第4話 レース開幕と子乗せ自転車
すっかり年も明けて、正月も終わり、世間が再び慌ただしさを取り戻した1月中旬。
空と茜は、開幕の地にやってきた。
背面に海を臨む自然公園。そして奇妙な形のビル。雪の多い土地でありながら、空たちの立っている駐車場は、アスファルトが乾くほど丁寧に除雪されていた。
「ここが、青森……」
スタート地点の、青森にある某ランドマーク。そこには沢山の自転車と、それを超える沢山の人が集まっていた。大体半分が出場者で、もう半分が観客である。
「沢山のお客さんがいるね」
空が言うと、茜が疲れた表情で、息も絶え絶えに答える。
「まあ、自転車レースなんて――はぁっ――見世物……だからな。レーサーが真剣勝負をしていようが何しようが、客が集まらない事には採算が合わない。主催者的にはこれでも少ない収穫だろうよ……」
どうして茜がここまで疲労しているのかというと、慣れない電車旅だったうえに、空の自転車まで組み立てたからだ。
「ごめんね。僕、もう覚えたから、次に輪行するときは自分でできると思う」
「ああ、是非そうしてくれ。もっとも、次があれば、だがな」
QRなどの簡易的に分解できる要素をもってしても、実際に分解するのは難しい。まして組み立てるとなると、この真冬の青森の寒さも相まって地獄だ。かじかんだ指でチェーンやディレーラーを引っ張りまわし、ドライバーやレンチを回し続けた茜が、こうなるのも当然だった。
「ところで、これって日本列島縦断レースなんだよね?どうしてスタート地点が北海道じゃなく、青森なの?」
「ああ、それは許可がもらえなかったからだろう。国とか自治体からな」
このイベントは、開催期間中の道路を封鎖して行う。参加人数とルールを考えれば当然だった。
そのため道路の使用を許可してもらう必要があったのだが、主要な道路をおいそれと貸すような日本ではない。
結果的に、様々な自治体や個人の協力、近隣住民の理解などによって確保できたコースを繋いでいくと、おおよそ日本縦断を目的にしているとは思えないルートが完成する。
国道、県道、私道……農道、山中、自然公園など、回りくどいうえに決して走りやすいとは言えないコースが、今大会のネックでもあり、見所でもあった。
「それから北海道をスタートする場合、海を越えなくちゃいけないだろう?自転車で」
「え?ああ、えっと……青函トンネルは?」
「まあ、列車の運行を完全停止すれば可能だろうけど、ただでさえ新幹線と貨物列車の往来が激しいんだ。チャリチャンに貸してくれるはずないな」
当然の結果である。日本縦断と銘打つには物足りないが、仕方ないものはある。
『レディース&ジェントルメーン!皆さん、聞こえていますでしょうかぁ?』
スタジアムに、スピーカー越しの大きな声が響く、声の主は見当たらない。しかし、
『うふふ……まだレース開始の3時間前だというのに、もう事前エントリーの半数ほどが集まっていますねぇ。ご覧ください。このスタジアムを埋め尽くす人、人、人。そして自転車。圧巻の光景です。輪行した車体を組み立てる人。入念にメンテナンスをする人。早速ウォーミングアップに入っている人。休憩している人。精神統一している人。応援に来てくれた家族や友人と会話を楽しんでいる人。みんな素敵ですよぉ』
この声の主は、スタジアムの様子が見えているらしい。抑揚の激しい興奮気味の声の女性だった。
『ああ、申し遅れました。私は今大会、チャリンコマンズ・チャンピオンシップの実況と解説を務めさせていただきます、リード・スミスと申します。気軽に、ミス・リードとお呼びください。もちろん芸名ですけど』
「ミスリードって、実況解説者の名前にしては不適切じゃないか?」
「それも含めてミスリードって感じだよね」
茜と空がぼそりとツッコミを入れる。もちろん、ミス・リードにそんな声は聞こえていない。
『えっと、現在時刻は11:00となりました。開始3時間前ですので、参加受付と車体登録を始めたいと思います。出場者の皆さんは、エントリーシートに記入の上、自転車をもって受付へ向かってください。混雑が予想されますが、先着特典はありません。順番を守ってエントリーしてください』
ミス・リードの声に促されて、みんながぞろぞろと並んでいく。空と茜も列に続いたが、時間がかかりそうだ。
