第45話 忍び寄る影とパラサイクル

 すっかり夜も更けてきたころ、茜たちは宿を探そうかと迷っていた。まだ走れるだけの体力を残してはいるが、明日のために早く寝てもいいところだ。要するに、今日夜遅くまで走るか、明日の朝早く走るかの違いである。

 なので、このまま誰とも会わなければ、休もうとしていたのだが……

「なあ、あれ天仰寺じゃないか?」

 と、茜が指さす先に、確かに異様に車高の低い何かが走っているのが見えた。暗いので、シルエットと反射板だけが見えている状態だ。

「うーん。違うんじゃないかな。ほら、後輪が2輪あるよ」

「あ、本当だ」

 天仰寺が乗るレボリューションは、前後2輪の自転車だった。それとは違い、目の前にいるのは後輪2輪。少なくとも合計3輪の車体に見える。

「天仰寺以外にも、リカンベントライダーがいたのか」

「あれ?でもミス・リードが天仰寺さんのこと、『大会唯一のリカンベントライダー』って言ってなかったっけ?」

「……そうだったっけ?」

 考えているうちに、相手に接近する。相手も気づいたのだろう。軽く減速して並んだ。


 黒いライダースーツを着た欧米人の男性だ。堀の深い顔立ちに、白い肌。そしてオールバックの金髪。青い瞳の男だ。年齢は分かりにくいが、おそらく20~40代くらいだろう。

 やはり仰向けに寝そべった姿勢で、頭を後ろにして地面すれすれを滑っている。車体は前輪が1本、後輪が2本の3輪だ。天仰寺のレボリューションより、さらに車高が低い。

(やっぱりリカンベントライダーか。いや、何か違和感があるが……)

(凄い。まるでリュージュみたい)

 ペダリングする様子もないまま、彼は地面を滑っていく。

「えっと、初めまして。凄い自転車ですね」

 空が話しかけた。彼は空の顔を見て、しかし答え以外の言葉を返す。

「オー、スミマセン。ジテンシャ、ナニデスカ?」

 やや聞き取りにくいが、おそらく彼はそう言ったのだろう。

「え?」

「あー。なるほど」

 困惑する空と裏腹に、茜はすぐに気づいた。


“日本語が分かるか?ミスター”


 茜が突然、流暢な英語で話し出す。すると、相手もパッと目を見開き、口角を上げた。

“少しだけ。でも、こうして英語が話せる人に出会えて嬉しいです。安心します”

 英語で返してくる。

「え?なんって?」

 一人困惑する空に、茜が通訳する。

「ああ、やっぱり日本語は苦手なんだってよ」

「あ、そうなんだ。って、茜はなんで英語が喋れるの?」

「いや、一応プロレーサー目指してるからな。世界に行ったとき役立つと思って勉強してたんだ」

 意外な特技を持っているものである。

“アタイは茜。そしてこいつが空。一応有名なつもりだけど、知ってるか?”

“はい。ミスり速報?で話題の選手ですね。会えて光栄です”

“ミス・リードの実況は聞き取れるのか”

“いいえ。ただ、日本に友人がいます。その人から時々、話を聞いているんですよ。えっと……エッチ?な司会者らしいですね。さすがHentaiの国です。ワンダフル”

“……”

 ついに国際規模で変態と認識されたミス・リード。なんだか同じ日本人として、茜まで恥ずかしい気持ちになる。

 一方、その会話についていけない空は、一人でなんとか頑張っていた。

「え、えっとえっと……な、ないすちゅーみーちゅー?えっと、まいねーむいずそら」

「ああ、その辺のくだりはアタイが代わりにやっておいたから大丈夫だぞ」

「あ、そうなの」

「ああ」

 茜が頷く。その様子から、相手も空を見た。

 ハンドルから片手を離していた彼は、空に手を差し伸べて一言。

“デイビット”

「で、でーびっと?さん」

 名前だけを名乗る。余計な文章を付け加えない方が伝わりやすいので、単語のみの会話をした方がいい。それはデイビット自身が日本に来て学んだことだった。幸いにも、空にきちんと伝わった。


“それにしても、その自転車……ずいぶん車高が低いな。天仰寺より低い”

 茜が言うと、デイビットはぱっと顔を輝かせた。

“オー、ミス・テンギョージ。あのキュートな子ですね。日本人はちっちゃくて可愛いです”

“言っとくけど犯罪ギリギリだからな。……で、その低さの理由は?”

