階段にスロープは無い。しかも勾配も急で、一段一段のステップが低く小さい。まるで子供用だ。もしかすると子供が通ることを前提に設計した結果かもしれないが。
「狭いスペースに歩道橋を作るから、こうなるんだよ。ああ、一歩一歩が小せえ!」
「かといって一段飛ばしだと辛いね。っていうか、踏み外さないでよ」
いつもと違う歩幅を強要されて、二人とも戸惑う。どちらも身長は同じくらいで、足の長さも同じくらいだ。走るたびに自転車が揺れて、身体に当たる。地味に痛い。
ようやく登り切ったら、再び自転車に跨って発進する。歩道橋の長さは、たった4車線分の幅しかない。たいした加速は得られないし、いっそギアを上げない方が良いだろう。
「目標補足。これより交戦を開始する」
トライクの目に、空たちの姿が見える。歩道橋を渡っている所だった。これなら余裕で追いつけると、そうトライクは予想する。
茜も、その姿を見つける。
「あいつ、もう追いついてきたのかよ。クソっ」
茜が再び自転車を担いで、階段を降りる。空もその後ろに続きながら、トライクの方を見た。
「トライクさん。あの大きな車体をどうやって担ぐんだろう?」
「ん?そう言えば……」
重さ的にも、大きさ的にも担ぐのは厳しいだろう。
「もしかして、僕たちにとってラッキーなのかな?」
空が楽観視するが、茜はそうは思えない。
「多分、あいつは乗ったまま……」
階段に、恐れずに突っ込む。前輪が上に跳ねる感覚。次に後輪が跳ねる感覚。ガタガタと、ジャガーノートが前後に揺れる。
トライクはその車体を、無理に抑え込むこともなく走った。自然に任せて、両手両足をサスペンション代わりにする。勢いは落ちることがない。電動アシストとギア比だけで、無限に上っていく。
(この車体は無敵だ。勾配も、段差も敵にならない。踏み越えるだけだ)
まるでそこが平地だと錯覚するほどに、平然と階段を上っていく。
丸かったはずのタイヤが、階段の形に合わせてひしゃげる。まるで影が地面に沿って形を変えるように、タイヤが一段一段を捕まえてずり上がる。ペダルは軽く踏み込む程度。回すのではなく、踏んでは戻す。右足を前にしたままだ。
『出ましたぁ!トライク二等兵さんの階段上り。自然公園や線路セクションでチートと呼ばれた走りです。ご覧ください。階段の凹凸に押されて変形する極太タイヤ。
まるでジャンプのラブコメヒロインのおっぱいが、主人公の指の形に合わせて「むにゅっ」ってなるような形状変化。どこまでも深く包み込んでいきます。全てを受け入れて飲み込んでいくように。
そして、激しい上下運動。トライクさんの腰の揺らし方が、一定のリズムを刻んでイキますぅ。今、フィニッシュ!
