第56話 最強の男と最大の自転車
チャリンコマンズ・チャンピオンシップの終わりを、観客たちは固唾を呑んで見守っていた。
ある者は、現地に行き、
またある者は、画面にかじりついて、
ルリもまた、自宅アパートで療養しながら、芋焼酎を片手にミスり速報を見ていた。生中継で送られてくる映像を見ながら、ときどき折れた脚をさすっている。
そんな彼女だが、独りぼっちではない。
隣には、呼んだら来てくれたアキラがいて――ついでに言えば、呼んでもいないのにユイもいる。
「やはり、優勝は叔父上でござるかな」
くまのぬいぐるみを抱えたユイは、長い髪をさらりと払って得意げに言った。叔父であるアマチタダカツの話なのに、まるで自分の事のように自慢げである。
「いや、分からねーよ。茜ちゃんだって凄い走りをするからな。俺も付いていくのがやっとだったぜ」
「アキラ殿は拙者にさえ、ついてくるのがやっとでござろう。それこそ最初に会った時など、拙者の『覇ぁ!』で足を攣って気絶したではござらんか」
「う、それを言うなよ」
確かに、ユイとアキラが初めて会った日。サイクリングロードで戦って負けたのはアキラだった。あのときはまさか、ユイが使っているママチャリが改造車だとは思わなかったのである。まあ、それを差し引いても速いのだが。
「ところで、あの『覇ぁ!』ってやつ、どうやってるんだっけ?タダカツさんも使ってたみたいだけどさ」
アキラが訊くと、アマチタダカツの姪であるユイは、にやりと笑う。
「あれは、目の錯覚を起こして距離感や速度感を狂わせ、体力を限界以上に奪う技でござるな。ママチャリと思って侮っているところに、変速ギアなどを組み合わせて速度を誤認識させるのでござる」
「ふーん。でも、それってママチャリに乗っているユイだからできることだろ。タダカツさんはロードバイクじゃないか」
「うむ。それでも錯覚は起きるのでござるよ。やり方ひとつでござる」
ユイがちゃっかり、ルリの湯飲みに手を伸ばそうとする。芋焼酎のお湯割りが入っている湯飲みだ。
ぱしっ
「痛いでござるっ!?」
「未成年はダメですよ」
「むーっ。ルリ姉だって先々月まで未成年だったではござらぬか!」
「だから私は良いんですよ」
意地悪に、ふっと息を吹きかけるルリ。その芋臭いうえに酒臭い息が、ユイの鼻をくすぐり前髪を揺らした。
『全国のみなさん、ごきげんよう。ミス・リードですよぉ。
いま起きた方々、おはようございますぅ。そして徹夜しちゃった人たち、おやすみなさい――と、言いたいところですが、まだまだ寝ないでくださいねぇ。だって今、クライマックスですからぁ。
アマチタダカツ選手に、噂の中学生コンビが追い付きましたぁ。
コース的にも、この山を越えたらあとは小さな住宅地から公園に向かうのみですぅ。その公園の奥に、総合ゴール地点が用意されていますよぉ。
最終決戦ですぅ!』
「見つけたぞ。アマチタダカツ!」
「ねえ、茜。いちおう年上には『さん』を付けた方がいいと思うんだ」
茜のヘッドライトが、タダカツの反射板を光らせた。
それに気づいたタダカツも、振り返る。もちろん、速度を維持しながら、
「ほう……我に追い付いたか。見事である」
その迫力は、カメラを通して全国に中継されている。
中継車として派遣されているバンは、タダカツの前を走っていた。この決定的な瞬間を、カメラに収めるために必死だ。そのバンが、やたらと小さく見えた。
茜は、にやりと牙を見せる。
「やっぱりな。そういうことか」
「どういうこと?」
「ずっと考えてたんだよ。タダカツはロードバイク乗りなのに、どうしてオフロードを走れるのか。そしてどうして悪天候にも負けないのか」
水たまりを踏んだタダカツのタイヤ痕が、地面に残っている。その太さは、およそ2.25in程度。要するにマウンテンバイク並みだ。
「あんた、デカいんだろ。タイヤの太さだけじゃない。ホイールの直径や、フレームの長さ。それからあんた自身の身長も、規格外に、だ。おそらく使っているホイール内径は、36inだ。違うか?」
「え?それって、ミハエルさんのペニー・ファージングの前輪と同じ大きさ?」
空が驚いた。
確かに、それならタイヤ自体が太くても、見た感じ太く見えない。そういうものである。
「ほう、よくぞ見抜いたな」
これは、自転車をよく知る人ほど引っかかる錯覚だ。ロードバイクなら必ずホイールは700C……およそ27.5inであるという常識から、全体の大きさを見誤る。
