第9話 女王とピストバイク

 この国は、あまりにも田畑が多い。たとえ町が見えてきたとしても、少し走ると再び建物もまばらな田園地帯が見えてくる。そしてそれは、しばらく続くのだ。

(今のところ、アスファルトの上ばかりだね)

 空はこの2日間で走ったコースを思い出す。突風による被害や人為的な妨害こそあったものの、幸いにもオフロードには見舞われていなかった。

 茜の乗るシクロクロスなら、多少のトレイルは走れる。とはいえ、それは踏み固められた道に限定する話だ。全く手つかずの自然が織りなすフィールドでは、サスペンションもついていない脆弱な車両は不利になる。

 空の乗るクロスバイクは、余計に厄介だ。通常のクロスバイクよりもロード寄りの性能を持つエスケープR-3.1は、石ころ一つ踏んづけただけでも何が起こるか分からない。

 ギリギリまで車体重量を下げたアルミフレームは剛性がなく、24本スポークのホイールと700×28cのタイヤも不安材料だ。空が乗る前に従兄が使い込んでいることもあり、金属疲労も懸念される。

(このまま、平坦なアスファルトの上だけ走れたらいいんだけどな)

 空がそんなことを考えていると、後ろを走る茜が加速して並ぶ。

「どうした?空。いつも以上にボケっとしているみたいだが?」

「ああ、ううん。ちょっと考え事」

「考え事?え、それって空が?」

「失礼な。僕だってたまには考えることもあるよ」

 普段からこうして会話をして走るのは、モチベーションの関係や作戦の伝達などの意味もあるが、それ以上に退屈しのぎだったりする。自転車を長時間走らせて退屈しない人は、よほど感性が豊かなのだろう。

 まして、この代わり映えしない景色に、特に誰が出てくるわけでもないレース展開。ミス・リードはどこか遠くの実況を行っているようだが、縁もゆかりもない後続選手の話は興味をそそられなかった。

「前に、ミス・リードが言ってたよね?チャリチャンはオフロードもあるって」

「ああ、言ってたな。その割にはオンロードばっかりだけど」

「そう。僕は今それを考えてたんだよ。いったいどこからオフロードが始まるのかな?って」

「あー、まあ、基本的にはオンロードで構成されるんじゃないか?それこそ都市部とかの道路を貸し切りにできないようなところの方がオフロードになるのかもな」

 チャリンコマンズ・チャンピオンシップは、道路を閉鎖して行う。これは一般市民との接触事故を避けるためであり、選手が道路交通法を気にせず実力を発揮するためでもある。

 今まで走ってきた道だって、完全閉鎖した農道や私道が多かった。場合によっては、片側3車線道路の一車線のみを閉鎖する区間や、大胆にも高速道路を一車線閉鎖する区間も存在した。

「本当に何でもありだよな。チャリチャン」

「うん。僕も今更驚いてる」

「高速道路を走った時に驚けよ。自転車で料金所を通過するなんて人生で一度だって経験できないはずの事だぞ」

「まあ、料金はかからなかったけどね」


 街灯もまばらな田んぼ道に、空と茜の声だけが響く。近くの民家はたまにちらほらと明かりをつけていた。中にはコースの端まで来て、選手を一目見ようとする物見遊山の見物客もいる。

 コース内に入ることを許されていない彼らだが、たまにそのルールを無視して堂々と侵入してくる姿も確認されていた。

「茜。前方に人影」

「ああ、自転車に乗ってないってことは、参加者じゃなく地元民だろうな」

 見たところ家族連れのような、子供と老人と思しき影が数人分、空と茜の前に立ちはだかる。どうやら避ける気はないらしく、大きく手を振って通せんぼをしているようだった。

「仕方ない。止まるぞ」

「うん」

 二人は見物客の前で自転車を止めた。

(何のつもりか知らないが、走行妨害に違いはないな。参加者の誰かに雇われたのか?それとも身内か……)

(何にしても、どいてもらわないと困るよね。僕たちとしても、大会関係者としても)