 茜はデイビットの性癖さておき、車高について聞く。それに対して、

“ミス・テンギョージと違って、ワタシにはおっぱい無いですから、おかげで視界が確保しやすいんですよ”

“おい、ふざけ……”

 んなよ!と言いかけた茜は、しかし止める。そういえば、脚を前に投げ出すタイプのリカンベントは、胸や膝が視界に入り込むはずだった。そのせいで路面が見づらいのも天仰寺戦で学習済みだ。

 なのに、デイビットの視界には邪魔なものが無かった。おっぱいが無いのはもちろんだが、それ以上に無いもの……

「脚が無い」

「え?……あっ!」

 その驚きに、茜はうっかり日本語で呟き、空もそれを聞いて気づいてしまった。


 脚が無い。それは人間の身体的な意味で、である。

 デイビットの身体に本来ならついているであろう両脚。それが膝の上程から無いのだ。

 要は……

「身体障碍者……ええっと、英語で言うと、ハンデキャップド?」

 と、茜でも自信なさげに言うと、

“グッド。丁寧な発音ですね”

 デイビットはくすすと笑う。茜の発音が面白く感じたのだろう。

 すっと腕を伸ばした彼は、ハンドルを手前にひきつける。そのハンドルにはクランクが付いており、チェーンリングに接続されている。用は、ペダルを手で持っている状態と大差ない。

 しいて違いを上げるとしたら、ペダルが互い違いに踏みつけるように取り付けられているのに対して、デイビットのハンドルは左右で一緒に動くようにつけられていた。左クランクの向きを間違えて取り付けたような見た目だが、これで合っている。

“足が無い分、空力抵抗も重量も減らせますよ?究極のダイエットです”

“いや、そんな話されてもな”

 茜がリアクションに困っていると、デイビットはまた笑った。彼にとって今の話は、鉄板の冗談だったらしい。

“そうそう。アナタたち二人は、毎日誰かと勝負しているみたいですね。ワタシとも戦ってくれませんか?”

“は?お前と?”

“障碍者だからって遠慮はいりません。本気でお願いします。ああ、何か欲しいなら……そうですね。宿代でも賭けますか?”

“ああ、まあいいけどさ”



『はいはーい、こちら、ミス・リードですよぉ。……ああ、デイビットさんですかぁ?

“ハーイ。ミスター・デイビット。え?ホテルですかぁ?そこから30kmくらいで……はい。なるべくいい部屋を3つ、予約ですねぇ。茜さんと空さんの分も?”

“分かりましたぁ。それじゃあそこまで競争ですねぇ。僭越ながら私が合図させていただきますよぉ。それでは、レディ・ゴーですぅ”

 はい。日本の視聴者の皆さん、一時的に英語で失礼しました。空さんと茜さんが、また勝負を開始したみたいですよぉ。相手はエントリーナンバー008 デイビットさんですねぇ』



「ねえ、茜。なんでミス・リードも英語が得意なの?」

「いや、知らねぇよ。あれでも一応実況者だからじゃねーの?」

 一応実況者だからである。


『デイビットさんが使う車体は、Schmicking S3 ですぅ。このメーカー、ドイツの車いすやパラサイクルなどを専門に作っているみたいですねぇ。

 量産機をベースにしたカスタムメイドらしいですけど、私はこの手の車体に量産型があることを知りませんでしたぁ。

 あ、でも基本はロードバイクの部品と同じ規格を採用した車体みたいですねぇ。リアディレイラーがフロントに上向きについてるのって、不思議な感じがしませんかぁ?』


 デイビットと話すとき以外は日本語で実況するミス・リード。彼女の言う通り、このS3は前輪駆動の自転車である。

 寝そべったデイビットの真上を、チェーンが通過している。これがフロントホイールを進める構造になっているのだ。変速ギアもしっかり2×11速でついている。

 高級ロードバイクがそうであるように、デイビットもまた音を立てず、静かに走っていた。その速度は、現在32km/hほど。つまり……

「アタイらと五分だな」

「嘘でしょ?腕の筋肉だけで、そんなに……」

 腕の筋肉だけ、ではない。

(ハハハ。ワタシの幸運は、じつは膝上までは脚があること、なんですよ?)