タダカツの身長は、214センチメートル。その体格ゆえに、トライアスロンの現役選手だった頃は見合った自転車を見つけられなかった。バイクパートを苦手とした理由がこれである。
ただ、彼は悔しかったからこそ、バイクパートの練習と研究を続けてきた。そして鍛えられた自転車乗りとしての体力は、常人をはるかに超える。
そこに、身体に見合った自転車が加わったら、どうなるか……
「ふんっ!」
目の前に迫った道路のひび割れを、タダカツは特に何もせずに越えて見せた。茜や空にとっては、バニーホップで避けるしかないほど深かった段差。それもタダカツにしてみれば、床の傷のようなものである。
すべてが規格外にデカい。
そんな彼にとって、落ちている岩は石ころのようで、非補装の砂利は砂粒に見えた。
今登っている山も、彼にとっては短い坂に過ぎないのかもしれない。
もしかしたら、日本縦断というスケールさえ、庭を走り回った程度なのか――
「空。うかつに近づくなよ。見ての通り、吸い込まれる」
「う、うん。でも、本当に遠ざかってるみたい」
鹿番長やニーダがやられたのは、これだ。遠近感が狂って、タダカツが近くにいるように見える。しかし実際には遠い。まるで星に手を伸ばしているような感覚だ。
『なるほど。そういう事だったんですねぇ。
いや、タダカツさんのデータですが、エントリーシートには車体名すら書いていませんし、私も個人的に調べていたのですが、ヒットしなかったんですぅ。
でも今の茜さんの発言のおかげで、ようやく予想が出来ましたよぉ。カメラさん、ズームでお願いしますぅ』
ミス・リードの指示に従い、中継バンのスライドドアから、カメラマンが身を乗り出した。大きなカメラが、タダカツの車体、その細部を捕らえていく。
『おそらく、この車体の正体は
チタン合金製の頑強なフレームに、カーボンリムのホイール。そしてコンポは……これはタダカツさんの改造でしょうかぁ?フロントシングルのSRAM Apex 1ですよぉ。
フロント42Tで、リアが11-48Tの11速ってところですねぇ。大きなはずのワイドレシオ系スプロケットですが、全然そんな風に見えないですぅ。
フロント42Tというと頼りないように思うロード乗りもいるかもしれませんが、タイヤの円周を計算するとエグイですよぉ。通常、ロードで53×10Tでも、クランク1回転で1115cmしか進みません。
一方、タダカツさんの36inタイヤの外周を3200mmと仮定して計算すると、42×11Tでも……えっと、待ってください。クランク1回転で1222cmも進むんですねぇ。そりゃ速いはずですぅ。
カメラさん。もっと寄ってくれませんかぁ?』
いつもとは違う意味で興奮気味のミス・リード。彼女にとっても、この車体は珍しいものなのだろう。
タダカツは、それに眉をひそめた。
「済まぬが、我はこれから、空と茜と3人だけで戦いたい。中継の仕事も理解するが、ここは引いていただけぬか?」
『いえいえ、お邪魔は致しませんので、さあ私の事は気にせず続けてくださいですぅ』
「いや、ならぬ。重ねて申し上げるが、中継を止めてくれ。なんならこの山の頂上まででいい。最終ゴールでも中継を切れというのは不可能だろう。山頂までには決着をつける」
『はいはーい、山頂にももちろん固定カメラはありますから、安心してくださいねぇ。そこまでは空撮用の小型ドローンと、目の前の中継バンが同伴しますぅ』
「どうあっても、引いて頂けぬか?」
『お仕事ですからぁ』
タダカツの目が、すっと細められる。いや、閉じられたのだろうか?もともと糸目なことも相まって、どちらなのか判別が難しい。
「中継スタッフ諸君。そちらの覚悟、しかと受け取った。貴公らの信念、このアマチタダカツと戦うにふさわしい」
『え?』
ぽつり――
雨が一粒、落ちて来る。
タダカツのヘルメットに、
マルチコプタードローンのローターに、
そして、空たちの頬にも、
「ふっ」
一閃。
上ハンドルを左手で握ったタダカツは、クランクを水平にして伸び上がる。そうして右手を天に伸ばせば、一瞬でマルチコプターを捕まえた。
上空3メートル以上の高度で飛んでいたはずのそれは、タダカツの長身によって軽々と手づかみにされる。
それを地面に叩きつけ、ハンドルに手を戻すついでに、フロントに体重をかける。そのまま、マルチコプターをタイヤで踏みつぶした。
ベキベキベキベキッ!
