第55話 引き返せない道とマウンテンバイク

『さあ、勝負も残すところあとわずか。先頭を走るのはアマチタダカツ選手。ゴールまで残り200kmを切りましたよぉ。

 すっかり日も暮れてる上に、街灯も少ない道が多いですぅ。選手の皆さんも、お気を付けくださいねぇ。

 ここで、残念なお知らせですぅ。エレカさんに続き、エントリーナンバー101 天仰寺樹里亜さんもデスペナルティさんと接触。映像出ますかぁ?

 デスペナルティさんが捨てた空き缶を踏んでしまったようですねぇ。そのままジュリアさんが横転。あ、待ってください。デスペナルティさんが戻ってきてます。逆走ですぅ――い、いやっ!』


「天仰寺さん?」

 空は、風の抵抗を避けるために下げていた頭を、ふっと上げる。前方にはただ、茜の見慣れた尻だけが見えた。

「やられたか。天仰寺……くそっ」

「ねえ、茜。確か天仰寺さんが走ってたところって、僕らより前だよね」

「ああ。このまま走ってたら、もしかすると遭遇するかもな」

「じゃあ……」

「言っておくけど、天仰寺に手を貸している時間は無いぞ。立ち止まっている暇もな」

 茜が吐き捨てるように言う。もちろん彼女だって、天仰寺の事は心配なのだが、

「アタイらが何かできるわけじゃない。それにミス・リードに任せておけば大丈夫だろう。もう救急車を呼んだみたいだしな」

 冷たく感じるかもしれないが、実際に救急車以上の働きなどできないだろう。分かっているからこそ、空も頷く。




 空たちの目の前に、誰かが見えてきた。長い髪を後ろで束ねて風になびかせる、前傾姿勢の男。シュッとした細身でありながら、広い背中を持つ筋肉質な身体。見覚えがある。

「あ、もしかして、カナタさん?」

「おお、カナタさんか。久しぶりだな」

 呼ばれたカナタは、振り返らないまま答えた。

「その声は――空さんと、茜さんですね」

「ああ。アタイらだ。優勝を争いに来たぜ」

 茜がにやりと笑うと、カナタも笑った。

「いいですね。私は今まで、体力温存のためにペースを保ってきましたが、それも今日で終わりです。……いかがです?私と一戦交えていただけませんか?」

「お、それいいな。前回はアタイが勝ったのに、お前がスカした態度を取るから勝った気がしなかったんだ」

 前回戦った時は、制限時間内にどこまで進めるかを競ったのだった。その時は僅差で茜が勝ったのだが、そのあとカナタは立ち止まらずに走り去ってしまっていた。

「今回はゴール地点を設定するか?それとも、また時間制限でやるか?」

「いえいえ。茜さん。せっかくゴールも近いのです。ここはひとつ、総合優勝した方が勝ちというルールでいかがでしょう?」

「面白い。行くぞ。空」

「あ、結局最後までそうなるんだね」

 スタートの合図も、ゴール地点の設定も要らない。お互いに、今は最後の場所を目指すだけだ。

 なので、開始も唐突。カナタは急に速度を上げた。それは今まで空たちが見たことのない、彼の本気――


「ほぉっ!」


 音はない。風を切るような音も、ロードノイズも……

 ただ宙に浮くように、ただ風になるように加速する。その速度は、推定で70km/hを超えた。平地で、だ。

「あれがカナタさんの本気!?」

「速い。いや、それ以上に随分と体力残してんじゃねーか。くそっ」

 慌てて茜も加速する。その速度は彼方に遠く及ばない50km/h程度。リア13Tの8速から上げられない。いや、上げてもケイデンスが保てない。

(っく。せめて万全の状態なら……)

