第53話 旅する暴君とシングルギア

『さあ、チャリチャンもあと残すところ2日間。おはようございます。ミス・リードですぅ。

 現在、19日目の朝を迎えていますよぉ。先日の分かれ道でのイレギュラー……というか、私の案内不足もあり、MTBコースに行った数名が引き返しております。また、外周コースでタイムを大きく落とした方々も多いみたいですねぇ。

 文字通りのミスリード。

 って、言ってる場合じゃないですねぇ。本当にごめんなさい。いやー、恥ずかしいですねぇ。穴があるので入れられたいですぅ。え?入れてやるって……あっ、そっちは違う穴ですぅ。ごめんなさい。ごめんなさ、いぎぃ!?』


 朝から大奮闘である。

「ねえ、ミス・リード」

『おや、空さん、凸電ですかぁ?ちなみに私の後ろは突撃されてる最中ですぅ。んっ』

「えっと、その突撃ってさ。入っても大丈夫なの?その、怪我とか、病気とか」

『え?あ、あれ?その話題ですかぁ。自転車じゃなくて?』

「あ、ごめんなさい。僕、変なこと聞きましたよね。えっと、忘れて。何でもないから」

『いやいやいや、空さん?ちょっと何の話題だったんですかぁ?ねぇ。ちょっ……あれ?空さん大人っぽくなりましたぁ?女の子がオンナに変わったくらいの変化が――あ、電話切らないでくださいよぉ。私の知らないところで何があったんですかぁ!?』


 何もない。何もないのである。


『さ、さて、先頭は変わらずアマチタダカツ選手……んっ。それを追うのは茜選手と天仰寺樹里亜選手。そして空選手ですぅ。中学生たちが大健闘ですねぇ。そう言えば彼女たちが勝った場合、優勝賞金300万円の贈与はどうなるのでしょうかぁ?

 カナタ選手、赤い彗星選手、ミハエル選手、名無し選手もそこに参戦。優勝決定戦となるのはこの辺で――

 と、選手の皆様にお伝えしますぅ。今、風間史奈選手が宿を出ましたぁ。フミナ・キャノンが炸裂しますよぉ。これで順位が一気に変わりますねぇ』




 思えば、ずいぶんたくさんの選手が消えては居なくなり、また順位を落としては目標を下方修正したものだ。

 そんな中、『名無し』というエントリーネームを持つランドナー使い――通称『チビ助』は、一人寂しく走っていた。

 目深にかぶったフードを風に飛ばされないようにしながら、それでも速度を落とさないように気を使いつつ、走る。

 そんな彼に、後ろから声をかける少女がいた。

「お、チビ助さんじゃないか。久しぶりだな」

 背中にぎりぎり届くくらいの髪をなびかせて、かすかにシャンプーの香りを風に溶かす少女。その見覚えのない姿にチビ助は一瞬固まったが、

「……ああ、茜様。ご無沙汰しております」

 やや遅れて返事をする。

「本日は、空様とご一緒ではないのですね」

「ああ。これから合流予定だ。空の方がアタイより先を走っているはずだからな。さっさと追い付きたい」

「空様は、待ってくださっていないのですか?」

「あいつは『どこかで止まって待ち合わせしよう』って言ってたんだけどな。アタイが断った。どうせ同じコースを走ってりゃ会えるだろうからな」

 そう言って髪を鬱陶しそうに払う茜。やや湿っているのは、朝風呂の帰りだからだ。時間がもったいないし、どうせ走っているうちに乾く。と言う理由でドライヤーも使わないあたりが豪快である。


「そういや、チビ助さんはあれからどうなんだ?ディオさんとは」

「いえ、お会いしておりません。というよりも、わたくしめが逃げているといった具合ですが」

 そうやって逃げ続けているうちに、いつの間にか先頭集団に名を連ねることになったわけである。チビ助が意外にも高い能力を持っていることが伺える。

「あ、茜様。僭越ながら、何かお手伝いできることはありませんか?もしよろしければ、このままご同行させていただいても――」

「おいおい。ついてくるなとは言わないけど、アタイは優勝を目指すんだぜ。チビ助さんにペースを合わせることは出来ない。まあ、あんたが実力でアタイに勝てるんなら、ついてくるなり追い越すなり好きにすればいいさ」

