第30話 これからの敵と味方と自分
……怪談。それは科学では説明できない、恐ろしい体験などを語った話である。
真っ暗な部屋に、不気味な明かりが一つだけ灯る。その明かりに下から照らされた人物……鹿番長が、ゆっくりと語り始めた。
「これは、俺が聞いた
音程的にも音量的にも、静かに語る。普段の彼が持つ『喧嘩屋の威圧感』は、今は全く感じられない。
青白い顔をした彼は、この世のものとは思えないものを見たと――そんな表情で視線をさまよわせる。ゴクリ――と誰かが生唾を飲む。茜だろうか?それとも空か、綺羅か。
その普段は勝気な唇が、小さく震えながら声を紡ぐ。
「むかーし、むかし……あるところに、お爺さんとお婆さんが……」
「待った。番長」
綺羅が止める。
「何だよ。始まったばっかじゃねーか。キラ、もう
「チビるか!つーか、俺様たちは百物語をやっているわけだが……お前が話そうとしたのは本当に怪談なのか?」
「おうよ。浦島太郎っつってな。女に騙されてジジイにされたっ
「いや、番長。ちょっと黙れ。あと百物語はお開きだ」
綺羅が言って、茜が部屋の蛍光灯をつける。照らし出されたのは、畳敷きの4人で泊まれる部屋だった。
トライクとの戦いは、結局のところ鹿番長の一人勝ちで終わった。空や茜は言うに及ばず、他の二人さえ勝負にならなかったのだ。
トライクはモーターがデッドウェイトになって、思うように前に進めなかった。単純に体力差もあるのだろう。体格は良くても、自転車に使う筋肉は足りなかった。一方の綺羅も、2WDとスパイクタイヤを使っておきながら転倒。雪質と相性が悪かった。
まあ、それはさておき、
「今夜の宿代だけどよ。4人もいるんだから
鹿番長のこの意見に、
「最強かどうかはさておき、俺様は賛成だ。何しろ俺様もギリギリ20歳だが、あまり金がない学生の身分だからな。そもそも大量にあったはずの資金は、すべて自転車コレクションに使ってしまったし」
と、綺羅が賛成する。まさか綺羅が成人していると思っていなかった3人は、少し驚いた。
「僕も、いいと思います。みんなで大部屋に泊まるのって、なんだか修学旅行みたいですね」
空が目を輝かせる。なんなら自転車に乗っているときより嬉しそうなのは錯覚ではあるまい。まあ、お泊り会が楽しいお年頃ではあるのだろう。
「アタイは反対だ」
茜だけが、首を横に振った。
「え?どうして?」
「おいおい。そりゃ年頃の女子が、男3人と一緒に寝るかよ」
空はともかく――と言いかけた茜は、その言葉を飲み込む。空と一緒の部屋で寝たことは何度かあるが、それでも抵抗感がないのは何故だろう。気を許しているからなのか、信頼しているからなのか……あるいは男に見えないからなのか。
「あ、そういやアカネは
「俺様も不思議と忘れてたな。まあ、子供に手を出す趣味は無いから安心してくれ。俺様の好みは大人の女性なんだ」
「だ、大丈夫だよ、茜。女の子の魅力は胸だけじゃないっていうか、茜の魅力は女の子らしさだけじゃないっていうか……」
「フォローに回った空が一番アタイに失礼だな!」
結局、多数決で大部屋に泊まることになった4人。ミス・リードの勧めで協賛スポンサーの宿を手配してもらい、今に至る。茜の複雑な乙女心は、本人が思っている以上に配慮されなかった。
「番長。言っておくが、浦島太郎は怪談じゃない」
綺羅が言う。
「それに、多分その話にお爺さんとお婆さんは出ないと思うよ」
空が言う。
「いや、空。ツッコミを入れるとこ違う。つーか、アタイは寝るぞ。明日も早い予定なんだから」
茜が言って、周囲をしらけさせる。あくまでレース中という意識を忘れない茜と、すっかり修学旅行気分の男子3名との間に空気の差を感じる。一番年上である綺羅が、一番子供みたいなのは何故だろう。
「よし、じゃあ俺様から次の提案だ。枕投げをしよう」
「しねーよ。アタイは寝るって言ってんだろうが」
「試合中に寝る行為――すなわちネオチングは反則だ。マイナス100ポイントだな。それと全員から枕をぶつけられる」