 空と茜が、目の前の家族連れの動きを警戒する。と、その時、老婆らしい人物が二人に近寄ってきた。

 両手には何やら丸いものを持っている。それを二人に突き出した老婆は、こう言った。

「これ、おらの家にあった蜜柑。こんなもんしかねぇけど、持ってって」

「え?」

「あ、ありがとうございます」

 開口一番、知らない人に蜜柑をもらう。意味不明な状況に、空と茜は困惑した。

「ねぇ。お姉ちゃんたちの自転車って、いくらした?」

「俺の自転車も早いんだぞ。サンタさんに貰ったの」

 小さい子供たちがちょろちょろと出てくる。

「おらの孫と、その友達だ。自転車好きなんだど」

「へぇ。そうなんですか」

「ほう、ジュニアMTBか。アタイも昔乗ってたな」

「お姉ちゃんも乗ってたの?」

「俺の方が早いけどな」

「おいおい、アタイと勝負しようってか?10年早いぞ」

 割とまんざらでもなさそうに、子供と話し始める茜。アギトの時といい、もしかして

「茜って、子供好きなの?」

「いや、そんなことは……ううむ」

 割と好きらしい。

「ほらほら、お姉ちゃんたちの邪魔になるから、その辺にしておけ。ばあちゃんも」

 子供の父親らしい人物が、子供たちと老婆を呼んで路肩に寄せる。

「すみませんねぇ。レース中で忙しいのに、呼び止めちまって」

「いや、そんなことはないけど」

 他愛のない話。特に知らない間柄にもかかわらず、まるで友人の家族のように気さくに話をしてくれる一家(?)と、不思議な時間を過ごす。

 タイムにしたら3分程度のロスだったが、貰った蜜柑と貴重な体験は、空と茜に大きな何かを残した。



「いや、不思議なこともあるもんだな」

「田舎だから、かな?知らない人が相手でも優しいよね」

「馴れ馴れしいともいう。アタイが思うに、アタイらが中学生だったから、余計にとっつきやすかったとか、そんなんじゃないか?」

「でも、いい人たちだったよね」

「ああ、そうだな」

 また二人で話しながら、自転車を漕ぐ。先ほど貰った蜜柑は走りながら美味しく頂いた。

「そういえば、空って走りながら食事するのは苦手じゃなかったか?」

「うん。まあ、慣れたけどね。やっぱり食事はゆっくり落ち着いてした方がいいかな」

「かもな」

 そんな会話をしながら、速度的には25km/hを維持している。普段の巡航速度としては遅くもなく速くもない。連日のロングライドで疲労の色は濃いが、それを補って余りあるほど気分がよかった。

 ライディングは気分に左右される。さっきの会話だって、そう考えれば無駄じゃない。この道の先に何があるか知りたい気持ちや、隣を走る友達との会話。それらが自転車の原動力になる。体力や性能じゃ説明がつかないほどに。


 そう、思っていた矢先だった。


 後ろから、オートバイのエンジン音が近づいてくる。それもかなり早い。そのバイクのハイビームは空たちをとらえた。空の目前にある道が照らされる。

「チャリチャンでオートバイ?まさか参加者じゃないよね?」

「さすがにそこまで何でもありじゃないだろう。中継車だよ。サイドカーにカメラマンが乗っているだろうが」

「そっか。そうだね」

 中継車にもいろいろある。小さいものだと二人乗りのオートバイから、大きいものだとトレーラーを改造したものまで。今大会においては、ヘキサコプタードローンまで使用されるというのだから、放送関連に使った費用は大盤振る舞いだ。

「それにしても、カメラを回してるってことは、撮影しているってことだよね?」

「ああ、そうだな」

「何を?」

「何って……」

 はて?何をだろう?

 茜は顔をしかめる。この速さで走りながら、自転車を撮影しているというわけじゃないだろう。仮にそうだとしたら、その自転車は自動車より速い速度で走っていることになる。

「多分、コースを撮影しているだけじゃ……」

 言いかけた茜の声は、隣を抜き去る中継バイクのエンジン音でかき消される。

 大型のバイクの側面には、ご丁寧にチャリチャンのロゴが記載されていた。

 問題はその後ろ。ぴったり中継車についていくように走るのは、真っ白な自転車だった。その速度は、軽く70km/hほど出ている。

「はぁ?何だアレ!?」

「あ、茜。今の、自転車?」

「とにかく、追うぞ」

 体力はそこそこ回復していた。気力も十分だ。ベストコンディションとは言い難いかもしれないが、今アタックをかければ勝てる。

(誰だか知らないが、アタイらの前に出たことを後悔させてやんよ)

