第3話 ついに動き出すチャリンコマンズ・チャンピオンシップ
空と茜が出会ってから、3か月が経過しようとしていた11月のある日。茜は学校に一冊の雑誌を持ってきた。
「なあ、空。チャリチャンって知ってるか?」
そういって茜が見せたのは、自転車の専門誌だった。最近のトレンドや新車の情報、あるいはスポーツ競技の情報やサイクリングロードをレビューするコラム、読者投稿などが、所狭しと書かれた雑誌である。
生憎と空は読んだことがない――どころかそんな雑誌が存在する事すら知らない。
「ちゃり……ちゃん?えっと、自転車の名前?」
雑誌の表紙に『今年の新車特集!MTB~ロードまでニューモデル(ほぼ)全車両紹介』と書いてあったので、その新車の名前だと予想する。
「いや、違う。イベントの名前だとさ」
茜はその雑誌の中間あたりのページを開く。大きくドッグイヤーがついたその記事には『大注目(!?)の一大イベント!チャリンコマンズ・チャンピオンシップ。開幕まで二か月!』と書かれていた。
「どうやら、日本縦断を自転車で行うレースらしいんだ」
「へぇ。すごいね。ロードレース?」
「いや、アタイもそう思ったんだけどな。実は違うらしい。難しいことは省くんだが、手短に言うと……」
と、茜が解説した内容は決して手短ではなかったため、こちらで勝手に説明する。
要は、青森を出発して鹿児島のゴールを目指す自転車レースだ。もちろん、ゴールに一番最初に着いた人が優勝で、優勝賞金は300万円を予定している。
ロードレースと違うところは、山岳賞や区間賞がなく、単純に順位を競うこと。それからオフロードなども組み込まれること。そのため、使う自転車は何でもいい(ママチャリでもいいと記載されている)こと。そして……
「何より特殊なのは、24時間ぶっ続けで走ってもいいことだな。区間を設けないため、走る時間帯も決定しない。徹夜で走り続けるのか、それとも適度に休憩を行うのか、選手によって決定されるわけだ」
「ふーん。なんだかすごいね」
空はその雑誌の違うページを見ながら言った。すでに茜の話にもレースにも興味を失っているようで、今の空が気になっているのは、
「ねえ、茜。クロスバイクとフラットバーロードって何が違うの?」
「フラットバーロードっていうのは、基本設計がロードレーサーと共通なんだ。だからコンポもジオメトリもロード向けで……って違う。そうじゃなくて、アタイの話を聞け」
「あ、珍しく教えてくれないんだ……」
「いや、教えてやる。フラットバーロードとクロスの違いなら後でいくらでも教えてやるから、まずはアタイの話を聞いて」
最近、特にこの二人は長く話すようになった。中でも茜は自転車の事となると饒舌で、語り始めたら止まらない。空と出会うまでは無口なタイプだと思われていたので、この変化にはクラスのみんなも驚いている。
空は……相変わらずである。普段から何の話でも聞いてくれるが、本人がズレているため何を語っても手応えがない。ただ一緒にいる相手がクラスの男子たちから茜に変わった程度の事である。
「……って、ことで、アタイはこのレースに出てみようと思うんだが、空は出る気はないか?」
「がんばってね」
「いや、待て。予想はしていたけどさ……」
勝負事、というワードを避けて通りたがる空にとって、それは当然の答えだった。
現に何度か、茜が空に勝負を挑んで、空がそれを断るという図式はあった。ショップの展示品だったローラー台の試乗を利用したケイデンス勝負。どちらが先に山を登りきるかを競うヒルクライム勝負。中間テストの順位を競おうと誘ったこともあったが、空はすべてを断った。
