第5話 漆黒のダークネスなんとかとシティサイクル
スタート10分前。すでに多くの人たちが、スタート位置についていた。
『皆さん。可能な限り間隔をあけて、安心して走れるように配慮をお願いしますぅ。ただいま大変込み合っております。混乱を避けるよう、配慮をお願いします。そんな先走って早くイキたいのは分かりますけど、ちゃんとみんな出さなきゃ、ですよぉ』
ミス・リードの声が会場中に響く。当然、スピーカー越しの放送だ。
「まあ、そりゃ自由形でマスドスタートさせたらこうなるだろうよ」
スタートラインから数十メートル離れたところで、茜がぼそりと言った。
「ねぇ、茜。こんな後ろからのスタートでいいの?」
隣にいる空が、不安そうな顔で訊く。ここからのスタートを提案したのは茜だった。
「いいんだよ。今回はマスドスタート方式(一斉にスタート)だが、ネットタイム計測を採用している。つまり、スタートラインを割った時のタイム差が、ゴール後の判定に影響するんだ。実質、個人タイムトライアルみたいなもんだぜ」
「えっと……つまりどういうこと?」
「例えば、アタイらが極端に、スタートから30秒遅れて出るとするだろう?それでゴールした時、アタイらはゴールしたタイムから最初の30秒を引かれる。つまり、アタイらと同時にゴールした選手がいたとしても、判定ではアタイらが30秒早く到着した扱いになるんだ」
「なるほど。それなら公平ですね」
巧が言う。もちろん、巧も同じ地点からのスタートだ。
「ただ問題は、いつ誰がスタートしたか分かりにくくなることだな。大会運営側は自転車に取り付けたチップを使って管理するみたいだが、アタイらにその情報は入らない。互角にデッドヒートしているつもりでも、実はスタート時のタイム差で大敗している可能性だってある」
「実際に見た着順と、大会評価の順位が違うかもしれないって事?」
「そうだ。もっとも、これだけ超長距離のレースになると、終盤で僅差の戦いが発生するのはレアケースのような気もするけどな」
「確かに……たとえば一日に3秒の差があったとしても、21日分積もれば1分以上の差になりますものね。あくまで単純計算ですが……」
巧が顎に手を当てて考える。昨日から剃ってない無精髭がジョリジョリする。
「まあ、そこまで単純じゃないかもな。あと、速い奴なら21日もかからずにゴールするかもしれないぞ。たった4000kmだし」
「え?そうなの?」
空が驚いた。もっとも、茜も実際に走ったことがあるわけじゃないので、ここは自信をもって答えることができない。
グランツールなどの大会なら、23日で3500kmなどが過酷な内容になるが、それはあくまで『区間』を設けて、一日の走行距離を制限するからだ。その制限がないなら、実際にかかる期間は予想しにくい。
「なんにしても、今回は『フライング禁止』以外の決まりがないんだ。自転車は漕ぎだしが一番遅いから、助走をつけてスタートラインを割った方がタイム的に有利なのさ」
これが、茜の考える『一瞬でも子乗せ自転車をトップにする方法』だった。
「でも、ほかの選手も気づいてきたようだね」
「確かに」
スタートライン手前で固まっていた集団が、少しづつ後ろに下がって間隔を開け始める。どうやら攻略法がバレたか、あるいは誰かが広めたようだ。
「まあ、今回セレモニースタート(助走)の位置は決まってないからな。各々が好きなようにスタートすればいいさ」
と、茜はまだ余裕の表情だった。
「能天気なものだな。ロードバイクの女よ」
黒いロングコートを着た20歳くらいの青年が、茜に話しかけた。
「誰だ?っていうか、よく言われるけどロードじゃねぇ。シクロクロスだ」
茜の目の前に現れたその青年は、少なくとも茜の知る人物ではない。
