第8話 破壊神とマウンテンルック

 すっかり風も止んだあと、空たちは暴風域を抜けることに成功していた。さらに半日も走れば、そろそろ遅れも取り戻せるというものである。

 空も茜も、足に若干の痛みを残したまま、それでも走る。

(やっぱり、楽しい)

 空はそう感じていた。とても雄大な自然を望む平野。どこまでも続く綺麗な道。わずかな傾斜によるアップダウンも、いい意味での変化を与えてくれる。

 環境さえ整えば、自転車は誰にも楽しんでもらえる乗り物だろうと思う。少なくとも空はそう信じている。もし自転車が嫌いだという人がいるなら、それは大概が自分に合った環境で走った経験がないだけだ。

「気持ちよさそうだな。空」

「うん。とっても」

「そうか。それはよかった」

 茜の足取りも軽い。この寒さと乾燥で喉が痛むが、それ以外は特に苦しいこともなく巡航できている。日差しの温かさと風の冷たさは、不思議と力をくれる。ひとまず自転車日和と言って差し支えない。

「あ、ストラトスさん」

「マジか?」

 空が指さす先に、昨日の敵、ストラトスがいた。電動アシストをセーブして、バッテリ消費を抑えて走るタジェーテ。それでも20~24km/hは出ている。問題は、

「ストラトスさん。こんにちは」

「む、貴様……いつの間に」

 スポーツバイクにとって、その速度は電動アシスト無しでも平然と出せるというところにある。なんならママチャリでも本気を出せば30km/hは出てしまう。

 ストラトスは空の顔を見て、それからなぜか赤くなり、目をそらす。

(ああ、そういえば、僕はストラトスさんに嫌われていたんだっけ?)

 初めて会った時、卑怯者呼ばわりされたのを思い出す。事実なのでどうしようもないが、地味に傷つく。

「あ、あの、僕、空っていいます」

「ん?何がだ?」

「僕の名前です。今まで、貴様とか呼ばれてたから……」

「そ……そうか……」

 もちろん、エントリーネームが本名そのままだったので知っていたが、おそらく下の名前であろう名で呼んでいいかどうか、ストラトスは迷っていた。

(上の名前も聞くべきだろうか?いや、その場合は俺の本名も名乗らなくては失礼か。うーむ)

 当然ながら、ストラトスが本名ではない。とはいえ、一応昨日会ったばかりの、ましてや敵に名を教えるのは負けた気がする。

「空、行くぞ」

 茜が加速して、そのままストラトスを抜く。昨日の雪辱を果たしたとばかりに、満足そうな表情だった。

「あ、待ってよ茜。まだストラトスさんと話しているんだけど……」

(まだ俺と話していたい。だと?)

 言ってない。

「あの、ストラトスさん……僕、たしかに嫌われるような事をしたかもしれませんけど、ネロさんとは本当に何の関係もないんです」

 昨日、ストラトスは言っていた。ネロをそそのかし、自爆させた罪を償わせてやると。それでも心当たりがない空は、身の潔白を示す。

(ネロとは何の関係もない……つまり、今はフリーだというアピールか)

 まったく違う。

「もしよかったら、僕の事、嫌いにならないでください。お、お友達になってほしいです。ダメ、ですか?」

(好きになってほしいだと?お友達から始めようと?)

 違う違う違う。

「じゃ、僕は先に行きますね。またお会いしましょう」

 空はそう言い残して、茜に追いつこうと加速する。抜き去られたストラトスは、空の後姿を見つめていた。

(先に行くから追いついてごらん、と……誘っているのか?まさか、これ、追いついたらご褒美に……?)

 ストラトスの心に灯がともる。もちろん闘争心でないことは確かだが、どんな気持ちであれ自転車には伝わるものだ。

 ギアは最大まで上がっているのに、ペダルは軽く踏みつけるだけで回る。電動アシストに頼らず、30km/hまで加速する。自転車最大の燃料は脳内麻薬かもしれない。恋は人を速くする。

「おい、空。いったいどういう喧嘩の売り方をしたんだ?ストラトスのやつ本気で追いかけてくるぞ」

「え?あ、えっと、お友達になりましょうって言ったんだ」

「はぁ?意味わかんねぇよ。いろんな意味で」

 とにかく、抜かれないように走る。こんなところでアタックをかける予定はなかったし、本当なら適当なところで昼食にしようと思っていたのだが。

(この先のコースの事、一応ミス・リードに確認とった方がいいか……)