マルチコプターの軽量プラスチックボディなど、ひとたまりもない。
「覇ぁあ!」
いつの間にギアを切り替えたのか、トップに入れていたタダカツが、たった半周だけクランクを踏み込んだ。その車体が爆発したように加速する。向かう先は、目の前の中継車。
「ひっ!?」
カメラマンは、茜の解説をじかに聞いていたはずだった。だからタダカツが、遠近法を利用した目の錯覚を起こすことを知っていた。
近くにいるように見えて、実際には遠くにいる。そう聞いていたにもかかわらず、
(ぶつかるっ!……うわぁああああ)
慌てたカメラマンが、外に乗り出していた上半身を慌てて引っ込める。振り回したカメラがドライバーの左側頭部を直撃した。
ハンドル操作を誤った車は、そのまま土手の方へと車体を滑らせた。当たりの木々をなぎ倒し、横転して落ちていく。
「これで我が前に、走る車両のひとつも無し」
すっと、サドルに腰を下ろす。それは、まるで刀を鞘に納めるような空気をまとった動きだった。
戦いを終えたという意味ではない。次なる一太刀のために、居合の構えを取るという意味だ。
『中継バン1号車さん!至急応答願いますぅ。応答を――っ
……どなたか、近くでアマチタダカツさんを追える車両は――ピックアップトラック2号車さん。サイドカー5号車さん。オフロードバギー1号車さん。……間に合わない、ですかぁ。でも、可能な限りで向かってください。
私は各地の固定カメラから、可能な限りで映像をつぎはぎして実況しますぅ。
ADさん。今すぐ消防に連絡を――バン1号、乗組員3名が全員応答なし。大至急ですぅ!
付近の選手の皆様。緊急車両が通過しますぅ。レース中に恐縮ですが、ご協力お願いしますぅ』
「ほう、まだ諦めぬか。ミス・リードよ。そしてチャリンコマンズ・チャンピオンシップの、運営委員たちよ」
天を仰ぐタダカツに、雨が降り注ぐ。ぽつぽつと、いや、しとしとと――
「見事であった。その覚悟!その信念!我が胸に刻むにふさわしい!貴公らと戦えたこと、このタダカツの誇りにしよう!」
すっと、タダカツが後ろを振り返った。その身長は高いが、決して空たちを見下してはいない。横顔とはいえ、まっすぐに送られる視線は、対等な自転車乗りを見る目だ。
「待たせたな。勇敢なる乗り手、茜よ。才ある雄、空よ」
すぅっと、一息吸い込む。
雨はより強さを増し、
木々は風にざわめき、
山がわずかに震えた。
「このアマチタダカツを、一瞬でも超えて見せよ。その時、汝らの勝利を認める。――死力を尽くせ。生半可な覚悟で挑むなら、死ぬ事になるぞ」
先ほどの中継車の惨状を見るに、脅しとも思えないし笑えもしない。
それでも、茜は今の言葉から、自分たちの有利な部分をしっかり抜き出した。
「おいおい。そりゃアタイらが一瞬でも、あんたの前に出たら勝ちって事で良いのか?例えば後ろから追い越し直したり、抜きつ抜かれつのデッドヒートになったりするかもしれないぜ。その可能性を放棄するのか?」
ゴールを待たずして、決着がつくかもしれない。
「同じことは二度言わぬ。そして、撤回もせぬ」
「いいね。やってやんよ!」
スタートの合図など、いらない。
断崖絶壁が視界の端を横切る、くねくねとした峠道。その中でも特別きつい10%以上の坂道で、茜は勝負を仕掛けた。
(ここだ。アタイの得意技)
パンチャーである茜は、長い坂道や、平地を苦手とする。逆に言えばこのように、瞬発力がものを言うルールでの急激な登り下りは得意だ。
(ついていくよ。茜)
空が自分の身体を左右に振る。あの必殺技だ。思いついてから15日の間に、何度も研鑽した。
より鋭く、より力強く、二人の車体がチェーンを鳴らす。
それを――
「甘い!」
タダカツが、その力だけで全てねじ伏せる。
身長に見合うだけの重さ。その筋肉に覆われた巨躯は、体重120kgもある。それを生かして、ガンガンと打ち付けるようにペダルを漕ぐタダカツ。彼の愛車であるダーティシクサーもまた、チタン合金のフレームでその踏み込みに耐える。
いくら変速ギアがあるとはいえ、その大きなホイールセットは使いづらいはずだ。単純な重さでも、タイヤ周長でも、脚への負担が大きすぎる。並大抵の人間が使えるものではない。
タダカツだから――この規格外の力を持った男だからこそ、それらデメリットを味方につけられるのだ。
「がぁぁああああ!」
ギャアアアアアアン!――ギャアアアアアアン!――ギャアアアアアアン!