 自転車乗りなら、お尻の筋肉がどれほどペダリングを支えているかは分かるだろう。この筋肉は人間の体の中でも、最も大きな部位である。それがデイビットにもある。

(つまり、腕だけで漕いでいるわけではありません。背中も、腰も、そしてお尻も、全部を使って上半身を動かす。カヌーに似ているかもしれませんね)

 バーエンドシフターを使って、ギアを上げるデイビット。その走りが、さらに加速する。


「確かに奇抜な車体だな。しかも速度もある。でも、天仰寺と弱点も同じはずだ」

「つまり、コーナリングで体重移動が出来ないってことだね」

「ああ、しかも相手は3輪だ。余計に曲がるのが不利なはずだろうさ」

 茜が勝負をコーナーに定めた。

「でも、この先ってコーナリングあるの?」

 空の問いかけに、茜はにやりと笑う。

「ああ、任せろ。アタイはこの辺、走ったことあるんだ」

「え?」

「ほら、気づかないか?ここ、アタイらの家からそんなに離れてないんだよ。つっても数十キロはあるけどな」

 その言葉に、空は少しだけ感動する。ホームシックもあるかもしれない。

 ただ、青森という途方もない遠方から、自宅がある街まで帰ってくるほど走ったのだと、その実感が急に来たのだ。

 じんわりと胸に熱いものがこみあげて来る。それは、茜も同じだった。いや、土地勘があるだけ茜の方が強く感じていた。ただ、今は感動に浸っている場合でもない。

「つーわけだから、アタイが前方を走るぞ。ハンドサインは2、3秒前だ。一瞬しか上げないからな」

 今までは、どのタイミングでコーナーが来るか分からなかった。そのため、見通しの悪い状況では慎重にならざるを得なかったのだが、今回は違う。

 茜の記憶が頼りだ。それさえ間違っていなければ、ギリギリまでブレーキを我慢できる。これならデイビットにも勝てるかもしれない。



 茜が予想した以上に、デイビットはコーナーが苦手だった。

(オー、なるほど。コーナリングですね)

 デイビットは右カーブに差し掛かると、すぐにブレーキをかけた。右手のハンドルには、前輪のメカニカルディスクブレーキが付いている。搭載されているブレーキはこれだけだ。後輪にはブレーキが無い。

 同時に、ハンドルの端に取り付けたシフターで、まるでランドナーやTTバイクのように変速。もちろん通常の自転車と同様、チェーンを回し続けないと変速できない。

 ここまでやってから、ようやくハンドルを曲げる。もちろん漕ぎながらハンドル操作もできるのだが、繊細なコーナリングをするなら一度止めないと難しい。

 要するに、面倒くさいのだ。

 それでも、一度曲がりだした車体はスムーズだった。ハンドルをほんの少し曲げると、前輪は大きく前傾したヘッド角により、強く小回りを利かせてくれる。

 寝そべったまま、身体ごと倒すように曲がる。どれほど重心を傾けても、3輪であるため倒れない。まるで飛行機のような感覚。このまま3次元軌道での旋回さえ出来そうだ。

 しかし……

(来ましたね。ミス・アカネ。ミスター・ソラ)


(行くぞ)

(うん)

 さっと茜が手を出した。それは右側へ曲がる合図だ。

 すぐに手を戻した茜は、そのままハンドル操作に全力を注ぐ。フロントは1速まで落とし、ケイデンスを上げてスローイン・ファストアウトを心がける構えだ。

 空もその作戦に乗る。とはいえ、空はそこまで急にケイデンスを変えることはできない。リアの変速ギアをギリギリまで落とし、繊細なギア操作を心がける。

 今更ながら、このように足で推進力をコントロールし、ギアや方向転換を腕に任せ、体重移動を腰で行える車体は、操作しやすい。普段は当たり前に感じる五体満足の強みを、まさかここまで感じることになるとは思わなかった。

 やってくる右カーブ。しかし、ここでは追い付くこともできない。

(まだだ。次は左カーブ)

(え?すぐに!?)