 などと、今から負けた時の言い訳をしても仕方ない。夜の闇に消えていくカナタの後姿を……その反射板さえついていない車体の後部を、茜は必至に凝視していた。

 すると、急にカナタが速度を下げる。

「?」

 徐々に、茜のヘッドライトが届く範囲に、カナタの後輪が戻ってきた。タイヤ、リアエンド、チェーンステー……徐々にその車体がライトアップされていく。

「茜。どうしたの?」

「おお、空。追い付いてきたか」

「うん。茜が減速するから……」

「アタイも驚いてんだ。カナタさんが減速するから……」

 そのカナタの横は、誰かが並走している。

 いや、

 カナタは、乗っていない。乗り手を失った自転車バイパーだけが、ハンドルを握られて走っている。

 そのハンドルを握っているのは、バイパーの横を並走している黒いMTBの男……


「おや、空君と茜ちゃんじゃないか。久しぶりだね」


 デスペナルティだった。

「お前っ!カナタさんをどこへ!?」

「ああ、カナタさんなら、自転車から落ちてったよ。つっても俺が踵を蹴り飛ばしてクリートを外し、そのまま車体を揺さぶって落としたんだけどね。くぅははははははーあ!」

 トン――

 彼がバイパーを軽く押すと、それはジャイロ効果で倒れることなく走り続け、最後は電柱にぶつかってひっくり返った。

「あぶねぇっ!」

 倒れたバイパーを踏まないように、茜が急ハンドルをかける。空もブレーキをかけながら旋回。衝突だけは免れた。

「くぅはははぁあ!壊れたかな。カーボンフレームのエアロ形状だもん。横から衝撃を受けたら壊れちゃうよね。あーあ、カナタさんのバイパーが壊れちゃったあ。俺のフィニスは、ハイテンスチールだから無事だけど」

 デスペナルティが笑う。嗤う。哂う。くぅぅ、とお馴染みのためを持たせて、笑う。

「テメェ!」

 茜が自転車を接近させて、デスペナルティを叱りつける。その唾が顔にかかるが、彼は気にした様子もない。

「くぅはははっ。どうしたの?茜ちゃん。血相変えちゃって」

「お前は許さない。お前だけは――」

「ほう。ふむふむ。なるほど。俺を許さないんだー。――で?」

「で?って」

 許さない。だからどうするのか?という意味だろう。どうするもこうするも……

「何も出来ないよなぁ?それとも、俺と同じことをしちゃうか?」

「誰が、そんな」

「ふーん。じゃあそのまま吠え続けてる?別に俺は構わないよ。隣が煩くても気にしないし」

「んなっ!?」

 声を出しても、何を言っても、デスペナルティを止められない。かといって、彼と同じところまで落ちたくはない。暴力で暴力を解決するような矛盾に、茜が答えを出せない。


「茜。離れて」

「え?」


 空の声で我に返った。ちょうどその時、どさくさに紛れてデスペナルティが足を延ばしている。狙いは、後輪のスポーク。

「させるか!」

 急に体重を移動した茜は、車体を滑らせるように横に移動させる。距離を取ったところに、デスペナルティの蹴りが炸裂。その足に履いているのは安全靴だ。

「あーあ、避けられちゃったか。空君が余計なこと言うから」

 デスペナルティが急ブレーキをかけて、空たちの視界から消えた。

 黒い車体に、黒い服。そんな彼が夜に紛れれば、どこから来るのか分からない。

(デスペナルティさん、ライトを消してる)

(くそっ。アタイらもライトを消すか?……いや、そんなことしたら道も見えなくなるか)

 せめて音で判断できるか。と、耳に集中する。幸いにしてこの中で、もっともロードノイズが大きいのはデスペナルティだ。

 空の使うタイヤは28Cのカテゴリー2で、全面がヤスリ上のスリック。

 茜のタイヤは35Cのマラソン。中央がスリックなので、車体を左右に傾けなければ音は静かだ。

 その中でゴロゴロと音を立てるのが、デスペナルティの1.8inチャオヤンのブロックタイヤ――

「空!アタイの斜め左だ。10時の方向」

「うん。警戒する」

 特定した。暗がりに慣れてきた目でそちらを見れば、確かにうっすらと彼の車体が見える。

 さらに目を凝らせば、その挙動も分かるはずだ。

 もう少し、

 もう少し……


「くぅっははははぁ。熱い視線だなぁ!」


 その時、急に強い光が差し込んだ。

 ヘッドライトを外したデスペナルティが、手に持った状態で使ったのだ。目くらましとして。

「っくぁあ!」

「目がっ!?」

 空がとっさに顔を腕で隠し、茜も目を閉じる。

(まずい。狙いはアタイか?それとも空か?全然分からない)