ひと漕ぎで進む距離が、まったく常識を超えている。ただでさえ1車線しかないような狭い道で、その大きなフレームを揺らしてダンシング。道路を端から端まで、ハンドルで叩きつけに行くような走り。
(そんな……速すぎて追いつけない。見失わないので精いっぱいだよ)
(仮に追い付けても、あんなに幅を取るなら隙なんかないぞ)
空にとっても、茜にとっても得意だったはずのフィールドで、太刀打ちできない。それも、小細工などではない。正面切った勝負で、やられている。
「嬉しいぞ。我は今、喜びに震えている。これまで『錯覚で相手を惑わす』などというのは、我が望んでいた事態ではない。だからこそ、勝手な幻覚にやられず、我そのものと戦う者が現れたこと、久々に血が騒ぐわ!」
「喋る余裕すらっ――はぁ、あんのかよ!」
「茜っ、呼吸を温存してっ……ごほっ。かっ、はっ」
相手は速度のわりに、ゆっくりとペダリングしている。確実なトルク型の選手だ。その走りからは本気さこそ感じるが、必死さを感じない。真剣ではあっても余力を残しているようだ。
ぱらり……と、石ころが落ちて来る。タダカツはそれを戯れに掴むと、
「ほう……上の方で落石があったようだな。先ほど山が震えたのはそのせいか……」
これまた、石そのものには興味が無かったらしく、手の中で転がして粉々にした。
コーナリング。こんな時でさえ、タダカツはペダルを止めない。もともと車高が高いうえに、クランク自体はタダカツ自身の改造で、175mmの短さになっている。
そう、短い。通常であれば特大サイズとして設計されたはずの175mmクランクが、タダカツとダーティシクサーに合わせるのには小さく見える。
曲がるために車体を傾けながら、それでも回し続けるペダル。それが地面にぶつからないのだ。
「茜。僕が先行する」
「よし、行け。空」
空の場合、そこまでの車高は無い。ただ、上半身だけを傾けるリーンインで同じことをする。実際には正中線がフレームから外れるため、思った通りに力が入らないのだが、
「やあぁっ!」
それでも、込める力を左右で変えて、加速しながらコーナーを曲がる。器用な空だからこそ、前輪が浮かぶようなことも無い。
インコースを攻めた空が、タダカツに近づいた。その時に、
「落石である。足元に注意せよ!」
タダカツから警告される。
警告したタダカツ本人は、それを超える術を先ほどから考えていた。
目の前には大きな岩が、小さな隙間だけを残して散乱している。もともとはさらに大きな岩だったのが、落下でいくつかに割れたのだろう。
「えい……」
ぐぐぐ……と、カーボン製のホイールがしなる。タダカツが車体を意図的に傾けて、それを反り返らせているのだ。
「……やあああ!」
急激にその車体を戻し、反動を利用して宙に舞う。何もない所でのジャンプ。それは空達が使うバニーホップとは、本質から違う。
およそ1メートルほどの高さまで飛んだタダカツが、車体を真横にして地面から離す。それで岩を軽々と避けて見せた。
着地する地点は、砂まみれの状態に雨が降った泥の上。本来なら滑って倒れそうなところに、
「ふん!」
その大きなタイヤのグリップだけを頼り、見事に着地する。飛び跳ねる泥水が収まってみれば、彼のタイヤの跡だけ綺麗にアスファルトが見えていた。着地の衝撃だけで泥を弾き飛ばしたのだ。
「――っく」
空には、そんな芸当は出来ない。大きな岩は言うまでもなく、小さな石ころさえも小刻みなハンドリングで避ける。途中、後輪が滑った。とっさにブレーキをかけて車体を停止。安定させ直してから、再びペダルを漕ぐ。
「大丈夫か?空」
茜も追い付いてきた。クロスファイアなら、大きな岩はともかく、小さな石ころは踏み越えられる。といっても、転がる石によって左右に車体をはじかれているが、
「大丈夫だけど、タダカツさんがあんな遠くに?」
「ああ、多分遠いんだろうな。化け物め……」