 茜がそう考える。ミス・リードは今日も元気に実況を行っていた。昨日も夜通し実況していたはずで、この24時間テレビ以上のバイタリティはどこから湧いているのか疑問である。仮眠もとってないはずだ。

『ああーっと!ここでまた、接触事故が発生しましたぁ。今ぶつかったのは、エントリーナンバー095 倍駆乗太郎さん。およびエントリーナンバー049 デスペナルティさん。中継車から映像が入っています。この事故で乗太郎さんが大きく転倒。そのまま田んぼに落下しました。大丈夫でしょうかぁ?』

 どこかで事故があったらしい。レースには付き物とはいえ、あまり気分のいいニュースではない。

『乗太郎さん、昨日はほぼ徹夜で走っていた選手だっただけに、残念です。愛車であるBianchi ROMA4が田んぼに落ちて泥まみれに……元が綺麗だっただけに、あまりに悲惨ですねぇ。まるで美少女に鼻フックを装着するような背徳感……』

 若干緊張感のない実況のせいで、その悲惨さは伝わってこない。

「うわぁ。ひでぇな」

「かわいそう……」

 空や茜にしても、どこか他人事のように言う。実際に現場を見ていなければ、テレビのニュースで交通事故が報道されているような感覚だった。


『また事故です。エントリーナンバー325 生足博士さん。同じく049デスペナルティさんと接触しました。これにより生足博士さんが停止。転倒は免れたようですが、走り出す気配はありません。

 エントリーナンバー811 貝塚ジェットモグラ(サンダーバード0号)さん。デスペナルティさんと接触。これまた派手に転倒しています。

 また接触事故のニュースです。エントリーナンバー205 パンチャー中国さんがデスペナルティさんと接触……わわわわわっ、た、大変です。彼の所属しているチーム、大学の自転車部らしいんですけど、そのメンバーが巻き込まれました。

 巻き込まれたのは、エントリーナンバー204 クロノマンさっきゅんさん。同じく203 オールラウンダー赤月さん。同じく209 クライマー白河さん。他数名です。

 っていうか、このチーム全員がダメージを受けましたね。ロードレーサー特有のトレインが裏目に出ましたぁ。男同士でおカマを掘り合う事態に発展ですぅ』


 ミス・リードは実況で忙しそうだった。スタート直後以来の忙しさじゃないだろうか。

「っていうか、今のって……」

「うん。デスペナルティさんって人が、全部の事故にかかわってたね」

「こんな立て続けに事故を起こすものなのか?何者だよ?」

「えっと、えっと……飲酒運転とか?」

「それはアタイも考えたけど……」

 普通なら、飲酒運転で事故を起こした場合、飲んでいる側が重傷になるものだ。だというのに、放送を聞く限りでは転んだ様子もない。仮に転んでから起き上がっているなら、こんなに早いペースで他の自転車にぶつかることは出来ないだろう。

(まあ、アタイらには関係ないか……ん?)

 そう思った茜の視界に、妙な異物が見える。

 道路横の用水路と田んぼの境目。雪が解け残っている辺りに、鮮やかなカラーリングの自転車が横たわっている。パステル系で青と緑の中間のような塗装が、フレームだけではなくリムにまで施されていた。

(チェレステカラー?まさか……)

 よく見れば、近くにライダーもいた。雪の上にうずくまって、足を抱えているようだった。

「おいおい、二人とも。これって……」

 茜と空に、後ろからストラトスが声をかける。少し距離が遠いが、ストラトスのよく通る声は二人にしっかり聞こえた。

「空。ついでにストラトス。これはヤバいかもしれないぞ」

 茜が緊張した声で言う。その前方、道路を塞ぐように10台ほどの自転車が転倒していた。もちろん、ライダー付きで、だ。それぞれビンディングシューズを履いていたせいか、身動きが取れなくなっている。

「右だ!避けろ」

 茜の号令に従って、空とストラトスが右に寄る。転倒した自転車の横を、隙間ギリギリで通り抜ける。

「ありがとう。茜」

「いや、アタイも自信はなかったよ。ストラトスは貸しイチな」

「要らん世話だが、礼は言おう」

 先頭を茜。ぴったり付く形で空。さらに1車身差でストラトスが走る。

「とりあえず、一安心だね」

 空が言う。茜は首を横に振った。

「違うな。ここからが本番かもしれないぞ」

 前方に中継車が見える。2tトラックくらいの大きさの車体で、サイドには開けっ放しのスライドドア。そこからカメラマンが、大きなカメラを背負って身を乗り出していた。

 とりあえず、それ以外に車体は見えない。当然、走っている自転車の姿もない。

(いないのか……ビビらせやがって)

(茜、何を見ているんだろう?)

