第42話 フリーライターとフォールディングバイク
茜と無事合流した空は、ゆっくりと夜の町を巡行していた。
「未来、か……あんな自転車が、たくさん走ってるのかな」
「おいおい、空。まさか信じているのか?」
考えてもみれば、ただの錯覚だったかもしれない。あるいは疲れていて勘違いをしていたのか、幻でも見たのか……
夢うつつな中でも、レースは進行する。
『さあ、大会14日目も終わりが近づいていますねぇ。
やはりトップはエントリーナンバー001 アマチタダカツ選手。2日前にトップを取り返して以降、やはり誰にも前を走らせません。
なので私も前からまじまじと見たことが無いのですが、やはり身体が大きいと、アッチも大きいんでしょうかぁ?
それを追走したのは、エントリーナンバー360 ミハエル選手。結果として追い抜けなかったばかりか、無理をしてコーナリングで落車ですぅ。
ここぞという時に冷静なミハエルさんらしくもない結果。もし溜まっててイライラしていたなら、いつでも言ってくださいねぇ。
おっと、こちらではエントリーナンバー079 赤い彗星選手と、同じく659 サファイア選手、661 エメラルド選手が並びましたぁ。こうしてみると色鮮やかですねぇ。ポケモンみたい。
そういえば、去年はポケモンGOが流行りましたよねぇ。私も何回か、夜の草むらでポケモンマスターにゲットされてましたぁ。マスターと名乗るだけあって、彼らのポケットの奥のモンスターは立派でしたよぉ』
ミス・リードは相変わらず下品だが、きちんと状況も伝えてくれるので聞かないわけにもいかない。空と茜はお互いにイヤホンをペアリングし、スマホから聞こえる声を聞いていた。
すると、茜のスマホにメールが届く。
ピロリン!
「お、メールだ」
「茜に!?」
「おい待て。何だその反応」
「え、いや。学校でも友達いなかったでしょ?だから、ちょっと気になっちゃって」
「アタイはお前にそう思われていた事の方が気になっちゃったよ!?」
まあでも、事実ではある。
「で、誰から?」
「ああ、これは……」
『差出人 ニーダ
件名 おねがい(>人<)
やっほーあかね(≧▽≦)お久しぶりーっ
レース中でいそいでるとおもうんだけど、ちょっと頼みたいことがあるの
私の知り合いで、あかねと、そらくん(彼ピッピ?)に会いたいって人がいるんだー
会ってくれないかな?場所と時間はそっちにあわせるから
おねがい。このとおーり(>人<)
(>人◕)チラッ』
「……ニーダからだ。待ってゴメン。アタイの中のニーダが音を立てて崩れていくんだけど」
「ニーダさんって、確か先週キャタピラー使ってた人?」
「ああ、こんな喋り方する奴じゃなかったと思うんだが……」
メールだとキャラの変わる奴である。
「とにかく、その『アタイらに会いたい人』について詳しく聞かないとな」
茜はメールを打ち返す。そのフリック入力の手つきは全然慣れていなかったが、文面はいつもの茜らしいものだった。
返ってきたメールによれば、ニーダが紹介したい相手とはフリーライターであるらしい。なんでも、チャリチャンの注目選手である茜と空に、是非とも取材を申し込みたいと言ってきたのだ。
「アタイらが取材ね……まあ、いいけどさ」
のろのろと自転車を漕ぎながら、茜が曲がる。この交差点からコースアウトだ。
「なんだか緊張するよね」
もちろん二人は断ったのだが、意外にも熱意あるニーダの(文面を除けば)真剣な頼みに、ついには『はい』と答えてしまった。
今、茜たちはコースから1kmほど離れたネットカフェに向かっている。取材を受けるついでに、今日はそこに宿泊しようという計算だ。
「それにしても、ニーダは順位近いんだっけ?」
「うん。ミス・リードの話だとほんの少ししかタイム差が無いって言ってたし、もしかしたらすぐ来るかもね」
「――すぐ後ろ」
「「うわぁっ!!」」
いつの間に、といえば本当にいつの間に接近したのか、二人のすぐ後ろにニーダがいた。29×2.1inタイヤが、それなりの大きさのロードノイズを立てている。会話に夢中になっていたので気づかなかった。
「おお、ニーダ。久しぶりだ。元気そうで何よりだぜ……もしお前が見たこともないようなガーリッシュスタイルで出てきたらどうしようかと思ったよ」
「――?」