 茜のサインに、空も戸惑う。


 一番戸惑ったのは、言うまでもなく前方を走るデイビットだった。ギアを上げかけた彼は、

(ノー!なんで!?)

 とっさにギアを戻し、左カーブに備える。閑散とした住宅地とはいえ、暗い夜道では見通しも悪い。まして地面に近い視界を持つデイビットは余計に。

 青い瞳を光らせ、慎重にコーナリング。その間に、今度こそ茜たちに追い付かれる。

「外から抜くぞ」

「茜。日本語!」

 茜の言葉は、当然だがデイビットに伝わらなかった。アウト・イン・アウトを想定したコース取りのデイビット。その最後のアウトと、茜の追い越しがタイミング的にかぶる。

 結果として、内側から幅寄せされた形になる茜。

“ごめんなさい。ミス・アカネ”

“いや、今のは英語で忠告しなかったアタイも悪かった。気を付けるよ”

 とはいえ、絡むことができる距離だ。

 次の直線復帰で、一気に追い越す。そう考えて、茜は改めて右に寄る。

“抜くぞ!”

 今度こそ英語で忠告した茜だったが、その動きは、

“ダメです”

 デイビットが前に出てきたことにより、牽制された。

「危ねぇっ!?」


 ガシャン!


 茜の前輪が、デイビットのS3に取り付けられたリアバンパーにぶつかる。

“アウチ!”

“あ、ごめんな”

“いいえ。大丈夫です”

 手を振って答えるデイビット。ちなみに二人とも早口だったが、空にも今くらいの英語は(前後の動作も含めて)理解できた。

(……おかしい)

 空は、デイビットの視線を辿る。


(気づかれましたかね……ミスター・ソラ)

 寝そべった姿勢なので、デイビットの首は後ろを向かない。事実、ずっと彼は首を動かしていなかった。

 では、本当に後ろを確認することができないかと言えば、違う。

 視線を上に、上に、さらに上に向ければ、そこには空達の顔が見えた。頭の上に地面があり、それが高速で後ろに流れていく。上下が逆さまになった世界。それがデイビットの見る『後方確認』だ。

 そして……

(これほど見えるなら、意図的に前をふさぐのは簡単です)

 茜が左に寄ったのを見て、デイビットも左に寄る。また右に寄るのを見て、右に寄る。そんなことをしながら、徐々に加速。せっかくコーナーで追いついたと言うのに、ここで再び離される。

(日本人、ワタシを疑うのしなさすぎです。ワタシ、一度も『フェアプレイしましょう』なんて言ったことないですよ?)


『ああ、惜しかったですねぇ。

 噂の中学生コンビが追い抜きにかかりましたが、デイビット選手がこれをブロック。初速を得るまで時間のかかるデイビット選手ですが、その時間を十分に稼ぎましたぁ。

 途中でぶつかるアクシデントもありましたが、両者の車体に損傷はないみたいですねぇ。リアバンパーまで備えているなんて……もしかしてデイビットさん、後ろから突きさされるのが好きだったりしますかぁ?準備万端ですものねぇ。

 あ、私のお尻も後ろから突きさされる準備万端ですよぉ。さっき出しましたので。いつ出したか解りましたかぁ?音とか気づきました?』


「リアバンパー……頭、守るですよ?」

 ミス・リードが何を言っているのかは3割しか分からなかったが、その3割から会話の内容を予想したデイビットが言う。

 このリアバンパーが無い場合、彼の頭を追突から守るものは何もない。後輪さえ左右に2輪つけているので、その隙間はがら空きなのだ。なので安全のためにつけている。

 それを生かして、相手の進路を妨害できる。それにデイビットが気づいたのは、つい先々週の事だった。

(同じパラサイクル……障碍者用自転車同士だと、車高が低すぎて使えない技です。だから気づきませんでした。普通の自転車と並ぶとこんなに、相手の動きが見やすいだなんてね)