 茜はこういう時、局所的に勝負することを好んでいた。空としては勝敗に興味はないが、それでも

(この流れだと、だいたい楽しい結果になるんだよね)

 と、概ねレースの過程自体は楽しむ傾向にある。

 見る見るうちに速度を上げる茜と空を、中継カメラが映す。ミス・リードがそれに気づき、誰に言われたわけでもなく実況を始める。


『さあ、ここで皆さんにお知らせです。現在上位ランカーであるエントリーナンバー435と451 茜さんと空さんのペアが勝負に出ました。そんな二人を追い抜いていくのは、エントリーナンバー003 風間 史奈かざま ふみなさん。

 そう、皆様がご存知のプロトラックレーサー。ケイリンの世界大会で優勝を果たしたことを皮切りに、個人スプリントや個人タイムアタックでもトロフィーを日本に持ち帰る伝説の美人レーサー。

 人呼んで、ベロドロームの女王。あの風間史奈さんご本人ですよぉ。その方が今回は、プライベートで使っているピストを持参して参加してくれています。チャリチャン優勝候補の一人です。

 はぁん。感激ですぅ。あとでサインください。これ、真面目にお願いしますよぉ』


(え?本物……え?ええっ!)

(マジかよ。史奈……だと!)

 風見史奈。その名前は、茜や空も知っている。いや、今や日本国民全員が知っていた。

 そもそも、卓球にしてもフィギュアスケートにしても、レスリングにしても言えることだが、日本人選手が活躍した途端に話題となり、それまでその競技を知らなかった人たちも見るようになる。

 トラックレースなんて日本人のほとんどが知らない競技だっただろう。ピストバイクと言えば一昔前まで、ブレーキを外した違法自転車との誤解を受けていたくらいだった。

 そんな日本にトラックレースを知らしめたのが、他でもない彼女だった。

 史奈は白いピストバイクを、さらに加速させる。まるで空と茜に、これがプロの走りだと見せつけるようなダンシング。細身の車体はエンジンでもついているかのように進む。

(くそっ、追いつけねぇ!)

(それどころか、離される……まるで僕たちが後ろに進んでいるみたいに……)

 実際、空たちのアタックも瞬間的には70km/hを越えていた。とはいえ、それは長時間維持できる速度ではない。


『今、固定カメラの前を史奈さんが通過しました。道が暗くて見づらいですが、前を走っているのが我々の中継車。後ろの白い車体が史奈さんのピストバイク。さらに十馬身ほど離れて、グレーのシクロクロスが茜さん。スカイブルーのクロスバイクが空さんです。

 併設したスピードガンの測定によると、史奈さんが現在87km/hで走行中。前方を走る中継車の速度計でも、88km/hを記録しています。いっそ中継車の方が遅くてご迷惑なんじゃないかと思うほどの速度。

 それを追う茜さんの速度は59km/hで、空さんが57km/hです。あくまでスピードガンによる計測ですので、その場での瞬間的な時速という形になりますが……絶望的な差ですねぇ。あ、もちろん茜さんたちも十分に速いんですよぉ?

 ところでピストンが早いと言えば、私の元カレも……』


「思い出したように要らん事言わなくていいんだよ!くそっ」

「ミス・リードに八つ当たりしたって仕方ないけどね。これは僕らじゃ追いつけないよ」

 空の言う通り、もう茜も体力的に限界だった。わずか数百メートル程度のアタックだったにもかかわらず、全体力を奪われるような一瞬だ。

 それでも相対速度は20~30km/hもあるのだから、空たちにしたら前に進んでいる気がしない。ローラー台を転がしている横を通過されるような感覚で追い抜かれた。こんな経験は二人とも初めてである。