ニーダの服装だが、いつもの防寒ジャージにMTB用のバイザー付きヘルメット。ボサボサのセミロングヘアーと、化粧っ気のない真っ白な顔もいつも通りだ。茜の知るニーダで間違いない。
自転車乗りにしてもやせ型の体系と相まって、まるで幽霊のようである。平坦なウィスパーボイスは、北風に溶けて消えそうだ。
「ん?ところでニーダ。そっちの男性は?」
茜が訊く。ニーダの隣にもう一人、自転車に乗っている壮年の男性がいた。
折り畳み式自転車のリアキャリアに小さなカメラバッグを積んだその男性は、
「――私の彼ピ」
「違いますよ!?」
ニーダが紹介して、すぐに男性本人によって否定される。
「――彼ピッピ」
「それも違います」
「――いけず」
どうやら、ニーダの想い人のようである。まさかこんな歳の差恋愛とは、人は意外……と決めるのは早い。なぜなら、男性側は照れ隠しなどではなく、本気で拒絶している。
その男性が、ようやく自己紹介してくれた。
「私は、フリーライターの
「――改めて自己紹介。私は
茜とは久しぶり。空とは初対面になる彼女が言う。
「あ、えっと、
「茜だ。
自転車に乗りながらの自己紹介というのは、すっかりチャリチャン選手の間で日常になりつつある。そして、その挨拶についてくる信二という男も慣れたものだ。
「なあ、信二さん。なんで自転車で来てるんだ?まさか選手も兼ねてるとか言わないよな?」
「いえいえ、まさか。私はただ、取材をするにあたって様々なことを知りたいと思っていたのですよ。例えば、選手の皆さんと自転車で走るのはどれだけプレッシャーなのか、とかですね」
「ふーん」
茜は相手を観察する。
信二は……細身の身体ではあるものの、それなりに歳をとっていることが分かる。首元には皺が目立ち、手の甲には血管が浮いている。
自転車用ジャージも新品で、この大会の取材用に買いましたと言わんばかりだ。
しかし、それでも茜たちの巡航速度についてきていた。
(生意気な記者だと思ったけど、言うだけのことはあるな)
通常、折り畳み式自転車は速度が遅いものである。畳むためのヒンジは重量が重いし、16inしかないタイヤは1回転で進む距離が短い。それでもこうしてついてくるという事は、それだけ地力がしっかりしているという事だ。
「その自転車、なんて名前なんですか?」
空が訊く。何しろ、それは今まで見てきた折り畳み式自転車と何か違う雰囲気を感じる車体だったからだ。
「この車体は、
中央が濃紺のスチールフレーム。しかしフロントフォークと後ろ半分は銀色だ。前後にバッグを取り付けていることもそうだが、何より目を引くのはハンドルである。
「そのハンドルって……?」
「こちらは、Pタイプハンドルと言いまして、ブロンプトン社が独自に開発したものらしいです。こうして自由に姿勢を変えられるんですよ」
中央のステムからやや下がり気味に伸びたそれは、真上に折り返してからもう一度内側に曲げられている。その端にはブレーキレバーがあり、ずいぶんとアップライトな姿勢で乗るタイプのハンドルだった。
「――とりあえず、合流地点へ」
「あ、そうですね」
ニーダに言われて、とりあえず本来の待ち合わせ場所であるネットカフェへ移動する。いや、移動自体は話しながらずっとしていたのだが、お喋りを中断してでも急ごうという意味だ。
「それでは、私は皆さんのペースに合わせます。もし遅れることがありましたら、お先に入っててください」
そう言った信二が、しかし何気に速い。
ハンドル左側のトリガーシフターを使って、リアディレイラーを動かす。これまた珍しいことに、リア2速しかついていない小さな変速ギアだ。さらに右側のシフターを使って、内装3速を変速。
フルアウターとなったブロンプトンは、空たちの巡航に充分ついてくる。
「変速ギアか。一見すると解らないな」
「ええ、茜さんが言う通り、こちらは相当目立たないタイプのギアになっております。何しろ折りたたんで持ち歩くので、複雑な調整が必要な多段変速は使いにくいのですよ」
「納得だな」
リアだけで10段あるTiagraを使っている茜は、自転車を電車の中などに持ち込む場合、ディレイラーをぶつけないように気遣う。しかし外側にたった2速しかないなら、その問題はあまり気にしなくていい。
プーリーもチェーンを折り返して下に伸びるものではなく、一見するとただのチェーンテンショナーのように前に伸びている。これだけ小さなプーリーでも、たった13-15T程度であれば事足りるわけだ。