 コーナーのたびに茜が追い付く。しかしそのたびに、デイビットは進路をふさいだ。

 暗い道路に、黒い車体。そして黒いライダースーツ。それが黒いアスファルトの色と混ざって、見つけづらい。

 抜きにかかろうとすると、いつの間にか前にいる。どこからどんな軌道でやってきたのか、茜には見づらかった。

「ああ、くそ。紛らわしい。意図的にふさいでんじゃないだろうな」

「……多分、わざとだよ」

「あ?」

「デイビットさん、とぼけて見せているけど、きっと僕たちを見ている。だからあんなにドンピシャで動けるんだと思う」

 ずっと後ろで見ていた空は、茜よりも俯瞰して全体を見ることができた。その空だから気付けたことだろう。

「……まあ、それならそれで作戦はあるな」

「あるの?」

「ああ。アタイに任せとけよ」

 任せとけ、と言う割には、茜の表情は不安そうだった。

「なあ、空」

「うん?」

「……お前、戦えるか?」

 この作戦が成功するかどうかは、空にかかっているかもしれない。

 茜の不安の種とは、まさに空の性格だった。



(またコーナーですか。日本の田舎、思ったよりくねくねしてますね)

 民家よりも畑の方が多そうな道。ならば素直に直線で道路を作ればいいのに、どうしてこんなに曲がりくねるのか、とデイビットは不思議に思っていた。

 これがあるせいで、デイビットは本気を出せていない。地味にイライラする。

(まあ、ミス・アカネをからかって憂さ晴らしといきましょう。あの子の困り顔もキュートです)

 次もどうせ追い付いてくるだろう。それが楽しみになってきていた。

 そして、期待通りに茜が追い付いてくる。

(やはり来ましたね。コーナーを曲がり終えたところでコンタクト。直線に戻ったタイミングで追い越しに来るはずです。お見通しですよ)

 デイビットが予想したとおりに、茜がそこで勝負をかける。右コーナーを終えて、左に膨らんだ茜。

(このまま左?いいえ、右ですか?)

 茜が右に切り込んだ。斜めに鋭く動く軌道。

(反射神経で勝負ですね。ですが、ワタシだって反応は早いですよ)

 デイビットも左に切り込んだ。そして、

「今だ。空」

「うん」


 空が、茜と横に並ぶ。茜の陰にずっと隠れていたはずなのに。

(しまった!?二人同時には相手できません)

 3輪であっても、言うほどの横幅は無い。意外に思うかもしれないが、せいぜい肩幅程度の広さしかないのだ。体を安定させる目的なら、この程度の車幅で事足りる。

 ただ、後ろから迫る2台を同時に妨害するとなったとき、この幅では間に合わない。

(ワタシが妨害できるのは片方だけですか……残った片方は、正攻法で抜き返すしかないですね)

 まだ負けを認めるのは早い。そうデイビットは判断する。もともと加速度では劣るS3だが、トップスピードでは通常のクロスバイクごときに負けない。その自信がある。

 だから、

(ミス・アカネ。ユーをブロックです)

 サイクリング用であるエスケープの空より、レース用のクロスファイアに乗った茜を止める。それは最良の選択肢であった。

(アタイが懸念した通りだな。こうなったら、空に任せるしかない)


 レースが怖くないかと言われれば、まだ少し怖い。

 でも、楽しい勝ち負けもある。それを今日、ファニフェから教わった。

 だから

「行くよ。エスケープ」

 茜を追い越し、その勢いでデイビットも追い越し、さらに差をつける。まだデイビットはギア操作に手間取っていた。今のうちに差をつけておかないと、すぐに追いつかれる。

“逃がしませんよ”