坂が緩やかになる。頂上が近いのかもしれない。
となれば、ここで空たちは再び仕掛ける。
「空。アタックだ。アタイの後ろに入れ」
「え?トレインを組むの?」
「ああ、そうだ」
今まで、巡行で体力を持たせるためにしか使ってこなかったトレイン。そもそもこの技はそういうものだ。それを、アタックで使う。追突のリスクは上がるが、空力抵抗を減らせれば有利に働く。
「行くぞ。乗り遅れるなよ」
「わっ、分かった」
茜が少しずつ、ギアを変えていく。彼女らしくない、空のペースを確かめるような加速方法。それに空も応える。
タダカツは、この空力抵抗を減らすことだけは苦手だった。大きな体をどれほど縮めても、限界は存在する。
「むぅ……今宵は雨。空気もより重いか」
大量の雨粒に衝突され、湿った空気に押し戻され、それでも速度を下げないタダカツの力量は流石と言ったところだろう。
しかし、後ろから茜たちが追い上げる。
「来たか。ならば再び、突き放す!」
タダカツもダンシングで速度を上げる。掴んだのは、ドロップハンドルに増設された自作のDHバーだ。使用するパイプからこだわり、カーボンアルミ製のハンドルを真っ二つに切って取り付けるという方法を取っている。
元から機械いじりが好きで、自転車をよく分解していた。そんなタダカツならではの改造だ。自分の身体に見合うよう、様々な部分にこだわった。
「逃がすかよ!」
茜がギアを上げる。平地に近いとはいえ、2%程度は登っている道。そこをフルアウターで、必死に上っていく。60km/hを超え、タダカツに近寄る。
茜の前輪が、タダカツの後輪に並んだ。
(見事……しかしその速度。いつまでも維持できまい)
(お互い様だろ……強がるなよ。タダカツ)
茜の真横から、吐息が漏れる音がする。まるで獣の唸る声。いったいどれほどの肺活量をもってすれば、ただの呼吸がこんな音になるのだろう。しかしそれは、息が上がっている証拠でもある。
「ぬうううがああああ!」
「ぜりゃああああああ!」
タダカツと茜が、並走して競う。これ以上の速度は上がらない。ならばあとは、どちらが先にくたばり果てるか、だ。
雨は知らず知らずのうちに、体温を奪う。熱を感じられないのは、自分の限界を理解しにくい事と同義だ。今この場にいる3人は、普段ならとっくに限界を訴えていただろう。
空や茜は言うに及ばず、タダカツだって夜通しで朝から走った日などない。
それが、限界を産む。
「ぬぐぅっ!」
先に悲鳴を上げたのは、意外にもタダカツだった。
(しまった。我としたことが、足を攣った、だと!?)
右ひざが曲がらない。
どっと脂汗が額に浮かび、鼻先から落ちる。痛みで思わず息を吐きすぎそうになる。靭帯すら千切れそうだと思えるほど、ひたすら痛い。
もともと強い筋肉を持っているからこそ、それは常人が経験するよりずっと重症だ。それだけの筋肉を持っていながら、攣るというのも珍しい話だった。
それは、すぐ左にいる茜にも伝わった。
(こいつ、攣ったか)
勝機が見えたと思った。しかし、
「がああああ」
まだタダカツは、ペダルを漕ぐ。
攣っていない左脚で、ペダルを踏みつける。ビンディングは外れない。そして自転車のペダルは左右同時に下がったりはしない。つまり、タダカツが左脚に力を込めるほど、攣っている右脚に無理な負担を強いることになる。
――タダカツは、茜の顔を見下ろしていた。身長差50cm以上もあるせいで見づらいが、茜は綺麗な目をしている。おそらく、その後ろの空も、だ。
この状況で、まだ走ることも諦めない。まだ負ける運命も認めない。そんな子供たちだ。
自分だって、そうだった。
自分をこのような身体に産んだ両親も、その身体に見合う車体をなかなか作ってくれなかった自転車メーカーも、あれほどの努力を認めてくれなかった周囲の選手も、恨んではいない。
むしろ、感謝さえしている。
この子たちはどうだろう?
