第23話 眠らない少年とカーゴバイク
「よう、空。悪いな。出店が混んでてよ」
茜が戻って来たのは、天仰寺のSPやセバスチャンが退散した後だった。それはもう、見計らってたのではないかと思うほど完璧なタイミングだ。
それもそのはず。
「茜。さっき一回戻って来たよね?セバスチャンさんが来たとき」
「え?いや、何の話かな?アタイはその頃たこ焼き屋に並んでいたと思うぜ?ほら、あったかいたこ焼き」
茜が差しだしてきたたこ焼きは、確かに温かかった。本来焼きたてのたこ焼きは熱々で、あったかいどころじゃない熱量だと思う。つまりこれでも若干冷めている。
「茜。これって何分くらい前に買ったやつ?」
「え?あー、10分くらいじゃないか?」
「なるほど。ちょうどセバスチャンさんがいたころだね」
「そ、そうだろう?ちょうど小芝居やってたころだ。その時間にアタイはたこ焼きを買っていたんだよ。ほら、アリバイ成立……」
「いや、アリバイ不成立だよ。どうしてその時間にたこ焼きを買っていたはずの茜が、セバスチャンさんの事や小芝居の時間を知っているの?」
空の視線が、キラーンと擬音を放ちそうな鋭さで茜を射抜く。茜の両肩がギクリと言わんばかりに跳ね上がった。そのリアクションは、無言の白状だ。
「茜、酷いよ。僕が困っているとき、茜はそこで見ていたんだ。そして僕を見捨てたんだね……」
「だ、だって仕方ないだろう。そのセバスチャンとかいう爺さんも天仰寺も、なんか茶番始めちまうし……入りずらい事この上ねぇよ。貴族ごっこしている所にどうやって屋台のたこ焼き持って行けってんだ?」
茜の主張はごもっともである。事実、空が逆の立場でも同じことをしただろう。
同時に、茜が空の立場なら、とも茜は考えた。空の辛さが分かってきたような気がする。いや、空だから耐えていたが、茜は耐えられなかったかもしれない。
「ごめん」
「すまん」
二人は同時に謝り、そして同時に噴き出した。
会場内には、いろんな自転車が来ていた。多分チャリチャン参加者ではなく、地元の自転車好きが便乗して集まっているだけだろう。クロスバイク率が一番高く、続いてロードバイクやマウンテンルック。たまにミニベロやMTBを見かける。
「時代を感じるよな。つーか、世相?」
「うん。やっぱり自転車好きっていったら、ロードバイクだらけだもんね」
漫画や小説でたまに取り上げられる自転車も、ママチャリを除けば軒並みロードバイク。自転車が好きと言っただけでも、乗っているのはロードかピストかと聞かれる時代である。
「今時マウンテンバイクなんか乗ってるのは、ごく一部って事だろうな。ましてシクロクロスなんか誰も知らないわけだ」
茜がため息を吐く。どこを見ても有名メーカーのロードと、無名メーカーのクロス。別に悪いというわけじゃないが、何やら寂しい。
「やっぱり僕と同じエスケープに乗っている人も多いね。っていうか、クロスバイクの半分くらいエスケープ?」
「お前と年代は違うだろうけどな」
茜が言う通り、空の乗っているエスケープは古い車体だった。
まだGIANT JAPANがSRAMの代理店をしていたころの車体で、部品にはX3やX4を組み合わせて使っている。ホイールも24本スポークを4本ずつ6セットに分けて配列するもので、何も知らない人が見たら36本スポークを改造したように見えるかもしれない。
それに比べると、あちらのエスケープは比較的新しい年代のもの。そちらのエスケープは最新モデルだ。ここまでエスケープだらけだと比較しがいがある。
「やっぱり、自転車好きって言ったらスポーツ車ばかりなのかな?」
「ん。まあな。ママチャリに愛情注いでいる人もいるだろうけど、残念ながら世間じゃ当たり前のようにスポーツバイク万歳さ」
「そっか……」
遠くを眺めた空の視界に、異形の自転車が映った。
「あ、茜。あの自転車は何かな?」
出店の蔭。公園に常設されているトイレの方に向かった一台の車体を、空が指さす。
「ん?普通の自転車じゃないか?」
「いや、もう見えなくなっちゃったけど、前半分が凄いことになってたんだよ」
「前半分?」
「僕、ちょっと見てくる」
空が立ち上がった。こういうときは茜より、空の方が好奇心旺盛である。
「あ、待てよ。アタイも行くって」
適当に荷物を片付け、傍らに止めた愛車を持って空を追う。
(何だっていうんだ?アタイには黒いママチャリにしか見えなかったが、前半分?)