 デイビットも徐々に速度を上げ、空に近づいてくる。茜はその後ろから、可能であれば追い越しをかけようと隙を伺っていた。

 とはいえ、既にデイビットの速度は60km/hを超える。茜も空も追従するのが厳しい速度。まして茜が後ろから抜ける速度でもない。

「空。お前がそのまま逃げろ!」

「え?う、うん。分かってる」

 本当は、茜が勝ちたかったんだろうか。なのに、自分に託してくれたんだろうか。

 もしそうなら、勝ちたい。空の中に、小さくそんな感情が湧いてくる。空自身が、気づかない程度の気持ち。

 ギアを下げて、ケイデンスを上げる。さっきまで茜の後ろにいたおかげで、体力的にはまだ残っている方だった。


“オー、クールですね。ミスター・ソラ”

 デイビットは、空の走りを後ろから見ていた。

 日本人選手はチーム戦を重視する。そんな話を確かに聞いたことがある。基本的に個人戦であるチャリチャンで、それを見たのは初めてだ。

 目の前にHOTELの文字が見える。ミス・リードが教えてくれたゴール地点で間違いないだろう。なぜか日本には英語で書かれた看板が多く、デイビットも重宝していた。とはいえ文化の違いからか、名前とイメージが一致しないことも多かったが。


『ゴールは目前。ここにきて空選手。オリジナルの必殺技、スカイ・ラブ・スプリントですぅ。右に左に大きく揺れながらペダルを踏みつける加速。お尻を振りながら逃げていきますよぉ。

 その追いかけっこで後ろを走るのは、デイビット選手。まるでカヌーを漕ぐような前後運動で空選手を追走ですぅ。激しいヘッドバンギング。腰から振るような大きな動きでピストンしていきますよぉ』


 横と縦。脚と腕。後輪駆動と前輪駆動。お互いに全然違う動きだが、思いは同じだった。

 ここまで来たらパワー勝負。ただそれだけである。


「はぁっ!」


“ウォアアー!!”


 吐けるだけの空気を吐いて、新しい空気で肺を満たす。そのあとはもう、呼吸は必要ない。吸った分だけで最後まで走り切る。

 じわり、じわり……デイビットが迫ってくる。

 少しでも空力抵抗を避けるため、下を向く空。同じ空気を避けるにしても、上を向くデイビット。お互いの視線が交わる。

 いつもながら、ミス・リードの手配は早い。すでに設置されている写真判定機の横を、二人はほぼ並んだまま通り過ぎた。


「っく……はぁ、はぁ」

 空がブレーキをかけて、地面に足を着いた。デイビットも同じく止まる。こちらは3輪なので、足を着かなくても安定して停止できる。もっとも、着く足などないが。

「ナイスファイト!素敵な競争です」

 デイビットが言う。空に合わせるため、可能な限りの日本語で。

「あ、えっと……サンキュー。あい、はぶ、あ、ぐっどたいむ」

「くすすっ」

「あ、あう……えっと、僕の英語、変ですか?」

「大丈夫です。伝わってます」

 手袋を外したデイビットが、手を伸ばしてくる。握手だ。

「ゴメンナサイ。ミスター・ソラ。ちょっと意地悪しまして、ました」

「意地悪……あ、走行妨害の事ですか?えっと……気にしないでください」

「くすすっ。いい人です。あー、けど……」

 笑っていたデイビットが、少し複雑そうに眉根を寄せる。何かと思ったら、

「やっぱり、勝ちたいでした」

 ウィンクをひとつ、勝者である空に見せる。


『写真判定、結果出ましたよぉ!

 勝者、空選手ですぅ!』


 ミス・リードの発表を待たずとも、デイビットには勝敗が分かっていたのだ。後ろにいる人ほど、前に誰かいるのが見えるから。




「よくやったな。空」

 茜が自転車を降りて駆け寄ってくる。空たちがゴールしてから、さほどのタイム差は無かった。

「茜。ありがとう」

「いや、アタイこそだ。作戦通りだったな」

「うん」

 喜び合うこと数秒。空はデイビットの方に視線を向ける。

「え、えっと……デイビットさん、立てますか?……ぷりーず、すたんだっぷ……あれ?いや、立ち上がれないのは分かってるんですけど、そういうんじゃなくて」

「ああ、はいはい」“デイビットさん。あんたはホテルに入るとき、どうするんだ?”