もし今日、自分に勝てたとしても、いつかは負けることもある。乗り続けるとはそういう事だ。
今乗っている車体との別れも、私生活と両立できない時も、もしかしたら日本がより厳しい自転車規制に乗り出すなどという事も、あるかもしれない。
そんな時、この子たちはまだ、自転車を愛してくれるだろうか。
それは、愚問――
だからこそ、全てを賭けて戦う意味がある。
無理なペダリングは、車体の左右バランスを崩す原因になる。そしてこの速度では、繊細さを欠くことは致命傷になり得る。
分かっていながら、それでもペダルを回す。そのあとのことなど、今のタダカツには頭に浮かびもしない。
「がっ、あ、あ、あ」
ペダリングが止まりかける。痛みだけではない。もう大きな車輪を回すだけのパワーも捻出できないのだ。
車体はふらふらと、左側にいる茜に寄っていく。
(お、おい。こっちに来るなよ……っ!)
ぶつからないように逃げる茜だが、そのせいでタイヤを擦ってしまった。道路の横にある側溝の淵……そのコンクリート製のわずかな段差がタイヤに触れるだけで、大きく減速してしまう。
何より、水平に近い侵入角度で当たってしまったため、乗り上げられない。たかが数センチもない段差が、今の茜には大きな障害になる。
無論、タダカツもこれ以上寄る気はない。むしろ茜の邪魔をしないように、しかし真剣勝負でペダルを止めるような真似もしないように、その脚で出来る限りの事をする。
「ふーっ、ふーっ……」
口角から、泡が噴き出す。鼻水も落ちる。糸目をこれでもかとひん剥いて、それでも走り続ける。
その逆サイド……右側に、空がいた。
「いまだ!空!」
「うん」
タダカツが寄ったことで、がら空きになった道を、空が進む。3人での横並びから、さらに前へ……
(負けることが、怖い)
空の中に、そんな思いはもちろんある。
(勝つことも、怖い)
それだって、克服したと言えるほどではなかった。
(今だって、怖いよ。誰が勝ったとしても、みんな無事じゃ済まない。それに、負けた人たちはこんなに必死になったのに、それさえ報われないんだもん)
ただ、彼は学んだ。
(でも、必死になる意味さえ失うのは、もっと怖いから)
人は、戦うのだと。そして
(必死になったその先に、誰かが笑って褒めてくれるなら――)
僕は、戦えるのだと。
「はぁあああっ!」
タダカツが瞬きすらせず、見つめ続けたもの。それは前のみ。
自転車は後ろにペダルを回したところで、後ろに進めるものではない。だから前を向くのが基本だ。
これまで、誰もいない道路だけを見てきた。ただただ人がいない。自転車もない。そんな寂しい景色を、ずっと見てきた。
その視界に、自転車に乗った少年が飛び込んでくる。
鮮やかな空色のフレームのクロスバイク。
身体を左右に振り、踊るように走る少年。
(ああ、いい若者だ)
その後、何も見えなくなる。意識が遠のいていくのを、感じていた。
せめて、せめて右に転ばなくてはならないだろう。左にはまだ茜がいるはずで、自分が倒れたら、彼女を押しつぶしてしまうから。
――どさっ
白目をむいたタダカツが、そのまま倒れた。手などを無暗につかず、ハンドルをしっかり持ったままの落車。あえてノーブレーキで倒れることで、落下方向の衝撃をジャイロ効果で減衰。さらに衝撃を下ではなく前に向けることで受け流す。
カラカラと回り続ける車輪は、まるでまだ走り続けているようにも見えた。戦場で立ったまま死ぬ戦士のように、車輪を回したまま倒れている。
「タダカツさん」
空がブレーキをかけて、エスケープから降りた。放置されたエスケープはそのまま倒れる。スタンドを立てたつもりだったが、脚に力が入らなかったせいか、しっかり立てられなかったらしい。
「おいおい、大丈夫かよ。タダカツさん」