 そう茜が警戒する中、デスペナルティは悠長に、そのヘッドライトを取り付け直す。といっても、あらかじめハンドルバーに取り付けていたブラケットにスライドさせるだけだ。慣れてくれば2秒とかからない。

(さて、空君が狙い目かな。ダメだよ、そんなふうに顔を隠してちゃ、『何も見えません』ってアピールしているようなもんさ。しかも手で顔を覆っているから、ハンドルが片手操縦だ)

 あっという間に空に接近したデスペナルティが、そのバーエンドバーを掴んで引っ張る。そこはもっとも力の入りやすい場所。そんなところを掴まれたら、操縦が出来ない。

「きゃぁっ!」

 とっさに空もバーエンドバーを握る。エスケープの左側バーエンドを掴むデスペナルティの右手。その右手に覆いかぶさるように、空の左手。

「今さら遅いっての!さあ、地獄へ行こうか。空君のエスケープ!」

「やだっ。やめて。お願い」

「くぅはははっはっはぁ。命乞いかよ。聞くわけないだろ」

「な、なんでっ。こないだは、お話してくれたのに」


 こないだ――それは10日目の夜。ネットカフェでのこと。

 確かにいろいろ話してくれたはずだった。

 両親にMTBをねだって、大事にするからと言って買ってもらったこと。

 それから、友達とサイクリングに行く約束で、自慢したかったこと。


「ねえ、デスペナルティさん。貴方はどうして、好きなはずの自転車を壊せるの?」

「は?」

 急に声のトーンを落とした空に、デスペナルティは困惑する。お互いの手は変わらず重なったままだが、空の手からは力が抜けたように感じた。

 速度が落ちていく。20km/hを下回り、さらにゆっくりと――

 お互いにペダリングは止めてないが、ケイデンスは明らかに減る。

(今がチャンス、か?)

 デスペナルティは、そう考えた。

 今なら、空を転ばせることが簡単にできる。この速度で転んでも大したことにはならないが、それならUターンして轢き潰すまでだ。綺麗な水色のフレームも、可愛い中性的な顔も、全部――

 なのに、動けない。

 なぜか、動けない。


「前に言ってたよね。デスペナルティさん」

「な、なんて?」

 聞き返してしまった。これ以上の会話などせず、空にとどめを刺せばいい。なのに、それが出来ない。

 空はそんな雰囲気を感じ取って、さらに言葉を続ける。

「友達とサイクリングに行きたかったって……でも、きっとその友達から笑われたんでしょ?フィニスのこと」

「っ!」

 図星であった。

「貴方は本当は、こんなことがしたかったんじゃない。壊したり、ぶつけたりじゃなくて、本当は、友達とサイクリングがしたかったんじゃないの?」

「うるさい!」

「僕たちで良ければ、友達になろうよ。大会はもうちょっとで終わっちゃうけど、また別な機会に遊びに行こう」

「黙れ!」

「やり直そうよ。今までのこと、全部ごめんなさいして、仲直りしよう。僕もついてくから……」

「お前に何が分かる!」

 デスペナルティが、大きくうつむいた。額をステムに当てて、呼吸を荒くする。

 そこに、マンホールが迫る。


 ズガン!


 マンホールの段差が、デスペナルティを襲った。いくらフロントサスペンション付きとはいえ、大したストローク幅もないうえに疲労したサスだ。

 その振動で、デスペナルティのベネツィアンマスクにひびが入る。

「空君さぁ。俺が初めて友達の自転車を壊したとき、どんな気持ちだったと思う?……分からないよな。分かるわけないよな」

「……少しは、分かるよ。僕がルリさんを轢いちゃった時と、多分同じ気持ち。怖くて、消えちゃいたくて、取り返しのつかない気持ち。……僕があの時、大人しく転んでたら、ルリさんは無事でいられたのに、って」

 顔を上げないデスペナルティを、それでも空はまっすぐ見つめていた。その手が震える。繋いだ方の手だけじゃない。繋いでいない空の右手も、デスペナルティの左手も、震える。

「やっぱり、デスペナルティさんも壊したくないんだよ。誰の自転車も壊したくないんでしょ?だから、こんなことやめよう」

「壊したいよ!」

 デスペナルティが叫んだ。

「楽しいぜ。壊すのは楽しい。潰すのは楽しい。消すのは楽しい。ああ、楽しいなぁ。くぅははははっ」

 いつもの笑い声が響く。彼は大会始まってからずっと――おそらく、その前からずっと、そんな笑い方だ。

「くぅぅううはははっ。くはっ、くはっ、くははぁ。くぅううっ」


「楽しいなら、どうしてそんな、泣いてるように笑うの?」


「はは、は……?」


 ドン!