 通訳の板についた茜が訊くと、デイビットは自転車に寝そべったまま答えた。

“すぐにメイドが来ます。安心してください”

「メイド?」

 そう聞いた茜は、秋葉原に多く生息していると噂のあれを思い浮かべた。しかし、来たのは全然違うタイプのメイド。


“お待たせしました。デイビット”


 駐車場に停まっていたワンボックスから、車いすを降ろした女性がやってくる。きっちり着込んだロングコートにジーンズ。細身の女性だ。頭には髪を止めるためのバレッタが付いているくらいで、ヘッドドレスのようなものは付いていない。

“うちのメイドの、ナガセです”

「長瀬です。デイビットが日本にいる間、パートタイムでメイドを務めさせていただいております」

 20代くらいの人だろう。普通に日本人であった。

「あ、室内では普通の車いすなんですね」

「ええ。パラサイクルは一応、道路交通法では自転車に分類されますから。S3はこちらで回収します」

 デイビットの腰と太ももを固定していたベルトを外し、それから両手を引っ張って起こす。肩に手を回させると、そのまま車いすまでサポート。デイビットもそのタイミングに合わせて腰を動かす。

 日本にいる間のパートタイムと言うには、あまりにも慣れたものである。

「長瀬さんは、いつからデイビットさんのお世話を?」

「つい先月からです。ですが、歩行困難なご主人様を介護することは多いですね。仕事柄――」

 完全にデイビットを乗り換えさせた後は、無人のS3に手をかける。

「あ、何か手伝いましょうか?」

「いいえ、空様。私の仕事ですので」

 そう言った彼女は、まるでパイプ椅子でも担ぐような動作でS3を担いだ。見た目は重そうな巨大アルミフレームの3輪だが、実際にはかなり軽いのだろう。スポーツバイクの見た目と重さが比例しないのは、珍しい事ではなかった。


“それでは、ホテルの部屋まで私が同行しますか?”

 長瀬の問いに、デイビットは首を横に振る。

“大丈夫ですよ。自分で行けます”

“そうですか。それでは私もこのホテルで待機します。何かありましたらご連絡ください”

“ああ、ご苦労”

 左右の車輪を逆方向にひねったデイビットは、その場で向きをくるりと変える。

“さあ、行きましょうか。お二人さん。本日のホテルは、負けちゃったワタシのおごりです”

 ハンドルリム(車輪の横に取り付けられた持ち手)を掴んだデイビットは、漕ぎ出そうと腕に力を入れた。

“……無理すんなよ”

“オー?”

“いや、アタイらとの勝負もそうだけど、ずっと2週間以上も走り続けてきたんだ。腕もパンパンなんじゃないか?車いすくらいならアタイが押してやるって”

 茜が手押しハンドルを握った。

“茜さんも、走りすぎて脚が疲れていませんか?ワタシには分からない感覚ですが”

“まあ、疲れてるよ。だからお前の車いすを杖代わりに使わせてもらう。Win-Winだ”


 妙に板についている茜の動作に、空は思い出す。

「そう言えば、茜の家ってお医者さんだっけ?」

「ああ、診療所だよ。母屋は別にあるから、アタイも仕事場に行ったことはないけどな」

「あ、じゃあ車いすを押すのは……」

「初めてだな。乗ったことはあるけどさ」

 それについては、空も覚えている。片足を自転車事故で骨折した茜は、しばらく車いすで登校し、校内では松葉杖だったか。

「まあ、その話はいいだろ。アタイも話したくないし」

「あ、そうだよね。ゴメン」

 空は引き下がった。それから、話題を英語の勉強の話に移す。デイビットの英語はゆっくり喋ってもらえばギリギリ聞き取れたし、空の拙い英語も一応は伝わった。7割ほどは。

(そうだよね。自転車で事故を起こした話なんて、茜のプライド的に語りたくないよね)

 と、空は理解していた。


 実際に茜が嫌がった話題は、そっちではない。

(アタイの親の話……まして診療所なんて、どうでもいいだろ)

 こっちである。

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