第29.5話 少女と銀世界とスノーバイク
物語は、その日の朝――まだ空がアギトと遊んでいた頃にさかのぼる。
その時間、ニーダはまだホテルにいた。
(――雪)
おそらく今日中に滋賀県を抜けられるだろうと予想したニーダは、この先の天気予報を見ていた。
シャワーを浴び終えた後で、背中まで届く髪は湿ったまま。大きな瞳をやや伏せて、スマホを眺めている。その顔には何の感情も浮かんでいないが、
(――これは、まずい)
表情に出ないと言うだけで、内心では焦っていた。
体調はいいかと問われれば、正直悪い。昨日は雨に濡れてしまったせいもあって、肉体的にも疲労していた。加えて、自分のせいで鹿番長が犠牲になったという罪悪感から、夜もろくに眠れていない。
それでも、レースは続くのだ。たとえどんな状況でも、走らなくては注目も得られない。
(――生き残ったのが私ではなく、鹿番長だったら……)
つい、そんなことを考えてしまう。彼の車体なら、雪道でも恐れず走ったことだろう。何より、頑丈そうな男だ。雨にやられたくらいで体調を崩すこともなさそうである。
しかし、彼は突き落とされてしまった。折れたフレームは元に戻らない。そのくらいは分かる。
(――私の乗るハイモッドでは、さすがに深い雪には対応できない……なら、秘密兵器の出番)
決意を固めたニーダは、裸のままでベッドに座り込んだ。スマホ画面を電話に切り替え、コールする。
電話の相手は、『いつでも頼ってくれ』と言ってくれた人物。しかし、ニーダができれば頼りたくなかった相手だった。
その男は、別に大会参加者ではない。あえて言えば、ニーダのスポンサーだ。
『はいはい。ニーダちゃん。久しぶりやな』
たったの3コールで出た彼に、ニーダは用件だけをサラッと伝える。
「――エイプ。アレを使おうと思う。持ってこれる?」
『はいよ。どこに運ぶんや?』
「――滋賀県の県南。あと30分で」
『え?いや、冗談やろ。大阪から車飛ばしても、1時間半はかかるで』
軽い声に、笑うような息遣いを混ぜる電話の相手――エイプと呼ばれた男は、緊張感のない様子で言っていた。
それに対しては別に気を悪くしないニーダは、ルートを確認する。
「――それじゃあ、1時間半後。詳しい合流地点は追って伝える」
『あいよ。ほな、近くまで行ったらまた電話するさかい、そん時に決めたらええな』
「――うん。よろしく」
電話を切り、すぐさま支度をする。少しでも先に進んでおいた方が有利だ。
髪をとかしている時間はない。バスタオルで適当に拭いたボサボサ髪を、ヘルメットで無理やり押さえつける。
別に体調不良のせいではなく、生まれつき顔色も悪い。が、化粧などしている時間もない。乾燥しやすいガサガサの唇をひと舐めして、冬用の防寒ジャージに袖を通す。さっさと着替えると、ビンディングシューズを履き、ホテルをチェックアウト。
(――女子力の欠片もない。まあ、いつものことだけど)
颯爽と、愛車であるCannondale F-SI
それから、100分ほど後――
「おー、ようやく来たみたいやな」
コンビニの駐車場。その奥に停めてあったハイエースから、運転手の男性が出てくる。エイプだ。
ショートモヒカンに猿顔の、背の低い男。年齢は20台前半くらいだ。手足はだらんと長く、猫背なので余計に小柄に見える。背のわりに肩幅はある方だし、姿勢を正せば格好がつくと思うのだが。
そんな彼の横に、ニーダがハイモッドを停めた。油圧式のディスクブレーキは、カラカラと軽い音を立てて急制動する。
「待っとったで。ニーダちゃん」
「――来てくれてありがとう。エイプ」
「ええて。俺ら仲間やろ」
早速と言った手つきで、エイプが車から何かを取り出す。
それは、改造キットだった。自転車のホイールと同じ幅しかない、細いキャタピラー。