「化け物だな。あれが、ベロドロームの女王」

「ベロドロームって、競輪場の事だっけ?」

「ちょっと規格が違うけどな。言葉のニュアンスとしては合ってる」

 速度を落とした二人は、再び雑談しながらの走行を始める。

「茜。これって絶望的じゃない?」

「いや、結局ピストは長距離には向いてないはずだ。変速ギアがあるわけでもないし、まして固定ハブならペダルを回し続けないと走れないしな」

「どういうこと?」

「ああ、固定ハブの話か。そうだな……空。ちょっとペダリング止めてみろ」

「こう?」

 空がペダルを漕ぐのをやめる。それでも転がり抵抗の少ない車体は、惰性だけでぐんぐん進んでいく。

「そう。普通の自転車はそれができるよな。ママチャリだってできる。でもピストは出来ないんだ。ペダルを止めると車輪も止まる」

「ああ、そういえば聞いたことがある。ペダルを後ろに回すと車輪も後ろに回るんだっけ?」

「そうそう。それを固定ハブって呼ぶんだ。ちなみにハブっていうのはホイール中心の部品の事で、アタイらの自転車についているのはフリーハブっていう奴だな」

 茜は適当に解説しつつも、ミスり速報に耳を傾ける。今、ミス・リードに電凸が入ったところだった。


『ミス・リード。ちょっといいかしら?』

『はい。お電話ありがとうございます。今ちょうど貴女の話をしていたのですよ。史奈さん』

 なんと、電凸の相手は史奈であった。

『うん。実況聞いてたから知ってる。リードちゃんの実況は好きよ。いつも楽しみに聞いているの』

『ほ、本当ですか?光栄ですぅ。感激のあまり、ちょっとイっちゃうくらい……』

『うふふっ……女同士でもいいの?――まあ、それはさておき、今の子たち、空君と茜ちゃんって言ったっけ?彼らに伝えてほしいことがあるのよ』

『え?でも……私の方から選手に電話することは禁じられていまして……』

 困惑するミス・リードを他所に、史奈は平然と言う。

『この会話も実況として放送されているのよね?ならいいわ。空君、茜ちゃん。この放送を聞いてたら返事して頂戴。あなたたちも電凸機能を使えるでしょう?』

 名指しで呼ばれた二人は、やや驚きながらもミス・リードに電凸する。

「あ、あの……ご指名いただき光栄です?」

「空。なんか違くないか?」

『あ、空さん、茜さん。電凸ありがとうございます』

『へぇ。これって複数人の通話にも対応しているのね』

『はい。コールセンターのような仕組みでして、沢山の選手が同時に電話をかけても繋がるようになっています。まあ、対応するのは私ひとりですから、限界はあるんですけどね』

 そう答えたミス・リードは、次の瞬間にハッと気づく。

『そっか。つまり私に複数の選手が電凸すれば、選手同士が連絡先を知らなくても通話できるんですねぇ。盲点でした』

『そういうこと。実況者のあなたでも、このシステムの使い方は思い浮かばなかったみたいね』

 ミス・リード以上にミスり速報を使いこなした史奈。

『ねぇ。空君、茜ちゃん。さっきの走りは気に入ったわ。私に追いつこうだなんて、そんなこと考えたのはあなたたちが初めてよ』

「本当は追い抜こうと思ったんだけどな。アタイは」

「っていうか、僕たち以外にもいたんじゃないですか?史奈さんの相手にならなかっただけで」

『うふふっ、言うわね』

 自信過剰ともとれる空の発言をどう聞いたのか、史奈は笑った。ちなみに空は他者を軽んじたつもりで言ったわけじゃない。

『まあ、いいわ。あなたたちの事を気に入ったの。もし、今夜の予定を決めてないなら、この先にあるホテルに来て。ビューホテルナガセのスイートルームよ。フロントで私の名前を出せば案内させるわ』

 真意の分からない史奈は、本当に女王のような口ぶりで言った。



「あ、茜。ここで合ってるんだよね?」

「ああ、場違いな気はするが、合っているはずだ」

 そもそも自転車で来ることを想定していないのか、駐輪場のないホテル。駐車場の端にひっそりと自転車を置いた空と茜は、ロビーの豪華な内装に圧巻されていた。

 もはや多くは語るまい。シャンデリアだのカーペットだのと並べ立てたところで文章的に安っぽくなるだけだろうし、事実としてこのホテルはそんなものを自慢する気はないらしい。高級な調度品はあって当然のように置かれ、それより空間の方が大事だと言いたげに脇役に徹するばかりである。