 空のエスケープが突き放される。

「ひゃんっ!」

「大丈夫か?空」

「う、うん。立て直したよ。茜」

「悪い。さすがに何も出来なかった」

「ううん」

 茜もつい、空の話に聞き入ってしまっていた。もちろん、接近しすぎていたから物理的に割って入れなかったのもあるが、それでも黙って聞いてしまっていた。

「デスペナルティ。お前……」

「くっ、くははははは……」

 デスペナルティが、顔を上げた。先ほどの衝撃でマスクが割れて、その素顔があらわになる。

 歳は20になるかどうか。やや童顔で、見ようによっては空たちと大差ないように見える。大きな目にあどけなさを残す青年だ。

「それで?……空君は俺と友達になってくれるの?一緒にサイクリングに行ってくれるの?」

「うん。だから――」

「笑わせんなよ!」

 暗がりの中、それでもはっきりと分かるくらい、デスペナルティは手を震わす。彼が再びつけたライトの明かりは、地面で左右に揺れる。


「俺が、一体何人の奴らを壊してきたと思う?……大会だけの話じゃない。最初にやったのは、サイクリングに一緒に行こうって約束していた友達だった。時として自動車も手にかけた。フィニスを馬鹿にする奴。自転車を馬鹿にする奴。全部を潰してきたんだ」


 そっと、フィニスのバーエンドに手をかける。バーエンドバーが一体化したエルゴグリップの端っこ。最初は正しい向きが分からなくて、前後逆だと思って組み立てたそれを、今度は正しい位置で握る。


「いいんだよ。俺はどうでも――なあ、フィニス。お前が望むものなら、全て俺が潰してやろう。お前が目障りだと思うものを、片っ端から消していこう」


 住宅もちらほらと見えるが、基本的には森の中と言って差し支えない道。アスファルトはあっても一車線。センターラインはない。


「なあ、フィニス。それで全部消えたら、道を走るのは俺とお前だけだ。俺にはお前だけがいればいい。フィニス……ああ、フィニス。お前だけがいれば俺はそれでいい」


 他者に罪を問うデスペナルティは、しかし自分の罪は認めない。

 すべてを自転車のせいにして――フィニスが望んでいることにして――自分を正当化している。そうでもしないと、罪悪感に押しつぶされそうだった。生きていくのも苦痛だった。

 フィニスは彼にとって、弱い自分を支えてくれる存在で、罪深い自分をかばってくれる存在で、消えたくなる自分を道路に繋ぎとめてくれる。そんな存在で――


「だから、空君。お前は要らないんだよ!俺の走る道に、お前は走ってちゃいけないんだよ!」


 急激にハンドルを切ったデスペナルティが、空の後ろに迫る。

「やめて。デスペナルティさん!」

 ギアを3速に上げた空が、前に蹴り飛ばすようにペダルを踏む。急加速したエスケープは、相手の衝突からギリギリで逃げた。

「聞こえないなあ。空君の声なんか、もう聞こえないんだよ!」

 縁石に前輪を乗せたフィニスが、そのフロントを跳ね上げる。後輪だけでいきなり方向転換し、再び空を狙う。今度は速度も、タイミングも早い。

「俺には、もうフィニスの声しか聞こえない!」

「っ――何でも自転車のせいにしないでよ!」

 今度は空が、後ろだけをブレーキロックする。目的は停止ではない。ピストバイクでいうスキッドのように、後輪から摩擦を奪う。

 いささか減速したため、ディレイラーを狙ったデスペナルティの攻撃はチェーンステーに当たった。空はそのまま後輪を横に滑らせて、衝撃を受け流す。


 ギャリリリイイン!