『さて、その間に私の方から、チャリンコマンズ・チャンピオンシップ。通称チャリチャンに関する、ルール説明をしていきます。一応、パンフレットに書いてあることを読むだけですが、あとから聞いてなかったとは言わせませんよ。それでは、ここだけ真面目にやりますかぁ』
裏を返せばルール説明以外を真面目にやる気がないともとれる発言をしたミス・リードが、本当にまじめな口調に変わる。
『本大会は、自転車を用いた日本列島縦断レースです。全長4000kmの道のりを、自分の自転車だけで走破してもらいます。一位でゴールした人には、賞金300万円と、副賞のトロフィーと賞状が贈られます。
基本的にはルール無用。使用する車体は、広義で自転車であれば何でも構いません。
開催期間は21日間。この期間内であれば、24時間いつでも走行可能です。程よく休むもよし、こまめに走るもよし、夜通し乗り続けるもよしです。
なお、コースを外れた場合は、その地点に戻って再開してもらいます。逆に言えば、タイムロス覚悟でコースアウトを行う分には、何回コースアウトして頂いてもかまいません。買い物に行きたいとき、食事をしたいとき、ホテルに泊まりたいとき。いつでもコースの外に出ていただいて結構です。
選手の皆さんには、特殊な腕輪と、自転車に取り付けるタグを配布しております。それぞれにGPSが備わっており、皆さんの動向は大会主催者側が常に監視することになります。悪質なショートカット、登録した自転車以外の車体への乗り換え、選手の替え玉などは発見しだい失格とさせていただきます。
その他、質問等あれば、チャリチャン運営サイト、または、専用アプリの凸でお願いします』
そこまで話したミス・リードは、急にテンションを上げなおす。
『で、ここからが重要。皆さんは、チャリチャン専用アプリ『ミスり速報』をダウンロードしましたかぁ?まだの人がいらっしゃいましたら、是非ともダウンロードしてください。これが面白いんですよぉ。
私の実況中継を、24時間ずぅーっと、生放送で聞き続けることができる。それが『ミスり速報』です。私も24時間×21日間。合計504時間オールで放送し続けますよぉ。
あ、ちなみに今日の14:00からスタートで504時間なので、厳密にいえば22日目の14:00まで、競技が開催されるのですけどね。
もしかしたら、コースの状況や敵選手の情報など、いろいろ聞けちゃうかも?私のエッチな話もいっぱいしたいと思います。18禁になっちゃいますかねぇ?
しかも、コースに設置した無数の固定カメラと、中継車に搭載した移動カメラを使って、映像付きで実況放送もしちゃうんです。まあ、これはヨウツベでも見れるんですけどねぇ。
で、選手の皆さんにはもう一つ特典があります。それが私への電凸ですぅ。アプリのメイン画面右端の通話マークを押してもらうと、私に直接、電話をかけることができます。もちろん会話の内容も生中継されちゃいますけどねぇ。
例えば、相手選手とのタイム差を教えてくれ。とか、この辺で自転車を修理できるお店はないか?とか、さっきの映像をもう一回再生してほしい。とか、ミスリードちゃんは何色のパンツをはいているの?とか、一人エッチして喘ぎ声を聞かせて。とか、
大体の要望には応えますよぉ。あ、ちなみに今はオレンジ色のパンツです。大会前の緊張と興奮で濡れてきたので、スタート前に一回履き替えてきますねぇ。
それでは、よいライディングを期待します。うふふふ』
と、台本にあることないこと交えて話したミス・リード。それからエントリーの注意事項や、未成年の扱い。コースの案内表示の事や、観客が応援する際のマナーについて話していく。
「ミスり速報……このアプリ、持っていた方がいいな」
茜は近くにあったポスターを見ると、その右端のQRコードを読み取った。どうやら基本的な性能は実況中継を見ることだけのようで、凸電機能を使うにはエントリーした後、受付でもらえる腕輪に書かれたパスワードを登録する必要があるようだ。
腕輪に16桁の番号がプリントされていて、登録することでミス・リードに凸電出来る上に、どの選手からの通信か判断できるシステムになっているらしい。
「それにしても、固定カメラや中継車、それにGPS付きの腕輪。ずいぶんハイテクなんだね」
「ああ、だからこそ宣伝になるんだろうな」
「宣伝?どういうこと?」