一瞬とはいえ、確かに見た光景を思い出しながら、茜は首を傾げた。
「な、なるほど。これは確かに……」
茜が驚く。後ろだけ見たって分からないはずだ。
「ね。凄いでしょう?」
「凄いな。どうして空が得意げなのかは知らないけど」
ライダーが不在のまま、トイレの前に置いてあった自転車。それはカーゴバイクだった。
荷物を大量に運ぶことを目的に作られる、カーゴバイク。その形態は多岐にわたるが、目の前の車体はその代表例だった。
一言でそれを説明するなら、『コンテナに自転車がめり込んだようなデザイン』とでも形容する。
後ろ半分は確かにママチャリに似ているが――ハンドルの下、本来なら前輪があるはずの場所には、長さ1m程度のプラスチック製コンテナが取り付けられている。そしてコンテナの前には前輪がようやく見える。
ヘッドとフロントフォークは直接つながっているわけではない。コンテナの後ろにハンドルを支えるためのヘッドチューブがあり、コンテナの前にはフロントフォークを支えるためのヘッドチューブ。それらを繋ぐために、コンテナの下にクランクが付いている。
コンテナの下には両脚式のセンタースタンド。車体バランス的にも、この位置でないと自立しないのだろう。
よく見れば、前後とも油圧式ブレーキを採用。一見するとシングルギアに見えるかもしれないが、この太いハブはshimano alfineだ。内部に複雑な機構を持つ8段変速ギアを搭載していた。
「何か、御用かな?」
後ろから、こもったような声がする。振り返ると、まだ高校生くらいと思われる少年が立っていた。
「それ、ボクの自転車なんだ。珍しいよね?」
鼻が詰まったような声の少年は、そう言って鍵を差し込む。カシャンと子気味のいい音を立てて、後輪のシリンダー錠が開いた。
少年が、空と茜を交互に見る。
「あ、ごめんなさい。僕たち、自転車が好きだから、つい気になっちゃって」
「ああ、泥棒とか悪戯じゃないんだ。本当にただ見てただけで……」
弁明する空と茜を見て、少年はくすくすと笑った。
「ふふっ、分かるよ。大丈夫。君たちは、悪い人の感じがしないから……」
なにやらスピリチュアルめいた事を言った少年は、再びシリンダー錠をかける。
「うん……せっかくだから、もう少し見ててもいいよ。ボクも少し休憩したいし」
「そ、そうですか?」
空が訊くと、少年は頷いた。
「ボクは
「え?僕たちの事、知ってるんですか?」
「うん。知ってるよ。空君だよね。それに茜ちゃん。いつもミスり速報で活躍を聞かせてもらってるよ」
選手だけでなく、観客も視聴できるミスり速報。専用アプリをダウンロードしなくても、動画共有サイトなどで見ることができる。
「ボクは、君たちのファンなんだ。あとでサイン頂戴。そうだな……この自転車の側面に貰えるかな?」
「え?いやいや、その……さすがにそれは……」
「あ、アタイらには荷が重いな」
何十万円するのか知らないが、カーゴバイクの値段はスポーツバイクを優に超えることが珍しくない。恐らくこの自転車も、茜や空のそれより高価なものだろう。自分たちが有名人か何かであればいいが、その自覚のない茜と空は、サインを断った。
「そっか。残念……」
がっかりした三尾は、コンテナの中からブルゾンを取り出す。これまた革製の、ロックなデザインの逸品だ。
「じゃあ、これにサイン頂戴。背中に大きく」
「……」
「……」
一度ならず二度までも……二度あることは三度あるともいう。断り続けたら何十回になるか分からない。