「これ、意外と細かい変速が出来るので気に入っているんです。ロード用ほどではありませんが、変速幅も広いですからね。軽い坂道くらいであれば自由に移動できます」
「へぇ。アタイは初めて見たな。shimanoじゃないみたいだが?」
「ええ。Sturmey-Archerというブランドのギアです」
「……ああ、あれか。うんうん」
何やらそれっぽく頷いた茜だったが、実は知らない。
(とりあえず、アタイらに取材って話で来ているわけだからな。ちょっとくらいはレーサーらしい走りを見せた方が良いか)
そう思った茜は、空に持ち掛ける。
「よし、それじゃあネットカフェまでアタックしようぜ。空」
「え?速度を上げるの?」
「ああ。別に競争しようってわけじゃないさ。ただ、アタイらの走りを見せてやろう」
ドロップハンドルの前の方を握った茜は、肘を曲げて前傾姿勢をとる。背中を丸めてペダリング。ギアを上げての急加速。本気だった。
「あ、もう。仕方ないなぁ」
空もそれに続く。フラットバーであるにもかかわらず、肘を限界まで曲げてのエアロポジション。普通なら腕が痛くなるところだが、しなやかな関節とがっしりしたインナーマッスルに支えられた空は、これを可能にする。
腰を寝かせたまま、ペダルを高速回転。
そうやって信二たちを置いてけぼりにしようとする二人を見て、ニーダがぼそりと言った。
「――信二。もしかして、追い付こうとしている?」
その問いに、信二は両手を上げて答える。
「え?ああ、バレましたか?」
「――いいよ。先に行ってて」
「では、ニーダさんとも後で合流しましょう。お先に失礼します」
信二の乗るブロンプトンは、これ以上ギアが上がらない。だからこそ、姿勢とケイデンスで勝負する。
独特なハンドルの横を握った信二。こうしてみると、まるでドロップハンドルを握っているような姿勢である。やや手前すぎるのは仕方ないが。
「年甲斐もないですが……ふっ!」
その独特なハンドルは、簡単に前傾姿勢を取らせてくれた。腰を後ろに突き出した信二は、先ほどのママチャリみたいな姿勢から、急にロードのような姿勢になる。
ケイデンスは、150ほどまで加速。十分に茜たちを追従する。
「あ、信二さん、追い付いてくる」
「嘘だろ?あの車体で?」
空がミラーで確認した。それを聞いた茜は加速しようとするが、スマホのナビアプリは全く違うことを言う。
『この先の信号。左です』
(もっと早く言えよ!)
ブレーキレバーを指2本で軽く握って、タイヤをロック。茜の機械式ディスクブレーキは、たかがこの程度の力でもフルブレーキになる。もっとも、下ハンドルを握っていれば、だが。
「わ、わわわっ」
困ったのは空だ。Vブレーキは急制動をかけるのに、やや向いていない。それ以上に、たった28mmしかないタイヤ幅ではグリップも稼げない。それでも体重を後ろに乗せた空は、前後両方のブレーキを強めに握って止まる。
そのまま体重を内側に倒してコーナリング。道路いっぱいいっぱいまで膨らんだまま、茜を外から抜かす。
「おいおい。ここはチャリチャンコースじゃないんだぞ。そんなに膨らんで、もし対向車がいたらどうすんだ?」
「ゴメン、茜。いきなりだったから、僕、どうしていいか分からなくて……」
右に膨らみながら左折した空に、茜が近づいて説教する。そのさらに左を……
「いやー、今のは冷や冷やしましたね。やはり、レースに慣れてしまうと、このようなギリギリの走りはお手の物ですか?」
信二が、さらりと並んで走っていた。ついに後ろから並ばれてしまったのだ。
「な、なんでお前、コーナー後の立ち上げで追いついてんだよ」
茜が訊けば、信二がさらりと答える。
「ああ、そもそもコーナーで速度を落とさなかったんですよ。お二人のような700Cタイヤと違って、こちらは16inですから、小回りは利きます」
ハンドルの一番下――ステムから横にせり出した部分を持った信二が、腕を使ってひきつける。いちいち変速ギアを軽くする必要もないと判断したのだろう。それで力任せに加速する。
「ずいぶん、自由度が高い車体だな」
「ええ。直進安定性や持久力では、他の車体に見劣りしますけどね。とてもバランスの取れた車体だと思っています」
マンホールが近づく。これを、信二は普通に乗り越えた。
ガタタン!