「理不尽だろうが。アタイに拒否権ないのかよ?そしてマイナス100ポイントって何だよ」
「投げてヒッティングさせた場合は100ポイント。投げずにヒッティングさせれば200ポイント追加だ。先に8000ポイント取ったチームの勝ち。JMNA(日本枕投げ協会)の公式ルールだぞ。知らないのか?」
「え?……ちょっと待てよ。スマホ、スマホ――おい。息をするように真顔で嘘を吐くなよ。ググっちまったじゃねーか」
「よし、じゃあ枕投げをやるぞ。男子チームと女子チームで分けて対抗戦だ」
「話を聞けよ綺羅。つーか、それって女子はアタイだけじゃないか」
「空君も女子チームだ」
「ええっ!?」
二人のコントを観客気分で見ていた空は、急に話をふられて驚く。見ている鹿番長は、笑い転げるばかりだった。
――こんこん。
扉がノックされる。入って来たのは、仲居さんだった。
「お楽しみ中、失礼します。当旅館の景色と、静かな森の音なき音、お楽しみいただけていますでしょうか?都会の喧騒から離れ、ゆったりと時が止まったような風情を、多くのお客様に提供したいと私共は思っております」
仲居さんは笑顔で言う。目は笑っていない。
要するに『他の客に迷惑だから静かにしろ』という事だろうと認識した空たちは、無言で頭を下げた。
「さあ、寝るぞ。今度こそ」
茜が仕切って、布団に入る。
「言っとくけど、変な気を起こすなよ」
「ないな」「ねーよ」「大丈夫」
紳士諸君は狼にはならないらしい。そこに大きな安心感と、説明のつかない不満を感じながら、姫様が目を閉じる。
電気が消え、静寂が戻った部屋に、
「なあ、みんな……」
綺羅がささやく声が聞こえた。
「なんだよ綺羅。まだ修学旅行気分か?アタイは寝るぞ。明日もレースなんだからさ」
「ああ、その明日以降のレースについてだ。この雪道は4人で連合を組むとして、その後はどうする?」
「……」
突然の問いに、全員が言葉を詰まらせる。答えを見つけられないというよりは、眠いのだ。すぐに口を開いたのは、鹿番長だった。
「俺は、
狙うは優勝。つまり……
「アタイと同じだな」
もっとも、本気で優勝を狙っている鹿番長と、あわよくば優勝と思っている程度の茜では、若干の違いがある。別に、茜の方が覚悟が低いとか、そんな話じゃない。
「アタイは、プロのロードレーサーになりたいからな」
「そうなのか?」
初めて聞いた綺羅が、少し驚く。それはそうだろう。本当にプロを目指しているなら、自転車部のある高校からインターハイを狙ったりしなくてはいけない時期だ。
「受験はいいのか?……というか、チャリチャンで優勝したってプロにはなれないと思うぞ」
「アタイだって分かってるよ。つーか、アタイが今いるのは、その手前の段階。両親を説得できるかどうかなんだ。アタイの両親、自転車にもレースにも反対しているからさ。味方してくれてんのは、兄貴だけなんだよ」
茜の見立てが正しければ、あの両親が欲しいのは実績だ。茜が大会に出て、優勝とまではいかなくても、好成績を残す。そうすれば両親も認めてくれるはずだ。と、思いたい。信じたい。
そして、自転車に理解のない両親なら、チャリチャンとロードレースの違いは分からないだろう。国内の注目度だけならチャリチャンの方が上だし、これで実績を残せば、両親も分かってくれる。
茜に残された希望はあまりに不確定要素が多く、簡単にちぎれてしまう細い糸のようだった。まだ14歳と言う人もいるかもしれないが、もう14歳。スポーツ選手を目指すなら、スタートとしては出遅れてさえいる。
「なるほど。まあ、日本国内で開催される未成年の大会って言うと、インターハイくらいしか見せ場は無いものな。そのためには高校の学籍と、自転車部の入部が必要か」
「ああ。海外だとU18の一般人参加できる大会もあるらしいけど、日本では草レースくらいしかないはずだ。必然、両親の説得と、自転車部のある高校の入学。これがないとアタイは実績を作れない」
茜の主張を聞いて、綺羅は、
(若いな……いや、幼いのか)