そのくせ、サイクリングという名目になると空は絶対に断らない。そんな特性を知っていた茜は、切り口を変える。
「アタイは、このレースに勝ちたい。優勝もしたい。ただ、それとは別に、空と一緒に走りたいって気持ちもあったんだよな」
「僕と?」
「ああ、ここ、見てみろよ。日本列島縦断、それも4000kmの道のりを3週間かけて走るツール・ド・フランス以上の長さ。中学卒業前の思い出作りにぴったりのイベントじゃないか?」
「えっと、それって卒業旅行って事?」
「そう。それだよ。リア充風に言うならまさにそれ。さすが空。リア充だな」
「僕がリア充かどうかは解らないけど……うーん」
確かに、『誰でも気軽にご参加ください』と書かれているし、『ママチャリでもOK!』という信じられない宣伝文句も絶妙に旅行気分を引き立てる。何より……
(茜が嘘を言っているとは思えない)
と、空にしては鋭い分析もする。仮に茜が本気で優勝を狙うのであれば、空を誘う意味は全くない。自転車を始めて半年未満のド素人を同行させるのは、足手まといにはなってもアシストにはならないからだ。
事実、茜としても半分は遊びのつもりで誘っている。もう半分本気で勝つつもりではあるのだが……
(正直、こんな大会で優勝しても、あんまりプロレーサーの道と関係ないし、な……)
と、割と冷静に世間からの評判を見据えていた。
そもそも、このレースに注目しているのは、どちらかと言えばホビーライダーや素人である。プロの業界はあまり注目していないし、とあるプロレーサーが動画共有サイトで参加表明をしたところ、炎上した挙句にチームからの契約を打ち切られかけたという話もある。
ではなぜ茜が出場するのかというと……まあ、いろいろあるのだ。
「ってことで、空。一緒に参加しないか?もし自信がないなら、途中まででもいいからさ。お願い。この通り」
この通りと言いつつ両手を合わせただけの茜だったが、空は気にしなかった。
「わかった。茜がそこまで言うなら、一緒に行こうか。あ、でも、お父さんが許してくれたらね」
「ああ、そうだろうな。もともと保護者の同意書なしにエントリーできるイベントでもないし」
事実、18歳未満は保護者の同意が必要となる。3週間も外泊となるわけだから、当たり前の事だった。
ちなみに、大会中は暫定的に、大会主催者が引率する(という書類上の形だけ取る)ことになっている。そうでもしないと法律や条例にいくつか引っかかるからだ。
「じゃあ決まりだな。開催は来年、1月の中旬だ。まあ、学校に休学届けは出さないと面倒なことになりそうだが、アタイらは単位も足りてるし大丈夫だろう」
「あ、そうか。学校もお休みなんだよね」
幸いにして、空も茜も高校は一般入学のみに絞っている(推薦がもらえなかったともいう)ため、たとえ完走したとしても入試の時期には戻ってこれる計算だ。もともと受験する高校も学力レベル低めな上に倍率1未満なので、(両親や教師はともかく)本人的には心配していない。
「そうだね。楽しみになってきたよ」
空は屈託ない顔で言った。しかし――
問題は、両親の説得である。
自宅マンションの駐輪場に自転車を止めた空は、背中に背負っていたスクールバッグを肩にかけなおす。自転車に乗る際は前かがみになる都合上、肩掛けだと前に垂れ下がってきて鬱陶しいのだが、降りたら肩掛けが一番楽である。
(さて、どうしたらいいだろう?)