「……自転車関連のレースは、スポンサーとの協力が重要視されるんだ。別に自転車だけに限定した話じゃないかもしれないが、視聴率を取ってなんぼの商売だし、今大会にも協賛企業がいっぱいある。だから一般市民にも飽きさせない工夫が必要なわけだ」
「そういえば、今回ってプロのレーサーも出るって言って炎上したよね。一方でお笑い芸人が出場表明したり、テレビの取材もあるみたいだけど」
空にしては、真面目に調べてきている。もっとも、調べなくともそれなりに知名度の高い大会は、えてして情報が出回るものかもしれない。
例えば、普段は野球を見ない人がWBCだけは応援したり、オリンピックで日本がメダルを取れそうな競技だけ見たりするのと似ている。フィギュアスケートや卓球だって、某有名少女が出場する試合だけ見る人が多いだろう。
「だからこそ、だろうな。この会場も……あっちを見てみろ」
茜が指さした先、女の子6人が集まって、円陣を組んでいた。
「地下アイドルなめんなー」
「「おー」」
「絶対優勝するぞ」
「「おー」」
「私たちで、ファンのみんなに、勇気を届けるぞ」
「さいくる・みらくるー」
「「ゴー」」
地下アイドルであるらしい。冬用の防寒ジャージに、丈の短いレーシングパンツ。そしてフリル付きのミニスカートと、キラキラに飾り付けられた猫耳付きサンバイザー。そんな異様な服装の彼女らは、しかし思ったほど浮いてはいなかった。
「ねえ、茜、あれは何?」
空が指さす方向には、
「さあ?アタイも知らん」
ご当地キャラクターか何かだろう。四角い箱に直接手足が生えたような生き物が、頭にアンテナを立てている。どうやって自転車に乗るのか見ものだが、それ以外に見所はなさそうだ。ファンに写真をせがまれて、無言のまま身振り手振りで応じている。
「あっちの男性陣は、服装は普通だが……」
「凄い自転車だね。見た目も性能も……」
「空でも分かるか。あれ、総額50万は軽く越えていると思うぞ」
細身の中年男性と、小太りな青年。そしてアニメに出てくる魔法少女の格好をした妙齢の女性という、なんともよくわからない組み合わせのチームがいた。
彼らの自転車は、エアロフレームにディスクホイール。ブルホーンハンドルにDHバーの組み合わせ。一台50万どころか、100万と言われても不思議じゃない仕様だ。
そのホイールにはアニメに出てくる美少女が描かれ、フレームにはアニメタイトルやキャラの名前が書かれている。その車体とともに妙齢のコスプレイヤーが写真撮影に応じているが、カメラが異様に下からの煽りアングルにこだわっているのは何故だろう?
「まるで10月末の渋谷みたいだね」
「どちらかというと、8月のビッグサイト……いや、やっぱりなんでもない」
茜が軽く口を滑らせかける。別にそういった趣味があるわけでもないが、あらぬ誤解をかけられては自分のイメージにかかわる。もっとも、本当にその趣味があるなら恥じることはないとも思う茜であった。
「ともかく、これは自転車のイベントだと言われなければ、なんの集まりだか分からないな」
「そうだね」
自分も何か目立つ服装で来ればよかったか。と今更になって思う空のファッションは、真冬の青森に対して考えられる限りの装備だった。要するに普段着そのものである。
トップスは白いダッフルコート、ボトムは細身のテーパードジーンズ。クロスバイクを扱うにあたって、ボトムにはあまり工夫の余地はない。3段変速のフロントディレイラーが、容赦なく裾を引っ掛ける可能性が高いからだ。
他にも、風でなびくような要素をなるべく排除しつつ、shimanoの防寒グローブ、スノトレ、ニット帽とネックウォーマー、などなどを装備。中性的な顔立ちと相まって、実はそこそこ視線を集めている(本人は無自覚だが)。
「っていうか、やっぱり茜はその恰好なんだね」
「ん?まあな」
現在、外の気温は0度前後。これから自転車でそこを走ろうというのに、茜はいつも通りロードレース用ジャージとレーパンだった。一応、手にはTIGORAの防寒グローブ、足にはPEARL IZUMIのシューズカバーを付けているが、むき出しの腕や脚がなんとも寒そうだ。
「大丈夫なの?」
「ああ。駅伝だって冬なのにあの薄着だろう?動いていれば暑いもんさ。それに、一応これも持ってきているし、な」
と、取り出したのは、ペットボトルほどの大きさのナイロンの筒だった。それを開けると、中から丸く折り畳まれたダウンのロングコートが出てくる。