K-Track
「――エイプ。そっちを持って」
「あいよ」
ハイモッドのサドルを、エイプが持つ。続いてニーダが、後輪のスルーアクスルを外す。脱落したホイールの代わりにはめ込まれるのは、先ほどのキャタピラー。
「しっかし、えげつないな。マウンテンバイクの後輪をキャタピラーに変えて、前輪をスキー板に交換。スキー場で見た『スノーモービル』と、発想は同じやな。けど……人力で動くんかいな?」
キャタピラー本体ごと回転しないように、突っ張り棒のような装置を取り付ける。長さを調整して、シートステーに取り付け。後は普通に後輪を嵌めるのと変わりない。
スプロケットは6段変速。もともとダウンヒルバイクでスキーゲレンデを降りる設計だったのか、それともルック車に取り付ける前提の装置だったのか、詳細は判明しない。
「――これ、XTRの11速シフターで変速できるの?」
「ん?ああ……まあ可能ではあるやろ。多分、インデックスで動くっていうより、フリクションに近い方式になるんやろうけどな」
ギアの変速方法は、大まかに分けて2種類ある。インデックスとフリクションだ。
インデックス(段階方式)は、レバーを引くたびに1-2-3-4-5-6と切り替わる方式。一方のフリクション(無段階方式)は、レバーを程よい回数引いて、適当な位置になるまで押し込む方式だ。
つまり――
「――雑」
「せやな。雑なつくりしとんで。値段もたった8万円の改造キットや。ホイールセット前後の値段と考えても安い。玩具みたいなもんや。……楽しい雪遊びやったらええけど、レースに使えるんかいな」
「――信じてみる」
エイプが車体を持ち上げている間に、ペダルを回してみる。三角形のゴムクローラーが、常に変形する形で回転。おかげで重い。地面についていないのにこの抵抗値だ。
「これ、通常の25倍もトラクションかかるんやて。ホンマかいな」
「――試してみる」
「おう。ぜひ頼むわ。結果が分かったら教えてな。動画にするさかい」
前輪は、まだスキー板と交換しない。それをしてしまうと、雪のない道を走れなくなる。
後輪だけをキャタピラーに変更し、それ以外はいつも通りのハイモッド。
「――それじゃあ、私はもう行くね」
ニーダが背中に、K-Track純正のバッグを背負う。改造に使ったキット一式を積み込めるバッグだ。これさえ背負っていれば、いつでも自転車をノーマルの状態に戻せる。とても重いのは我慢だ。
「あ、ちょい待ち。ニーダちゃん」
「――どうしたの……っ!?」
振り返ったニーダは、突然の事態に面食らった。
キス――
完全に不意打ちで、エイプに唇を重ねられる。
「――んっ!んんーっ」
抵抗しようとするが、距離が近すぎで出来ない。既に片方の手で腰を抱き寄せられ、もう片方の手は頭を抱えるように回されている。
間合いさえ取れれば、デスペナルティと殴り合っても勝てるほどのニーダ。しかし、それは速度と脚力が生かせればの話だ。今の彼女に、その力は出せない。
むしろ、力が抜ける。筋肉は弛緩して、全身に鳥肌が立つ。
「――はぁっ!……はぁ、はぁっ」
時間にして、おそらく数秒。体感的には数倍長い口づけの末、ニーダはようやくエイプを突き飛ばした。いや、エイプがニーダを放したのかもしれない。いずれにしても、ようやくまともに呼吸ができる。
「――エイプ。あなたには感謝している。でも、私はそんなつもりじゃない」
エイプは、今をときめく人気youtuberだ。資金も、人脈も持っている。
今回のスノーバイクキットも彼が買ってくれたものだし、このハイモッドだって彼が調達した車体だ。その額およそ75万円。まだ大学生のニーダには、すぐ返せる金額ではない。だからこそ、
「――今回の支援、とても感謝している。いつかはこの自転車代も返す。けどっ……こんなのは、やだ……」