 周囲を警戒する茜を、空は不思議そうに見つめる。茜は速度を少しづつ上げていく。もちろん空も合わせて加速した。

 カメラに映されながら、中継車を左から抜いていく。仮にも自動車を追い抜くというのは、割と緊張するものだった。


 事件は、茜が中継車の前に出た時に起きた。

 その中継車の前方から、茜に向かって一台の自転車が飛び出す。どうやらずっと中継車の前を走っていたらしい。茜たちにとっては、死角となる位置をキープされていたことになる。

(不意打ちか……やっぱり)

 茜の後輪に突撃をかける自転車。その前輪が狙うのは、茜のリアディレイラーだ。

「させるか!」

 茜が一気にペダルを踏む。この状況を先に予想していたからこそ、ケイデンスを落としてギアを上げていた。それが今、強めに踏まれることで急加速する。

(危ない!)

 空も危険を感じて急ブレーキをかける。結果として、茜と空の間に大きな隙間が空いた。そこを横から出てきた自転車がすり抜ける形になる。

「くぅ――はははあっ!避けやがった。気づいてたのかよ!」

 高らかに笑うのは、今しがた衝突を試みた男――デスペナルティだ。

 黒いコートに、赤いベネツィアンマスク。まるで小芝居の登場人物のような格好であり、自転車に乗る格好とは思えない。

「わざと衝突したんだろうと、予想はしていたが……」

 茜は改めて敵の車両を見る。黒いMTBだった。フロントにのみサスペンションを設けた、いわゆるハードテイルバイク。前方にはご丁寧にフロントバンパーのようなものがつけられている。

(あれは……ママチャリの前かごを止めるための部品か)

 茜の予想通りである。正式名称をバスケットステーと言うのだが、さすがに茜もそこまで詳しくはない。前輪ハブ軸に噛ませて前かごを下から支える部品だ。本来ならば、の話。

 デスペナルティは、そのバスケットステーを衝突用に使っていた。それも、自分の自転車を守るためではなく、相手の自転車をピンポイントに破壊するためだ。実際、茜のリアディレイラーに丁度ピッタリ当たる高さである。

「んー?まあ、いいや。どうせ壊すなら、抵抗してくれた方が楽しいし。なぁ?……くぅっはははははははっ!」

 再びハンドルを切ったデスペナルティが、今度はストラトスに襲い掛かる。一度右に戻ってから、再び左に幅寄せするように接近。そして……

「き、貴様、何を!」

「吹き飛びやがれぇ!はははははは」

 接触する瞬間、デスペナルティがストラトスの右ブレーキレバーを握る。

 ストラトスの乗るタジェーテは、油圧式ディスクブレーキを採用している。制動力に優れ、軽い力で車輪をロックできる優れものだ。

 それをいきなり、意図せぬタイミングで強く握られたらどうなるか。

 当然、車体は前のめりになる。後輪が浮かび上がった瞬間……

「サヨナラ、だな」

 ダメ押しのように、デスペナルティが蹴りを入れる。浮き上がった車体は、あまりにあっけなくひっくり返った。

 この間、わずか1秒程度。現在25km/hを維持した状態である。

 神業に近い技術であり、悪魔に近い行為だ。

「ストラトスさん!」

 空が振り返ったころには、ストラトスは遥か後方に消えていくところだった。その怪我の度合いは分からないが、あれほど大きく転倒して無事なはずもない。

「走れ、空。追いつかれんぞ」

「で、でも、ストラトスさんが……」

「だからって止まれるか!あのサイコパス野郎が後ろにいるんだぞ」

 サイコパス野郎と呼ばれたデスペナルティは、不気味な笑みを湛えたまま、空たちを追いかけている。追いつかれたら危険だ。


『エントリーナンバー049 デスペナルティさん。エントリーナンバー403 ストラトスさんと接触。車体重量22kgもあるタジェーテが、派手に吹き飛びましたぁ。凄惨な事故です』