 つまり、中学生が自転車で来るところではない。格安ファッションセンターでコーディネートした空が場違いなのは言わずもがな、自転車用ジャージとレーパンで来ちゃった茜に関しては全裸の方がよかったくらいの恥ずかしさだ。

 そんな二人に、ボーイが話しかける。

「空様と、茜様ですか?」

「は、はい」

「ご、ごめんなさい」

 意味もなく謝るくらいには委縮していた茜を見たボーイは、しかし表情を崩すことなく言う。

「お話は伺っております。風間史奈様がお待ちです。どうぞこちらへ」



 ホテル最上階。3部屋しかないスイートルームのうち一部屋に、空と茜は案内された。

「待ってたわ。さあ、中に入って」

 空たちを出迎えたのは、すっかりこの場にふさわしい格好に着替えた史奈だった。落ち着いた雰囲気のミモレ丈のドレスに、ヒールの低いパンプス。メイクまでしっかり整っており、つい二時間前まで自転車で90km/h出していたとは思えない姿である。

 ベリーショートの髪も、整った顔立ちと相まって気品にあふれていた。こう見えて31歳のはずなのだが、年齢を気にさせないほどの美しさ。テレビで見た綺麗さそのままの史奈がそこにいた。

「お、お邪魔します」

 促されるままに入る空と茜は、続いて部屋の綺麗さに驚かされる。広くゆったりとした空間。大きな窓から見える自然豊かな町並みと、遠くに広がる山並み(もっとも、暗くてよく見えないが)。

 真っ白なソファに、マホガニーのテーブル。部屋の片隅には観葉植物と、白いピストバイク……

「あ、自転車――」

「ええ。鍵とか持ってないし、駐輪場も無かったから部屋まで持ち込んだの。ホテルの人たちも快く持ってきてくれたわよ」

 史奈は先ほどまでの凛とした雰囲気を崩して、優しく笑いながら言った。

「大丈夫よ。あなたたちも私も、ここでは一人の自転車乗りに過ぎないわ。茜ちゃんのその恰好も、私にとってはドレス以上に正装だわ。さあ、くつろいで頂戴。そのバイクも、気になるなら触ってもいいわよ」

 その言葉で、空たちは一気に緊張が取れた。



「……そう、プロのロードレーサーに――」

「ああ、アタイはやっぱり、自転車で長距離走るのが好きだからさ。まあ、プロを目指すのはそれだけの理由だし、両親は反対しているんだけど」

「いいじゃない。両親の反対も分かる気がするけど、それでも将来の夢があるって大事よ。私も、元々はロードレース出身だしね。実業団でスプリンターだったんだから」

「ああ、聞いたことあるよ。自分の実力に真摯に向き合いたくて、ロードレースからトラックに転向したんだっけ?」

「まあ、表向きはね。本当はロードレースの給料が安くて、生活が苦しいからトラックに来たのよ。一番儲かるのは競輪なんだけどね」

「うわっ、ぶっちゃけるなぁ。まあ、ギャンブルの方が金の動きはあるんだろうけどさ」

 すっかり打ち解けた茜は、これまた物怖じもせずタメ語で話している。将来プロのレーサーを目指す茜にとって、実際にプロのレーサーやっている史奈の話は興味深かった。

「空君は、私のバイクに興味があるの?」

「はい。不思議な形っていうか、まるで戦闘機みたいだなって思って」

 気品あふれるピストバイクは、田園地帯を走った後とは思えないほど綺麗に磨かれていた。単純構造のピストは整備が簡単なので、短時間でオーバーホールを完了できるのも魅力の一つだった。

 まるで飛行機の翼のように前後に幅広いフレームは、正面から見ると薄く、左右に細いのが確認できる。シートチューブは後輪の形に合わせて抉られ、シートポストも薄く研ぎ澄まされている。

 ホイールは純正品ではないようで、前輪はMAVICのバトンホイール、後輪は同じくディスクホイールに換装されている。ハンドルもブルホーンに挿げ替えられているため、元々の形状とは大きく異なっていた。