「俺か?俺は『漆黒の深淵……ダークネス・ネロ』だ。覚える必要はない。貴様らと並んで走ることもないだろうから、な……」
ニキビと青髭の目立つ顔を片手で覆ったダークネス・ネロは、くっくっと笑った。右手の甲にサンスクリット語の一文字が油性ペンで書いてあるのと、左手に指ぬきグローブを着けているのが特徴的だ。
「ネロさん。すごい自転車だね」
「おい、空。かかわる相手は間違えるなよ」
茜の静止を無視して、空はネロに近づいた。
「ほう……俺のマシンの良さがわかるのか。これが俺の愛車……『ノウェム・ラケーテ』だ」
「いい加減にしろ中二病。あとラテン語かドイツ語かどっちかにしろよ」
「そのツッコミができる茜も中二病だと……」
「空、黙ってろ」
図星を突かれた茜は一層不機嫌になる。
(それにしても、確かに空の言う通り、すごい自転車だ。誉め言葉ではないけどな)
その自転車は、元々はどこにでもあるシティサイクルだったのだろう。メーカーやブランドは判別できないが、シングルギアでダイナモライト搭載型。よくある1万ちょいのママチャリで間違いない。
ここからはネロ本人の趣向なのだろう。カマキリハンドルを45度くらいまで上げ、スポークの隙間ほぼ全てに反射板をつけ、前かごを外している。
つまり、中学生がよくやる改造だった。空たちの通う学校にも何台か、似たようなのがあった。
(問題は、後ろのペットボトルと、前の棒、だね)
空がまじまじと見る場所。後ろの荷台には、1.5リットルのペットボトルを9本束ねた物体が固定されている。ガムテープでぐるぐる巻きにされているが、炭酸飲料が入っていたもので間違いない。今は水が入っている。
そして車体前方には、長い棒が2本ついていた。かごを止めていた2本のねじ穴に、左右それぞれ1メートルほどの鉄パイプが、ほぼ垂直に立っている。いずれも意味が分からない。
「くっくっく……貴様らには分かるまい。俺のブラッディ・ブースターと、デモンズウイングの恐ろしさは、な……」
「確かに何を言っているか分からない、な……」
「茜。語尾がうつってる、な……」
言われた茜と、言った空が赤くなる。なんだかよく分からないけど恥ずかしい、な……
「とにかく見ているがいいさ。このダークネス・ネロ様の走りを、な……」
ネロはそう言い残すと、スタートライン際ギリギリを目指して進んでいった。アンテナのようにそびえたつ鉄パイプ2本がなんとも目立つ。
「あ、茜さん。空さん。今の方は?」
「ああ、ただの精神病患者だ。子供に愛義徒って名前を付けるお前と同類だよ」
茜は辛辣に言い放つと、ふと疑問に思ったことも、この際聞いておく。
「そういえば、空。あと巧さんも。エントリーネームってどうした?」
そう、この大会にはエントリーネームという、いわばニックネームのようなものがある。要は匿名で出場できるシステムで、ライダー自身の名前も自転車の名前も自己申告制になる。もちろん、本名を書く欄は別途あるのだが。
「僕は『ソラ』にしておいたよ。やっぱり他の名前で呼ばれると違和感があるし」
「だよな。アタイも『諫早・茜』で登録しておいた。そもそも匿名にする意味がないし、な」
「……」
空と茜の視線が、巧に集中する。巧はバツが悪そうに眼をそらした。代わりに口を開くのは、息子のアギトである。
「うん。おとーさんはねー。グレイトダディ&クールキッドっておなまえだよ。ずっとまえからきめてたの」
「そうか。さすが息子に愛義徒って名前つけただけの事はあるな。アタイには思いつかないぜ」
「むしろ、アギト君の名前が結構真剣に考えた結果だったことが解るね。僕もびっくりだよ」
「……変ですか?」
「「変」」