「わーい。ありがとー」
子供のように喜ぶ三尾の手には、普通の中学生2人分のサインが油性ペンで書かれたブルゾンが握られていた。価値としては下がっていると思われるそれは、ファッションセンス的にも壊滅している。
「き、緊張した……」
高級品に落書きをして台無しにする。と、有り体に言えばそんな背徳的な行動をした空は、大きく息をついた。そもそもサインの練習などしたことがない。なるべく丁寧に書こうとした結果、書道の素人が書初めをしたみたいな絶妙なダサさになった。
「こ、これは精神的に来るものがあるな」
茜も猫背になって胸を押さえる。自転車で峠を一つ越えたくらいの体力消費だ。とはいえ将来プロレーサーを目指している茜は、事前にサインの練習をしていた。中二病ならではの痛い趣味である。
結果として、右半分に『ソラ』と震える字が刻まれ、左半分に『AKANE-I』と気取った雰囲気で書きなぐられたブルゾン。それを三尾は嬉しそうに羽織る。
(こうなったら、せめて僕らがチャリチャンで結果を残して……)
(アタイらが有名になって、そのサインの価値を上げるしかねぇ)
二人の気苦労を知ってか知らずか、三尾は笑顔で言った。
「ありがとう。このブルゾン、父の形見だったんだ」
「「どうか勘弁してください」」
後から聞いた話だと、形見だというのは冗談だったらしい。ちっとも笑えない。
公園を舞台にしたお祭りは盛り上がっているようで、人だかりは時間の経過とともに増えていく。平日だというのによくやるものだ。
地元のアマチュアバンドが演奏したり、ビンゴ大会を開催したりと催し物がある中で、恐らく便乗したいだけだろう似顔絵描きや露天商まで集まっている。それとは別に、珍しい自転車同士の交流もあるようで、チャリチャン参加者も足を止めていた。
ついにはミス・リードの耳にも入ったようで、公式な協賛でないにしても密かに宣伝していたりする。
そんな中、三尾は茜の自転車を見て、興味津々だった。
「へぇ。ロードバイクとよく間違えられるって話だったけど、タイヤが確実に太いね。さすがオフロードマシン。かっこいいや」
「そ、そうか?ありがとう」
愛車を褒められると、自分の事のように喜ぶ。自転車好きならよくあることだが、茜も同じである。
「そういえば、三尾さんの自転車って、どこのメーカーなんですか?」
「ん?ああ、
カーゴバイクの本場と言えば、やはりヨーロッパだ。自転車を生活の一部とする人たちが多いせいか、自転車市場自体が盛り上がりを見せている。ママチャリばかりのアジアと違って、台数は少なくとも種類が多いのが特徴だろう。
「ところで、空君。茜さん。ちょっとお互いに、自転車を交換して走ってみない?公園一周でいいからさ。ね?」
それは、自転車乗りなら誰もが気になる、お互いの乗り心地を知りたいという欲求だった。チャリチャンでは大会規定で、自転車を乗り換えるのは禁止されている。とはいえそれはコースの中での話。ここはコースの外だ。
「えっと、じゃあ、ちょっとだけなら……」
と、空が賛成した。
「アタイもたまには他人のチャリに乗ってみるかな」
「じゃあ、決定だね。ボク、スポーツ用自転車に乗るのは初めてなんだ。あ、壊したりしないように気を付けるけど、万が一のことがあったら言ってね。弁償はするから」
お互いに、車体の最低限の使い方を説明し合う。変速ギアの動かし方。ハンドルの握り方。ペダルを踏む面について。茜が片面フラット、空と三尾は両面フラットなのは幸いだ。