まだ純情な少女にとって、唐突な仕打ちに対する、当然の怒りと嫌悪感。
それを一身に受けたエイプは――
「え?なにが?」
「――え?」
意味が分からない。と言った感じで頭をかいていた。そのうちニーダの言っていることを理解したとばかりに、手のひらをポンと打つ。
「あ、そうか。ニーダちゃんは、今『襲われる』とか思ったんやな。そんなわけないやん。俺にとってキスは挨拶みたいなもんやて。誰にだってしとる。そうやろ?」
あっけらかんと言い放った。それはもう、罪悪感のかけらも感じさせない、カラッとした爽やかさで。
「――そう言えば」
こういう男だった。
例えば、こないだの動画撮影だってそう。商店街のみんなに協力してもらった撮影だったが、最後に全員集合して挨拶するシーンで、全員にキスをしていた。
カメラマンの親友。アシスタントの幼馴染。近所の八百屋のおやじと、その嫁。魚屋の店主と、その跡取り息子。調剤薬局の爺さんと、マスコットのカエル。集団登校中の小学生。騒ぎを聞きつけた警官。
老若男女問わず、全員と、だ。
「――そ、そう。なら、ノーカン。私のファーストキスは守られた」
「おいおい。ニーダちゃんかて、俺以外でキスした相手おるやろ。俺をノーカウントにしてもファーストキスはもう無いて」
「――うるさい。ノーカン」
荒れた唇が嫌に湿ってる。それを袖で強引に……血が滲みかねないほど強引に拭って、ハイモッドに跨る。荒々しくペダルを踏みこむと、キャタピラーが稼働。地面をしっかり蹴って、ゴロゴロと進む。
リアスプロケットは最大28Tと重いが、それでも、怒りに任せて踏み込んだ。
そんな彼女が、空や鹿番長に追い付くのは、実に数時間後のことである。
(――あれは、茜?それに鹿番長も)
3日前に友達になった茜と、それから昨晩自分をかばってくれた鹿番長。その二人が元気そうにしていることに、まずは安心する。
(――それから、茜の隣にいるのは空って男の子?……あれ?男の子?)
茜やミス・リードの実況で話には聞いていたが、実物を見ると本当に男かどうか怪しい見た目である空。あとは、砂浜で一緒に走った綺羅という青年もいた。残ったフルフェイスヘルメットの男性が、先ほどから実況されているトライク二等兵か。
(――でも、よかった。鹿番長が走れてて……)
一瞬、ブレーキをかけて話しかけようかと思った。けど、少し恥ずかしいような気がして――
何より、今はレース中で、絶好の好機でもある。ここを逃すことはできない。
その5人の横をズバッとすり抜けて、前だけを見つめる。
「――ミス・リード。私はこれから、一位を取りに行く」
『お、好戦的ですねぇ。それじゃあ、最後まで中継させてもらいますよぉ。頑張ってくださいねぇ』
「――うん。だから教えて。アマチタダカツまでの距離」
『はいはーい。現在は……残り80km差ですねぇ。これならすぐに追いつくかもしれませんよぉ。今のニーダさんなら』
「――ありがとう」
ぐいぐいと速度を上げて、線路沿いの道を突き進む。雪が深くなり、前輪は雪に沈む。下はアスファルトだが、数日にわたって積もったり溶けたりを繰り返した雪は、硬さもまちまちであった。
(これは、悩みどころ……)
ハイモッドのヘッドチューブ上、ほぼステムの真横まで来ているサスペンションロックレバーを、細かく弄る。
あまり大きなストロークを持たせては、ペダルを漕ぐたびに車体が沈み込んでしまう。ただでさえトルクをかけないと動かないキャタピラーだ。そのトルクをサスペンションに奪われていては困る。
とはいえ、ロックしてしまえば雪の凹凸に対応できない。迷うところだ。
(――ぎりぎりのバランスを確保。重心をなるべくリアに寄せて、ペダルを後ろに蹴りこむように回す……かな?)