と思った。
自転車に乗りたいだけなら、別な仕事をしながら趣味で続ける手もある。
それどころか、何の実績もないままでも、4人以上のメンバーを集めてJBCFに登録すれば、実業団として認められるのだ。日本で活動しているプロの半数は、会社の部活みたいな存在である。
「なあ、茜君。これから俺様が話すこと、頭の片隅に置いてくれないか?」
「は?まあ、いいけどよ」
茜は何を言われるのか分からないまま、綺羅の言葉に耳を傾けた。一方の綺羅は、今の茜には分からないと思いながら、未来の茜のために話をする。
「俺様に言わせれば、自転車のプロっていうのは、速い奴を言うんじゃない。速さを金に換える方式を持った奴がプロなんだ。お前は速さだけを武器に戦いたいみたいだけど、プロの世界はもっとシビアだぞ。スポンサーに媚びたり、観客を相手したりな」
そう言い終えた綺羅は、少しだけ後悔した。自分が言わなくても、いつか茜が勝手に気付く日が来ることだろう。なのにどうして、未来の茜ではなく、今の茜に言ってしまったのだろう。
実際、夢見る少女に突きつけるには不向きな話だった。
「……なにが言いたいんだよ」
茜がムッとして訊く。視線は合わせない。
「言いたいことは全部言ったよ。あとは……茜君にこの意味が分かる日が、来ないことを祈る」
二人の間に、剣呑な雰囲気が漂う。お互いに枕を翻し、足を向けて寝そうな勢いだ。
そんな空気を壊したのは、鹿番長だった。
「ああああああ!分かんねぇよ。二人とも
「うるせぇよ。声を抑えろ」
「俺様の耳がっ……がぁあっ」
今までが静かだったからこそ、余計にその声は大きく感じる。また仲居さんが飛んでくるかと思ったくらいだ。
「おう、アカネ。なんかプロとか実業団とかはよく分かんねえけどよ。ひとつだけ判ったことがある。俺とお前は
シンプルに勝ち負けを語りたいだけの、純粋な男の子の意見。それは、茜の心に共鳴する事だったし、綺羅が感じていた気まずさと罪悪感を和らげる話だった。
「そうだな。まあ、優勝はアタイが貰うぜ」
「冗談だろ?
楽しそうににらみ合う二人を見て、綺羅も笑った。
(ああ、俺もこうやって、少年の心をずっと持っていたかったな)
子供っぽく振舞って、枕投げだの百物語だのと提案して……そんな綺羅が求めていたのは、この空気だったんだ。
「ところで、綺羅はどうするんだ?やっぱり敵に回るのか?」
茜が訊く。言い出しっぺの綺羅は、一瞬迷った。
「ん……まあ、あれだ。番長について行こうかと思う」
「俺かよ!?」
「まあ、貸し与えたパーツを借りパクされたら、俺様としては大打撃だからな」
現在、鹿番長の267は、足回りのほとんどを綺羅のATB-1000と換装している。この部品だけでも盗まれたら痛手だ。
「絶対返すって約束しただろ。俺を信じろ」
「出会って一日二日で何を信じろっていうんだよ」
綺羅としては、2WD自転車のPRなどで参加している節がある。もはや参加することに意義があるだけで、優勝など最初から狙っていない。だからこそ、鹿番長について行くという選択ができるわけだ。
「チッ……邪魔なら置いてくぞ。キラ」
「もちろんだ。番長は全力で走っていいぞ。俺様は必ず追いつく。この手の予感はよく当たるんだ」
「それで、空君はどうする?もちろん茜君について行くのだろうけどさ」
綺羅が空に話を振る。布団に入ったままのトークは、意外と時間を忘れさせてくれるものだ。だからこそ、ここにいる3人は気づいていなかった。
「空君?」
「すぅー……すぅー……」
頭まですっぽり布団をかぶった空が、ゆったりと寝息を立てていた。どうやら綺羅たちは長く話し過ぎていたらしい。
「俺たちも、寝るか。
「まあ、早起きするのは番長だけだし、髪のセットに1時間かかるのも番長だけだけどな」
「分からねぇぞ。アカネだってオンナノコなんだからよ?髪縛るのにめっちゃ時間かけてるかもしれないじゃねーか」
「ぶっははっ……やめろ。笑わせんな。俺様を眠れなくする気か」
「アタイが二人とも寝かしつけてやろうか」