 フレームが傷ついたかと心配する空だが、幸いにして透明なチェーンステープロテクターに当たったため、本体は無事だ。

 大きく方向を変えた車体を、カウンターステアと再びのペダリングで立て直す。そのとき右に向かって走るような軌道になってしまったが、縁石にぶつかる一歩手前で向きを戻せた。

「ああ、フィニス。待っててね。俺はお前のためなら、何百台だって生贄に捧げてやるよ」

「フィニスはそんなこと、望んでない」

「空君に何が分かるんだよ!?」

「分かるよ。自転車乗りだもん。その痛みくらい」

「なら、俺の痛みも知れ!」

 ヘッドライトの光が、再び空の顔を照らす。また逆光を使った目くらまし。それも今度は点滅モードだ。


 ガシャン!


 お互いのバーエンドがぶつかる。エスケープのバーエンドに仕込まれたミラーが折れて、路面に落ちた。

「そういえば空君はそのエスケープ、従兄に貰ったって言ってたっけ?くぅぅはっはあ!じゃあ、あの時の俺と同じだ。右も左も分からない素人が、適当にその辺の自転車を手に入れたわけだ」

「だったら、何さ」

 空がハンドルを左に――デスペナルティがいる方にわざと振って、相手をはじき返す。ついでにその力を利用して、相手の前に出る。

 デスペナルティは、急ブレーキで一瞬だけ停止した。フロントサスペンションと機械式ディスクブレーキによるロック。その次の瞬間にはペダリングを開始して、ウィリーに切り替える。

「俺とお前は似ているよ。自分の初めての自転車が気に入ってて、大好きなんだ。だからこそ、自分の自転車を傷つけるものすべてが憎い。そう思わないか?くぅはははっはぁ!」


 ガンッ!


 空の後輪を狙ったのであろう、ウィリー状態からの追突。しかしそれはオプションで取り付けていたリアキャリアの反射板に当たる。ぶつかられたエスケープは、前方に跳ね飛ばされる形で加速した。

 フィニスもまた、前輪を地面につけて姿勢を戻す。その状態から急激にギアを切り替え、弾かれるように加速。

「俺と空君。違いがあるとしたら、初めて乗った車体さ。空君は台湾の……いやアジアの、いや世界の最高シェアを誇る名門、ジャイアントに乗った。その価値も分からないまま、偶然に、だ」

 後ろから手を伸ばしたデスペナルティが、空の顔を掴む。

「むぐっ!?」

 その手は、割れた仮面の破片を持っていた。空の顔に、その仮面が押し付けられる。

 二人の車体は接近しすぎて、お互いにペダルを回すことができない。無理に回せば相手の車体にぶつけて、自分が転ぶ。


「もし、空君が初めて乗った車体が、エスケープじゃなくその辺のルック車だったら、この仮面をつけているのは俺じゃなくて、君だったかもしれない」

「何だよ、それ……デスペナルティさんが初めて乗った車体が、もしフィニスじゃなかったら、そんな風にならなかったって言いたいの?」

「そうだよ!俺は、俺はどこで間違った?――そこ以外にないだろうが!」

「ふざけないでよ。デスペナルティさんが誰より一番、フィニスを嫌ってるじゃないか!」

 空が背中を後ろに反り返らせて、ついでに首を目いっぱい上げることで、デスペナルティの手を振り払う。その一瞬でハンドルを切り、横方向に逃げた。

「僕は、僕はフィニスも馬鹿にしない。この大会で出会った自転車は全部、素敵だったから……だから、僕はデスペナルティさんにならない」

「違うね。俺とお前は同じだ。自転車を愛して、自転車に身を捧げ、自転車に狂い、自転車のためなら何でもする。同じだぁ!」

 ただでさえ道路端に寄っているエスケープに、フィニスが幅寄せをする。それをブレーキで回避することはできない。その性能ならフィニスの方が上だ。

 逃げるなら、前に行くしかない。


「はぁぁあ!」


 心臓を、ペダルを、叩きつけるように動かして、

 視線を、フォークを、まっすぐ前に向けて、

 血液を、クランクを、高速で回す。

「空君。一緒に地獄に落ちようぜ。くぅぅううっ、うっ、うう……はははははは!」

 デスペナルティも、命を削るようにして速度を上げる。そんな彼のヘッドライトを失った視界に、小さく赤い光が見えた。

 その光は、彼の横を走るエスケープのライトで照らされた、茜のクロスファイアのリフレクター。

「アタイの友達に、勝手なこと言ってくれんじゃねーよ!」

 フィニスと同じメカニカルディスクブレーキを搭載したクロスファイア――いや、ブレーキのコントロールと制動力なら、2ピストンのクロスファイアの方が有利だ。


 ガンッ!


