第43話 笑顔の少年とファニーバイク

『さあ、レースも15日目。おはようございます。ミスリードですぅ。

 まだ少し早い時間ですが、既にレースは動いていますよぉ。噂の中学生コンビは、朝早くから既にニーダ選手と一戦交えてますぅ。

 結果は先ほど出ましたぁ。茜選手がトップでゴール。それに次いで空選手もゴールしておりますねぇ。ニーダ選手は昨日の疲れが抜けていなかったのか、トレイル交じりのコースだったのに敗北ですぅ。

 と、こ、ろ、で……空さんたちは昨日ゆっくり休めた様子でしたが、ニーダさんに疲れが残っているのは何故なんでしょうねぇ?昨晩、誰と何をしていたんですかぁ』


「――何もしてない」

 否定したニーダ。その目の前には、もう空も茜も見えなかった。

 疲れが取れていないのは事実である。しかし、それを顔に出したつもりはない。よくニーダが言われるのが、『不気味なほど無表情』という評価である。それをうのみにするなら、

(――ミス・リード。カメラ越しの情報しかないはずなのに、私の疲労度まで実況できるその実力、侮れない)

 昨晩は信二の取材が長引いたため、睡眠時間を削ってしまった。それは事実だが、宿泊したネットカフェ内部での行動までミス・リードに見られているとは思えない。


「――?」

 後ろから、何かが迫る感覚を察知した。ニーダが振り返ると、そこにはずいぶん前傾姿勢をとって走る青年がいる。

「――ミニベロ?……いや、違う」

 ニーダはなんとなく速度を上げるため、ギアを上げる。ここで抜かされても問題ない相手だと思ったが、一応簡単に抜かれる気はない。

 しかし、相手はあっさりと追い付いてしまった。

(――速い!)

 驚いたニーダの真横で、相手はわざと減速する。前傾姿勢のまま、お尻を後ろに下げるようにしてブレーキ。重心を後輪に乗せながら減速する。

 目深にかぶったゴーグル付きヘルメットのせいで、相手の顔は分からない。

「ねえ。お姉さん。もしかしてニーダさんって、キミかな(?)」

「――そうだけど」

 ぱっちんと指を慣らした相手は、にたりと笑った。

「ビンゴ(笑)。それじゃあ、この先に噂の中学生コンビ( )もいるんだね。オレちゃんツイてるーっ」

「――?」

 ニーダが何を言えばいいか迷っていると、相手はサドルから腰を浮かせた。もう用事はないとばかりに、一瞬で加速する。

「それじゃーねー。ニーダちゃん。俺ちゃんちょっと中学生コンビに勝ってくるよ(笑)」

 彼の後輪が砂ぼこりを巻き上げ、ニーダの視界を奪う。

「――っ!?」

 目を開けた時、相手はもう彼方にいた。




『さあ、今日も順位が掻き乱れてきましたよぉ。その中心にいるのは、エントリーナンバー720 Mr.ファニー・フェイス選手。当初は色物だと思われていた人物だけに、後半での追い上げがじわじわ話題の選手ですねぇ。

 ちなみに、自分からミスターって名乗っちゃうあたりに親近感を感じますぅ。私も自らミスを名乗ってますからねぇ。

 そんな彼が、噂の中学生コンビに追撃ですぅ。接近ですぅ』



「追撃?」

 茜が振り返る。確かに後ろから、妙に前傾姿勢すぎる自転車が追いかけて来る。

 その速度は、およそ70km/hほど。茜たちの倍以上の速度だ。

「いやっほーい!(挨拶)。茜さんと、空さんだよね(?)俺ちゃん、ファニーフェイス。気軽にファニフェって呼んでくれていいぜ(笑)」

 わざわざそれを言うために減速したファニフェは、パフパフとラッパを鳴らす。自転車の警報機として、主に100円ショップなどで売られているふいご付きのラッパだ。

「あ、えっと、空です。よろしく」

「茜だ」

 名乗られたら名乗り返す。だんだんそれが癖になっているせいか、この自己紹介はスムーズにいくようになってきた。

「んー。いいね(d)」

 ファニフェが親指を立てた。

「はぁ……で、何の用だ?」

 茜が訊く。すると、ファニフェは驚いたように口を開けた。ちなみに、バイザー付きヘルメットのせいでしっかりとした表情は分からない。そのヘルメット自体には(×▽×)みたいなシールが貼ってある。こっちが顔なんじゃないかと思うやつだ。