「「ごめんなさい」」
本当のところ、最後まで起きていたのは空だった。寝たふりをしながら、布団の中で考える。
(みんな、やっぱり目標があるんだ……)
鹿番長は、優勝する事。茜は、親に認めてもらえるほどの成績を残すこと。綺羅は、2WDの性能を確かめること。
幸いにして、3人ともバラバラな目標を持っている。だからどうしても戦う必要があるわけではない。勝負事を嫌う空としては、まずそこに安心する。
そして、自分はどうなんだろうと考えた時――
(僕のゴールには、何もない)
それに、気付いてしまった。
この大会に出るとき、父から『目標くらいは決めていけ』と言われ、空は『楽しんでくる』と答えた。これに偽りはない。
さっきだって楽しくみんなで喋っていたし、明日もみんなで楽しく走れるだろう。それなら空はゴールすることなく、既に目標を達成しているのだ。逆に言えば、空にとってゴールすることが、楽しい時間の終わりしか意味していない。
別に勝ちたいわけでもないし、自分の能力を試したいわけでもない。成長したいと思って出場したわけでもない。まあ、それでもこうして親元を離れて旅をするのは、いろんなことを考えさせてくれるけど。
(僕は、茜と一緒にいていいのかな?)
少なくとも、勝利と実績を欲しがっている茜にとって、自分は足手まといになるんじゃないかと、空は考えた。もちろん今までだって本気で走っていたけど、それは相手を抜かすためじゃない。茜に追いつくためだ。
真剣勝負をしている友達を、横から茶化している形になっていないだろうか?
空は密かに、そんなことをずっと頭の片隅に置いていた。そして今日、綺羅に訊かれたときに、答えに詰まってしまった。
整理できない気持ちのせいで、鼓動が強くなる。布団の中に嫌な熱がこもり、じわりと汗をかいた。茜に置いて行かれるのが、今は怖い。しかしそれ以上に、茜が自分を置いて行かなかったばかりに、負けてしまうのが怖い。
(……喉、乾いたな)
冷蔵庫に水を入れておいたはずだ。のそりと布団から這い出て、他の3人を起こさないように立ち上がる。合計6本の大小さまざまな自転車用ボトルの中から、自分のボトルの小さい方を引き抜いた。
POLARの500ml保冷ボトル。空の乗っているエスケープは、サイズの都合で750mlをシートチューブ側に収納できない。そこで、ボトムチューブ側は750mlを、シートチューブ側は500mlを入れている。
いつもの癖で、ストラップを引っ張って取り出す。飲み口を前歯で引っ張って開けると、握りつぶすようにして口の中に吸水。冷たい水が喉を冷やし、体中に染み込むような気持ち。
「――ぷはっ」
最初こそ使い慣れなくて、むせかえったり、こぼしていたボトルだ。それもいつの間にか慣れて、綺麗に飲めるようになった。
(……ちょっと、トイレ)
布団から出たことと、水を飲んだことが体温を下げたのだろう。
トイレを目指してのっそり進んでみれば、そこは真っ暗な世界。記憶と手探りの感覚を頼りに、ゆっくり進むしかない世界。進めば進むほど、窓から遠ざかる。光に背いて這いずる。
茜のこと。自分のこと。大会のこと。ゴールのこと。これからも戦うであろう人たちのこと。再び再開するであろう人のこと……
考えながら、何も見えない中で、床を壁を扉を触る。足元を確認するため、四つん這いの姿勢だ。
そして、トイレのドアノブ。そこにそっと触れた時、
「「ひゃっ!」」
誰かの手に触れた。空も驚いたが、相手も驚いたらしい。
「えっと、茜?」
「ああ、なんだ。空か」
お互いに見つめ合っている……のだと思う。空から見た時、茜のいる方は暗くて、人影がおぼろげにしか見えない。仮に茜が素っ裸だったとしても気づけないだろうレベルだ。
茜の方からは、窓の外の明かりが見えた。障子を透過して滲む、柔らかな明かりだ。そのせいで空の顔は、陰に包まれる。いわゆる逆光。シルエットしか見えない。
そのシルエットは、ゆっくりと壁を背にして座り込んだ。