「そ、そうですか」

 チビ助の能力は、完全に持久力に振っている。そしてオフロードに弱い。なので常に茜たちのそばにいられるかと言えば、そうでもないのだ。乗っているスワローランドナーも、競技で使えるように開発されてはいない。


「わたくしめは、もしかしたらディオ様と一緒に走りたかっただけなのかもしれない、と最近よく考えるのです」

「?」

「いえ、一人でいる時間が長ければ長いほど、寂しいのでございます。ですので、誰かと共にありたいと、今はそう願います」

 寂しそうに――まるで自分は不幸だと強く訴えるように、チビ助が言う。その弱さをディオに付け込まれたのだろう。

「ディオは、チビ助さんのことを捨て駒として見ていたみたいだけどな」

「はい……」

「それと、もう一つ言わせてくれ」

「は、はい。何なりと」

 茜は、こういう時に遠慮がない。自分でもよく分からないが、相手がこういう空気を纏えば纏うほどイライラしてくるのだ。だから、簡単に吐き出す。


「アタイはさ。チビ助さんのその『誰かと一緒にいたい』って気持ちが、あんまり好きじゃないんだ。あんたのそれは、『一緒にいられるなら誰でもいい』のそれだろ」

「そ、そんな……」

「そうじゃないなら、ディオじゃなきゃダメな理由って何だよ。あいつの良いところを10個上げろ。ずっと一緒にレースしてきたなら分かるだろ」

「それは――」

 傍若無人で、大雑把で、怒りやすくて、態度が悪くて――

 ディオを思い浮かべれば、確かにどこに惹かれていたのか分かりかねる。ので、答えに詰まるチビ助だった。

「ほらな。あんたは結局、アタイじゃなくてもディオじゃなくてもいいんだ。そのくせ、誰かと衝突したら『見捨てられた』って言って、寂しくなると『一緒にいたかった』だろ。勘弁してくれ」

 すいーっと、緩やかに追い風に乗って加速する茜。その一方で風をとらえきれないまま置いて行かれそうになるチビ助。車体そのものの重量はさほど変わらない両者だが、風と共に走れないのは荷物の重量のせいか、気持ちのせいか。

 二人の距離が開いていく。その距離が声の届くぎりぎりになったころ、チビ助は茜に訊き返した。

「茜様は、空様の良いところを10個、上げられるのですね?」

「……」

 唐突に、茜はブレーキを当て利きさせる。

(まあ、もともとは『同じクラスで自転車が好きな奴なんて珍しいな』ってくらいの気持ちで一緒にいるだけだったけどさ)

 今はそうではない。そうハッキリ答えられるのだが、部分的に10個と言われると具体例が上がらない。

「なるほど。さっきの質問はアタイが悪かった。取り消すよ」

 ため息とも鼻を鳴らしたともつかない息を吐く茜。そのイヤホンに、ミス・リードの声が入り込んできた。



『ああっと、ここでディオニシウス選手が急加速ですぅ。いったい何が彼をそんなに急がせるんでしょう?トイレでしょうかぁ?

 ちなみにロードレースでは、道路端に寄って走りながらトイレを済ませる人も多いんですよぉ。ディオさんも漏らしそうになったら試してみてくださいねぇ。私もよく後ろの人に見せつけながら出したり、前の人が出したのを浴びたりしてましたぁ。

 ……って、そんな理由じゃないですねぇ。

 前方にいるのは、茜さんとチビ助さん。その二人にディオさんが接近しますぅ!』



(見つけたぞ!)

 ディオが、エンペラーを走らせる。

(チビ助!)

 あれから、ずっと変速ギアを使わずに、ここまで走ってきた。壊れたリアディレイラーは、未だに彼の車体から外されたままだ。

(それに、茜!)

 少しでも車体を軽くするため、フロントのパニアバッグは捨ててきた。いろんなものを投げ捨てて、それでも追い付くことを目標に走り続けた。

(俺をよくもコケにしてくれたな!ランドナー旅団の旅団長である、この俺を!)

 あの13日目の恨みを、晴らすためだけに。

「覚悟しろ!貴様らぁ!」


「逃げるぞ。チビ助さん」

「は、はい」

 あれほど『一緒に走りたい』などと言っておいてなんだが、チビ助だって直接話ができるほどの度胸は無い。あるいは、相手に話が通じると思えない。

 そんな時に限って、不幸は重複する。


『逃げる茜さんたちですが……あっ!