もともとの勘の良さで、この車体の使い方を身体で理解していく。
いや、勘の良さなどと言えば、何の努力も苦労もなく手に入れた能力のように聞こえてしまうだろう。しかし、それは違う。
彼女は今まで、いろんな乗り物に乗ってきた。ローラースケート。キックボード。スケートボード。その他、地面を転がす乗り物だけでも十種以上だ。夏は海へ、冬はゲレンデへ行って、それはもう様々な体験をしている。
そんな体験が、自らの身体に物理法則を教えてくれる。
目の前に、跨線橋が見えてきた。チャリチャンのコースとして一本封鎖しているのだろう。周囲には近隣住民のために、迂回路を示した立て看板もある。まるで道路工事中みたいだ。
右カーブ。今まで線路と平行に走ってきたが、その線路を越えるために直角に曲がる。道幅は自動車1台が悠々と通れるほど。2台すれ違うのは厳しい程度しかない。
もちろん、普通の自転車ならば難なく曲がれるところだが、ニーダは大きく外側に膨らんだ。
(――このキャタピラーは、いうことを聞かない)
自転車のタイヤであれば、接地面は非常に小さな『点』になる。そのため、曲がろうとしたときにその点を中心に車輪が向きを変えてくれるのだ。一方、今使っているキャタピラーの設置面は、前後に長い『線』だ。小回りが利かない。
アウト・イン・アウトだ。車線を左右いっぱいに使って、もっとも緩やかなラインを描く。必然、距離も長くなる。その長さを惰性だけで走り切ることはできない。摩擦抵抗が大きすぎる。
リーンイン。上半身だけを大きく倒して、車体から身を乗り出すように体重移動する。その方法なら、車体の角度は地面に対して垂直を保てる。これならペダリングしながら曲がっても、地面にペダルをぶつけない。
そして、スローイン・ファストアウト。本来は自転車でやるようなことではなく、モータースポーツの業だ。コーナーの途中で速度を上げて、直線に復帰する頃には速度を回復する。
すべてをやってのけたニーダは、しかしはたから見れば『普通に曲がった』だけのように見えただろう。ミス・リードをしても、
『ニーダさんがコーナーを曲がりましたぁ。へぇ、あのキャタピラーって、ちゃんと曲がれるんですねぇ。
あ、曲がると言えば、皆さんの彼氏は右曲がりですかぁ?左曲がりですかぁ?』
などと、そこにつぎ込まれたテクニックには触れないままである。
急な上り坂を、ギアを落とすことで越える。
(――いくら落としても、せいぜい26T×28Tで0.92倍までしか落ちない……せめていつものXTRロケットが使えれば、リア40Tの0.65倍まで落とせるのに)
などとギア比を思い出しながら、それでも振り子ダンシングで乗り切る。キャラピラーの幅自体は狭いので、左右に傾ける分には邪魔にならない。クローラーベルト自体の裏側にも溝が彫ってあるので、ベルトが起動輪から外れることもない。
(――やっぱり、ガタガタするのは問題だけど)
空気入りタイヤではないので、路面からの振動には弱い点が見受けられる。後ろの遊動輪は多少のサスペンション効果を持っているが、起動輪はクローラーを介して地面につきっぱなしだ。フロントアイドラもない。
ゴムクローラーの外側は、たくさんの爪がついていた。柔らかい雪に突き刺さるように設計されているスパイク。それがアスファルトまでぶつかると、ゴツゴツと細かい突き上げを発生させる。
この震えが、手首や足首の関節を揺らす。少しずつ、前腕やふくらはぎの筋肉にも疲労がたまる。
下り坂。思わずサドルに腰を下ろした。先ほどまでの振動が下腹部に直接伝わる。
(――気持ち悪い)
長時間乗り続ければ、吐き気などを催すかもしれない。思った以上にアスファルトと相性の悪い部品だ。
やがて、雪も深くなってくる。
(――よかった。これなら走りやすい)
柔らかい雪は、キャタピラーの振動を吸収してくれていた。そもそも、キャタピラーとアスファルトが直接接触することもなくなっている。
日も暮れてきて、天候も悪化する。吹雪だ。
ごうごうと吹く風の音で、ミスり速報も聞こえにくい。
『ここで空さんと茜さんがコースアウト。鹿番長さんと綺羅さんもですねぇ。
どうやら4人で旅館一部屋をとって、相部屋で宿泊費を浮かせる魂胆のようですぅ。茜さん、今はDNA鑑定で誰がパパなのか分かりますから、安心して楽しんでくださいねぇ。
他の選手も多くがコースアウトし始めましたねぇ。そろそろ晩御飯を食べて、ついでにもう寝ちゃおうって流れですよぉ』
(――もう、そんな時間?)