「それじゃあ、一周回ってみよう。まずはボクが茜ちゃんのクロスファイアに乗るね」
三尾は優しく車体をまたぎ、ペダルの裏表を確認して漕ぎ出す。複雑なデュアルコントロールレバーを駆使して、慣れないドロップハンドルを握る。初めてにしては上手い走り出しだった。
「アタイは空のエスケープか。前にも一度借りたけど、久しぶりだな。行くぜ」
安定したフラットバーの操作と、比較的アップライトな姿勢が、楽な漕ぎ出しを実現する。今回はスピードを出すことはないだろう。のんびり走るにはクロスバイクが一番向いているかもしれない。
「それじゃあ、僕らも行こうか、ブリッツ。今日はよろしくね」
一人になると、自転車に話しかけることが増える空。それは別に自分の自転車限定ではないらしい。三尾のブリッツに話しかけた空は、ゆっくり漕ぎだしていく。
(おお、思ったより軽い)
とはいえ車体重量は本体だけで24kgほどあるブリッツだ。中身も相まって、さすがにクロスバイクほどの軽さは感じない。加速するまでは結構大変だ。
(初速さえ得られれば、案外伸びる。いいね)
恐ろしく長いホイールベースの所為か、直進での安定性は高い。重さに比例して慣性もつきやすく、速度を求めなければロングライドも出来そうだ。
変速ギアを1段上げる。内装変速であるため、ケイデンスに関わらず瞬時に変速する。当然だがチェーンをかけ替える音もしない。あまりにスムーズな変速である上に、切り替わったことが外見上で判断できないのも特徴だ。
(凄いな……内装変速ギア。外装より便利そうだけど……)
事実、メンテナンスフリーであることも相まって、多くのママチャリに採用されているのは内装変速だ。一時停止の際、ペダルを止めたまま変速できるのも長所だろう。
内装変速の弱点があるとすれば、重量が重いことくらいだろう。それだって軽量化を重視したスポーツバイクなら重要事項だが、もともと積載重量の多いカーゴバイクにとっては些末な問題である。
(変速するとき、トルクをかけていると切り替わりにくいな。むしろペダリングを完全に停止した方が入りやすい。変なの……)
外装変速特有の、ペダリングしながら変速しないといけないというルールは無い。だからこそ、シティサイクルに導入されやすいのかもしれない。
例えば空たちは、停車する前にギアを下げてブレーキをかける癖がきちんとついている。中には前輪ブレーキによる停止と、右手の変速ギアのコントロールを同時に出来るように、わざとブレーキを左右逆に接続する人もいるくらいだ。
つまり、外装変速は乗り手を選ぶ。そういう意味では、どんなタイミングからでも変速できる内装変速は失敗がない。初心者には嬉しいシステムだ。
(次のコーナーを、左……)
空の目の前に、ほぼ直角に曲がる左コーナーが見える。曲がろうとしてハンドルを切った。フロントフォークと一体化していないせいか、ヘッドチューブ自体に角度が付いていない。水平に回転するフラットバーハンドル。意外と違和感は大きい。
ハンドルを曲げた瞬間、空の身体が横に滑るような感覚を受けた。
(うわっ――あ、あははっ)
長いホイールベースの、比較的後ろの方に乗っている影響の所為だ。曲がりたい方向に大きく車体がぶれる。内輪差も自転車にしては大きい。もっとも、繊細な操作ができる空だからこそ気になる程度の話。
(なるほど。こう……かな?)