声をそろえて端的に言われた巧は、内心かなり傷つく。
スピーカーにノイズが走り、ミス・リードの声が会場に響く。
『さあ、いよいよスタートの合図が鳴りますよ。駐車場出口がスタートラインになります。フライングさえしなければ、何をしてもいいですからね。それでは、道路を挟んで反対側の信号機をご覧ください』
クリスマスツリーと呼ばれるタイプの信号機が、5つのランプを縦に並べている。ドラッグレースなどに使われるスタート用の機材で、自転車レースで使われることはまずないと思っていた代物だ。
この見た目だけでも、チャリチャンがいかに奇妙なレースか分かるだろう。
『このクリトリ……クリスマスツリーは、2秒ごとに一つずつ赤いランプが灯ります。つまり8秒カウントですね。スタートラインにはネットスタート用の機器がついていて、クリスマスツリーと連動しています。フライングした選手はレーダー判定で即座に失格ですからね。合図の前に発射なんて言語道断、一緒にイクのが最高ですよぉ』
なぜか上ずった声で言うミス・リード。
「おい、誰だよこいつに実況やらせたの」
「僕たちが走ってる間も、この感じで実況されるのかな」
「ねぇ、おとーさん。くりとりってなに?」
「……栗拾いだよ。とげとげで危ないから、アギトは知らなくていいんだよ」
そこらじゅうで咳払いのような音が聞こえる。スタート前からテンションだだ下がりだ。
『では、いよいよ開幕です。あ、私の膜は小学生の時に開膜しましたけどね。初体験は実の兄でした。それでは皆さん、健闘を祈ります』
クリスマスツリーに一つ目のランプが灯る。会場に低い電子音が響く。
この瞬間を、茜は待っていた。
「いくぞ!全員スタート!」
「「「おー!」」」
空がペダルを漕ぎ出す。茜がビンディングをはめ込む。そして、巧が電動モーターを起動させて、地面を蹴る。
当然まだスタートの合図は出ていないが、スタートラインより後ろなら、走っていてもフライングにならないはずだ。
「空、作戦は覚えているよな?」
「もちろん」
本来なら、ネットタイム方式で前に出る必要はない。ただ、それは正々堂々戦うつもりならば、の話だ。
今回、茜は走行妨害を企てていた。スタートで他の出場者より先に出て、空と一緒に蛇行する。そうすれば後続の車両は空と茜を抜きづらい。その間に巧が、まっすぐ走って差を広げる。ルール無用のチャリチャンならではの戦法だ。
二つ目のランプが灯る。
巧は、茜から教えてもらったことを思い出していた。
(最初は、軽いギアから漕ぎ出す。回転数(ケイデンス)を限界近くまで上げたら、次のギアへ切り替える)
内装三段変速の問題点は、変速できる幅が少ないことより、微細な変化を生み出せないことだ。2段目に上げると、急に重くなる。その前に速度を上げるらしい。
「おい、あいつら動き出したぞ!」
「なるほど、あれはフライングにならない計算か」
「我々も行きますか?」
「おちつけ。どうせネットタイムだ。必要ない」
周囲も、空たちの動きに動揺し始めた。様子を見るもの、動き出すもの、様々な考えをもって行動する。
三つ目のランプが灯る。
スタートダッシュからの走行妨害。それを企てていたのは茜たちだけではなかった。先ほどのママチャリの男――ネロも同じことを、しかし単独でやろうとしている。
(行くぞ。ブラッディ・ブースター……アウェイクン)
後ろに取り付けられた9本のペットボトル。これはただのボトルではない。ゴム栓とエアチューブを取り付けた加速装置。要するにペットボトルロケットだった。
CO2インフレーター(空気ボンベ)を、ホースにセットする。ボンベをねじ切りに押し込んで、ハンドルにタイラップで固定。あとは発射を待つだけだ。
(あいつ、何かする気か?)