周囲がとっくに暗いのは気づいていたが、選手たちが休み始めるほどとは思わなかった。時計を見れば、もう20時を回っている。最近、少しずつ夜更かしが当たり前になってきているようだ。
(――私も、せめて食事を摂るべき?……いや)
もうすぐ、アマチタダカツに近づけるはずだ。食事も睡眠も、彼を追い抜いてからでいい。
ジャージのポケットから飴を取り出し、口に入れて、包み紙はポケットに戻す。かえってお腹がすくような感覚を味わったが、それはきっと錯覚だ。
迫ってくる左コーナーを曲がろうとして、ハンドルを切る。異変はその時に起こった。
あろうことか前輪の方が滑り出し、車体は直進し続けたのだ。慌ててブレーキをかけるも、すでに車体は横倒しになりつつある。
「――しまった!」
思いっきり転ぶが、下は雪だ。痛くはない。体についた雪は急に解けて、ジャージを濡らす。
(――冷たい)
やはり、キャタピラーの進行方向を変えるのは難しいらしい。前輪がタイヤのままでは、雪が深い地域を走るのは不向きだ。
そんな時こそ、背中に背負っていたもう一つの部品を使う時だろう。
ニーダが取り出したのは、軸にスキー板を片方だけセットしたようなパーツ。
(――こういう時、スルーアクスルは不便)
サドルバッグに入れていた携帯ツールを使って、車輪を固定するネジを外していく。ホイールを外すと、そこに先ほどのスキー板を付けた軸をセット。さらに前後に曲がらないように、しっかりとベルトで固定する。
(――これ、レフティとの相性が悪いかも)
スキー板の反対側には、きっちりと2本のフォークを挟むための、4本のピンが取り付けられている。これで勝手にスキー板の角度が変わらないようにするわけだが、ニーダのハイモッドにはフォークが1本しかない。必然、使えるピンは2本だけだ。
取り付けが終わったら、再び自転車を地面に置いて跨る。コースに対してわざと水平にせず、コーナーの感触から確かめる。
乗った感じは、やはり沈まない。雪の中に埋もれていくことがないので、まだ走りやすい。抵抗感も先ほどと比べれは感じにくいようだ。
サスペンションは固定。この状態でも、今度は凹凸を感じない。
十分に加速して、ハンドルを切る。フロントブレーキは使い物にならないが、そもそも速度が上がりすぎて困ることはなさそうである。
ハンドルを左に曲げて、再びリーンイン……しようと思った時、車体が右に傾いた。
(――逆エッジ?)