「あ、あれれのれー(?)おかしいな。俺ちゃんの計算によると、ここは茜さんから『アタイと勝負だー(シャキーン!)』って言われるかなと予想してたんだけど(困惑)」

「いや、アタイはどう思われてんだよ」

「うーん。それに関しては茜の自業自得だと思う」

「空まで言うのか!?」

 空に言わせれば、何をいまさらと言うものである。そして、ミスり速報で聞いていたファニフェにとっても、それは周知の事実であった。


「それにしても、凄い自転車ですね。えっと、怖くないんですか?」

 と、空が訊く。

 一見するとロードバイクのようなその車体は、下り坂でもないのに斜め前に傾いていた。前輪は24inで、後輪が700Cという規格違い。その直径は3.5in(およそ100mm)ほどになる。ちなみに数字に若干のずれがあるのは、自転車独自の規格による差だ。

「おお、それを聞いてくれるのか(喜)……実はね。ぜーんぜん大丈夫だよ(怖)」

「カッコで本音漏れてんじゃねーか」

 茜が突っ込む。ちなみに、律義にカッコまで発言しているのはファニフェなりのキャラ作りなのだろう。妙に芝居がかったやつである。

「えっと、この車体は、LEVEL R-246Aっていうんだ。80年代の骨董品だね(苦笑)」

「は、はちじゅうねんだい?」

 空が驚く。そんな古い車体を見たのは初めてだ。

「なるほど。クロモリ合金か。それなら50年は持つって言われてんな。足回りはともかく」

「お、茜ちゃん詳しいね。そうなんだよ(笑)長寿命のフレームなんだ。アルミだと3年。カーボンだと6年とかいうじゃん?(要出典)」

「いや、アタイに出典を求められても困るけど」

 自転車の寿命など、人によって言うことはさまざまである。何を持って寿命や死と呼ぶかさえ、ライダーによって違うのだ。

 ただ、それを差し引いてもざっと30年以上も前の車体が出てきたなら、それは骨董品で間違いない。

「親父が持ってた宝物だよー。ま、俺ちゃんは子供のころから使ってるから、この車体がどれほど希少なのか知らないけど、すげーんじゃね(粉みかん)」

「なんだよ粉みかんって」

「多分、小並感って言いたいんだよ」

「お、空さんご名答(拍手)」

 なんとも、話していて疲れる奴だった。



『今更ですが、ミス・リードの気になる選手紹介のコーナーですよぉ。大会ももう15日目……あらかたの選手を紹介しきってしまいましたが、ファニフェさんを紹介するのは初めてかもしれないですねぇ。

 ファニフェさんの乗る、LEVEL R-246Aは、いわゆるファニーバイクと呼ばれる車体ですぅ。前輪が小さく、後輪が大きいのが特徴ですねぇ。

 その昔、ピストバイクの原型がまだ定まっていなかった頃、どうやって前傾姿勢をとるかと考えた時に考案された形状だと聞いていますぅ。ただ、速度が出すぎるという観点から使用禁止になった側面を持つらしいですねぇ。

 以来、歴史の表舞台に立つことが無かった車体ですが、チャリチャンならどんな車体でも出場OKですよぉ。さあ、その『速すぎて禁じられた車体』というオーバーテクノロジーの性能。ここで魅せてください。

 あ、ちなみに私のセフレにも『早すぎてフラれた男』っていうのがいまして、慰めてあげようと思って体を許したんですけどねぇ。やっぱり私としたときも早すぎて、かえって自信喪失につながったなんてことが……」


「あっはははっ。選手紹介のはずがセフレ紹介になってるよ(爆)」

 ファニフェがお腹を抱えるようにして笑う。何がそんなに面白いのかと思ったが、そもそもお腹を抱えるような姿勢は常だった。

 前輪が小さいため、ハンドルが恐ろしく低い位置にある。ドロップではなくブルホーンだが、それもフラットなものではない。ステムから斜めに肩を落とし、ヘッドチューブの中腹ほどの低さまで下げられたものだ。