茜もそれに気付くが、構わず速度を上げる。幸いにしてネロの両隣には若干の隙間が空いていた。きっとネロと会話をした参加者が、距離を置きたいと避けた結果だろう。
「茜さん。このままでいいですか?」
「もっとだ。もっとスピードを上げていけ!」
巧がギアをトップに入れる。この時点で電動アシストは機能停止していた。前輪のハブに仕込まれたスピードセンサーがアシストを停止。それでも、一度慣性のついた車体は減速することを知らない。
四つ目のランプが点灯する。
この時点で、巧の速度は35km/hを越えていた。ママチャリとしては異例の……まして子乗せ自転車で出せると思えない速度だ。
「おとーさん、すごーい。はやいねー」
「アギト。舌噛むから黙ってにゃしぃっ――!」
言わんことではない。
(このままなら、アタイらが先に行くこともできる。けどな)
茜は速度を少しだけ落とす。今回は巧をトップに押し上げるため、自分たちは後方でいい。
(本音を言えば、アタイが集団を率いてみたい気もしたけど、今日だけはくれてやる)
巧の乗るギュットミニDXの前輪が、スタートラインを越えた。
五つ目のランプが、灯る。その瞬間、すべての赤ランプが一斉に青に変わった。これまでの音とは違う、甲高いサイレンが響く。スタートの合図だ。
(フライングしたか……?)
と、不安になる巧だったが、今はそれを心配するより、全力でペダルを漕ぐ。これでフライングしていたら、今更どう足掻いても戻らない失態だ。それより大丈夫だった時の可能性を信じて、走る。
事実、軽くフライング気味ではあった。とはいえ判定はセーフだ。センサーの取り付け位置がサドル下面部であったため、前輪が出た時点ではスタートが計測されない。
速度は38km/hと、既にトップスピードに乗った状態からのスタートだ。
「空、アタイらも続くぞ」
「うん」
続いて空と茜が、ネロの隣をすり抜けていく。茜は一瞬、ネロと視線を合わせた。
(どうした?何か策があったんじゃないのか?)
(くっ……ロードバイクの女……この程度で勝ったつもりか)
声のない会話を行った二人とは裏腹に、空はまっすぐ前を見て走り去る。すでにネロなど眼中にない。
(あの空色の自転車の男も、気に喰わないな……)
まだペットボトルロケットは発射しない。タイミングを完全に測り間違えたネロだったが、事前に試していなかったので当然の結果と言える。
(アカシックレコードの計算が狂ったが、想定内の事象だ。俺の内なる力で取り返す)
ネロが普通にペダルを漕ぎ始める。と、その瞬間、前方に取り付けた鉄パイプが倒れた。
(しまった。デモンズウイングが起動!?まだ早すぎる)
デモンズウイングと名付けられてしまった2本の鉄パイプは、本来ならスタートダッシュで先頭に立った後、両サイドに広げる予定だった。要は追い越しを妨害するための装置で、左右にそれぞれ1メートルもの長さを持つ。
それが暴発したため、スタートの段階で車体のバランスが崩れる。当然だが、この装置に至っても実験を行っていない。思いつきのみの産物だった。
「ぐあぁ!」
「いってぇ!何しやがる」
「あぶなっ、よけるぞ」
「うわっ、寄ってくんなバカ」
結果として、横並びの参加者を殴りつけるように降りてしまった。頭上からの打撃という、自転車レースの常識を塗り替える初手。命中したものはバランスを崩し、最悪意識を失う。仮によけたとしても、他の車体とぶつかり、もつれるように転倒する。
さらに追い打ちをかけるように、ここでペットボトルロケットも噴出される。
「うわっ、冷てえ!」
「なんだ?前が見えない……うわぁ!」
後方からスタートした参加者が、視界を奪われ、パニック状態のままでスタートラインに近づく。ブレーキを掛けたら追突される。かといって走り続ければ前列の転倒に巻き込まれる。最悪のケースだった。
『ああーっと!スタートする前からトラブル発生。原因不明の事故と放水により、参加者の9割以上がスタートできません。そのうちの数名は大破。一方、運良く抜けた十数台を率いるのは、なんと子乗せ自転車?大番狂わせです。