 実況のミス・リードは、これをあくまで事故と言い張る。耐えきれなくなった茜は、凸電機能を使った。

「おい、ミス・リード。これのどこが事故だ。これほど近いところを中継車が走ってんだから、詳細はお前にも伝わっているだろう!」

『ああ、茜さん。まだ無事みたいですねぇ。事故ってなくて何よりです』

「ふざけんな。これはデスペナルティが意図的にやっていることだ。反則じゃないのかよ」

『そ、それが、ですねぇ……私たち主催者側も、このような選手の出場は想定外だったんです。一応マニュアルでは事故として対応。それも一般の交通事故ではなく、スポーツ競技中の事故、として取り扱う形になります』

 ミス・リードもバツが悪いのか、今回ばかりは下ネタも入れずに歯切れの悪い回答を行うばかりである。

「くはははっ――解ったかよ?つまり俺がやっていることは反則でも犯罪でもない。ただ偶然起きた事故。運が悪かった結果だ」

 デスペナルティが高らかに笑う。

「ふざけんなデスペナルティ!」

「そう、その呼び方もいいね。匿名だから身バレしない。このマスクと相まって、俺の正体を探るのは不可能だ。たとえ警察でもなんj民でも鬼女板でもな」

 そう。スポーツ競技としては異例ともいえる、エントリーネームという制度。もともとはチャリチャンが気楽に出場できることを売りにした大会だから導入されたシステムだが、このように悪用されるとは想定していなかった。

「とりあえず逃げるぞ。空」

「わかった」

 必死に速度を上げる。とはいえ、見通しのいい畑の真ん中を走る農道。そう簡単に逃がしてくれるとは思えない。そもそもコースはもう決まっているのだから、曲がり角で撒くことも出来ない。

「大丈夫かな?茜」

「ああ、アタイの計算なら、な」

 相手の車両は、サドルが極端に低い。MTBなら珍しいことでもないが、このオンロードに於いては不利なセッティングだ。

 デスペナルティはさっきから、ずっとダンシングで走っている。これなら体力が底をつくのも時間の問題だろう。

「このまま走れば、アタイら以外の参加者と鉢合わせるはずだ。見たところデスペナルティの犯行は無差別だろう。新しい標的を見つければ、そっちに行ってくれるよ」

「それって、僕ら以外の人を犠牲にするって事?」

「ああ、悪いがそうなる。これはもうアタイの手に負える相手じゃないし、本音を言うと相手すらしたくない」

「うーん……」

 相変わらず優柔不断な空だが、それでも茜にピッタリくっついて走る。フォームも安定しているし、動揺が走りに出ているわけではない。

「なるほど。速度だけなら俺に勝てると思ったわけか。確かに、正当な戦いならそうなるね。あーっはははっ。考えたなぁ」

 デスペナルティは中継車に接近する。茜と空をとらえようとしていたカメラマンに近づくと、

「邪魔だよ。ほら」

 足でカメラを蹴る。カメラマンがたまらず車内に逃げ込んだ隙に、その足を中継車のスライドドアにかけた。

「こうすれば、追いつけるんじゃないかな?」

 スライドドアを蹴って加速したデスペナルティは、さらに中継車のフロントバンパーを蹴って、その勢いのままにペダルに足を戻す。慣性の法則をフルに使った技法。簡単そうに見えるかもしれないが、姿勢が安定しない中で、ハンドル操作を誤ることなくやってのけるのは困難だ。彼ならではの技法と言える。

「ほら、追いついたよ。空君」

「っ――!」

 急ハンドルを切って、左に逃げる空。それを追うように、デスペナルティも左に寄せてくる。

(しまった。こっちに逃げたのは……)

(愚策だったね。このまま寄り切れば俺の勝ちさ)

 どんどん左に寄ってくる。路側帯を越えればそこは土手……そして畑だ。

(ブレーキを……っ!)

(かけるんだろう?わかったよ。俺も速度を落とそう)

 空のVブレーキも確かな性能を持っているが、デスペナルティのディスクブレーキほどの制動力は持たない。同じだけ減速した結果、ついに空が追い詰められる。

(これだけ速度を落としたら、蹴り飛ばせば倒れるかもしれないね。自然に落ちるのを待つのもいいけど、どうしようかな?)