 自分のお尻より、頭の方が低い。まるで雑巾がけでもしているかのような姿勢をずっと保ったまま走っている。

「それ、疲れませんか?」

「お、空さん心配してくれるの?ありがとー(嬉)正直、長距離には向かないぜ(泣)」

 そのはずだろう。いくら理論上は空力抵抗を減らした方が疲れないとはいえ、人類はそんなに長時間の前傾姿勢を取れるように体が作られていない。

「だー、かー、らー。早くしようよ。レース。レース!(急)」

「ああ、いいぜ。断る理由はないからな」

「うん。茜ならそう言うよね。……ってことなので、ミスリード。いつも通りでお願いします」

 空がいつの間にか、凸電機能を使っていたらしい。ミス・リードには空の声しか聞こえていないため、『ってことなので』と言われてもよく分からないのだが、


『ええ、えっと……あれですね。私のオススメとしては、30km先にショッピングモール。70km先にポツンと立つカフェ。120km先に街が見えますよぉ。

 もちろん、それ以外でゴール地点をお望みであれば、どこでも検索してスタッフにゴールラインを引かせますぅ。

 あ、ちなみに今現在は福岡市内を走っていますから街中って印象ですけど、そこを出ると山岳地帯ばかりなので、アップダウンを計算に入れるとあまり長距離はお勧めできないですねぇ……えっと、こんなところで、いかがでしょうかぁ?』


 会話の経緯こそ分からずとも、『いつも通り』と言われれば何をすべきか、ミス・リードは分かってくれた。思えば長い付き合いになったものである。

「うし、じゃあ一山超えて人里まで……と言いたいけど、ファニフェさんは長距離が苦手だったな。ショッピングモールまででいいか?」

「いいよー(ぐっ)。俺ちゃんのこと心配してくれてありがとー(嬉)」

「いや、別にアタイはお前を気遣ったわけじゃないさ。負けた時に言い訳されたくないからな。それだけだ」



 3人はブレーキをかけて、横一列に並んだ。今回のスタートラインは何の変哲もない交差点の停止線だ。

『それでは、僭越ながらいつも通り、私がスタート合図を出させていただきますよぉ。皆さん、準備はいいですねぇ?それでは、レディー……ゴー!』

 ミス・リードの合図で、3人が一斉に飛び出す。その中でも一番先に急加速を見せたのは、意外にもファニフェだった。

「速い!?あのデタラメなペダリングで……」

 茜が驚く。ファニフェは、腰を浮かせるようなペダリングをしていた。ロードバイクの業界においてタブーとされる、身体を上下に揺さぶる走り方だ。

 ビンディングシューズではなく、トゥーストラップで脚を固定したペダル。それをガシガシと縦方向に踏み込む。たった一回の踏み込みで、車体は飛ぶように前に進んだ。

「ギア比が重いからか?っつっても、それだけじゃ説明つかないだろ」

「茜。あのフロントリング、見て」

「フロント?」

 ファニフェが使っているクランクセット――それ自体はCAMPAGNOLO ATHENAだ。細いクランクに5アーム・スパイダー。おそらく数年前のモデルだろう。

 特筆すべきは、そのクランクについているチェーンリングの形状……楕円形なのである。いや、むしろ長方形と形容しても構わないかもしれない。

「ああ、気づいた(?)これ、俺ちゃんのお気に入りなんだ。O'Symetricってブランドの、ROAD RACING Standardだよ。凄いでしょ(自慢)」

 そのチェーンリングは人間工学に基づいて、丸くなくなった。

 通常、人間の脚でクランクを踏み込むとき、一番力が入りやすいのは1時から3時の方向。つまり、真上から真下へと踏み込んだ時だと言われている。逆に言えば、そこから先は力が入りにくい。

 それに合わせて、2時あたりに最大効率でチェーンを引っ張るため、この瞬間に恐ろしく加速する。そして5時を超えた時、急激にチェーンを引く量が減少。これにより一瞬だけ空回りを発生させるのだ。


「いやっっっっっっっはー!!(狂)」


 ギュワンッ!      ギュワンッ!

       ギュワンッ!      ギュワンッ!


 右脚の踏み込み。その後の死点を超えて、左脚の踏み込み。再び死点を超えて、また右脚の踏み込み。

 たった1周のペダリングが、車体を11メートルも先に運ぶ。いや、それ以上かもしれない。

 フロントはインナーでさえ44Tもあり、アウターに至っては58Tだ。リアは11-23Tを使用。フルアウターでのギア比は5.2727倍となる。ちなみに、茜のtiagraはフロント36-50Tで、リアが11-36Tなのだから、最大で4.5454倍にしかならない。