16inしかない小さなタイヤでは、大きな衝撃になってしまった。タイヤの小ささは小回りを生み出す反面、走破性と直進性能で見劣りする。
「だ、大丈夫ですか?信二さん」
空が心配した。今のは空でも避ける段差だ。しかし信二は笑う。
「ええ。大丈夫です。元々サドルが少し低いので、両足を曲げて衝撃を殺せるんですよ」
「あ、そっか。僕のエスケープだと、サドルが高いから脚を曲げられないけど……」
「ええ。これもブロンプトンの利点ですね」
それでも、フレーム強度が低いと言われる折り畳み式だ。
「フレームは、大丈夫なんですか?」
「ええ、大丈夫です。ブロンプトンにも様々なモデルがありますが、私の乗っている車体は、フロントフォークと後ろ半分がチタン合金なんですよ」
「チタン!?」
「ち、チタン合金だと!?」
ヒーローものの特撮などでも設定集に出てくる、チタン合金。それは空や茜にとって、SF系の金属に近い認識だった。もちろんそんな自転車フレームがあると聞いたことはあるが、実際に目にする機会はほとんどない。
「ははは……やはり、折り畳み式の強度不足は深刻な問題ですからね。メーカーごとに、材質などを強化して対応しているものです」
当然とばかり言う信二に対して、茜と空は認識を改めるのであった。
「あっという間についたな」
ネットカフェの駐輪所に、おのおのがそれぞれの駐輪方法で自転車を置く。
空はいつも通り、エスケープの純正キックスタンドを使って立てる。
茜は、いつもならスタンドのないクロスファイアを壁に立てかけるのだが、今日はニーダの車体と並べて、もたれ合わせていた。
こうしてお互いに寄り掛かるようにすれば、スタンドのない者同士で駐輪できる。ただし、翌朝の出発は一緒にしないといけなくなるが。
そして、信二は……
「よいしょっと」
ブロンプトンの後ろ半分――チェーンステーやシートステーをつなげた三角形を、下方向に折り曲げる。横ではなく、まっすぐ下に、だ。
今まで荷物を積んでいたキャリアが、後輪の下に潜り込む。それが地面につくことで、スタンド無しでも垂直に自立する。折り畳みの機構をそのままスタンドとしても使う設計だ。
「すごい構造ですね」
空がそれを見て目を輝かせた。
「ええ、そうでしょう?私も初めてこれをロンドンで見た時は、目を奪われました。もう20年も前ですか……」
「そ、そんなに前からあるんですか?」
「ええ、もう30年くらい前から、形を変えていないと聞きます。こうして後ろ半分を縦に折りたたむのは、チェーンが横に曲がらないから、そのためでしょうね」
「ああ、なるほど……」
続いて空が見たのは、フレームの前半分。ブロンプトンが『メインフレーム』と名付けている部分である。
「ここにもヒンジがありますけど、これは横に折れるんですね」
「ええ。そうですね。一般的なフォールディングバイク同様に、ここは横に折れます。つまり、3つ折りになるんですね」
今は折りたたむ必要は無いのだが、せっかく興味を持ってくれた空に対して、信二は最大限の謝礼をすることにした。つまり、実際に折りたたんで見せる。
「こうやって、さらにハンドルも斜め横方向に倒します。すると、ここまで小さくなるんですよ」
そのサイズは、空たちが乗っている自転車の車輪ほどしかない。右に折れたフレームは、そのままチェーンやディレイラーを守るよう設計されている。そうして二枚重なった車輪の横に、先ほどの奇妙なハンドルがやってくる。
「あとはこうしてサドルを下げれば、コンパクトに持ち運べます。ちょっと大きめのバッグでもあれば、ひょいと入れて輪行できますよ」
「うわぁ。凄い」
「おほめにあずかり、光栄です」
ブロンプトンから外したリアバッグを背中に背負い、フロントバッグを肩にかける信二。そして荷物を外されて折りたたまれたブロンプトンと、その周りをくるくると回る空。
「あ、これ、キャスターもついているんですね」
空が見つけたのは、今は地面についている荷台の端にあるキャスターだった。