茜もUターンして戻ってきた。いつもの事ではあるが、体力を消耗しきったあとにビンディングシューズを外すのは容易ではない。まして足首はもう腱鞘炎気味だ。
「茜。肩貸すよ」
「悪いな」
近寄った空の肩に、茜が手を回す。気軽に答えてしまったが、実際にやると気恥ずかしいものだ。汗臭かったりしないか不安になる。
空もまた、気軽に肩を貸してしまったが、少しだけ失敗したかと思った。
いつもガチガチのスポーツマンみたいな言動が目立つ茜だが、こうして触れると温かく、柔らかい。などとドキドキしている場合ではない。
タダカツは、ゆっくりと口を開いた。
「まこと、素晴らしい戦いであった」
まだ意識が完全に回復しないとはいえ、その感動だけは、伝えたい。タダカツはそう思って、懸命に口を動かす。
「このアマチタダカツ。今まで生きてきた中で最も美しい勝負だったと、胸を張って言える。ありがとう。空。茜」
「タダカツさん……」
「ふっ。しかし、面白いものだな。我にとって、最も悔しい敗北も、今日だ。ああ、勝ったら勝ったで寂しいくせにな。ふふふふっ、ふはははははっ」
悔しいだとか、寂しいだとか、言ってることとは裏腹に、タダカツは笑った。心底嬉しそうな笑い声だ。
いつの間にビンディングを外したのか、彼はむくりと起き上がる。
「行け、二人とも。貴公らの勝ちである。約束通り、我は貴公らを抜き返しはせぬ」
「え?でも……」
「他の参加者どもも、こちらへ向かって来ている。タイム差はあるが、だからと言ってゆっくり喋る時間などないぞ」
ようやく頭が回るようになってきた。だからこそ、タダカツの目には状況が見える。なんなら、この山全体の状況も……見えない麓まで手に取るようだ。
「我は貴公らと、自転車にて語り合った。我らが本気の走りを見せ合えば、それ以上に言葉は必要ないはずだ。行け」
語ることは何もない。と、タダカツは先をせかす。
しかし、空は言った。
「タダカツさんの自転車、今度よく見せてください」
「ん?」
「いや、珍しいし、大きいし、カッコイイので……今日は無理でしょうけど、もっと天気のいい日に、明るい時間に」
まだまだ、話したいことがたくさんある。少なくとも、空にはあった。
勝ち負けの一度や二度じゃ足りない。もっともっと、ワクワクする自転車を知りたい。
「えへへ。僕の身長じゃ、トップチューブに跨ってもペダルに足が届かないですけど……あ、でもでも、三角乗り?っていう方法なら乗れるのかな?って、貸してくれるなんて言ってませんよね。ごめんなさい」
「ふふふっ、いや、いいだろう。またいずれ機会があれば、覚えておく」
「本当ですか?やったー」
まったく、敵うわけがない相手だった。と、空を見てそう思う。
勝ち負けを見据える自分と、その先を見据える少年。勝負は最初からついていたようだ。
「しかし、今度こそ行け。下から『あれ』が上がってくる」
「あれ?」
「デスペナルティ、と言ったか。あの小童も、なかなかどうして骨のある男であるらしい。禍々しい気をここまで飛ばしてくるとは」
「!?」
「あいつ、生きてたのか」
よくよく聞いていなかったが、確かにミス・リードも実況でそんなことを言っている。
「茜。行こう」
「おう」
二人の身体が離れる。少し寂しい気持ちになる空だったが、言ってる場合じゃない。
『さあ、大詰めも大詰め。終了間際のお知らせですぅ。
現在トップは、茜選手。そして並走する形で空選手。それを後ろから追い上げていくのは、デスペナルティ選手ですねぇ。
……ところでコース周辺の民家から、セダン一台が壊されたとの通報が入ってますけど、これ請求はデスペナルティさんでお願いしますねぇ。ギリギリ場外での事故なので。
おっと、ここでアマチタダカツ選手。なんとコースを逆走ですぅ。今登ってきた峠を降りて、デスペナルティさんに接近していきますぅ。な、何のつもりなんでしょうかぁ?