空はエレベーターに乗り込むと、両親になんと説明しようか迷った。考えている間に、空の自宅フロアである18階……このマンションの最上階に着く。
「ただいま」
「お帰り、空。学校どうだった?」
母親の問いかけに、空は適当半分、真剣半分で『楽しかった』とだけ答えておく。いつものやり取りなので母も半分聞き流しているが、この会話だけでも、少なくとも悪いことが起こらなかったことだけは解る。安心材料みたいなものだった。
「ねぇ。お母さん」
「ん?どうしたの?」
そんな母の安心を曇らせるように、空は言いにくそうな表情で声をかけてくる。
「まさか……学校でいじめられたの?」
「ち、違うよ。いじめられてないよ」
「じゃあ、喧嘩?ああ、それなら空は悪くないわ」
「いや、喧嘩でもないんだよ」
事情を聴く前から空を弁護する立場に回ろうとする母の早さに驚きつつ、今日、学校であったことを話す。PCを立ち上げて、チャリチャンのサイトを見せながら、
「これにさ。出てみたいな……って思っているんだけど」
「うんうん……」
「あのさ、3週間ほど泊まりで……」
「却下」
取り付く島などどこにもなかった。
「そもそも、中学生が泊まりだなんて……それも3週間も?考えただけで、もう……あり得ません」
「で、でもあか……」
茜が一緒だから、と言おうとした空は、その言葉を飲み込んだ。そんなことを言おうものなら、『茜ちゃんとは距離を置きなさい。ああ、うちの息子を非行に誘うなんて』と言い出すに決まっているからだ。
「……どうしても、ダメ?」
「ダメよ。絶対にね」
母は強情に言い放った上に、こんなことまで言ってきた。
「この件はお父さんにも報告するわ。二度とこんなことを考えないように、きつく叱ってもらうから」
「ええ……?」
空にとって父親は、あまり優しい存在ではなかった。いつも味方してくれる母とは違い、父は厳しく、世間の常識からかけ離れたことを嫌う人間だ。今回のような常識外の企画に、子供だけで参加など許してもらえそうにない。
単に許されないだけならまだいいが、そこからどう叱られるか。それも含めて、空の気分は憂鬱になるのであった。
茜にとって、保護者の説得とは両親を説得することではない。説得は無駄。やる前から分かっていた。
だからこそ、説得すべき相手はただ一人である。
「ただいまー」
夕食前に帰ってきた茜は、自転車にキスをしてリビングへ向かう。
「兄貴。頼みがある」
「おう。わかった。任せとけ」
「実は……って、まだ何も言ってないうちから任せとけって?」
「お前がこの早い時間に帰ってきて、『頼みがある』なんて言ったら晩飯以外にないだろう。いつもより腹減ったんだよな。お兄ちゃん腕によりをかけて何でも作るぞ」
「お前はアタイを何だと思っているんだ?」
とはいえ、思い返してみれば確かに、そういう場合の方が多い。
「兄貴。今回は晩飯のお願いじゃないんだ。あと、久しぶりに兄貴の作ったカレーチャーハンが食べたい」
「ああ、そうだったのか。じゃあ話はカレーチャーハンを食べながらってことにしよう。今作るから待っていてくれ」
神妙な顔で話し終えた二人は、それぞれの向かう先へと行く。茜はリビングへ。兄はキッチンへ。
そして二人とも、こらえきれなくなって思いっきり笑った。
カレー粉とハバネロの混ざった匂い。目が痛くなりそうな煙。大げさに音を立ててかき混ぜられるパエジェーラ。
「さあ、出来たぞ。お兄ちゃん特性カレーチャーハンだ」
茜がまだ小学生だったころ、より辛口のカレーチャーハンを食べられるのはどちらかを、兄と競い合った思い出の味。今では兄が茜に対して、どれだけ辛いチャーハンを出せるかという異種格闘技になっている。
今回も大量に使ったハバネロとブラックペッパー。それを爽やかに演出するレモン果汁が隠し味だ。
「どうだ?茜」
「辛っ――うぁあぁ……うまい」
「それはよかった」
茜にとっては普通に食事をするだけの事だが、兄にしてみれば戦いだったりする。
(それにしても、どちらが辛口を食べられるか競争していたころが懐かしいな)
兄はそう思いながら、茜に提供した半分ほどしか辛さを入れてないチャーハンを食べる。もう激辛チャレンジでは勝負にならないほど、茜は成長していた。
(もう少し女として成長してくれればよかったんだが、これは俺が悪いのかもな……)