「ええ。これ、じつはサドルを伸ばして持ち手代わりにすると、本体をこのまま引っ張れるんです」
信二もやはり、自転車好きの例に漏れないのだろう。自分の自転車を自慢するときに生き生きとする。
「こうしてキャリーバッグのように持ち運べるのも、この子の特徴です。もっとも、荷物はつけられないのですけどね」
「いや、それでも凄いです。スタイリッシュと言うか、スマートと言うか……」
「はははは。イギリス人は、こういうところにこだわりますからね。このまま鉄道などに乗せられればスマートなのですが、JRだとどうしても『バッグに入れてください』と、言われてしまうのですよね」
「あ、これ、ペダルも折りたためるんですね」
「ええ。左側だけですけどね。右ペダルはハンドルの隙間に突っ込んでおけば邪魔にならないので、外側に張り出す左だけ、折りたためるようになっています」
「へぇ。あ、こっちは――」
「――空、楽しそう」
「やれやれ……これじゃどっちが取材を受ける側か分からないっての」
結局、ネットカフェのグループ用ブースをとって、取材が始まったのは15分ほど経ってからだった。
「いやー、私としたことが、取材をお願いしておきながら忘れるところでした。失礼しました」
空の質問にほぼ全て、実演込みで答えていた信二は、それでも全く疲れのない顔で言った。
よほど喋るのが楽しかったのだろう。フリーライターなんてやっているくらいだから、知っている情報を提供するのが好きなのかもしれない。
「アタイはすっかり体が冷えちまったよ。うう、さっぶ」
と、茜は身震いする。駐輪所でずっと話に付き合わされていたのだから無理もない。今はブランケットを借りて、ほぼ全身を包まれながら温かいコーヒーを飲んでいる。
「――それじゃあ、私は席を外すから」
「ええ、ニーダさんも、このあと取材させてくださいね」
「――いいよ」
退席したニーダを見送った信二は、「さて」とボイスレコーダーを置き、メモを取り出した。
「ああ、そんなに身構えないでください。普通にしゃべっていただければいいんですよ。なんなら、空さんも敬語など使わないで、いつも通りに喋っていただければと思います。はい」
信二が言うと、空は緊張した面持ちでうなづいた。一方、茜は特に態度が変わらない。
(さて、それではあまり緊張していない茜さんの方に、他愛ない話から振ってみましょうか。空さんもお友達が普通にしゃべっていれば、緊張をほぐしてくれるでしょうからね)
仕事柄、メモやレコーダー、場合によってはカメラなどは使わざるを得ない。しかし相手に緊張を与えたくはない。できれば自然体を見たいのだ。だからこそ、信二はあの手この手を使う。
実は自転車を持って取材に来たのも、選手と同じ目線に立つことで気持ちを近づけようという作戦込みだったりする。もちろん趣味と実益を兼ねているが。
「そう言えば、茜さんはとても薄着ですね。寒くないのですか?」
「あ?寒いよ。主にお前らが外でずっと喋ってたせいで」
「ああ、いえ。それはすみませんでした。そうではなくて、走っている最中に寒くないのかな、と……」
「ああ、それか。動いていれば寒くないよ」
と、茜は答えたが、かなり無理のある格好である。この真冬であれば、空のようにコートや帽子などのフル着用が前提になってくる。最低でもニーダのような防寒ジャージを使うべきだろう。
なのに、茜の格好は夏用ジャージだ。一応グローブとシューズカバーは完備しているが、腕も脚もむき出しのそれは冬場の格好ではない。特に、風を受ける自転車にとっては。
「茜って、学校でも薄着だよね。すぐ半袖ジャージになるし」
と、空が会話に乗ってくる。
「おや、茜さんは普段もそのような恰好なんですか?」
「ん?ああ……そうかもな」
「衣替えの時期を過ぎても、ギリギリまで夏服だよね。学校でも変な子扱いされてたよ」
「そうなのか?アタイが?」
「うん」