「自転車とは思えない見た目でしょう?」

「え?あ、えっと……」

「気を使わなくていいのよ?実際、私もこの個性的な見た目、気に入っているし」

「あ、はい。僕の知っている自転車と、全然違います」

 空力抵抗を避けるために、極限まで研ぎ澄ました車体。重量は羽のように軽く、見た目は抜身の刀のような緊張感がある。それでいてホテルのインテリアだと言われたら信じそうなほどの芸術性を兼ね備えた逸品だ。

「これって、高かったんですか?」

「んー?値段はそれほどでもないわよ。基本的にはタウンユースだし、ざっと15万ってところね」

 その値段は、決して安くはなくても、驚くほどの高級品と言うわけでもない。なんなら茜の乗っている自転車だって、本体価格はそんなものだ。

「まあ、アメリカの本格的なピストで、Leader Bikes 725TRって言うんだけどね。あ、ちなみにホイールは35万したわ。もろもろ込みで55万ってところかしら?」

「どっちが本体か分からないほどの値段だな」

 茜が言う。空はますます、この自転車に興味を惹かれていた。

「これって、ブレーキついてないですけど、大丈夫なんですか?」

「ええ。チャリチャン的にはセーフよ。日本の道路交通法ではアウトだけどね。でも、やたらとブレーキをつければいいってものでもないし、海外では実際に規制されてないのよね」

 車体をぐるっと舐めるように見た空は、そのブレーキについてもう一つ気付く。

「そういえば、ブレーキをつけるネジ穴もない……」

「よく気付いたわね。まあ、ピストなんて本来なら競技場だけで使うものだし、レースするならブレーキは邪魔にしかならないから着けないのよ。そこに無理矢理ブレーキをつけた車両が、日本で合法とされているオンブレーキピストね」

「つまり、どういうことですか?」

「アタイも気になるな。実際、これって仮にブレーキをつけるなら、どうつけるんだ?」

 茜さえよく知らない、オンブレーキピスト。実際には、

「ここに鉄板をくっつけて、ボルトで固定するの。もちろんフレームを締め上げるように固定するわけだから、車体が壊れる可能性が高まるわね。カーボンフレームなら万力で割れちゃうかもしれないし、クロモリなら塗装が傷ついて腐食するわ」

 という話もある。

「走っている途中に、フレームが折れたり、ブレーキが取れたりするって事ですか?」

「そうよ。空君は意外と勘がいいのね」

 史奈が空の頭を撫でる。普通、空くらいの年頃の男子は嫌がるものだと思うが、空は嫌がらなかった。史奈の撫で方が上手いのか、妙に気持ちいい。

「じゃあ、街で売られているピストは……」

「ああ、大丈夫じゃないかしら?私の725TRだってアルミフレームだし、そもそも街の量販店で売られているような車体は、ほとんどがルック車に近いもの」

 MTBなら山を走れない車体がルック車(ファッションバイク)呼ばわりされるように、ピストやロードではレース特有の高速走行に耐えられない車体をルック車と呼ぶ場合がある。5万くらいで売られているピストを見たことがあるだろうが、それがルック車だ。

 言うまでもないが、史奈が使っているのはルック車ではない。むしろピストバイクの名門である。

「まあ、私だってノーブレーキピストが安全だとは思ってないわ。ただ、ブレーキついてれば何でも安全みたいな言い方をする警察と、ケーブルが伸びたりパッドがすり減ったりしたまま走ってるママチャリは嫌いね。あいつらには何も言われたくない」

 そういう彼女の車体には、よく見るとゴム板を張ったような黒い跡がついていた。ブレーキを取り付けた痕跡で間違いない。

「これ、史奈さんがプライベートで使っている自転車だって言ってましたよね?もしかして、普段はブレーキをつけて乗っているんですか?」

「……ええ。仕方ないからね。この改造、知り合いの金属部品工場に頼んだんだけど、結構大変だったのよ。で、チャリチャンに出場するにあたって、ブレーキを外してきたってわけ」