「ユニクロのウルトラライトダウン?」
「さすがに知ってるか。これならコンパクトに持ち運べるし、体温自体が下がった時はこれを使う。大事なのは暖かくすることじゃない。調整することだ」
そして取り出したダウンをすぐ着る。やっぱり寒いんじゃないか、とツッコミを入れたかった空だが、あえて何も言わない。
「次の方、エントリーシートをどうぞ」
「あ、僕らの番だね」
「よし、行くぞ」
ようやく順番が来て、受付に案内される。
簡単な車両チェックと書類の確認だけされた空は、右手に緑色の腕輪をはめられる。
「基本的に、腕輪は外さないでください。GPSが内蔵されていて、居場所を常にチェックしています。防水は施されていますが、万が一破損した場合はご連絡お願いします」
受付管理員の男性が、丁寧に説明しながらつけていく。プールや温泉施設で使われているロッカーのカギに形は似ていた。
「それから、自転車にタグを搭載します。一応、サドル裏かシートステーを推奨していますが、ご希望はありますか?」
「あ、いいえ。大丈夫です」
タグ……こちらも発信機のような機能を持っているらしい。手のひらサイズの四角形で、インシュロックによって固定される。特に場所を指定しなかった空の車体には、右側チェーンステーの下に取り付けられた。
空が使っている年代のエスケープのシートポストは特殊な構造になっており、内部にコイルサスペンションを搭載している。このレートに配慮した結果だろう。
「では、以上で登録完了です。あとはスタートまで、会場内でごゆるりとお過ごしください。空様」
「は、はい」
空様、という今まで呼ばれたことのない呼び名に動揺しつつ、受付をあとにする。まだスタートまで2時間もある。
(まあ、この人数なら受付だけで時間がかかるものね)
参加者およそ1000人。空が受付を終了しても、行列は絶えることがない。まだ自転車を組み立てている人や、ようやく会場入りした人も見受けられた。
「よう、空。終わったか」
「あ、茜」
茜が、空と同じ緑色の腕輪を付けて現れる。自転車用タグは左側シートステーの上。空と違ってディスクブレーキを搭載している都合上、チェーンステーへの取り付けが困難と判断された結果だった。
「レース開始まで、まだ時間があるな。とりあえず飯にしようぜ。移動販売車で軽食くらいは取り揃えているみたいだからよ」
「あれ?建物の中にはレストランもあるって聞いたけど?」
「混み過ぎてて入れないだろ」
「……そうだね」
左手に取り付けた腕時計を見ると、時間はもう12:10分。お昼ごはんには頃合いだ。
「売店も混み合ってたね」
「予想はしていたけどな。まあ、いいさ」
既にほとんどの商品が売り切れる中、二人はウグイスパンと天然水を買って、会場に戻ってくる。隣接する公園にテーブルは並んでいたが、相席しても座れないくらいの状況だったので諦めた。
「まあ、立ち食いも悪くはないさ。これからレースが始まれば、こんな食事も当たり前、自転車を走らせながら食うこともあるだろうからな」
「僕、乗りながら食べると口の中噛んじゃうんだよね。それで口内炎になったり……」
「……てことは、やったことはあるのか。意外とチャレンジ精神旺盛だよな。アタイも他人の事は言えないけど」
普段は食べないし、特別食べたいとも思わないウグイスパンの味は、しかし美味しかった。淡白だが甘味はしっかりしており、アンパンより少し軽い。あえて言うなら、
「普通にうまいな」
「うん。普通に美味しいね」
そう。普通に美味しいという感想が妥当だろう。せめて牛乳かカフェオレでもあればよかったと思う二人だが、売り切れているものはしょうがない。
そんな立ち食い少年少女の足元に、一人の子供がやってきた。
「ねぇねぇ。おねぇちゃんたちも、ちゃりたん、でるの?」
4歳くらいの男の子だった。少し大きめのスキーウェアを着たその子供は、茜の顔を見てにっこりと笑う。
「おねぇちゃん、寒くないの?あっためる?」
まったく屈託なく脚に抱き着いてくる。その温かさに火傷しそうな感覚を覚えた茜は、
「いや、大丈夫だ。寒くはないよ」
やんわりと振り払った。
「茜の知り合い?」
「いや、アタイにこんな幼児の知り合いはいない」
「じゃあ、迷子かな?」
「そんなところだろうな。お父さんかお母さんは、どこにいるんだ?」