ああ、一度にいろんなことがありすぎて、私、もう手も足も上の口も前も後ろもいっぱいです。らめぇ。私のなか、真っ白になっちゃうぅー』
言っていることと裏腹に、実況解説のミス・リードは状況を整理する。
複数の監視カメラ。用意した中継車。それらの映像を繋ぎ合わせてハイライトを作り、ネットの生放送に流しながらも、解説を行っていく。手元の資料でライダーの名前などを調べ、あいまいな情報ではなく、確定事項のみを選定。
『現在、転倒を誘発したのはエントリーナンバー634 漆黒の深淵ダークネス・ネロさん。スタート合図と同時に鉄パイプのようなものを左右に広げて停止。その後、後方に放水を行ったものと見られます。故意によるものかどうかは不明ですが、お顔にぶっかけられた人たちに怪我などはないようです。
なお、エントリーナンバー552 youtuberサイマルチャンネルさんが頭から出血。今、担架で運ばれて行きます。怪我の具合については不明。エントリーナンバー332 ベロニカさんがリタイアを表明。他にも早速電凸機能を使ってリタイア表明する人が増えています。こんなにいっぱい、私のおくちに出しきれないよぉ』
自分のキャラも忘れないように、下ネタを程よく入れつつ語るミス・リード。まさに神業であった。
つづいて、映像を中継車に差し替える。先頭集団を追うサイドカーのカメラが、中継に選ばれた。
『一方、運よくスタートで事故に巻き込まれなかった集団を率いるのは、エントリーナンバー880 グレイトダディ&クールキッドさん。親子での出場です。使用する車体は――ネオ・サイクロン11号と記載されていますが、おそらく私の見立てではパナソニックのギュットミニシリーズだと思います。あのチャイルドシートは……DXですね。
あ、ちなみにエントリーシートは自己申告制ですので、車体名が解らない場合や、こう呼んでほしいという要望がある場合はそっちに合わせますよぉ。ネオ・サイクロン11号。ヒーローみたいでかっこいいじゃないですかぁ。
おおっと、先頭集団にさらに動きがありました。2位タイについている二人の選手が蛇行運転を開始。あからさまな走行妨害です。えっと、こちらは……エントリーナンバー435 諫早・茜さん。同じくナンバー451 ソラさんですね。
茜さんは大きく片足を横に伸ばしながら蛇行。自らの美脚をアピールか、それとも犬になりきって放尿プレイに移行する気か?どっちでもいいからカメラ寄ってください』
「いや、寄るなよ。蹴り飛ばすぞ!」
茜が大きく体をうねらせながら、ハンドルを左右に振って威嚇する。片面フラットのペダルを生かして、左足だけでペダルを漕いで蛇行。右足を上下に振る仕草は暴走族のようである。
「今の茜、密着警察24時で見たことある」
「ああ、イメージとしてはそっちの方がよかった」
空の一言に茜が同意する。
空はバーエンドで円を描くようにハンドルを回して蛇行。ストレートバーハンドルの利点を最大限に生かしたスタイルで小回りを繰り返し、他の車体が近づくと、そこに向けてブロックにいく。
(へぇ。空もやるな。こんなに勝負度胸があったとは)
茜はそんな空の姿を見て感心する。普段は戦いを好まない性格の空だが、本気を出せば好戦的に動き回れるらしい。意外な一面だ。
後続の参加者たちも焦り始めているらしい。隙があれば空たちを抜こうとアタックをかけるも、妨害されてあえなく撤退する。
「おい、どうする?ブロックされるなんて想定外だぞ」
「普通は反感を買う真似は避けるんだが、ガキだからか……」
「でも、みんなで一斉に行けば、誰か一人くらい抜けないか?」
「その誰かのために何台犠牲になるんだよ?言うならお前が行け。そんで事故れ。そうすれば後続が走りやすい」
「冗談言ってる場合じゃねぇっす。このままじゃ後続に追いつかれるっす」
「後続は事故ったらしいぞ。それより、子乗せ自転車に独走される方が問題だ」
「――体力の消費の方が問題。巡行ペースが不安定」
空たちの後ろで、そんな会話が飛び交う。ロードレースにおいて選手同士が会話するのは日常茶飯事だが、チャリチャンでも同じことが言えるらしい。