 結果……

「同じくらいのケイデンスだろう。なんでアタイが追い付けないんだ?」

「きっと、あのチェーンリングが大きいんだよ。それに、踏み込んだ時だけの加速で見れば、相手の方が速いと思う」

「そうか。総合的なケイデンスが同じでも、1~3時方向での加速度だけ見ればアタイより速くチェーンを引いてんのか!」

 現在、茜のケイデンスが100rpmほどで、速度は59.2km/hにとどまる。一方、ファニフェは同じくらいのケイデンスで70km/h近い速度を出している。

「あの速度を維持できるのかよ……くそっ!」

「ダメだ。どんどん離されていくよ」

 空も息が上がってきた。ギア比の話をするなら、彼が最も不利な性能の車体に乗っている。


『ファニフェさんの乗るR-246Aは、足回りのパーツをほぼ全て改造した特殊車体ですねぇ。もっとも最初についていたはずの、スギノやサンツアー純正パーツが美品で残っていたら、博物館に寄贈すべき大珍品でしょうけど。

 フレームセット以外は全部ネットオークションと中古販売で買い揃えたとのことですぅ。エントリーシートにも細かく書かれていますよぉ。

 注目すべきは、リアエンドを126mmから4mmも広げたことですねぇ。っていうか、昔は126mmが主流だったんですねぇ。私、知りませんでしたぁ』


「ああ、俺ちゃん、また何かやっちゃいました?(イキリ)」

 さすがに疲れてきたのだろう。ファニフェがギアを落とす。ディレイラー自体はATHENAだが、デュアルコントロールレバーは105を使用。いわゆるシマニョーロというやつだ。

 後ろを見たファニフェは、空たちをだいぶ引き離したことに安心しつつ、息を整える。ここからは軽く巡行。次の加速に向けて体力を回復するつもりだ。

 暇つぶしのように、ミス・リードに話しかける。


「ねえ、ミス・リード。エンド幅の広げ方って、いろいろあるんだよ。聞きたい?(暇)」

『え?いや暇って……レース中ですよぉ。でも教えてください。興味ありますぅ』

「いいよ。まず、長さ150mmくらいのボルトを買ってくるんだ(いきなり難題)。あとはウイングナットを2個ね。それで、ボルト自体をスキュアに見立てて、ホイールを外したエンドにはめる」

『ふむふむ……』

「あとは中心にあらかじめ組み込んだウイングナットを、外側に回していくんだよ。キリキリキリ……ってね(痛)。あ、クロモリとかのスチール系合金じゃないと出来ないからね。アルミだと破断するかも(重要)」

『うわぁ。凄いですねぇ……勇気があると言うか、なんと言うか……』

 なかなか無謀な真似をしたものである。それでもファニフェの場合、クロモリフレームを4mm広げただけなのでまだマシだろう。ユイなんかアルミフレームのママチャリを同様に拡張していた。

「ちなみに、ミス・リードは何か拡張したものってある?(唐突)」

『そうですねぇ……自転車の後輪幅は広げたことないですけど、私の後ろの穴は広げた事ありますよぉ。風船とエアポンプを使って、ぷくーって』

「え?マジで?(痛)」


『あ、そんな事より、のんびりしてて良いんですかぁ?追い付かれますよぉ』


「え?(困惑)」

 後ろを振り返ると、そこには既に追い付き気味な空たちがいた。

「やっぱアタイの思った通り、速度維持には向かなそうだな。ゆるーい上り坂。じわじわとギアの重さが辛くなってくるんじゃないか?」

 茜が言う通り、いつの間にか少しずつ上り坂だ。風向きも正面からの微風。無意識のうちに速度が下がっている。

「嘘でしょ(?)俺ちゃんの走りを見てまだ追いかけて来るんだ(呆)」

「史奈さんとか天仰寺に比べれば大したことはなかったんでな」

「まあ、史奈さんは世界チャンピオンだし、天仰寺さんも凄いケイデンスだったもんね」

 乗り手――自転車にとって、それはエンジンそのもの。少なくともピストバイクよりずっと速いと言われているファニーバイクだが、

「そりゃ、ベロドロームの女王と比べられたら、俺ちゃんも立つ瀬はないってな(泣)。それでも、天仰寺……とかいう美少女にまで比べられて、しかも負けてんのか(ドン引き)。俺ちゃんだっせぇ」

 落胆するそぶりを見せるファニフェだが、まだあきらめていない。ケイデンス自体は変えられないが、自分の瞬発力で速度だけを上げる。

 ギアを上げる。その瞬間、わずかにチェーンが滑った。

「しまった!?エンストかよ(怒)」

 楕円形チェーンリングの弊害があるとしたら、どうしてもフロントディレイラーとの距離を等しくすることができない点である。干渉しないように遠目に取り付けられたFDは、チェーンをうまく架け替えられない。