茜が訊くと、その子は近くの男性を指さした。自転車を組み立てているようだ。
「あれか。よし、ビシッと言ってやろう」
茜は子供の手を引いて、その男性のところまで歩く。小さな子供の歩幅に合わせて、茜までよちよち歩きになっているのが、空のツボに入った。
「笑うな」
「だって……くっくく」
その男性の後ろまで行くと、茜は腰に手を当てて声をかける。
「おい、おっさん!」
「ん?何ですか?」
男性は作業を中断して、立ち上がった。
「……」
大きい。身長180センチはあるように見えるその男性は、スキーウェア越しにも分かるほどの体格の良さを持っていた。顔からすると、30歳前後だろう。堀が深く、鼻筋が通っている。
「おっさん。テメェのガキよかチャリが大事か?たいそうな心意気の自転車乗りだな。あぁ?」
茜はまったく怯むことなく、それどころか態度の大きさなら2メートル級じゃないかと思うくらいの大きさで言う。
「ねえ。茜」
「なんだよ?アタイはこういう親が一番嫌いなんだよ。子供がどっか行きそうになってても放っておきやがって。許せないな」
「でも、ひざが震えてるよ」
「……青森は寒いからだ」
すると、男は自分の子供が茜の隣にいることから、大体の事情を察した。
「ああ、すみません。うちの子、迷子になっていたんですか?」
「いや、なりかけだったけどな」
「ありがとうございます。助かりました。ごめんな、アギト」
「もー。おとーさんおそいから、ぼく、あきた」
「ああ、ごめんごめん。お二人にも、なんと感謝すればいいやら」
思ってもいなかったほど素直に言われて、茜は戸惑う。一方、空は
「えっと、あなたも――あなたたちも、チャリチャンに?」
と、目の前の親子、その両方に訊いていた。
「ええ。そうなんですよ。と言っても、優勝はおろか、完走する事さえ狙っていませんが」
「でしょうね……」
空は組み立て途中の自転車を見て言う。よくこれをここまで持ってきて、あまつさえ出場しようと思ったものだ。
その車体は、パナソニック・ギュットミニDX。いわゆる『子乗せ自転車』と呼ばれるタイプの車両だった。
フロントにはかごの代わりにチャイルドシートが取り付けられており、子供を一人乗せて走ることができる仕組みになっている。20インチのホイールに低重心かつホイールベースの長いフレームは、安定して走れるように、との設計だろう。
「まあ、おおよそ輪行できるサイズの車体じゃないよな。普通の自転車よりホイール一つ分くらいは大きい」
と、茜が分析する。ホイールベースの短いシクロクロスに乗っている茜にとって、それはとても大きく感じた。
「ええ。実はバンで来たんですけど、それでも入らなくて……近所のバイク屋に頼んで、ハンドル外してもらったんですが……」
「今度は組み込み方が解らなくて夢中になっていたってとこか。子供をほったらかしにした言い訳にしては上出来のつもりか?」
「滅相もない。それについては、言い訳のしようもありません」
深々と頭を下げる男に対して、茜はバツが悪そうにため息を吐く。これでは、どう見ても自分が悪役である。何より反省している相手をなぶるのは後味が悪いわけだが、わかっていても抑えられない感情というのはあるもので……
「しょうがないな。アタイによこしな。空、手伝ってくれ」
「え?うん」
「フォークコラムを抜いただけで混乱してんじゃねーよ。さすがに子乗せを弄るのは初めてだけど、何とかなるだろう」
そう言った茜は、既に組み込まれていたヘッドを緩めると、空に支えさせる。締め込みが甘い。これでは乗った時に前に倒れるし、回転もしなくなる。
「ブレーキや電動アシストの類は……レバーごとハンドルから外したのか。いい判断だな。面倒な調整がなくて済む」
「でも、この自転車のケーブルって、フレームにがっちり固定されているよね。大丈夫かな?」
「届くかどうかって事か?……確かに、先にこっちを組み込んでからの方がいいかもな。空にしては鋭い」
「えへへ。褒められてる?」
「ああ、珍しく褒めている。だから離すなよ。これメチャクチャ重いんだからな」
「……」
「うわぁ。おねぇちゃんすごーい!」
目の前で、中学生か高校生くらいの男女が、手際よく自転車を組み立てていく。その姿はプロの整備士のようだ。男は黙って見ていることしか出来ない。
「大変、お上手なのですね」