スノーボードの経験があるニーダは、その原因をすぐに理解する。この手のボードには、進行方向に対して左右に『エッジ』があるのだ。
左に曲がりたければ、板を大きく左に傾けて、左側のエッジを雪に当てなくてはならない。車体を傾けないリーンインが使えなくなる。
(――これは……思いっきりリーンアウトで曲がるしかない)
先ほどとは逆。上半身を垂直にしたまま、下半身と車体だけを曲げる。大きく傾いた重心によって、思った以上に急ターン。
キャタピラーのスタッドは、真横に向けて溝が彫ってある。そのため前後には滑りにくいが、左右には比較的滑る。前方のスキーを起点に、後輪を滑らせてドリフト。これが……
(――この車体の曲がり方)
おおよそ自転車と思えない軌道を描くじゃじゃ馬。ニーダはそれを、自分が今まで乗ってきた様々な車体の知識で扱う。
何時間が経過したか。
アマチタダカツは、悠々と一人で自転車を押していた。しばらく前までは担いでいたのだが、それは雪が深すぎたからだ。今いる場所は、まだ雪が浅い。
一歩一歩、まるで飛ぶように蹴りだして走る。普通に走る方法では、雪道で滑る可能性が増えるのだ。なので、垂直に飛ぶように蹴りだし、地面を踏みつけるように着地する。
当然、体力は使う。
(積雪も浅くなってきたか……そろそろ、自転車に乗れそうであるな)
そう考えた時、耳元のヘッドセットから自分の名前が聞こえた。
『繰り返しますぅ。ニーダ選手、ついにアマチタダカツ選手に接近しましたぁ!
大会初日から一度も奪われなかった暫定一位の記録を、ニーダ選手が打ち破るのか。それとも他の選手同様、惜しいところで今回も勝てないのか……
中継ドローンまだですかぁ?……え?風の影響でうまく飛べない?
そんなぁ!それじゃあ実況席にいる私も、この放送を見てドキドキしている視聴者さんも見れないじゃないですかぁ。こんな目隠しじらしプレイは嫌ですぅ』
その実況を聞いたとき、アマチタダカツは押っ取り刀で自転車に跨っていた。反射的に、戦いに挑む最低限の姿勢を示す。
それから、改めて後ろを確認する。そこには確かに、小柄な少女がいた。
「――見つけた。アマチタダカツ」
「ほう……」
顔を合わせるのは初めてのはずだが、実況から相手の名前くらいは分かる。しかし、
(礼儀と云うものもあるだろう)
せっかくの挑戦者である。それも数日振りの、だ。自分に追い付いてくること自体が困難だと知っているタダカツは、それを成し遂げた彼女を手厚くもてなそうとした。
もちろん、自転車乗りとして。
「我こそはアマチタダカツ。暫定一位の伝説を持つ者なり!我に挑みし者よ。残った命を全て燃やして戦うがいい。今日ここに、うぬが全てを置いてゆけ!」
びりびりと、周囲の空気を揺らすほどの名乗り。近くにあった樹から雪が落ちたのは、偶然か、それとも今の声によるものか。
対して、少女の声は小さなものである。
「――私はニーダ。あなたの持つ話題性、分けてもらう」
勝負を始める合図など、お互いに要らなかった。ニーダはすでにペダルを漕ぎ続けている。タダカツも、すぐに走り始める。
タダカツの乗るロードバイクが、一瞬だけ後輪を滑らせた。空回りする車輪をブレーキで押さえつけ、再び体重をかけ直す。その間、ペダルから一度も足を離さない。
まるでカタパルトに押し出される戦闘機のように、タダカツの車体が急加速する。
(――ロードバイクなのに、この雪の中で安定している……まるで、太いタイヤを持ったグラベルロードみたいに)
その車体の全容は分からないが、少なくとも見た目は平凡なロードバイク。特にタイヤが太いようには見えない。ならこの安定感とグリップはどこから来るのだろう?