 そのまま加速すると見つかっちゃいますよぉ!……あ、遅かったですねぇ。コースアウト中のデスペナルティさんに見つけられちゃいましたぁ。

 このまま茜さんの前に合流……いえ、あえて速度を下げてディオさんの後ろに合流するデスペナルティさん。まさかの4P突入ですぅ。

 あ、どうでもいいですけど、文字にすると後ろの名前が受けなのに、絵にすると前の人が受けになるんですよねぇ。この場合はデスペナルティさんが一番責めの姿勢で、茜さんが一番受けなんでしょうかぁ?』


 ディオが交差点を通り過ぎたタイミングで、その交差点に漆黒のMTBが突っ込んでくる。デスペナルティが乗る車体。フィニスだ。

 その太い前輪でアスファルトを削り、ノーブレーキで無理やりにコーナリングする。まるで敵にドッグファイトを仕掛ける戦闘機のように、その軌道はまっすぐディオを狙っていた。

 いや、誰でも良かったのかもしれない。

「くぅーっははははははあ。楽しい獲物が3匹もいるじゃないか。アラヤのスワローに、丸石のエンペラー。純国産の車体だね。壊し甲斐があるじゃないのさ」


 そいつは、特に逆恨みする理由も動機もなく、目についた相手を壊す。

 そいつは、先にゴールするためではなく、壊すこと自体を目的に事故を起こす。

 そいつは、煽り運転や脅しではなく、本気でぶつけてくる。

 ある意味において、ディオよりもずっと危険な男であった。

「さあ、まずはディオ君といったかな?――君のエンペラーから壊そうかぁ!」

 デスペナルティが接近し、ディオの斜め右後ろについた。彼の乗るフィニスのフロントフォークには、バスケットステーが水平に取り付けられている。まるでフロントバンパーだ。

 それを、リアディレイラーに当てる。彼の必勝パターンは、しかし……

「くぅはははは……は?」

 空振りに終わった。何にもぶつからず、特に手ごたえも無いまま戻る。

(リアディレイラーがない?なんで?)

(俺のディレイラーなら、とっくに壊されたっての!空の野郎にな!!)

 空に壊されたという主張は言いがかりに近いが、それでも既に無いものを壊すことはできない。ある意味において最大の防御と言える。

(なら、追突で車輪をとめて――)

 と作戦を切り替えるデスペナルティだが、その後輪もフェンダーに守られている。しかもママチャリなどに標準装備されているような強度不足のそれではない。分厚いアルミ板を板金加工した、剛性の高いハンマードフェンダーだ。

(横狙い……は、さすがに無理か。パニアバッグが邪魔している。これじゃあカンチブレーキへの手出しも出来ないな)

 もともと、長距離旅行でも耐えられるように作られた車体だ。意外にも隙が無い。


「来ないのか!腰抜けがっ!!」


「はっ!?」

 気づけば、攻守は逆転していた。ブレーキをかけたディオのエンペラーが、デスペナルティに迫る。


 ギィィィイイン!


 アルミ製ハンマードフェンダーと、フルスチールのバスケットステーがぶつかる音。デスペナルティの車体が、その軌道を揺らされる。

「っく!」

 フィニスのフロントサスペンションは、もともとの作りの粗さのせいか、あるいは度重なる衝撃による金属疲労によるものか、まっすぐ戻ることが無くなっていた。スプリングが入っている右側の方が、遅れて縮む。

(くぅっはっは。冗談だろディオ君。俺の方が押されるなんて……ニーダちゃん以来だぞ)

「もう一発食らうかコラ!!」

 ディオが再びのブレーキで、追突を誘発する。

「冗談は、ほどほどにしてくれよ」

 デスペナルティがそれを回避するため、ハンドルを右に切った。そのまま相手の右側に並ぶと、左脚で蹴りを繰り出す。ディオの腰を狙った一撃は、正確に相手にヒットした。が……