茜は年頃の女子のはずなのに、いまだに制服以外でスカートを一着しかもっていない。スニーカー選ぶ基準がデザインより機能性。床屋に行って『いつもの』で通用する。
挙句に自転車に夢中になって、友達も作ろうとしない。
(茜が小学生になったころ、俺のおさがりでジュニアMTBなんか与えたのが運命の分かれ道だったか。もっとキラキラのラメ入りでキュートな自転車を買ってやれれば……って、あのころは俺も小学生だったか)
「なあ、兄貴」
「お、おう。なんだ?」
そういえば頼みがあるんだったな。と思い出した兄は、たいがいの事なら驚かないつもりで聞く。
「言っておくが、お小遣いの前借なら断るぞ。この前のタイヤ代も返してもらってないからな。12000円」
「いや、今回は金の事じゃないんだ。それと、タイヤ代はありがとうございます。半年くらい待ってくれ」
話の腰を折られっぱなしの茜は、水を一口飲む。
そのタイミングで、兄が話をし始めた。
「まあ、チャリチャンなら行ってきていいぞ」
「ぶごはっ!」
まさか急に話の核心をついてくると思っていなかった。噴き出した水のせいで鼻が痛い。
「いや、いいのかよ?っていうか、何で参加したいことを知っているんだよ!」
「そりゃあ、茜が寝言でいつも言っていたからさ。『チャリチャンに参加したい。勝ちたい。いや、出るだけでいい。助けてお兄ちゃーん』ってな」
「でたらめ言うな。そもそも兄貴の部屋まで聞こえるような寝言を言ってたまるか!」
「それから、なんだっけ?『空ぁー。一緒に出ようよ。空くらいしか誘う人いないから』とか……」
「……マジかよ」
たしか、兄に空の話をしたことはない。なのに明確に名前を知っているあたり……
「昨日の寝言は特にひどかったな。『空――そこはっ……あんっ――恥ずかしいよぉ』とか、『だ、出して……アタイのなか、いっぱいにして』とか」
「言ったのか!アタイが?」
「いや、さすがにそれは嘘」
「え……」
見る見るうちに赤くなっていく妹の顔を見ながら、兄はさっさと話を戻す。そうでもしないと、次の瞬間には茜の跳び蹴りが炸裂しかねない。
「まあ、チャリチャンの間は任せておけよ。多分、まともに親父を説得するのも困難だろうし、適当にホームステイの話でもでっちあげておく。3週間でも4週間でも、楽しんでくるといいさ」
「あ、ああ、ありがとう」
この兄が大丈夫というからには、間違いなく大丈夫なのだろう。何となくそんな気がした茜は、安心して残りのチャーハンを食べ進める。
(残る心配は、空の方か……)
決して広くはない空の家のダイニング。そこには珍しく、一家三人がそろっていた。
「空。お母さんはね、自転車に乗るのが悪いって言っているわけじゃないの。でも、限度があるでしょう?よく分からない自転車の大会に、3週間も?しかも泊り?許しません。非常識です」
斜向かいに座った母が言う。その表情はいつになく険しかった。
「空。その……チャリチャン?は、いったいどういう大会なんだ?聞かせてみろ」
仕事から帰ってきたばかりの父は、空の真正面に座って言う。こちらも仏頂面だが、父に限っては普段通りの表情だ。
「それが、かくかくしかじか……」
空は大会のルールや、自分の目標、細かいプランを語った。
「と、言うわけで、僕、やってみたいんだ」
「つまり、お前は卒業前の思い出作りのために、その大会に出たいのか?」
「うん」
空が言うと、父はため息をついた。
「いいか、空。その大会には、真剣勝負のつもりで来ているレーサーもいるんだろう?そこに、遊び半分のお前が出たところで、邪魔になるだけだ。考え直せ」
「あ、遊び半分じゃないよ。遊びが全部だ」
「なお悪い!第一、お前の乗っているクロスバイクは、親戚からの譲りものだろう。自分で自転車に乗りたがった訳でもなければ、去年まで乗ったこともない」
「でも、今は本当に好きなんだ。今までの遊びと違って、なんて言ったらいいか分からないけど、特別なんだ」
「特別?レース用の自転車を持っただけで、素人のくせにレーサー気取りか。集団で走ることの危なさも、スピードを出す覚悟も、誰かと競う意味も知らないくせに、よく言う……」
「違う!お父さんは何もわかってない」
空は、珍しく声を張り上げた。両親も驚いていたけど、実は本人が一番驚いていたりする。
(あれ?僕って、こんなに大きな声、出せるんだっけ?)