 余裕の表情で思案するデスペナルティ。と、そのターゲットである空が、いきなり手を伸ばした。


「あ、茜。ダメだよ。来ちゃダメ!」


(へえ。茜ちゃんが近づいてきたか。仲間思いだね。それなら、空君のエスケープより、彼女のクロスファイアの方が潰す甲斐があるかな)

「さあ、踊ろうか。茜ちゃん。クロスファイア!」

 デスペナルティが右に振り返る。そこには茜の姿はなかった。

「あ、あれ……?」

(今だ!)

 この隙を狙って、空はさらに速度を落として右に出る。茜が助けに来たというのは嘘だった。

「やってくれるねぇ。ははははっ――気に入ったよ。空君」

「ごめんね。デスペナルティさん」

 中継車の影に入った空。

「ああ、そこが安全圏だと思っちゃったんだ。くぅ――っはははぁ。俺も入れてくれよ。楽しもうぜ」

 デスペナルティも中継車の裏に回り込む。右側路側帯と、右車線を走る中継車の間。そこは自転車一台がギリギリ通れるくらいの幅しかない。

 とはいえ、それは中継車がずっとその位置をキープすればの話だ。この手の車両は選手の邪魔にならないように走る。つまり選手が右に回り込めば、左側に車線変更するはずである。

「そーらーくんっ。追いかけっこは楽しかったね。まさにエスケープ。その名に恥じない走りだったよ。でも、そろそろお昼ごはんの時間だ。遊びは終わりにしようね。お友達にバイバイしよう?」

 デスペナルティが笑いながら、中継車の右に入った。その時、すでに空の姿はなかった。

「あれ?おかしいな。確かにこっちに来たはずなのに……」

 あたりを見渡すと、さっき通った交差点を右折した道に、空の姿が見えた。

「なるほど。コースアウトは自由ってルールだったっけ?あー、やられたなぁ」

 最初から、空はこの時を待っていた。交差点が少ない道で、ようやく見つけた交差点。

 この際、レースがどうのと言っている場合ではない。いったんデスペナルティから距離を置くために、勝負を捨てる。

「今から俺がUターンしても、追いつけないだろうなぁ。何よりコース以外で事故を起こしたら、俺が危険運転致傷で訴えられちゃうだろうし……」

 チャリチャンのルールが適応されるのは、あくまでコース上に限定される。コースアウトした先では、国の法律や各自治体の条例に従うのが当然だ。

「うーん……有名ブランドGIANTの車両……是非とも潰したかったんだけどなぁ」

 デスペナルティは、次の獲物を見つけに行った。



 こんな田舎にもコンビニはあるもので、空と茜はそこで昼食をとっていた。

 茜は空と合流するために、別な地点からコースアウトしている。今はコースを外れて同じ地点にいるが、コースに戻るときは別な地点から走り出すことになる。

「ごめんね、茜」

「何が?」

「いや、僕がコースアウトしたから、茜も戻ってきたんでしょ?」

「ああ、それは別にいいよ。アタイこそ助けに行けなくて悪かった」

 腕時計を確認して、カップ麺の蓋を開ける茜。コンビニの駐車場で立ち食いするのは彼女にとってスタンダードなスタイルだった。

 中には行儀が悪いなどと言う人もいるが、茜は気にしない。コンビニの外にゴミ箱が設置されているのは、このためだと信じている。

「まあ、デスペナルティに関しては忘れよう。どうせあんな走り方をしていたら車体が持たない。壊れるのも時間の問題さ」

「そうなの?」

「ああ、そもそも自転車は衝突事故を繰り返せるように作られてはいないし、何よりあの車両はルック車だ。よく今まで壊れなかったもんだよ」

「ルック車?」

 聞きなれない単語だったので、空が訊き返す。

「ああ、マウンテンバイクっていうのは、その名の通り山道を走れないと意味がない車両だ。だからフレームの剛性やパーツの精度が求められる」

「頑丈に作られているってことだよね?」

「そう。普通は、な。ただ、最近では安い値段で販売されるマウンテンルックって車両もあるんだ。見た目はMTBなんだが、ボトムチューブ辺りを調べてみると『この車両は舗装路専用です。オフロードを走行しないでください』って書いてある」

「クロスバイクって事?」

「いや、オンロード走行に特化したクロスバイクとは違って、コストパフォーマンスに特化しているのがMTBルックだ。だからオンロードじゃクロスバイクほどの能力も持たないのさ。まあ、安かろう悪かろうって感じの、自転車の形をした玩具みたいなものさ」