これ以上コースに損害出すのはやめてくださいねぇ。一応道路を借りるときに、状態は保全する事って約束になっているんですからぁ。私の体だっていつも高い値段で買ってくれるオジサマがいるわけじゃないんですよぉ』
いや、ミス・リードが体を売って運営資金にしているわけではないだろう、というツッコミはもう誰もする者がいないのだが。
「くははははっ。タダカツ君か。いいね。遊びに来てくれたんだね。じゃあ、やろっか。正面衝突でいいよね?」
デスペナルティが、にこやかに笑いながら言う。その声がタダカツに届いているわけでもないが、その様子は届いていた。
「ふむ。その背負った業、持って帰るには重すぎる。我が少しばかり預かろうぞ」
タダカツも、速度を緩めない。お互いに接近し、一瞬ですれ違う。
――すれ違った。
ただそれだけだった。
「くぅははは、は、は、は?」
デスペナルティの視点が、ガタン、と一段下がる。そのまま、上半身がゆっくりと回りだした。前を向いているはずなのに、景色が横に流れる。
「は?」
まるで、腹を真横に切られたかのような状態。ペダルに足をまっすぐ乗せたまま、それでも体の向きは斜め下にずり落ちる。
「ははは?」
速度が落ちる。そして、身体も後ろを向いた。そのまま、地面に吸い寄せられる。
とすん――
軽い音を立てて、デスペナルティが倒れた。
種明かしをしてしまえば、すれ違いざまにタダカツが足を延ばし、フィニスのシートクランプを蹴り飛ばしただけだった。QRレバーひとつで止まっていたクランプが外れ、シートポストが回転しながら下がっていった。ただそれだけである。
もっとも、一瞬のうちにピンポイントに、相手に悟らせずにやることは神業だ。
タダカツにとっても人生で初めての行為だったが、鍛えられた動体視力と、興奮状態にある精神がそれを可能にしたのだった。
ミスり速報に、タダカツが凸電を入れる。
「聞けぃ。ミス・リードよ。悪鬼デスペナルティは、このアマチタダカツが打ち取った。そのうえで、我はここでリタイアを宣言する」
確か、相手の車体に損傷を与えたとしても、それがコース内であれば事故として処理する。それがこの大会の不文律だった。ならば、とタダカツは携帯ツールを取り出し、フィニスの解体にかかる。
これ以上、ここを通る選手を危険にさらさないために、
また、後ほど組み立てて返せるように、と。
空たちは、下り坂を走っていた。もうペダルを動かすほどの力は残ってない。もたれかかるようにハンドルを握り、重力に頼って降りていく。
「雨、上がったね」
スッキリした風が、通り抜けていく。あまりに冷たい事を除けば心地いい。そのうち服も乾くだろう。
「茜。その薄着で寒くないの?」
「大丈夫だよ。と言いたいけど、実はずっと寒かった」
「だ、だよね」
「そういう空こそ、ずぶ濡れで大丈夫か?」
「あ、一応このコート、撥水加工はされてるんだ。ちょっと利きが弱くなってきたけど」
「ふーん。便利なもんだな」
イヤホンの向こう側では、ミス・リードが『おはようございますぅ。大会21日目の朝ですよぉ』などと言っている。
「ここを降りたら、あとはゴールまでちょっとだけだよね」
「ああ、ミス・リードにも確認した。数キロくらい住宅地を走って、最後は公園だってさ」
「お腹すいたね。途中にコンビニとかあるかな?」
「おいおい。ここまで来てゴール前にコンビニには寄らないぞ。食うならゴールした後だ」
「だ、だよね。ははは……」
空がポケットの中を探る。出てきたのは、個包装の小さなチョコレートだった。
「茜。これ食べる?」
「お、気が利くじゃないか。サンキュー」
受け取った茜が、袋を口で破る。そしてかじりついてから、
「……空の分は?」
と訊いた。
「あ、それが最後の1個だよ」
「先に言えよ!うわー、齧っちゃったゴメン」
「ううん。いいんだ。茜が食べて」
「いや、お前のチョコだろ。それに腹減ったって言い出したのもお前じゃないか」
「まあ、そうなんだけどね」
茜は歯形が付いてしまったチョコを見つめて考えていたが、やがて結論を出す。口に半分ほど入れると、そこでパキリと噛み割った。
「ほら、半分こ」
「え?あ、でも……」
「何だよ?」
「いや、うん。分かった」
受け取ったチョコを、空が口に入れる。それはまあ、言うまでもなく甘い。
「あ、見ろよ空。あっち側」
茜が後ろを指さした。その方向から、太陽が昇ってくる。その光は、空たちの前方の雲も照らし始めた。
夜明けだ。
「綺麗だね」
「ああ、すっげーな」
目を細めながら、その景色を眺める茜が、
(一番、きれい)
そんなことを、空は思っていた。
「なあ、空。頼みがあるんだ」
「え?あ、食べ物なら、さっきのチョコが最後だよ」
「いや、違うよ。お前ってホント時々ずれてるよな!」
「え?あ、ごめん」
二人で顔を見合わせて、笑う。こうしていられる時間も、距離も、もう短い。せめて少しでも長く、この瞬間を焼き付けていたい。
「確認なんだが、まだ走れるか?」
「あ、うん。下り坂で少しは休めたから、その程度なら」
「アタイもだ。おーけー。これで一歩も動けないとか言われたら、どうしようかと思ったぜ」
「だよね。ゴールまであと数キロもあるんだもんね」
「ああ、だからさ――」
茜の頼み事とは、シンプルなものだった。
「アタイと、勝負してくれ」
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