「そんなヘナチョコキックが効くか!!」


 車体重量では、おそらくフィニスの方が上だろう。それでも荷物などを含めた重さ――そこに体格のいいディオの体重も足して、よろけたのはデスペナルティの方だった。

 ディオ自身の使っているハンドルが、ただのドロップハンドルではなかったことも影響したのだろう。左右に広がったフレアハンドルは、思った以上にずっしりと体重を乗せられる。

「くっ!」

 相手を蹴り飛ばしたはずが、押し返される。まるでコンクリートの壁でも蹴ったような手ごたえに、デスペナルティは戦慄した。

「そ、それならターゲットを変更だ。先にそっちの二人をやっちゃおうか。くぅーはははははは」

 そう宣言して、本当に狙うのはディオの隙ができる瞬間だ。

 どこかで動揺を誘うため、何かしらのアクションを行う。手数は豊富であるにこしたことはない。

 茜とチビ助に接近する振りをして、ディオの前を取れれば、位置取りとしては攻撃しやすい。デスペナルティはそう思っていた。


「ランドナー旅団!総員で陣形を組め!」

 ディオが叫ぶ。

「な、なんだって?」

「茜様。ディオ様に考えがあるようです」

「考えって……アタイらとディオも敵同士だろ。信用していいのか?」

「はい……少なくとも、デスペナルティ様よりは」

 茜は少し考えた。その間にペダリングが止まり、速度が下がる。

「分かった。どうするんだ?ディオ」

「まず、茜は右側に寄れるだけ寄れ!ドライブトレインを保護するんだ」

 言われた通り、茜は右に寄る。……少しだけ間隔を開けているのは、ディオが嘘をついていた時に逃げられるように、だ。たった50cm程度の隙間も、自転車にとっては大きな違いになる。

「チビ助!茜の後輪に、お前のスワローの前輪を並べろ!お前を盾にして、茜の後輪を守る!」

「は、はい。かしこまりました」

 チビ助はどこか嬉しそうに、茜の左隣についた。

「そして俺が、チビ助の後ろを守る!これこそランドナー旅団の絶対防御陣だ!!」


(ふざけたネーミングのごっこ遊びだが、理に適ってる、のか?)

 茜はそう考えた。無防備な後ろ側を、最終的にはディオがすべてカバーする構えだ。彼がいる限り、デスペナルティはうかつに後ろから接近できない。

 前に関しては、茜が目を光らせておけばいい。お互いに車体の間隔を詰め過ぎないことで、即座に陣形を変えることができる。

 通常のレースではまず使わないだろう戦法を、ディオはあっという間に構築してみせたのだ。

(こ、こんな頭悪そうなパンチパーマにサングラスのチンピラが……)

 とは、茜の偏見が過ぎるが。

「くぅ――はっはははは。な、何それ。何だよそれ!お、お友達ごっこかよ!お前らもお互いに、いがみ合ってたんじゃないのかよ!」

 デスペナルティが明らかに動揺する。陣形が硬かったから、というだけの理由ではなさそうだが、では何が理由かは分からない。

「そ、そうだディオ君。キミは今いい位置についている。そのままハンドルを右に切れば、二人を将棋倒しに出来るよ?どうだい?」

「やらん!俺が求めているのは、こいつらが俺に再び平伏する状況だ!『ディオ様、すみませんでした!お詫びに私の身を好きなようにお使いください』と、そう言わせるまで殺してたまるか!」

「いや台無しだよ。アタイがお前を見直したこの時間を返せ」

 結局、ディオはディオだったらしい。それでも、今は味方につけておくしかない。

「ディオ様――」




 いつだって、ディオはそうだった。自分の思う通りになる仲間が欲しくて、その仲間が自分の期待を裏切らない限りは、大切にしてくれる。わがままで独裁主義の暴君であったが、それは時として弱い者たちを守ってくれた。

 もちろん、チビ助も。そして他のランドナー旅団のメンバーも。

 そんなディオだからこそ、チビ助も安心してついてきたのだ。それは決して、奴隷になるような感覚ではない。

 信頼できる者に、すべてを託す。そんな気持ちでいたはずだった。

 でも、欲が出てしまった。それは、決して誰かから責められるような欲ではない。

(わたくしめは、ディオ様と一緒に走り続けたかった。だから、ディオ様のために消える覚悟が出来なかったのですが……)