「そう……か」

 空は少し納得がいかなかった。茜が言うなら本当なんだろうと思いつつも、デスペナルティの走りを思い出す。

 あの鈍重そうな車体を、それでも自在に操っていた。実際、空のクロスバイクと並走したのも事実だ。

「ところで、茜はどうしてあの車体をルック車だと思ったの?」

「ん?ああ、部品だな。リアディレーラーはシマノの製品だったが、名前も知らないやつだった。それに前後ともにロックナット式ハブが採用されているのもそれっぽいな」

 ロックナットとは、ホイールを六角ナットで取り付ける方式の車両だ。

 茜たちが使っているQRと呼ばれる機構は、レバーを手で起こすだけで、ホイールを取り外せる。こちらの方がメンテナンス性がいいので、多くのスポーツ自転車に採用されているのだ。もちろん例外は多数存在するが。

「そういえば、アタイも車体の確認はしていなかったな。一応ディスクブレーキ搭載車だったみたいだし、実はルック車じゃない可能性もある。調べてみるか」

「どうやって?」

 空がカップうどんの蓋を剥がしながら訊く。茜はチューブバッグにつけられたスマホを弄って、ミス・リードに電凸した。


「ミス・リード。今、大丈夫か?」

『あ、茜さんですねぇ。いつでもウェルカムですよぉ。レースも程よく落ち着いてきましたからね』

「ってことは、デスペナルティは大人しくなったのか?」

『はい。今はコースアウトしてお食事中のようですよぉ。茜さんとの距離差は1kmですねぇ』

「結構近くにいるんだな」

 どうせなら自転車を壊してリタイアしていれば良かったものだが、残念ながら健在らしい。死ねばいいのにと言いたいのをこらえた茜は、本題に入る。

「あいつの車体を教えてくれないか?あの黒いMTBだ。スペックも細かく頼む」

『いいですよぉ。それじゃあ、いつものようにミス・リードの気になる選手紹介のコーナーとして語りましょうかねぇ』

 いつの間にやら、勝手に一つコーナーを作ってしまっていたらしい。今までどんな選手を、いつ紹介したのか気になるところだ。


『えー、コホン。エントリーナンバー049 デスペナルティさん。今大会を悪い意味で騒がせている選手ですね。正直、我々主催者側も辟易しています。

 本日だけで直接的に起こした事故件数は7件。間接的なものも含みますと、15人の選手をケガさせていることになります。ちなみに昨日は6件の事故を起こし、全員を例外なく救急搬送させましたね。言うまでもなく、その6人はリタイアを申請しています。

 スタート地点でも、転倒した選手を踏み潰してスタートするなど、奇行が目立ちました。頭おかしいですよぉ。もう……

 さて、そんなデスペナルティさんの自転車ですが、エントリーシートにはフィニスとだけ書いてありました。勿論、この車体の出所も探してきましたよ。

 某インターネット市場でのみ販売されているSHINE WOOD FINISSという車体ですねぇ。どうやら本国から代理店を通さずに直輸入するシステムのようで、国内審査も検品も行われていないようです。価格は19800ですよぉ。

 まあ、グレードは言わずもがな。公式サイトの紹介文が笑えるんですよねぇ。一部抜粋して読み上げますよぉ。


 キャリバーブレーキとVブレーキに圧倒する制動力、安全性【機械式ディスクブレーキ】

 アップグレード!信頼できるシマノの品質+豪華な21段変速機

 多用途ハンドルバー 通常の姿勢はそろそろあきましたか?新しい姿勢を試してみましょう

 フロントスペンション+オリジナル肉厚タイヤ


 いかがです?個人的にはフロントスペンションが一番笑えましたけど、スペック表に書かれているSIMANO製21段変速機も地味にツボです。なぜフロントサスペンションじゃないのか?なぜshimano製じゃないのか?もう子宮から声出して笑いましたよ。

 他にも公式サイトだけでチンフェ並みのネタの宝庫。自転車界のチャー研とでもいいましょうか。この分だと車体名のFINISSと言うのも、FINISHのスペルミスじゃないかと思うくらいですぅ』