(――私が勝ったら、その時に教えてもらおう)
勝つつもりでいるニーダにとって、この考え方は当然であった。
『あ、ようやく中継車両が入れましたねぇ。お邪魔にならないよう、少々距離の離れたところから撮影していきますよぉ。
盗撮みたいでドキドキしますねぇ。ちょっと脱いでみようかお嬢ちゃん。なーんて』
「――いいよ」
『いいんですかぁ!?』
別にミス・リードに求められたからと言うわけでもないが、ジャージ前のファスナーを、胸の中央まで開ける。ちょうど走りすぎて暑くなっていたのだ。冷たい風が気持ちいい。
冬はまだ、体温調整がしやすい季節かもしれない。風を通さない恰好をすれば、運動による体温上昇で温まる。そしてファスナーひとつ開けるだけで、汗ばんだ体を急激に冷やせる。
もちろん人並に恥ずかしくはあるが、今は重要な勝負の最中。なので些細なことを気にすることはない。
「――」
最後の力を振り絞り、せめて『アマチタダカツを抜いた女』くらいの称号は貰い受ける。温存した体力はほとんどないが、明日の分まで絞り出すつもりで、ペダルを漕いだ。
シャーベット状の雪はジャリジャリと音を立てて、スキー板の裏面を擦っていく。キャタピラーは雪を跳ね上げ、ニーダの背中を凍らせる。髪の毛はもうがっちり凍っていた。
顔を上げてみれば、目の前にはタダカツがいる。もう手の届くほどの距離感じゃないだろうか。……そう思って地面に目をやれば、彼の残したタイヤ痕は長く尾を引いていた。思ったより遠い。いや、遠ざかっている?
「覇ぁっ!」
タダカツが、一息で大きく、声を張り上げた。
(――なんのつも、り……で?)
その声は、ニーダの鼓膜を震わせ、腹にまで衝撃を与える。その瞬間から、急に車体が重くなった。
(――え?なんでっ)
呼吸が整わなくなった。鼻が詰まったように苦しくなり、思わず口を大きく開ける。目の前が暗転した。頭痛まで起きる。まるで、タダカツに呪いでもかけられたかのように……
(――呪い?そんな非科学的な)
ニーダは、もたれかかるようにハンドルに体重を預けた。前を向いていられないほどの吐き気と、動悸がする。
なんとか片目を開き、にじんだ視界で地面を見る。前はもう向けないが、地面にはタダカツの残したタイヤ痕があるのだ。これを追って走れば、いずれは追い抜けるだろう。
「ほう……我の秘儀を受け、それでも尚、走るか。天晴である」
タダカツの声が、ほぼ真上から降ってくる。
(――真上?)
『今、ニーダさんがタダカツさんと並びましたぁ!』
たしかに、視線の斜め横には、彼のタイヤが見える。遠くからは細く見えたそれは、近づくと自分のMTBと大差ないほど太い。
(――あれ?彼の車体は、普通のロードバイクじゃ……?)
痛む背中を伸ばして、横を向く。するとどうだろう。
そこにあったのは……
「――え?」
まるで化け物でも見たかのように、ニーダの目が見開かれる。ただでさえ悪い顔色はさらに青ざめ、寒くもないはずの身体は震える。
「――なに、この車体。まるで……」
驚いているうちに、次の異変が生じる。
ガガガガガガガガガッ!