 チビ助は安心しているようだったが、茜はそうも思えなかった。

 敵意をむき出しにしているデスペナルティ。

 同じく敵だったはずのディオ。

 そして、ディオの手下だったはずの……再会してから様子のおかしいチビ助。

(どれも信用するのはちょっと早計だな)

 だからこそ、少しだけガードレールから間隔をあけて走っているのだ。いつ誰が攻撃を仕掛けてきても、良いように。

(空。お前と合流できれば、まだ作戦の立て甲斐はあるのにな)

 作戦の立てようがあるわけじゃない。この状態で動ける人数が一人増えたとしても、それは戦術的に大きな効果を見込めない。

 ただ、空さえいれば、まだ作戦を立てる気持ちが湧いてくるのだ。だから『立てようがある』ではなく、『立て甲斐がある』と、茜は表現した。

 何より、この心細さが、一緒に走ってくれる仲間一人いるだけで、変わってくる。

 性格的にも信用できて、能力的にも信頼できる相棒。そいつがいるだけで、変わるのだ。

(来てくれ。空――)



「茜ーっ」

 前方から、鮮やかな色のクロスバイクが割って入る。空のエスケープだ。

「空」

 まるで茜の心の声に応えたように、さっそうと割って入ってくれた。

「合流だね。で、どんな状況」

「ディオと停戦。デスペナルティとやり合ってる」

「えっと、ディオさんが味方だね」

 大体の状況をミスり速報から得ていた空だが、細かいことは話を聞かないと分からない。

「空!久しぶりだな!この俺に挨拶も無しとはいい度胸だ!」

「ひっ……あ、お、お久しぶりです。ディオさん」

「空様。チビ助でございます。覚えていただけていたら光栄です」

「もちろん覚えています。チビ助さん」

 チビ助がそっと茜との間隔を取り、そこに恭しく手のひらを差し向ける。どうやらそこに入るように空に勧めているようだった。

「え?えっと……」

「見ての通りだ。予想の斜め上から斜めに並ぶ陣形を取ってる」

「な、何で?」

「アタイも何が何だかさっぱりだ」

「え、えっと……」

「早くしろって」

「お、お邪魔します」

 茜の後ろに、空がつく。その後ろをガードするように、チビ助が重なった。




(なんなんだよ……お前ら、揃いも揃ってなんだっていうんだよ)

 デスペナルティは、イライラする気持ちを抑えきれなかった。しかし、それは破壊衝動に繋がらない。いつものように力をくれるイライラじゃない。

 少なくとも、ルリが割って入ったときのような、あの気分がやってこない。

(くそっ。4人で……4人そろって、走りやがって。あの時みたいに、4人で……)

 デスペナルティの脳内に思い起こされるのは、数年前の記憶。

 初めてフィニスに乗った、あの日の記憶。

 初めて誰かを壊した、あの日の記憶。


 今のディオが、あの日の自分に重なる。少しだけハンドルを傾ければ、自分の敵である空や茜。そして裏切り者のチビ助まで、全員を倒せる位置にいる。そのくせ、そいつらをディオは守っていた。