「余裕だな。これならアタイらのリードも守れそうじゃないか」
「茜。これっていつまで続けるの?」
「ん、そうだな。とりあえず巧さんが疲れるか、満足するまでだ」
いずれにしても、長くは持ちそうにない。ブロックする方もまた、体力を大きく消耗するのだ。
一方、スタート地点でも動きが出ていた。各選手が状況を把握。スタッフの誘導も込みで、少しずつ動ける参加者が出てくる。
そんな中、一人の男性がロードバイクを担いで歩く。なるべく他の人や車体を踏まないように注意しながら……
「御免!押し通る」
その動きは、まるで踊っているようだった。無駄のない足さばきで、低く、しかし的確に足場を探しては、そこに着地する。軽やかなスニーカーの音が、本人の体重を全く感じさせない。
バイクもまた、軽やかだ。片手で持ち上げられたそれは、ひらひらと宙を舞うように振り回される。華奢なフレームに、スポーク本数をぎりぎりまで抑えたホイール。見た目からも軽いことが解る。が、それにしても見た感じ軽すぎる。まるで風になびく旗のようだ。
そのままスタートラインを越えた彼は、倒れこむ多くの人たちを跨ぎ、ようやく自転車を置く。音もなく着地した車体は、これまた音もなく跨がられて、発進する。
「いざ、参らん!」
次の瞬間、彼の自転車は一気に加速した。
たった数秒の間に、変速機をフルアウターに変更。先頭集団を追いかける。
『今、スタート地点から一台のロードバイクが発進しました。エントリーナンバー001 アマチ・タダカツさんです。スピードガンの測定は……え?72km/hって……何かの間違いじゃなくて?』
ミス・リードの実況にも、困惑の色が見える。
『ええっと、タイムはスタートから98秒遅れ。先頭集団からはだいぶ離れていますが、これもネットタイムで計測します。センサーの感度はいいようですねぇ。ビンビンに感じちゃう』
あっという間に見えなくなるロードバイク。そして、
「おっと、動くなよ、虫けら」
もう一人、はるか後方から、真っ黒なMTBが出てくる。
いやに勢いよく、スタート地点に向けて走ってくる車体は、フロントサスペンションをフルに使って……
「ぐあぁあ!」
「や、やめろバカっ――あああああぁぁぁ」
転倒していた人たちを踏み潰した。
「寝ているお前らが悪い。ビンディングシューズだか何だか知らないが、ペダルから外れないなら脚ごと斬り落とせばいいんじゃないか?くぅ――はははっ!」
不気味に笑ったMTBの男は、人も自転車もお構いなしに乗り越えていく。転倒していた人の腕を潰し、その場に放置されたクロスバイクのディレーラーハンガーを折り、すべての元凶である鉄パイプを踏んで、スタート地点を越える。
「お、俺のノウェム・ラケーテがぁぁ!」
デモンズウイングを踏まれたことにより、ノウェム・ラケーテ本体が倒れる。衝撃で自転車に搭載されていた数々のガラクタが飛び散り、酷いありさまだ。
『もう一人スタートした模様です。エントリーナンバー049 デスペナルティさん。そのサスペンションをフルに生かした走りで、人間を容赦なくひき潰してスタートです。これ……一応事故ですよね?……私、エッチは好きですけど、グロ系は嫌――』
デスペナルティというエントリーネームの男は、何事もなかったかのように走っていく。後ろを振り返ることはない。
「お、俺のマシン……俺の、最強の……ノウェム・ラケーテが……」
しばらくその場に立ち尽くしていたネロは、無残に壊れた車体を見つめていた。行き当たりばったりの改造とはいえ、本人なりに懸命にカスタムした車体である。
24歳独身で無職。しかし自分には何か特別な才能があるに違いない。そう信じていたネロにとって、チャリチャンは自身の能力を見せる絶好の機会であった。
一応だが作戦もあったし、本人曰く勝機もあった。だからこそ、何もできないまま、むしろ何もできない方がましとさえ思えるような醜態をさらしたまま、すべてを失ったネロは、行き場のない怒りをその辺にぶつけることにした。
「ああああああ!」