 フィニスに追突させる形で、お互いの速度を下げる。そのままデスペナルティを止められるかとも思ったが、無理だ。タイヤのグリップ力なら、太いフィニスに軍配が上がる。

「空。今だ」

「うん。ありがとう」

 茜が即座に、道の中央に寄った。空もその真横にぴったりとくっついて、デスペナルティの包囲から抜け出す。

「なあ、デスペナルティ。アタイはルック車に偏見を持ってた一人として、お前にも謝らないといけないのかもしれない。この大会でアタイは、自転車は値段や質だけで決まるもんじゃないって教えられたよ。現に今だって、あのまま押し合ってたらお前のフィニスに潰されてた」

「ほら、やっぱり茜ちゃんだって、ルック車を下に見てたんだ。空君と一緒にいるのも、彼がジャイアントに乗ってたからだろ!空君がルック車に乗ってたら、一緒にいなかっただろ!」

「違う!」

 茜が怒鳴る。


 そもそも、茜は最初、空という男を嫌っていたはずだったんだ。自分が落ち込んでいる時にも明るく話しかけてきて、自転車の話を振ってきた変なクラスメイト。

 自転車は孤独だと思ってきた茜に、初めて寄り添って隣を走った少年。一緒に自転車屋に行ったとき、専門的な話をしても聞き入って、閉店間際まで話を聞き続けた友達。

 そんな彼の人柄に、いつしか茜も惹かれていた。

 だから――


「アタイは空が何に乗っていても、空をこのレースに誘ったさ」




(ああ、そうか)

 理解した。デスペナルティに足りなかったもの。空にあったもの。

 それは、乗っている自転車のブランドなんかじゃない。

(俺にも、茜ちゃんみたいな友達がいたら――)

 違う。

 いたはずだったんだ。

(俺が自分の手で、その友達を壊しちゃったんだよな)

 もう戻れない。フィニスについた数多くの傷と、自分の耳に残るたくさんの悲鳴が、あの日に戻らせてくれない。

 ただ、願えるなら、

(あの日から、やり直せたら……)

 でも、




「俺が今更、そんなこと言えるか!」


 交差点が迫る。信号は赤の点滅。ただ、このレースにおいて信号に従う必要は無い。

 渾身の力を込めて、デスペナルティが空に迫る。その速度は急激に上がり、瞬間的には50km/hを超えただろう。

 アルミなど一切使わない、鋼鉄のフレーム。

 その20kgもある重い車体に、圧倒的な速度。もちろんブレーキなどかけない。

 すさまじいほどの破壊力が、その前輪に宿る。

「くぅぅあぁああ!」

 ただ壊すために――目的が何だとか、その先にある夢が何だとか、そんなこと関係なく『ただ壊すため』に、全てを賭ける。

 姿勢を下げて、空力抵抗を避ける。

 ハンドルより前に、前輪より前に頭を突き出して、

 視線も下へ……見えるのは、漆黒の車体と、同じ色のアスファルトだけだ。


「うわぁぁあっ!」


 空がデスペナルティと反対側に、ハンドルを切った。右から左に寄せるフィニスと、左から右に逃げるエスケープが、ギリギリで交差する。エスケープの方が、寸分早く通過。

 衝突をかわされたフィニスは、そのまま左に抜けていく。交差点を仕切るパイロンを弾き飛ばし、そのまま吸い込まれるように、横断歩道から歩道へ――


 そして、コンクリートのブロック塀へ……


 まるで、吸い込まれるように。

 まるで、ぶつかっていくように。

 まるで、自爆するように。




「デスペナルティさん!」




 空が振り返っても、そこにはもう彼はいない。

「デスペ……」

「空、戻るな。このまま走るぞ」

「でも、今の姿勢……きっと頭から突っ込んだよ。前も見えてなかったはずだし……」

「空!」

「っ!?」

 茜は、前だけを見ていた。空のことも、デスペナルティのことも、遠ざかる点滅信号の明かりも見ていない。

「あいつが事故ったのは、自業自得だ。それに言っただろ。何かあったならミス・リードが救急車でも何でも手配してくれる。医療知識も何もないアタイらができることは何もない」