「ねえ、茜はさ……僕のこと、どう思ってる?」
「はぁ?」
照れなどない、何言ってんだコイツというニュアンスを込めた「はぁ?」が炸裂する。しかし、空はそれを気にしない。
「僕、誰かと勝負するのが嫌いだしさ。勝ったら嬉しいとか、負けたら悔しいとか、そういうのも分からない。だから勝負の時は茜に置いて行かれるし、邪魔なのかな……って……」
しかし、もし「ああ、邪魔だ」などと言われたらどうしよう。空は不安に押しつぶされそうになる。この先、ひとりでチャリチャンを完走する勇気も意志もなく、だからと言って後味の悪い幕引きで帰る図太さもない。
空が勇気を振り絞って訊いた、「茜にとって邪魔になっていないか?」という問いかけは……
「はぁ?」
何言ってんだコイツというニュアンスしかない「はぁ?」で一蹴された。
「え?いや、真面目に悩んでたんだけど……」
「お前な。自覚は無いかもしれないけど、お前ほどの実力で人の邪魔になんかなるかよ。事実ミハエルの時だって、次郎の時だって、追いついてきただろう。彗星の時や、今日のトライクの時には良いとこ全部お前が持ってったじゃないか」
「でも、僕にはやっぱり……茜みたいな努力もないし、勝ちたいって気持ちもないし……」
そうやって縮こまる空を見て、茜はため息を吐いた。
どんな育ち方をしたら、ここまで勝敗を避けて通る少年が出来上がるのだろう。前から気になっていたことではあったが、おそらく家庭環境の話になると思って訊かないでいた。親の顔が見てみたいとは、こういう時に使う言葉なのだろうか?
しかし、実を言うと文句は一切なかった。普通なら、何もできない奴の言い訳に聞こえる空の言い分。しかし何かを成し遂げてしまう空が言うと、違って聞こえる。場合によっては嫌味にも聞こえかねない問題はあるが。
それはそれとして、茜にも特殊な価値観はある。
「アタイはさ。努力を自慢する奴は嫌いなんだ。やる気を自慢する奴もな」
「え?」
空がそっと顔を上げると、茜が笑っているような気がした。気のせいなんだけど、どこかその表情が柔らかいものじゃないかと錯覚する。言葉に付けられた棘と裏腹に、声の質はどこまでも優しくて。
「アタイの目指すプロレーサーの世界は、努力なしじゃ入れない世界だ。だからその世界に入った時点で……いや、目指した時点で、努力なんて何の自慢にもならない。当たり前の事を自慢する奴はいないだろう?」
「うん……」
「優勝者インタビューでさ。『頑張ったから勝てました』って語るやつが嫌いなんだ。それを引き出そうとするインタビュアーも嫌いだ。それはまるで、『相手は頑張りが足りなかったから負けました』みたいに聞こえるだろう?」
「そ、そうかな?」
「ん。アタイはそう受け取る。でも、それは間違ってんだ。そこに立っている時点で、みんな頑張っているし、みんなに実力がある。小学校の運動会じゃないんだ。たまたま運よく優勝した奴が、それを全部『努力』で片づけるのを見ると、なんか嫌でさ」
「……茜は、頑張ってる自分が、嫌い?」
そういう話ではないだろう。空はそう思いながらも、聞かずにはいられなかった。そして、それは意外と的外れでもない。
「……ミハエルにさ。言われたんだよ。アタイの言う『頑張る』は、その後の『頑張ったけどダメだった』とセットじゃないかって……アタイ、それに反論できなかった。結果が付属しない努力は、誰にも認めてもらえない」
「そんなこと……」
「同情は良いんだ。アタイだって、そんなエンディングのための伏線を張ってるわけじゃないぜ。卑屈になっているわけでもない。いつか必ず、やり返してやる」
茜らしい答え。それは強がりでも負け惜しみでもなく、ただの意思表明だ。嘘も偽りも、隠した弱さもない。ただ前だけを見る。ただ欲しい物だけを捕まえに行く。
「それはそうと、空は充分な実力がある。だからアタイの邪魔になってないよ。むしろ……」
そっと、茜の影が近づいてきた。空の右手に、茜の左手が当たる感触がする。
「え?」