 ついでに言えば、チェーンの巻取り速度が一定ではないことも、変速のタイミングを狂わせる。おかげで運が悪ければ、今のように一瞬だけ変速が遅れてしまうのだ。

 回数にして、ほんの1周半の空回り。その間に稼げなかった速度と、崩れた重心を立て直す時間は……


「茜。今だよ」

「解ってるさ」


 相手の不調に付け込むような加速をしてはいけない。というルールが、一応ロードレースにはある。ただ、今大会はロードレースではない。

 相手の車体も、レースに使うことを禁じられたファニーバイクなのだ。なら茜たちだって、禁じ手を使うことで非難される謂れはない。

「純正パーツによる完組は、トラブルが起きにくい部品を選んでフレームにつけている。一方でバランスを崩したお前のファニーバイクには、トラブルが多いんじゃないか?」

「言ってくれるね(ピキッ)。説教は勝ってからにしてくれよ!」


 登りがあれば、その次に必ず下り坂もあるものだ。

 ファニフェはそこで、勝負をかけるつもりだった。もっとも、このフレームには下り坂でも弱点がある。

 ホリゾンタルフレーム以上に、斜め後ろに上がっていくトップチューブ。この鋭い角度のせいで、腰を落とせる高さに限界があるのだ。

 しかも、頭だけは常に腰より低い。おかげで下り坂となれば、逆立ちして走っているような錯覚さえある。

 それを……


「ああああああああ!(絶叫)」


 ズギャァァァアアアアア!


 恐れながらも、しかしノーブレーキで突き進む。その速度はついに80km/hに近いところまで加速。単なるギア比やハンドルの高さでは説明のつかない速度だ。

「クラウチングスタイルだと!?」

「まずいよ茜。追い抜かれる」

 サドルの高さを無視して腰を落とす、クラウチングスタイル。その時に腰の位置はどうしてもサドルより前になる。つまり、重心が前に寄るのだ。

 このままフロントブレーキをかければ、ピッチオーバー……前のめりにひっくり返る。かといってリアブレーキをかければ、体重の乗っていないリアホイールが滑るだろう。体を起こして空力抵抗を受けるエアブレーキさえ、このハンドルの高さでは使えない。

 あらゆるブレーキが利かなくなる。その危険をはらんでいるからこそ、レースで禁止されたという説もある車体だった。


『さあ、ゴールまであと1kmを切りましたよぉ。現在、3人とも横並びですぅ。最高潮の盛り上がりですねぇ。

 ここでファニフェさん、お得意のノーブレーキ走法ですぅ。石ころひとつでも踏めば落車するこの技。実際に何度か落車しているんですけど、もしかしてドMだったりします?

 私もあまり人の事は言えないのですが、痛いのを楽しむのは命の危険がない範囲でやってくださいねぇ。

 と、茜選手も追撃ですよぉ。なんと、こちらもクラウチングスタイルですぅ。取り残された空さんはやや遅れ気味。

 最後は意地の張り合いですねぇ。すでに速度を上げられも下げられもしないファニフェさんに、茜さんがどれだけ戦えるのか、ですよぉ』


「本当に、馬鹿だよな。お前」

「ん?何が(すっとぼけ)」

「アタイらに勝つためとはいえ、捨て身で走るか?普通」

「んー、俺ちゃんも後悔しているよ。だからせめて、勝ちだけは貰っていくさ」

 ギリギリの意地の張り合い。もとから左右に車体を振っているファニフェはもちろん、茜も若干左右にぶれる。

 一瞬だけ、肩がぶつかった。それだけで、二人とも大きく弾かれる。道路の左右いっぱいいっぱいに広がった二人は、再び中央に戻るために体重を移動した。

 そのまま、ゴールラインに滑り込む。自分の横なんか見ていられない。ただ前だけを見て、その線を割った。


『ゴール!ちょっとどっちが勝ったのか、こちらでも分かりません。

 結果は写真判定になりそうですねぇ。ちょっと待っててください。すぐ解析できると思いますよぉ。

 あ、来た来た……画像データ。入ってくるよぉ。わ、私の画像データも欲しいですかぁ?うふふ。着順の確認用写真と、着床の確認用写真の交換ですぅ。え?要らないですか?』


 ミス・リードがふざけている間に、ファニフェがくるりと駐車場を回る。大きく、なるべく広く。その間に少しずつブレーキをかけて、ゆっくりと制動していく作戦のようだ。

「ああ、急ブレーキをかけると前にひっくり返るのか」

 と、茜がディスクブレーキで停止して言う。後から来た空も、十分にVブレーキで減速していた。これが出来るのも加重をコントロールできる車体だからこそだろう。ブレーキ自体の性能だけで制動距離は決まらないという一例だ。