「ちょっ、笑わせんなミス・リード……っく、ははっ――フロントスペンションって本気で書いてあったのかよ。誤植じゃなくて?」

 茜が笑う。ミス・リードも(仮にも出場者の乗る自転車を)笑いながら、放送を続けていた。

『いや、本当に文章中に3回くらい出てくるんですよ。しかも一回は写真の上に波打つように。ふふっ……』

「いや、マジで面白いって。お前のいつもの下ネタよりも面白い」

『か、勘違いしないでくださいね。私、面白がって下ネタを言っているわけじゃないですよぉ。ちゃんとオカズにしてください』

 珍しくミス・リードと意気投合する茜。二人の笑い声を聞きながら、しかし空だけは笑わなかった。

「……ねぇ、二人とも。そのフィニスって、僕が一緒に走った限り、そんなに酷い車体には見えなかったんだけど?」

「はあ?お前だって攻撃されて、何とか逃げて来たんだろうが」

「いや、デスペナルティさんは酷い人だよ。でも、自転車まで罪があるとは思えなくて、その……」

「甘ちゃんだな。実際に2万そこらのMTBとか見てみろよ。今のお前の知識なら、いろいろ悪い箇所が見えると思うぜ?」

 茜はそっけなく言った。喋りながらも食べ進めていたカップラーメンは残すところスープだけになったようで、それも余すところなく飲み干す。

『まあ、空さんの言う通り、ルック車だって町中を走るだけなら使えるんですけどね。私は公平な立場の実況解説ですから、それ以上の言及はしませんよ』

 ミス・リードもそれで話は終わったとばかり、電話を切って実況に戻る。

「空。安心しろよ。お前の車体は正当なクロスバイクだ。ルック車とは話が違うって」

 茜はルック車をどこまでも馬鹿にした態度を変えなかった。


 そんな茜がルック車の底力を知ることになるのは、ほんの数日後のことになる。それはまた別のお話で。



「へぇ、空君って、面白い子だねぇ――」

 茜たちのいるコンビニから1km以上離れた、また別な系列のコンビニの駐車場。そこにデスペナルティはいた。コンビニの中でも仮面を外そうとしなかったので、危うく警察を呼ばれるところだったのは余談である。

「うん。そうだね。空君はいい子だと思うよ。でもエスケープは欲しいだろう?なあ、フィニス」

 誰もいない駐車場で、自分の自転車を撫でながら言う。話をしている相手は他でもない。フィニスと呼ぶ自転車、そのものだった。

「なあ、フィニス。お前は分からないかもしれないが、最近はコンビニの飯も美味いんだよ。ああ、日本はコンビニも多いんだ。これから何度も立ち寄ると思うから、お前もよく見ておくんだよ」

 そのコンビニで買ったハンバーガーを咥えたデスペナルティは、そのままフィニスに跨る。

「さあ、行こうか。お前を転がしながらの食事は最高だ。どんなレストランやオーベルジュより特等席だ」

 左手でフロントのフリクションレバーを操作しながら、右手でハンバーガーを持って走る。少しづつフリクションを動かしていくと、チェーンがバチバチと音を立て、やがて静かになる。ギアが上がりきったと認識した彼は、そこでレバーを止めて、少し引き直した。トリム調整のようなものである。

「さて、次なる獲物は……どんな車体になるのかな?」

 デスペナルティの凶刃は、未だ止まらない。



「茜。すごく寒そうだけど、大丈夫?」

 空が心配する。茜はいつもの格好にダウンジャケットを羽織っただけの薄着で、震えながら強がっていた。

「大丈夫だ。本当なら昨日だって、お前のコート無しでも快適に眠れたし……ぶぇっくしょん!」

「やっぱりダメじゃん」

「うるさい。走っていれば暖かいんだから大丈夫だ」

「つまり、今コンビニ前で休憩した直後だから寒いんじゃないの?」

「うぐっ……まあ、アレだ。カップラーメン食ったから暖かい」

 氷点下4度の中でカップ麺がどれほどの力を発揮するかは疑問である。

「とにかく、レースに復帰するぞ。アタイはこの先の交差点で待ってるから、そこで合流だ」

「わかった。僕はさっきの交差点に戻ってから復帰しなおすよ」

 落ち合う場所を確認した後、茜が走り出す。取り残された空も、自転車に跨りなおした。

「さあ、エスケープ。行こうか。あんまり茜を待たせると、また寒そうにしながら『走ってれば暖かいはずだった』って言われちゃうから」

 颯爽と、トリガーシフターを操作しながら速度を上げる。当面の目標は、茜との合流地点にたどり着くことだ。

「茜より先に着いて、びっくりさせようか。エスケープ」

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