そのまま、空は手を握られた。自分の手の甲には、茜の柔らかな手のひらの感触。そして手のひらには、茜の細い親指の感触。その指が、空の手のひらの一部を撫でる。小指や薬指の付け根あたりを、そっと……
「やっぱ、空は努力していると思うし、強い意志も持っていると思うぜ。それが勝利じゃなくて、他のどこかを目指しているだけさ。だからほら、クロスバイクのエルゴグリップまめが酷い」
空の掌のまめは、数か月の熟成によって硬くなっている。すぐ破れたり切れたりする水膨れとは違う。熟練者にしか出来ない特徴だ。ちなみに、ドロップハンドルを使う茜にはないまめである。
「空は、アタイと同じ自転車乗りだよ。目指している先が違うだけで、立場や目線の高さに違いはないさ。しいて言えば自転車歴の長さと、乗っている車体の値段はアタイが上だけどな」
「そ、そうかな?」
「ああ、だからアタイに迷惑だとか、邪魔になっているとか、そんな考え方をすんなよ。もし邪魔になることがあったら、アタイは遠慮なく言う。それはお互い様のつもりでいてくれ」
「――うん」
茜が言ったような実力が、自分にあるのかは分からない。自転車だって頑張って乗っているわけじゃない。楽しいから、つい乗っちゃうだけだ。それでも、茜に話してよかった。なんだか、楽になった気がする。
「ところで、僕の目指すものって、何だろう?」
と空は訊く。少なくとも勝利ではないらしいけど、なら何のために走るのだろう?
「さあな。アタイが知るかよ」
茜の回答は、これまた素っ気ないものだった。
「ところで、空。ちょっと、頼みがあるんだ」
空の手を離した茜は、声をさらに潜めて言った。その呼吸は少し荒く、声の大きさは安定しない。囁くような息漏れ声の中に、たまに裏返るような喉の鳴る声が混じる。普段の茜からは想像できないほど女の子らしい声だ。
「な、何?改まって」
「……アタイも、こういうこと言うのは、恥ずかしいんだけどさ」
暗がりに目が慣れてきたせいか、少しだけ茜の姿が鮮明になる。長い睫毛は、瞬きの回数が増えるのに比例して小刻みに揺れる。
少し、震えているようだった。腰をくねらせ、足をキュッと閉じるその姿は、なんだか艶めかしい。手の指、足の指を軽く握って、何もないところを掴んでいる。身体のうねりに合わせて出される吐息は、熱い。
「あのさ……空」
「うん」
「トイレ、アタイが先でいい?」
限界が近いらしい。そう言えばトイレに行こうと思っていたのだった。空としてはすっかり忘れていた用事である。
「ああ、どうぞどうぞ」
「すまん」
ガチャッ、バタン!――じゃあぁあぁあぁあ……
音を聞かれるのが嫌だったのか、入ってすぐに水が流れる音がする。
(ああ、これは出てくるまで長いかな)
再び尿意を思い出した空は、ドアの前でそんなことを考えた。一度水を流すと、タンクに再び充填されるまで時間がかかる。最後にもう一度流すことを考えると、茜のトイレは少し時間がかかりそうだ。
(勝利じゃなくて、ゴールでもない。僕の目指すもの……)
再び、空はゆっくりと考える。自転車に乗っているだけでも楽しい。なら、走り続けることが目標だ。でも、それならチャリチャンじゃなくてもいい。近所を走っていてもいいはずだ。
じゃあ、他に何かあっただろうか?
ない。何一つない。
そもそも、チャリチャンに参加したのだって、茜が誘ってきたからだ。もし茜に誘われなかったら、自分は出ることもなかっただろう。つまり、自分は本当にチャリチャンという大会に興味がなかったはずで、それがいつの間にか楽しくなっていて……
(――あ、そうか)
一人、納得する。この答なら、空の気持ちにピッタリと当てはまるのだ。
「茜。分かったよ。僕が目標にしている場所は、茜の隣なんだ」
水の音で聞こえていないだろうけど、空は言う。いや、聞こえていたら恥ずかしいので、全く聞こえない方が良い。
やがて、水の音が小さくなっていき、カラカラとトイレットペーパーが巻かれる音がする。これが経過時間を表しているのだから、むしろ消すべき音はこっちだと思うのは空だけだろうか?