冷静に、両親を見る。
(ああ、びっくりさせちゃった。僕、怒るつもりなんてなかったのに……)
そもそも、最初に茜に誘われたときは、空自身が出場に乗り気じゃなかったはずだ。いつの間に、こんなに真剣に出場したいと願うようになったのか……
「……で、空。いったい何を解ってないって?」
父が空に訊く。空がここまで反抗してくるのは初めてだった。それは、もしかすると悪いことではないのかもしれない。
空は、自分の知らないところで大人になろうとしているのかもしれない。だとしたら、それを応援するのも、父親の役目じゃないか。
期待を胸に、しかし悟られないように表情には出さず、父は空の答えを待つ。空はそっと、口を開いた。
「クロスバイクは、レース用の車体じゃないんだよ。街乗りを楽にしようってコンセプトの……」
「話はここまでだ」
期待した自分が馬鹿だった。結局、空と自分の話はどこまで行ってもかみ合わない。それを再認識するばかりだった。
「大会参加は禁止。当面は進路の事でも真剣に考えていろ。受験生だということを忘れるな。以上」
それで話は終わり。ここで空が自分の部屋に戻り、父は晩酌を始める。それが、年に何回かある御堂家の家族会議であった。普通なら。
「母さん、ビール」
「はいはい」
そんな夫婦のやり取りの中、空は、珍しく退席しない。
「ねえ、父さん。たまには僕が注ごうか?」
「何?空が、か?」
「うん」
それは、父にとっても空にとっても初めての事だった。そもそも、父は普段から500ml缶に直接口をつけて飲む。注いだことなど、家では一度もない。
「……そうだな。母さん、グラスも持ってきてくれ。あと、柿の種とか無かったか?」
「はいはい。ありますよ」
気をよくした父に対して、空は少しだけ安心する。と、
「言っておくが、こんなことで機嫌を取ったって、大会の事を許すつもりはない。そこは別なんだからな」
「うん。わかってる。でも、それとは別に……」
「……なんだ?他に何かあるのか?」
「お小遣いの前借を少々……」
本当に別な話になってしまったことに、いささか以上に面食らう。
まさか最初からそっちが本題か。大会参加は断らせるつもりで、連続で断りづらい空気を作ってからの前借交渉か?と深読みするが、空に限ってそれはないだろう。この子はそんな賢しい子じゃない。
「内容による。何に使うんだ?」
「バーンミラー、って言って、バーエンドバーにミラーがついた、TOPEAK製の……」
「……」
これは話が長くなるかもしれない。父は覚悟して、しっかり聞くことにした。
茜の両親は、偽のホームステイ作戦に見事に引っかかった。
「さすが兄貴だな。どこから出てくるんだ?その嘘八百」
「大学生にもなると、必然としてコネクションが増えるものさ。今回の話に出てきたイギリスからの留学生も、実在する人物なんだぜ。今度紹介するよ」
茜が最近、英語の勉強に力を入れていることも功を奏した。もっとも、両親にはグローバル社会についていくための英語力をどうたらこうたら……と説明している。実際にはプロレーサーを目指す茜が、海外のチームに入った時に役立つと思って勉強しているだけなのだが、
「ここまで捏造すれば、まず開催当日まではバレないよ。仮にチャリチャンがテレビで報道されるようなことがあっても、なるべく自然にチャンネルを変えてやる。自転車に興味のない両親が見たいとは思わないだろうから、遠慮なく活躍してこい」
保護者の同意書も、当然ながら兄の名前で書く。幸いにして兄が成人しているので、ここは偽装する必要がない。
「じゃあ、アタイはちょっと走ってくるよ。嬉しいからさ」
「そうか。じゃあ俺もコンビニに行ってくるから、一緒に出よう。玄関を開ける音を聞かれても大丈夫なように、な」
すでに夜中である。成人している兄はともかく、中学生の茜が外に出るのは不審だろう。玄関を音もなく開けるか、あるいは玄関を開けるのに他の理由をつけるか。今回の作戦は後者である。
「ありがとう、兄貴」
「何度目だよ……バレるなよ。いつだって俺はお前の味方さ」