「まあ、アタイは直感でやっているだけだがな。何台か見ていると、その車体の規格が同じだったりするわけだ。さすがにこのヘッドの形状は初めて見るけどな」
「ねえ、茜。これって、スタンドとケーブルでつながっているみたいだけど、何の意味があるの?」
「多分、子供を乗せるときにハンドルが回らないようにするロックだろう。スタンドを立てている間はハンドルがまっすぐ固定される仕組みだ」
「あ、中はよくあるママチャリと同じだ」
「とりあえずモンキーレンチが必要か……受付に言えば貸してくれるか」
作業は10分ほどで終わった。メンテナンスキットをサドルバッグに戻しながら、茜が言う。
「もう少しチェーンに気を使った方がいいな。いくらカバーがついているとはいえ、砂ぼこりや泥を完全遮断できるわけじゃない。たまにはディグリーザーで磨いておきな」
「は、はい……ディグリーザー?」
「そのくらいはググれ。じゃあな」
「ま、待ってください」
男が呼び止めた。
「俺は、
「さとーあぎと、3さいです」
元気よく名乗ったアギトを、茜が優しくなでる。
「キラキラした名前だな。空も大概だけど」
「あれ?僕までディスられた?」
その名前に対する話を気にしないことにして、巧は続ける。
「どうか、何かお礼をさせてくれないでしょうか?」
「あ?いいよ。アタイらが勝手にやっただけだ」
「ちなみに僕が
「あかねおねぇちゃんに、そらおにぃちゃん」
「うん。よろしくね」
アギトは人懐っこいのか、空にもすり寄ってくる。茜は用が済んだとばかりに立ち去りたいようだが、空がこの調子なので逃げられない。
(そもそも、なんでアタイに……)
普段から素行不良な為か、あまり他人から感謝されることのない茜は、なにやら気恥ずかしさでいっぱいだった。年上の男性、それも初対面の人と話すこと自体、少し恥ずかしい。
「そんでねー。おとーさんはラグビーぶだったんだよ」
「へぇ。高校でラグビー部か。それであんなに大きいんだね」
空とアギトが仲良く話している。その間に、巧は受付に行っていた。自転車を完成させたので、その車体登録とタグ付けが必要になる。
(アタイらはベビーシッターかっての)
などという茜の不満とは別に、空は結構楽しんでいた。
「ねえ。おとーさんはいっとうしょうになれるかな?」
「ん?一等賞か……茜。何とかならない?」
「はぁ?いや、無理だろう。車体の性能的にも、自転車経験的にも」
そもそも完走する気がないとは本人談。さらに明後日から仕事だそうで、今日中にリタイアして帰らなくてはならない。本当に参加するだけが目的の思い出作りだ。
何より、ピストやロードがひしめく中、普通のママチャリより絶望的な子乗せ自転車の優位などありえない。
「そうだよね。茜の言う通り、不可能だよね」
「ああ、そうだな」
「絶対に、100%無理だよね」
「だから、そう言ってるだろう」
「どうやったって、ダメだよね」
「……」
ひねくれ者の茜の性格的に、『絶対』や『100%』と言われると、素直に認めたくない。
「空、お前はいつから煽りが上手くなったんだ?」
「ん?えっと、最近茜と一緒にいることが多いからね。朱に交われば茜みたいな言い方も身に着くのかな?」
「ナチュラルにアタイに喧嘩売ってんのかよ!」
「違うよ。茜みたいなゴリラさんと喧嘩したら、僕は一生自転車に乗れない体になっちゃう」
「そこまでしねぇよ?っていうかゴリラさんって何だ!」
はぁ……とため息を吐いた茜は、空の作戦に乗ってやる。
「わかったよ。一瞬でもアギトと巧さんをトップにすりゃあいいんだろう?」
「うん」
スタートダッシュならあるいは……と、茜は考える。するとそこへ巧が戻ってきた。
「すみません。アギトまで見ていてもらって」
「いえいえ、楽しい時間でしたよ」
空が言うと、茜が首を振った。対照的な態度をとる二人に、巧は笑いをこらえる。
「そうだ。一応、アギトも腕輪をしなさいって言われたぞ。こっちにおいで。つけてあげるから」
「うん」
選手がペアの場合、その両者に腕輪が配布されるらしい。
「さて、それじゃあアタイの話を聞いてもらうぞ。巧さん」
「は、はい。いったい何の話でしょう?」
首をかしげる巧に茜はどちらが年上か分からないほど尊大な態度で言う。
「お前を、勝たせる方法さ」
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