「よう、待たせたな」
「うん。待った――痛い。なんで叩くのっ?」
「ごめん。なんか腹が立った」
茜に理不尽なチョップを喰らわされた空が、交代でトイレに入る。ほのかに香る消臭スプレーに驚きを感じつつ、なんとなく茜に合わせて自分も水を流しながら入ってみる。
(……落ち着かないんですけど)
慣れないことをするものじゃない。
「よう、空」
トイレから出ると、そこにはまだ茜がいた。
「うわっ、布団に戻ったんじゃないの?」
「いや、せっかくだから、空に訊いておきたいことがあってさ」
スッと立ち上がった茜は、空より少し長いくらいの髪をかき上げる。
「空は……この大会、楽しんでるか?」
「え?うん。楽しいよ」
「そっか。でも、ホームシックになったりしないか?」
「え?まあ、少しだけ……でも、なんで?」
空が首をかしげる。
「いや。元々はアタイが、お前を誘って出場した大会だろう。受験シーズンだし、空は学校楽しそうだし……だから、本当は迷惑だったかなって、前から少し気になってたんだ」
「そんなこと?」
茜が気にしているのを他所に、空はあっさりと言う。
「いや、だってお前。結構大事な事だろう。なのにアタイに付き合わせちゃって……」
「ああ、いいよ。全然。だって、僕は楽しいもん。むしろ、ありがとう」
「え?」
「茜が誘ってくれたおかげで、僕はとっても楽しいんだ。それに、みんなと出会えたり、いろんな自転車と走ったり、大切なものをいっぱい貰ったから」
「そ、そうか。それならいいんだけどよ」
二人で、くっくっと笑う。声を潜めながら、ただ、相手に聞こえるように。
「何で笑ってるの?」
「お前こそ」
「いや、なんか、話をしたらスッキリしたなあって」
「だな。アタイら、しょーもないことで悩んでたな」
「うん。しょーもないっ」
そっと布団に戻って、寝直そうと決め込む。綺羅と鹿番長を起こさないように、静かにしつつ……
「じゃあ、お休み。茜」
「ああ、お休み」
寝やすい方を向いて寝ると、お互いに顔が向かい合う。どちらともなく逆向きに寝返りを打ち、
「やっぱり、男女別は必要だったかもね」
空がポツリと言った。
「はっ。今更だろう。それに、空と一緒なら気にしねえよ」
「え?」
「何度か一緒に寝てたろ。ボブさんのところとか、昨日の巧さんのところとか」
「ああ、そうだね。でも、やっぱり気にならない?」
「……気になる」
「だよね」
翌朝。
「キラ、寝れたか?」
リーゼントを整え直した番長が、布団の中の綺羅に訊く。そろそろ約束していた起床時間だ。眠そうな目をこすりながら、綺羅が答える。
「いや、俺様はろくに眠れなかったよ。番長は?」
「寝たり起きたりだな。ったく、夜中に何度も便所ブチ流しやがって」
「しかもイチャイチャしやがって。寝てると思ったら大間違いだっての」
二人は顔を合わせて、頷く。
空と茜の枕を持った鹿番長が、そっとカウントを開始する。
「参!」
綺羅が掛け布団の淵を持ち、にやりと笑う。
「弐!」
すやすやと眠る空と茜に、聞こえないようにそっと……
「壱!」
冬の冷たい空気が、部屋にも立ち込めていた。まだ暖房をつけていないのだから、当たり前ではある。
「零だ!起きろや
ばっさぁ!……ズドン!
枕を引き抜かれた頭が敷布団にぶつかり、掛け布団を剥がされた身体に冷気が当たる。
「ひゃあっ!……え?え」
「っつぁ!痛えな何しやがる……寒っ!」
小動物のように怯えて丸くなる空と、飛ぶようにして立ち上がる茜。その驚き方に満足した綺羅たちは、現在の時間を伝えた。
「約束の時間だ。起こしてやったぞ」
「さあ、とっとと
チャリチャン9日目が、始まろうとしていた。
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