「難儀だな。まあ、警察の目もあるから当然か」

「そうね。でも、私は警察に職質されたことはないわね。一度も」

「え?マジか。アタイは去年だけで3回は職質受けたぞ」

「それは、茜ちゃんがドロップハンドルだからだと思うわ。警察は無能だから、ブレーキなしの自転車を見分けるときに、ブレーキじゃなくてハンドルを見るのよ。私は見ての通り、ブルホーンハンドルだからご機嫌ね」

「また、ドロップハンドルか。アタイの自転車はシクロクロスだと……」

「茜のクロスファイアって、誤解を受けることが多いよね」

 実際、ハンドルの形だけで自転車を判断する人は多い。たとえ警察であっても、ロードバイクとピストバイクの違いが分からない人が当然のようにいるのだ。ましてシクロクロスと言うマイナーなカテゴリに至っては、聞いたことのない人がほとんどだろう。

「まあ、最近だとMTB用のフラットバーハンドルを搭載したピストも人気ね。680mmの長いハンドルよ。ペダリングの力が増すのよね」

「それはブレーキがついてなくても呼び止められないのか?」

「そうよ。見た目はクロスバイクと遜色ないもの。ハンドルの形はね」

「MTB用680mmって、その時点で自転車の横幅600mm規定に違反している気がするんですけど……」

「あら。空君は物知りなのね。少なくとも警察よりは」

 すべての警察が無能揃いではないにしろ、自分たちが職務上必要になるはずの情報を調べもしない組織であることは間違いない。

 例えば、コンビニでバイトしている高校生でさえ(と言ったらバイトに失礼だが)、自分の業務を再確認し成長していくものである。最初こそ番号で言ってくれないと判らなかったタバコの銘柄も覚え、客の顔まで覚えれば『いつもの』で通用するまでになる。

 警察は何を言っても聞いてくれず、正義面で一般市民を呼び止めることしか知らないのだ。そこで懇切丁寧にピストの特徴について教えてやっても、たいがいは聞く耳すら持たない。たまにしっかりと聞いて次の職務に生かす警察官もいるだけに、警察全体を批判するのは心苦しいが。

「ああ、ちなみに私が警察を無能呼ばわりしたこと、ここだけのオフレコよ。一応テレビとかに出ている都合でイメージもあるし、あんまり過激なことを言うといろんな圧力がかかっちゃうから」

 この小説もネット上から姿を消す日が来るかもしれない。エタった時は作者が逮捕された時だと思ってほしい。多分テロ等準備罪か何かに当たる。いや、冗談。

 ちなみに、この作品はフィクションです。実際の地名、団体、人物、国家、地方公務員等とは一切関係ありません。これ免罪符。



「そういえば、あれほど速いはずの史奈さんが、どうしてこんなところに?」

 空たちは決してレースの先頭を走っているわけではない。史奈ならもっと先頭集団にいるか、もしくは他の選手を置き去りに単独トップを走っていられたんじゃないかと言う話だ。

「ああ、手を抜いていたわけじゃないのよ。ただ、天候や路面に恵まれなかったのよね。変速ギアがついているわけじゃないから、上り坂にも下り坂にもある程度弱いのよ」

「上り坂は何となくわかるが、下りも苦手なのか?」

「そうね。例えば茜ちゃんは、下りでずっとペダルを漕ぎながら加速するかしら?本来ならバイクって、下りでは休憩して体力を回復するものじゃない?」

「ああ、そういうことか」

「確かに、僕たちも下りではペダルを止めることが増えますね」

「ええ。何より酷かったのは、昨日の暴風域ね。向かい風だけでも体力とギアレート的に辛いのに、若干横風になるものだから横転するのよ。急遽ホイールを36本スポークの純正品に戻したけど、それでも走れないから早々に諦めて宿を取ったわ」

 普通の自転車によく搭載されているスポークは、回転することで乱気流を発生させ、自転車の速度を落とすことが多い。それに引き換えディスクホイールと呼ばれる一枚の板のようなホイールは、乱気流には強かった。

 ただ、自然風にはめっぽう弱い。風が吹くたびに帆を張ったように流され、凧を揚げる要領でグリップ力を失う。

「私がエアロフレームをあんなに恨めしいと思ったのは初めてよ」

「ああ、確かに横風には弱そうなデザインですものね。表面積的に」

「重量が軽いのも仇になるな。アタイらも電動アシスト相手にやられたけど」

 茜が言うと、史奈が小さく連続で頷く。年上の女性に対してアレだが、可愛い。ギャップ込みで。

「そうそう。電動アシスト。あいつらが報道されたときは『やられたぁ』って思ったわよ。だって所詮はペダルを漕ぐ力のない人向けの車体よ。それが仮にも世界チャンピオンの私を超えるんだもの。なんの冗談かと思ったわ」