 ファニフェがようやく完全停止したとき、ミス・リードも結果発表に移っていた。

『さあ、本日のレース。ほんの僅差ですが、勝ったのは――』




 2分後――

「おろろろろろおおおおおお(吐)」

「だ、大丈夫ですか?」

 ゴールから5分。ミス・リードの判定を聞いたファニフェは、急に胃の中のものを戻し始めた。

「いやー、そりゃまあ、下を向いたまま本気でペダリングを続けたらこうなるよね(笑……えない)」

「本当に笑えないですよ」

 空が背中をさすってあげると、ファニフェはにこやかに親指を立てて、再び残りを吐き出した。

「なんだかレースで禁止されていたのも解る気がするぜ」

 茜はファニフェのR-246Aを預かっていた。この車体も他のスポーツバイク同様、スタンドが付いていない。

「はぁ……はぁ……あー、死ぬかと思った(本気)」

「本当に死なないで下さいよ」

「あははははっ。空さんは優しいね(笑)」

 大体のものを吐き終わったファニフェは、立ち上がってにやりと笑った。


「でも、楽しかったでしょ?」


「え?」

 この状態で、このざまで、それでも楽しかったと言うファニフェ。その意見に、空は同意しかねた。ここまでのダメージを負っているわけではない空としては楽しめたが、ファニフェも同じ気持ちだったのか……

 それに対して答えを返したのは、茜だった。


「ああ、アタイら今回は負けたけど……負けたけど、楽しかったな」


「……茜?」

「なんだよ?」

「いや、茜のことだからてっきり、ファニフェさんに負けて悔しいのかなって思って……」

「いや、もちろん悔しいぞ!」

「ええ!?」

 困惑する空。だって、それはそうだ。

(悔しいのに楽しいって何?ここは茜が腹立ちまぎれにその辺の壁とか殴りだすところじゃないの?)

 と、ミハエルとの初戦を思い出しながら考える。

 考えたところで、茜の言う「悔しかったし楽しかった」が理解できない。

 ただ、思い返して、ひとつ判ったことがある。

(あ、そういえば、僕たちが惜しいところで負けるのって、初めてかも)

 と――

 初日にストラトスと戦った時は、風の影響で勝ち負けどころじゃなかったが、戦っていたら負けていた。

 2日目に史奈と会った時は、そもそも戦いにさえならない速度差だった。ミハエルと初めて戦った時だって、相手を見下した上に大差で負けた。

 なので、空は今まで知らなかったのだ。茜が『惜しくも』負けた時、どんな態度になるのか。どんな表情をするのか。

 それが今日、分かったのだ。


「よし、ファニフェさんよ。アタイらと一緒に昼飯にしようぜ。どうせ全部吐いたんだから腹減っただろ?……そんで、午後からもう一戦いいか?」

 負けず嫌いな茜は、それでも自分が負けたことを認めなかったことはない。負けを認めて、それでも次は勝つ、最後は勝つと言い続けてきた。

 対するファニフェも、にやりと笑う。

「いいよ(軽)。またコテンパンに倒してあげようか」

「ほざけ。戦績を2勝1敗に書き換えてやる」

「え?いや待って茜さん(?)。それって俺ちゃんがもう2回は戦わないと成立しない計算じゃね(gkbr)」

「それじゃあ、アタイらが勝ったらそこからもう一回戦、頼むぜ」

「さすがに堪忍してくれ(ビシッ)」

 茜からR-246Aを受け取ったファニフェは、まんざらでもなさそうに茜にツッコミを入れる。受ける茜もどこか楽しそうだった。

 そんな茜が、黙ったまま突っ立っている空に気づく。

「あ、悪いな。空は勝負が連続するのはキツイか?」

 いつも空のことを考えず、一期一会で戦いを望む茜だが、今回は珍しく空を気遣った。しかし、空は首を横に振る。

「よーし、それじゃあ、もう2回お願いします。ファニフェさん」

「え?空さんまでそんなこと言うの?」

 ファニフェが動揺する。その横で彼以上に動揺しているのは、もちろん茜だった。

「空……?」

「えっと……ちょっと僕もよく解らないんだけど、その……」

 視線をさまよわせ、何かをごまかすように指先を合わせた空は、


「なんだか、僕も楽しかったんだ」


 そんなことを、最終的に茜を見ながら言った。

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