要するに、その辺に転がっている自転車を持っては、放り投げ、叩きつけ、壊す。いらだちを解消するために手近なものに当たる。最悪の八つ当たりである、
「何してんだテメェ!」
「こいつ、いい加減にしろよ」
「さっきのMTBといい、人の邪魔ばっかしてんじゃねーぞ!」
当然、周りの参加者たちの怒りもネロに向く。スタート時点から奇抜な走行妨害だけを行ったと思ったら、急に暴れだす不審者。周囲から見たネロはそう見えた。
スタッフたちが、慌ててネロを取り押さえる。すでに一部の選手たちはネロに暴行を加えており、乱闘騒ぎになっていた。
『皆さん、落ち着いてください。お願いします。暴力はやめてください。せめて自転車で勝負してくださいよぉ。け、警察呼びますよぉ。周りの選手に乱暴はやめてください。私に乱暴していいですから。エロ同人みたいに。エロ同人みたいに!』
ミス・リードの呼びかけは、その場にいる誰にも届かなかった。
「くそ――覚えてろよ!ロードバイクの女。空色の自転車の男。それから子連れのおっさんと、最後の壊し屋ぁ!貴様らの顔は覚えた。必ず借りは返すからなぁ!」
ネロの叫びもまた、群衆に取り押さえられて消えていく。実際に誰かが警察を呼んだらしく、付近にいたパトカーが、コースと逆方向から近づいていた。
「……なにやってんだ?あいつは」
スタート地点から1kmほど離れたところで、茜がつぶやいた。茜の耳にはBluetoothヘッドセットがついており、ミス・リードの実況が常に聞こえている。
「これって、自転車レースだとよくあることなの?」
同じくヘッドセットで聞いていた空が言う。後ろを振り向いても、もうスタート地点の様子は見えない。
「いや、こんなレースは前代未聞だろうよ。アタイも聞いたことがない」
「できれば空前絶後にしてほしいよね。絶後に」
話している間に、後ろに一台のロードバイクが追い付いてきた。きっと先ほど中継に出ていたタダカツという人物だろう。
「ほら、またブロック行くぜ。空」
「うん」
空と茜が、蛇行しながら警戒する。このせいで他の人たちも、いまだに一台も抜けてない。
そんな中……
「覇ぁっ!」
タダカツが一喝する。その迫力に、空が怯んだ。
(え?何、これ……)
単なる驚きとも違う、あえて言うなら殺気が、空の背筋を通る。今までの自転車と違う。妨害をするのが怖い。そもそも前を走っているだけでも、押しつぶされそうなプレッシャーだ。
「押し通る!」
タダカツが近づいてくる。通しちゃいけない。頭では解っていて、でも体が動かない。ハンドルを握る手に汗が染みだす。ようやく温まってきた体が急激に冷える。怖い、怖い、怖い……
ついに、タダカツに並ばれてしまった。こうなっては、妨害のしようがない。
意識さえ失いそうな空に、速度を落としたタダカツが言う。
「汝らが策略、見事なり。卑怯などと罵りはせぬ。胸を張るがよい」
言い終えた後、ケイデンスを上げ始めたタダカツは、そのまま彼方へ消える。
「大丈夫か、空?」
「あ、茜……?」
ほんの一瞬だけだが、空は意識を失っていた。パッと目を開けた空の前には、多くの自転車が走っている。
「僕、抜かされちゃったのか。ごめん」
「いや、いい。そろそろ潮時だったしな」
茜の言う通り、巧の乗るギュットミニDXも、速度を落としていた。もうペダルを漕ぐ力を使い果たしたようで、そのまま後ろに下がっていく。
「空さん、茜さん。ありがとうございました。おかげで、とてもいい思い出ができました」
「ありがとー」
巧とアギトが言う。茜はそれを追い越しながら、返事代わりに手を振った。
「さて、空。アタイらも行くか」
「え?どこへ」
まだ少し寝ぼけているらしい空の背中を、茜が思いっきり叩く。
「優勝争いだよ」
ギアを上げた茜は、入れ替わった先頭集団についていくために直進する。
「うん。そうだよね」
楽しまないと損だ。空はペダルをさらに速く回す。
まだまだレースは始まったばかりで、ようやく本番と言ってもいいくらいなのだ。
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