「でも……」

「それに、レース中だ。このまま前を目指すぞ」

 実際、ミス・リードが既にこれを取り上げている。どこから見ていたのか知らないが、どうやら中継ドローンか何かがずっと追跡していたらしい。

「あいつがどんな理屈を並べようとも、ここで同情するのは筋違いなんだよ」

「……デスペナルティさんは、ずっとそれを背負わないといけないの?」

「……さあな」

 そろそろ、この大会も終わりが近づいている。

 この先、いくつか山を越えて、最後の公園が残るだけだ。

 そして……



『ええっと、ですねぇ。

 デスペナルティさんの状況も気になるところですが、ここで現在の順位発表ですよぉ。

 先頭を走るのは、もちろんこの男、アマチタダカツ選手。そして、タイム差およそ2分、距離にして500mほど離れて、2位が空選手と、茜選手ですぅ』


 ミス・リードの実況のとおり、あと戦うべきは一人だけである。

「最後までアタイについてきてくれ。空」

「う、うん。もちろんだよ」

 空が再びペダルに力を入れる。

「痛っ――」

「大丈夫か?もしかして、さっきの攻撃でどこか怪我したか?」

「あ、ううん。それは大丈夫。ただ、脚が痛いんだ。ふくらはぎのあたりが、ビリビリって……」

「ああ、それならアタイもだ。いつもならもうとっくに休んでる時間だもんな」

 たまに軽く痙攣し、ペダルを踏み込めないでいる脚。逆に、上半身は固まってしまって伸ばせない。ハンドルから手を離せないかもしれない。

「……今日は、もう泊れるところを探して休もうか?」

「アホか。そりゃ今までやってきた全部を捨てるって意味だぜ」

「だよね」

「ああ、今日だけは、もう休めないんだよ」









「はっ、はっ、はっ――」

 デスペナルティは、すんでのところでブロック塀を回避していた。というより、突っ込んだところが偶然にも門の近くだったというべきだろう。

 彼はそのままハンドルを切って門に飛び込み、庭の奥へと進みながら勢いを殺し、そのまま停めてあった自動車に突っ込んでいた。

 どう考えてもその家の人が使っている車だろう。今どき珍しいシルバーのセダン。そのフロントバンパーが、無残に曲がっている。

 車体から投げ出されたデスペナルティは、そのままルーフの上に立ち上がった。人が乗る設計になっていないルーフが、ベコンと音を立てて凹んだり戻ったりを繰り返す。

「はは、はははははははっ。あっははははははは!」

 すとんと地面に飛び降りた彼は、フィニスを引き起こした。前輪のスポークが折れて、少しばかりホイールが歪んでいる。それでも、まだ走れる。ディスクブレーキなので、パッドもリムに干渉しない。

「生き残ったね。フィニス。どうやら俺たちは、まだまだやれるみたいだよ」

 跨り、ペダルを漕ぎだす。

「……フィニス?なあ、返事をしてくれよ。どうしたんだ?」

 フィニスは、何も答えない。

「なあ、いつもみたいにお喋りしようぜ。俺たちはまだ走れるんだぞ。さあ次は何を壊したい?言ってくれ!」

 いつだって、自転車は喋らない。自転車は、それを壊すような走りを望まない。

「なあ、フィニス。俺は、お前が望む通りに、壊してきたんだよな?」

 通報される前に、コースに復帰する。まだまだレースは終わっていない。


「あはははははははは。誰を追いかける?空君かな?茜ちゃんかな?

 あの二人はねー。俺の大事なお友達なんだ。

 だからまた壊しに行こう。きっと楽しいよ。

 さっきだって、とっても楽しかったよね。俺は楽しかったよ。

 フィニスも楽しかったよね?

 空君も、茜ちゃんも楽しんでくれるよ。友達だもん。

 ははは……あははははは!」

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