「うん」
11月の夜中は寒い。それでも茜は、自転車用の通気性のいいジャージと、丈の短いレーシングパンツで出掛ける。
思えば、嬉しい時も、悲しい時も、苛立つときも、よくわからない気持ちになった時も、自転車に乗っていた。
感情をペダルに押し付けて、路面を砕くような気持ちで走り回る。それが気持ちよくて、時間を忘れて乗り続けてしまうのだ。
(おかげで、お小遣いのほとんどを自転車に使ってきたな)
学校で流行っているイケメンアイドルのライブに行ったことはないし、そもそも曲を聴いたこともない。友達とファッションセンターに行ったこともなければ、喫茶店に行ったこともない。
ただ、走ることが喜びだった。
ドロップハンドルの下をつかみ、自分の太ももを見る。レーパンの裾から伸びた細い脚は、硬く筋張っている。例えばミニスカートが似合う脚でないことは明らかだ。
(まあ、アタイみたいなブスは、これでいいんだよな)
いつもの癖なのか、ハンドルは自然と学校に向かっていた。こんな時間に学校に行っても仕方ないが、方角的にはそっちに行ってみるのもいい。もしも気が向いたら、たまには学校を越えて向こうに行ってもいいだろう。
(そういえば、空と一緒に行った自転車屋も、この道まっすぐだったな。もうとっくに閉まっている時間だけど)
ぽつり――と、雨が降り始める。風はさらに冷たくなっていくが、茜は体を震わせながら、さらにケイデンスを上げた。不思議と、この寒さも心地いい。
道には信号が増えて、茜の行く手を塞ごうとする。どうせ目的地もないので、信号を避けるように、適当に走った。
止まりたくない。走り続けたい。
空の父親は、すっかり空の話に魅了されていた。それは、自分がいつの間にか忘れていた『趣味』とでもいうべきものだった。
「だから、MTBだとバーエンドバーをつける人が多いんだって、でも、ブルホーンハンドルみたいな快適性もあるから、僕としてはそっちに期待しているんだ」
「そうか。ハンドルなんてママチャリのか、競輪のやつか、あるいは棒みたいなやつしかないと思っていたな」
「棒みたいな?」
「ああ、お前が乗っている自転車と同じハンドルのママチャリがあるだろう。その辺の中学生が乗っているやつ」
「ああ、一文字ハンドル。軽快車がつけているやつだね。厳密にいうと、あっちはライズバーハンドル。で、僕のがストレートバーなんだけど」
なるほど、さっぱり分からない。ただ、ちょっとやそっと聞いただけでは分からないほどに奥が深いことは分かる。自転車なんて筋肉と肺活量だけで戦う競技だと思っていたが、思いのほかメカニカルだ。
そして、空はこの半年で、そこまでの知識を身に着けていた。それもまた驚きだ。
空の部屋には専門的な雑誌やハウツー本があるわけでもなく、習い事として自転車教室に通わせたわけでもない。ならどこで覚えてきた知識なのか、など知らないが、一朝一夕に生半可な気持ちで手に入るノウハウでないことは察しがついた。
「なあ、空。さっきお前は、自転車に乗るのは遊び半分じゃなく、全部遊びだといったな?」
「え?うん。半分だけじゃなくて、完全に遊びだよ」
「お前は、他に好きな遊びはあったかな?ゲームだっけ?」
「ああ、ゲームも好きだけど、家にあるのは遊びつくしたかな」
「新しいソフトを買ってやろうか?」
「え?本当に?……あ――でもいいや。嬉しいけど、今は気が向かないから」
「そうか――」
空は『遊び』という言葉を、自分の知る意味ではなく言っていた。いわば、『真剣に遊ぶ』という、大きな代償を背負った、しかしそれに無自覚な行為。
今更――本当に今更、空は自分の趣味を見つけたんだろう。その『趣味』は、一生向き合っていける分、『将来の夢』や『進路』よりも重いのかもしれない。
「空。さっき言っていた大会の出場、親の同意書が必要だったな。持ってきてみろ」
「え?ああ、うん」
空は学校で茜からもらった書類一式を持ってくる。すると、父はその中から保護者の同意欄に目を通し、そこにサインした。