信二はこの話題も、メモに残す。今回の大会は自転車ファンだけでなく、素人たちも注目しているのだ。ならば、素人が知りたいような『選手のプライベート』にも迫りたい。そんな狙いがあった。
それから話題は何度か切り替わり、自転車のこだわりの話や、毎日のように誰かに勝負を仕掛けている理由。それから強敵は誰だったか、などなどにも触れた。
そして、今は茜が大会に出場した理由について――
「――と、いうわけで、遊び半分、両親の説得半分ってところだよ」
暖房の利いた部屋で話しているうちに温かくなってきたのか、茜はブランケットを隣の椅子に畳んでいた。見ている信二としては、やはり寒そうに見えてしまう格好だ。
「なるほど。優勝すれば、ご両親はプロレーサーの道を許してくださると?」
「いや、そんな約束を明確にしたわけじゃないんだけどさ。多分あの親父なら許してくれるんじゃないかって、希望的な賭けだよ」
考えてみれば、ずいぶんと不確定要素が多いうえに、成功してもあまり割のいい賭けとは言えない状況である。こんなことをしている間にも、茜の未来のライバルたちは優秀なトレーナーの元で訓練をしているのだろう。それも、幼少期から……
「アタイは、止まってる場合じゃないんだ。行けそうな道があるなら、それがどんな悪路でも走るだけだよ」
その、ある意味で純粋な意思を、信二は好ましく思った。なんて若くて、なんて格好良くて、そして……
(なんと、世間が好みそうな話なのでしょうね)
14歳女子。注目選手。夢はプロレーサー。まずは両親の説得から。
見出しに使えそうなワードは次から次へと湧いて来るのだった。もっとも、
「両親に内緒という事は、大会中はあまり騒ぎ立てない方がよろしいでしょうか?」
と、配慮くらいはしておく。
上からのノルマが課せられる専属ライターと違い、信二はフリーライターだ。出来高制で報酬を貰うだけなので、記事の差し替えも仕事の拒否もお手の物である。このあたり、世間で『マスゴミ』などと呼ばれる一部の報道機関とは一線を画す。
そんな立場をプライドとしている信二は、相手の嫌がる取材などを一切しなかった。取材対象に寄り添った取材で、コネを作ってじっくり追いかける。それが長年フリーに留まる彼のモットーだ。
一方、茜は、
「いや、報道してくれていいぜ。アタイのことはいくらでも書けよ」
あっけらかんと、それを許可した。願ってもない申し出に、信二の喉が鳴る。
「い、良いんですか?」
「ああ。兄貴が言うには、両親は自転車の話題に無頓着だそうだからな。たとえネットニュースの注目記事に出てきても、サムネにアタイの顔が映ったりしなければ開かないだろうさ。そもそも、俗世間に興味ないみたいだし」
「はあ……では、お顔を記事のトップにすることは控えるという事で?」
「ああ、頼む」
「空さんは、何か目標があってこちらに?」
信二が向きを変えると、空は苦い顔で笑った。『ついに訊かれてしまった』と言いたげな表情だ。
「い、いえ。えっと、自転車が好きで、茜に誘われたから……」
「アタイも、一人じゃ心細かったからな。それにコイツ。実力は確かなんだぜ。チーム戦の方が有利なのは、ロードバイクじゃお馴染みの戦法だしな」
「あ、あれ?そこまで考えて僕を誘ってたの?」
誘われたとき、単に『思い出作りだ』と言われた記憶のある空は、てっきり自分の実力に興味なんかないものだと思っていた。
「いや、いくら何でもアタイが足手まといを誘うわけないだろ。お前だからだよ」
「え、えへへへ」
とろけるような笑みを浮かべる空。なんとなく存在感の薄い少年だと思っていたが、茜にここまで言わせて、さらに相棒として走ってきた彼に、信二は興味を向け直した。
「それでは、空さんはどういった目標で、この大会に?」
と、信二がいろいろな期待を込めて聞く。それに対しては、
「ええっと、せ、精いっぱい、楽しみたいです」
と、少し期待外れな答えしか帰って来なかったのだが。
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