階段を上り切りました。絶頂ですぅ。絶頂を迎えましたぁ。あ、まだ言ってる途中なのに、そんな激しいペダリングなんて……でちゃうっ。平地に戻った途端にスピードがいっぱい出ちゃうよぉ……!』
「トライクより、ミス・リード。こちらの特殊兵装を、そのように言われるのは遺憾だ。言い直しを要求する」
『トライクさんと合体したい』
「言い直しを確認――よし。レースに復帰する。合体シークエンスは基地に帰投後だ」
「いや、何も良くねぇよ。結局アタイに突っ込ませんのかよ」
茜が自転車を置きながら、律義にツッコミを入れる。ちなみに今、茜のスマホは凸電機能オフになっているので、せっかくのツッコミを誰も聞いていない。
「って、違うよ。突っ込んでる場合じゃない。避けて!」
空がそう言って、自転車を担いだまま飛びのく。意味が分からないまま、茜もそれに続いた。
そこに、トライクの乗るジャガーノートが通り過ぎる。
「前方、グリーン!空の判断に感謝する」
階段を上るほどの柔軟性があるという事は、降りることも出来るという事だ。むしろこちらの方が容易。重力に任せて駆け下る。小刻みに揺れる大きな車体は、まるで地面を抉るような動きだ。
階段の終わりでハンドルを上に向け、車体がひっくり返るのを防ぐ。そのままの速度でペダリングを再開。
「敵機を撃墜。エスケープ、およびクロスファイアの掃討を確認した」
勝ち誇るトライクの背中を、一瞬だけ棒立ちで眺めていた二人だが、
「おい、誰が撃墜されたって?勝負はまだ終わってないぞ!」
「うん。追いつこう」
すぐに走行を再開する。両者の速度は互角。このままだと、雪に足をとられて負ける。
「もっと速度を上げろよ」
「でも、滑りそうで怖いんだよ。頑張って、エスケープ」
たった28mmという細さの、トライクの1/4程度もないオンロードタイヤで、うっすら雪の積もった道を走る恐怖はある。
「さっきアタイが教えただろう。足を着いて確認しろ。ここならお前のタイヤでも走れる」
「で、でもっ……」
一度でも臆すると、慣れるまでに時間がかかるのだ。逆に言えば、慣れてしまうと走れるものである。事実、一週間前の空が走った雪道はもっと酷かった。
今、空がその感覚を取り戻すのに、どれくらいの時間を要するだろう?それは誰にも分からない。今すぐかもしれないし、数十分をかけるかもしれない。
「……置いてくぞ」
茜が言った。決して脅しではない。かといって空を責めるわけでもない。ただの事実確認として。
それに対する空の回答も、
「うん。追いつくから」
シンプルなものだった。
『ここで空さんを置き去りにした茜さんが、速度を上げてトライクさんを追います。取り残された空さんも、マイペースに走行を再開。この戦いからはドロップアウトでしょうかぁ?
中継ドローン。まだバッテリは持ちますかぁ?茜さんの方を追ってください。
もともとシクロクロスレースには、雪の中で開催される大会もあると聞きますぅ。でも、そういった大会に使われるのはスタッドタイヤ。それも650Bなどの規格が多いらしいですねぇ。
茜さんの乗るクロスファイアは、700Cの全天候タイヤ。このあたりの雪はへっちゃらでしょうけど、この先に待ち受ける数十センチの積雪には耐えられるんでしょうかねぇ?』
東北で経験したアイスバーンやパウダースノーとは違う。シャーベット状になった雪だ。それがタイヤに跳ね上げられて、むき出しの脚に付着する。
いっそ空気を含んだパウダースノーの方が温かい。そう思えるほど冷たい雪が、茜の体力を奪う。靴にシューズカバーをかぶせておいたのは正解だった。この雪に靴を濡らしてしまうと、あっというまに指先が凍傷になる。
(でも、シューズカバーだけだと心もとないな。やっぱレッグウォーマーくらいは装備していても良かったか……)
いまさらそんなことを後悔しても遅い。タイヤは滑らないのだから、あとは走って体温を上げるだけだ。
ただ、この雪は深くなると滑りやすい。どうしたものか……
「おや、あれは空君じゃないか?」
「あん?……おう、
先ほどの歩道橋手前から、二人の男子が接近する。その二人は道路を挟んで反対側に、空がいるのを確認した。
「さっきミスり速報を聞いていたが、どうやら二手に分かれたらしいぞ。茜君はいま、トライク二等兵って人を追っているようだ」
「そうかよ。って、目の前。階段だぜ?どうする?」
少年の前に、歩道橋が迫る。もう一人の青年は笑って、彼に勧めた。
「そのまま突っ込めよ。今のお前なら、きっと登れる」
「たかが
「どちらかと言えば、リムホールの方かな?」
「ふーん。まあ、いいや。
極太タイヤが、大きく変形して階段を上り始める。乗り手の度胸と相まって、まったく速度を落とさずに、だ。
「すげーぜ。
「ああ、気に入ってもらえて嬉しいよ。俺様もすぐに追いつく。先に空君に挨拶でもしておいてくれ」
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