「え?あ――これって……」
「どうした?お前の望む通りの結果だろう。喜ばないのか?」
「あ、うん。喜ぶよ。嬉しい。でも、なんで?」
「まあ、若い時には、夢中になることも必要なんだろうな。だが、せっかく行くんだ。目標くらいは立てていけ。優勝か?それとも完走か?」
「うーん……」
空は少し悩んでから、
「怒らない?」
と、確認を取った。
「それは答え次第だが、お前がどう答えたら俺が怒るか、わかっているはずだ」
「だよね……」
この期に及んで、『楽しんできたい』が通用しないことくらい、空にも解っている。ただ、それを推して尚。
「楽しんでくる。これが、僕の目標だよ」
「そうか。まったく、お前も頑固だな……。いい。それでいい!楽しんで来い!母さんには俺から言っておく」
「あ、ありがとう。父さん」
「ああ、それと、その……何とかミラーは4000円くらいで買えるんだったか?ほら、お小遣いの前借分だ。来月から引いておくからな」
「うん」
空は、ふと駐輪場に止めた自転車が気になった。少しだけ、いじりたい。
「ねえ。今からちょっと、エスケープをメンテナンスしてきていい?」
「ああ、いいぞ。ただ、どこにも行くなよ。走るならマンションの駐車場だけで我慢しておけ」
「はーい」
外は雨が降っていた。空は一度部屋に戻って工具一式と、ダウンジャケットを取ってくる。幸い、マンションの出口からすぐ右が駐輪場だし、一応屋根があるので濡れなくて済む。
「さすがに、雨の日は走りづらいよね。レインタイヤが欲しいね。エスケープ」
自転車に話しかける変な子。と、最近近所で噂の空だが、まったく気にしない。
先日買ったタイヤ、Panaracer.CATEGORY S2は、ヤスリ状の表面を持っていたが、雨に対してはあまり強くなかった。アスファルトの上なら問題なく走行するが、タイル敷の道や水たまりに関しては、少しだけ不安が残る。
ただ、見た目はかっこいい。いくつかあるカラーリングの中から白をチョイスしたが、元々のエスケープR-3.1が持つグリップやサドルと合わせても、完組時に装備されていたタイヤより似合うくらいだった。
少し固めを好む空の趣向で、空気圧を105psiまで上げてあるはずだが、気温が下がったせいか、大体90psiくらいまで落ちている気がする。
(うーん。入れなおしたい気もするけど、これからどこかに行くわけでもないし、明日になったら気温が上がるかもしれない)
今回は特にメンテナンスが必要だったわけでもない。やることがない中、空は自分の車体をまじまじと眺めて、妄想に浸っていた。
(チャリチャンに出たら、きっと注目されるのかな?あ、でも他にもかっこいいカラーリングの車両がいっぱい出るだろうから、あんまり目立たないかな?)
などと考えていると、近くに自転車が止まった。空がそっちを向くと、そこには……
「あれ?茜?」
「おお、やっぱり空か。いや、近くを通りかかったら、それっぽい人影が見えたもんだからさ。もしかしてと思ってさ」
雨のせいでずぶ濡れの茜が、夏場とさほど変わりない薄着でクロスファイアに跨っていた。
「そっかぁ。ここ、お前の家か。なんだかんだで初めて通る道だな。で、空もこれからポタリングか?」
「いや、こんな寒い日に、雨の中でポタリングするのは茜くらいだよ。僕はエスケープの様子を見に来ただけ」
「あー、それは残念。久しぶりに一緒に走りたかったけどよ」
「っていうか、寒くないの?なぜにこの季節に半袖ジャージ一枚なのさ」
「おー、よくジャージ一枚だって気づいたな。中に何か着ている可能性もあったのに」
「そ、そりゃぁ……いろいろ透けてるし……」
「ん?」
茜は空に言われて、自分の格好を見直してみる。ただでさえ空力抵抗を減らすため、体に密着するデザインのジャージ。胸の前だけロゴマークを引き立たせるために白地になっているそれは、雨に濡れて張り付き……
「……」
「……」
お互いに相手の顔が真っ赤になっていくのは確認できた。
「やあ、空。今日はいい天気だな」