「俺がディオ君なら、すべてをひっくり返したはずだ。そうだろう?フィニス」

 自転車に、デスペナルティが語り掛ける。そして、

「ああ、やっぱりそう思うか。なるほどね」

 まるで自転車が答えたかのように、一人で返事を返す。

「フィニスの声が、俺には聞こえる。でも、ディオ君は違うんだ。くはっ、くははっ。くぅ――っはははははははははははははははあ!」


 デスペナルティが、ハンドルを切る。茜たちとは逆の方向。左に。

「くぅははは。くはははは」

 そのまま、交差点を左折。間隔をあけて並んでいたパイロンを、それでも邪魔そうに蹴り飛ばして、

「くぅははは。くぅーはっはっはっは」

 そのまま、コースの外へと進んでいく。

「くぅ――……」




「え?行っちゃった?」

 空が目を見開く。

「ああ、そうみたいだな」

 茜も眉根を寄せて呟いた。

「と、とにかく、危機は去った、という事でしょう」

 チビ助がため息をついた。そして、ディオが速度を上げて左側に並ぶ。

「どうだ!これがランドナー旅団の力!そして、俺の力だ!!」

 リーダーらしく、大声で勝利を宣言するディオ。その声がデスペナルティに届いたはずはないが、近くにいた空たちには十分に届く。


「さて、それじゃあ改めて、チビ助!」

「は、はい。ディオ様」

「お前、俺を裏切ってまで走り続けて、よくも逃げてくれたな!」

「も、申し訳ありませんでした」

 謝るチビ助に、ディオは鼻を鳴らす。

「――ふん。なら、再び俺の軍門に下れ。お前からディレイラーを巻き上げるのは勘弁してやる!」

「え?」

「俺様の実力なら、変速ギアなど要らんと判ったからな!がはははははははっ」

 ディオは、気分で生きる人だった。だからこそ横暴で、他人をどうにでもできると勘違いしている。どんなに喧嘩しても自分の都合で仲直りできると、勝手にそう解釈している。

 ただ、そんな彼にも一つだけ、良いところがある。それをチビ助は、知っていた。


「空!茜!」

「は、はい」

「なんだ?」

「お前らはどうする!?俺たちランドナー旅団についてきて、しっかり完走を目指すか?」

 そのディオの問いに、茜は答えた。

「アタイらは優勝を目指すよ。完走なんかじゃなく、な」

「おいおい。お前ら分かってるのか!?このまま無茶な走りを続けたって、勝てるとは限らねーぞ!」

「それでも、だ」

 茜は、強く言った。

 いつだって、勝てると分かってる戦いなんか無い。だからこそ、戦う理由になる。

「僕も、茜と一緒に行きます」

 空もそう答えた。ディオはそれを聞いて、大きく頷く。

「良いだろう!なら行け。しかし忘れるな!俺たちランドナー旅団は、いつだって味方同士だ!何があってもな!」

「え?」

「は?」

 あっけにとられる二人に、ディオが親指を立てた。それから、チビ助に向き直り叫ぶ。

「チビ助!補給物資を二人にくれてやれ。餞別だ!」

「はい。ただいま」

 チビ助のパニアバッグから、携帯食やドリンク、ゼリーなどが取り出される。

「い、いいのか?」

 茜の質問に、チビ助ではなくディオが答えた。

「いいんだ!俺たちは仲間だからな。チビ助!ミス・リードに連絡して、近くのスーパーマーケットを調べろ!そこで補給物資を再び補充してやる。俺のおごりだ!がっはっはっはっは」


 ディオが高笑いする中、その声にかき消されそうな小ささで、チビ助は茜に言う。

「ディオ様の好きなところ10個、の話ですが、ひとつ思い出しました。ディオ様は、どんなに喧嘩した友人も、友人だと思ってくださいます」

「都合よく忘れているだけだろ」

「そうとも言えますね」

 目深にフードを被ったチビ助。その口元が、少しだけ笑った気がした。

 きっと、ディオの悪いところも、都合のいいところも分かっていて、それでも今の発言をしたんだろう。

「だとしたら、お前らの喧嘩に巻き込まれたアタイらは何だったんだよ」

「た、大変申し訳ありません」

「……仕方ない。お詫びに補給は貰っといてやるよ。ありがとうな」

「茜様――いえ、こちらこそ、ありがとうございました」




 ディオたちと別れて、茜は空と一緒に走る。

「でも、よかった。茜が無事で」

「ああ、よくわからんけどな。なんでディオさんが手を貸してくれたのかも、なんでデスペナルティが引いてくれたのかも、何にも分からない」

「でも、やっぱりこれで良かったんだよ。だって、みんな笑顔だもん」

「……そうかもな」

 本当に、うちにも結果オーライみたいな相棒がいたものだと、茜は苦笑する。タイプは違うのに、どうして変なところが似ているんだか。

 ただ、そうやってどんな結果でもいいところを見つけ出していく空に、どこか支えられてきていた。

「ん?どうしたの、茜?」

「いや、こうして二人で走るのは楽だなぁって、さ。オフロードセクションは地獄だったぜ。くそっ」

「ははは。それじゃあ、これからはオンロードだけだといいね」

「んー、そうかもな。空を風除けに出来るし」

「ぼ、僕って風除け扱い!?」

「ああ、ほら。しっかり走れよ。前向いて」

 最初はこんな奴のどこが良いんだか分らなかったが、一緒にいないと分からない良さも、離れてみたからこそ分かった良さも、ある。

 そう茜は感じていた。

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