「――っ!」
前輪のスキー板が滑った。すぐに立て直そうと、滑った方向にエッジを立てて、車体を反対側に倒す。しかし、スリップは収まらない。
「――なんでっ……きゃあっ!?」
本日何度目になるか分からない転倒。ビンディングシューズから足も外せないまま、思いっきりひっくり返る。衝撃で、ヘルメットがへこんだ。
「――う、あ」
今まで体を守ってくれていた雪が、もうない。
つまり、雪が浅くなり過ぎたのだ。だからスキー板がきちんと機能しなくなった。そういう事だろう。
「どうした。立て、ニーダ。我との戦いは終わりではない!」
自転車を降りたタダカツが、ニーダに歩み寄って言う。地面に這いつくばる形になったニーダは、懸命に立ち上がろうとした。しかし、腕にも脚にも力が入らない。
再びの転倒。今度はビンディングを外した状態で、あおむけに倒れる。その時、背中でガシャリと音がした。
(――そうだ。ホイールセット、背負ってたんだ。これに換装すれば、まだ走れる)
スキー板を外して、元のホイールに戻せばいい。そう考えたニーダは、背負っていたケースを降ろした。
ポケットから携帯ツールを取り出し、前輪のスルーアクスルを緩めていく。
「我も手伝おうか?」
「――大丈夫」
震える手で、なんとか六角レンチを差し込む。が、回らない。そのうち、レンチが手から落ちる。
「――あれ?」
視界がぐるりと横になり、目の前から自転車が消える。代わりに現れたのは、美しい星空。どうやら、また横になってしまったらしい。
もう、感覚がない。手足の先は痺れていて、まるで切り落としたようだ。胸に当たる開けっ放しのファスナーだけが、冷たいという感触をくれる。背中は凍ったアスファルトに当たっているはずだが、別に痛くも寒くもない。
「ニーダ?起きろ。我も手伝おう。早く車体を立て直せ」
タダカツが呼びかけるが、もう彼女の意識は遠くへ行ってしまった。
(――ふかふか)
柔らかな感触が、ニーダを包み込んでいた。暖かくて、優しくて、安心できる感触だ。でも、どうしてそんな気持ちになっているのかは分からない。
(――あ、天国?)
そう思って、目を開ける。そんな彼女が見たのは、確かに天国にいるような気分にさせてくれる、綺麗な照明だった。
がばっと跳ね起きる。まさか本当に天国ならシャレにならない。
そうやって身を起こしたとき、自分がベッドに寝ていたことを初めて認識した。軽い布団に、綺麗なシーツ。そして、ピンク色の多い部屋。枕は二つ。片方はニーダが使ったもので、もう片方は未使用だ。
壁は一面が鏡張りで、そこにはおとぎ話に出てくるようなメルヘンな部屋と、大きなベッドにぽつんと座るお姫様が映る。ニーダがこてんと首をかしげると、鏡の中のお姫様も同じように首を傾げた。
(――私?)
どうやら鏡の中のお姫様は、綺麗に髪を梳かした自分であるらしい。タダカツと戦っていた時は、髪なんてカチコチに凍っていたはずだが……
と、そこにきて自分の服装を顧みる。
身に覚えのないバスローブのみを、乱雑に羽織ったあられもない姿だった。
「――わわわっ」
急いで前を閉じると、記憶が飛んでいた時間を心配する。誰に何をされて、それからどうしてこんな部屋にいるのだろう?ニーダだって、もうすぐ20歳である。この部屋がどういう部屋なのか、知らないほど子供でもない。
スリッパを履いて、鏡に近寄る。端には、ハイモッドが置いてあった。まだキャタピラーとスキー板を履いたまま、しかし軽く雪を払った形跡がある。
ハンドルには、一枚のメモが張り付けられていた。
『ニーダへ。
ここは、貴公が倒れた場所から近い宿である。あの天候の中、放置するわけにもいかぬと判断した故、車体ごと運ばせてもらった。
愉しい戦いであった。また挑んでくる時を、楽しみに待つ。
追伸。この宿をとったのは近かったからに他ならない。また、服は濡れていたので脱がせた。
我が信ずる自転車の神に誓って、やましい気持ちは微塵もない』
「――そう。助けてくれんだ」
迷惑をかけてしまったという気持ちがまず沸き起こる。続いて、知らない男性に脱がされたという恥ずかしさがこみ上げ、自分でも勝手だと思う苛立ちに変わる。だが、
「――ノーカン。変な意味でされたことじゃないし、意識するのもお門違い。だから、ノーカン。ノーカン」
どこかの猿が聞いたら、「ニーダちゃんの初めては何回あんねん」とでも言いそうな話だが、今回ばかりは本当に何もされていない。
だからこそ、ニーダは安心して、もうひと眠りすることにした。フロントに尋ねてみれば、すでに一晩お泊りで料金ももらっているとのことだ。
結局、伝説は塗り替えられなかったのである。
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