「はは……」

 空にしてみれば、モーターに自力で勝てると当然のように豪語する史奈の方がどうかしていると思ってしまった。そんな空でも電車のダイヤによっては自転車の方が早かったり、渋滞しやすい道路においては自動車より便利なことは経験しているが。

「モーターに真っ向から挑んで、まして勝てる自信があるんですか?」

「たとえジェットエンジンだろうと、私の自転車なら勝てるわ。もちろん実測データの話じゃなくて、気持ちの話だけどね。この地球上で私とバイクを越えたかったら、ニュータイプとガンダムを組み合わせるしかないわ」

 たいそうな話である。もっとも、そのくらいの意識があって初めて世界チャンピオンが完成するのかもしれないが。

「でも、今回は電動アシストに私が負けたことになっちゃうわね。ただ、勘違いしちゃいけないわ。私が負けたことは、ピストバイクが負けたこととは無関係。たまに勘違いした人が、異種格闘技戦を盛り上げるために『ボクシングと柔道。勝つのはどっちだ?』とかやるでしょう。そういう競技に出ている人の大半が、別にボクシングチャンピオンでも柔道のメダリストでもないのよね。何様のつもりで代表面しているのかしら?」

「はははっ。でも、史奈さんはトラックレースの世界チャンピオンですよね?」

「ケイリンとスプリントと個人タイムトライアルだけね。オムニアムでは振るわなかったし、アワーレコードなんか挑戦したこともないわ。パーシュートでもベスト8止まりだわ。あのどっちが先を走っているのか分かんない感じがどうにも不気味なのよね」

「えっと……どういうことですか?」

「ふふっ。一口にトラックレースと言っても、いろんな種目があるのよ」

「アタイも細かいところまでは分かんねぇな」

 そもそも専門的なところまでは知らない人も多いだろう。この辺は史奈も説明する気がないようで、ただ淑やかに笑うだけである。

「そうだ。二人とも、今日はもう走らないかしら?」

「え?ええ」

「そのつもりだ。さすがにな」

 考えてみれば昨日も無人駅での寝泊まりだったため、ろくに寝ていない。今は面白い話のおかげで(ホテルのスイートで世界女王と談笑という環境も相まって)、眠気は飛んでいるが、無理が重なるとレース中に何が起こるか分からないのも事実だ。

 気持ちの上ではまだまだ走れるが、戦略上は休んだ方が無難だろう。茜はそう考えていたし、空は何も考えていない。

「それはよかったわ。あなたたちの部屋も用意したの。まあ、さすがにスイートは予約いっぱいで取れなかったから、スタンダードで我慢してほしいのだけど」

「いいのか?」

「あ、ありがとうございます」

 願ってもいない心遣いに、茜は困惑し、空は素直に感謝する。そんな様子を見て、史奈は二人を可愛いと思った。単純に、年の離れた親戚のような親近感を覚えていたのかもしれない。

「ダブル一室でいいのよね?」

「「謹んで辞退します」」

 空と茜の声がユニゾンする。

「ふふふっ。冗談よ。ちゃんとシングル二部屋でとってあるわ。でも、その即答は茜ちゃんに失礼じゃない?」

「ああ、いいんだ。空は割と遠慮がない奴だからな。アタイも慣れた」

 空としては茜を尊重して言ったつもりだったが、伝わらないこともある。もっとも二人ともそういう意識でお互いを見たことはないし、これからもないと思っていた。

(空とアタイが?あり得ないな)

(茜と僕が?命がないな)

 と、若干意識の違いはあるが。

 そんな二人を見て、史奈も思う。

(普通、本当に相手を意識してないなら、ダブルベッドでも気にしないんだけどね。何も起きない自信、ないんじゃないかしら?)

 女王の意味深な微笑みは、空にも茜にも気づかれないのであった。

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