「雨だよ。話そらすにしても別な話題にしようよ」
「おお、エスケープ、久しぶり。元気にしてたか?おーよしよし、可愛いなこいつ」
「ちょっ、ずぶ濡れの格好で跨らないで」
「い、言っておくけどな。今日はたまたま着けてなかっただけで、普段は着けてるんだからな」
「大丈夫だよ。誰にも言わないよ。なんなら忘れたことにするよ?」
「そもそも、自転車は上半身を大きく動かすことがないから揺れないのであって、アタイの大きさ的に揺れないわけじゃないからな。第一、中学生でこのくらいなら普通だからな」
「何も言ってない。僕は何も言ってないよ」
「ほら、夜だろ。暗いからすれ違ったって見えないに決まってるって。アタイは頭いいな。見えないだろう。見えないよな。ここまで来るのに何人かとすれ違ったけど、見えてないよな?ここから家に帰らなきゃいけないけど、見られないよな?」
「み、見えない見えない。大丈夫だよ」
「ちゃんと見てから言えよ!」
「自分の言ってること考えてから喋ってよ!」
「だってアタイは――っくしょん!」
豪快なくしゃみをした茜は、体を軽く震わせる。走っているうちは気にならなかったが、空と話しているうちに急激に冷えてきた。
「やっぱり寒いんじゃない。大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。走っていれば、あったかくなる。多分……」
「でも、一回体を冷やすと温まるまで時間かからない?その恰好じゃ余計に」
「う、まあ、確かに……」
それは空が一か月ほど前に体感したことであり、茜が何年も、毎年のように経験していることである。常に風を受けることが前提の自転車において、体温のコントロールは大きな戦いだった。
「うちに寄っていく?あ、お風呂入ってく?」
「どこの世界に、こんな夜中に同級生の男子宅で風呂に入る女子中学生がいるんだよ」
「まあ、こんな雨の降る寒い日に半袖で自転車乗っている女子中学生もいないと思うけどね。普通に深夜徘徊で条例違反だし」
「お前は稀にまともなツッコミをするよな」
とはいえ、何を言われてもこれ以上長居をすることもないだろう。そもそもここに立ち寄ったこと自体、特に用事もない偶然だったのだ。
「そうそう、お前、許可はもらえたのか?」
茜が腕を組むような姿勢で訊く。多分隠さないと恥ずかしいけど、あからさまに隠すのも恥ずかしいというジレンマからの折衷案だろう。本人はさりげないつもりでもバレバレである。
「まあ、ね。どうしてか分からないけど、奇跡的に許してもらえたよ」
その口ぶりから、空なりに色々と話し合いがもつれたんだろうな。と茜は予想する。
「よし、じゃあアタイら二人で出場だな」
「ってことは、茜も許可を……」
「ああ、奪ってきた」
「……そうなんだ」
許可を『貰ってきた』ではなく『奪ってきた』と言う表現に茜らしさを感じる。きっと正攻法で許してもらったわけではないんだろうな。
「じゃあ、アタイは帰るよ。チャリチャンの準備もしないといけないからな」
「え?いや、あと二ヵ月くらい先だよ?年が明けてからだよ?」
「じゃあ、また明日学校で会おう」
茜は人の話を聞かないまま、自転車に跨って走り出した。SPDペダルのガチャリとはまる音がする。
「いや、だから寒くないのかな?……それに透け――」
せめて上着だけでも貸そうと思っていたが、もうすでに茜の姿は見えなくなっていた。
実は自転車の場合、重量が軽い分、初速を得るのが早い。トップスピードに乗るまでの時間は自動車やオートバイよりママチャリの方が先だとも言われている。
そんなわけで、10秒ほどで40km/hまで加速した茜は、緩やかなコーナーの先、近くの郵便局の蔭に消えていった。
翌朝、学校には茜の姿はなく、ホームルームで先生から
「出席を取るぞ。まず諫早茜は風邪を引いたので休みだ」
と、出席番号一番の欠席が告げられた。
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