ヘッドを大きく突き出して、ハンドルを曲げるのを我慢する。自分の身体がコーナーに入ってから旋回。要するにワンテンポ遅れてハンドルを操作する。
長いコンテナを振り回すようなコーナリング。近くの歩行者を巻き込まないように、慎重に操作する。幸いにしてコンテナは前についているので、目視による確認がしやすい。思った以上に安全だ。
重心の低いコンテナは、必要以上にバランスを崩す心配もない。地面からのクリアランスも考えて設計されているので、普段と同じように車体を傾けて曲がれる。もっとも、スピードを上げた場合はこの限りでないかもしれない。
(凄い。全然スピードを出してないのに、この迫力……)
ただ走っていること自体が楽しくなる。そんな車体であった。ゆっくりと、巨大なマシンを動かす。そのロマンが自転車で味わえる日が来るとは。
「なんだ?あの自転車は……」
「え?何を運ぶの?ヤバいんだけど」
「ちょっ、イベントの車体?」
「チャリかよ。ってか乗ってるコ可愛くね?」
「いや、あれ男でしょ。中学生くらい?」
この通り、走っているだけで注目を浴びるのである。
再び、ハンドルに目を落とす。サイコンやボトルホルダー。そしてヘッドライトなどが搭載されたフラットバーハンドル。この辺は三尾自身の改造によるところだ。手の届くところに飲み物や小物を配置できる、ロングライドを想定したカスタム。
よく見れば、コンテナの前にもヘッドライトが付いている。二つもヘッドライトを付ける理由は、恐らくコンテナを見やすくするためだろう。
ハンドルにつけられたヘッドライトはコンテナを照らす用。コンテナ前方に取り付けられたヘッドライトが進行方向を確認する用で使い分けられていると予想する。これなら暗くなってからでも、交通事故の確率を減らせる。
ついでに夜でもコンテナの中を見やすいというオマケ付き。いや、こっちが主題かもしれないが。
(ここまで大きい自転車だと、自動車からの認識も間違われやすいのかもね。うーん。日本で見かけるサイズじゃないから余計に……かな?)
大きな特徴を持つ自転車というのは、周囲に正しく認識されづらいものである。
比較的ポピュラーなクロスバイクに乗っている空でさえ、道路を走っていてヒヤッとした経験は何度かあった。たった数回とはいえ、そのひとつひとつが命に係わるものであるため、印象に強い。
まして、自転車としてはオーバースケールなブリッツである。日本の道路で運用するのは、かなりの恐怖もあるだろう。これを扱いこなす三尾も、スポーツバイク乗りとは違った意味で優秀である。
(でも、もし自転車道とかが今より整備されてきたら、僕も欲しいな)
なんにしても、このカーゴバイクというカテゴリーを、空は気に入ってしまった。だからこそ、そういった車体が普及することを願う。
公園内の一周を終えて、空たちは再び自転車を入れ替えていた。今度は茜がブリッツに、三尾がエスケープに、空がクロスファイアに乗る番だ。
「おお、こっちはフロントが3速なんだね。親指だけでシフトするタイプ?」
「はい。ちなみに、チェーンのたすき掛けはライン的にきついと思うので、フロントがインナーの時は7速以上禁止。アウターの時は1速禁止でお願いします」
三尾がエスケープに跨って、空の説明を聞く。
「じゃあ、アタイは先にスタートさせてくれ。行くぞ」
茜が待ちきれずにスタートする。空の説明が長かったわけでもないが、楽しそうな自転車を前にお預けは拷問に近い。その気持ちは空にもよく分かる。
「さて、それじゃあボクたちも行こうか。空君」
「はい。じゃあ、よろしくね。クロスファイア」
幸いにして3人とも、車体のフィッティングをする必要はなかった。茜と空は同じくらいの身長だし、乗る時の姿勢も似ている。三尾は少し身長が高めだが、サドルを低くする癖があったのであまり気にならない。
ハンドルはそれぞれ好みがバラバラだが、人間的な個性と言うより車体的な特性という事で、あえて高さを変えずに乗り換えている。
例えば茜のクロスファイアはハンドルを一番低くしていたが、その方がドロップバーらしさが味わえると、空も三尾も高さを上げなかった。三尾のブリッツは一番ハンドルが高いが、普段味わえないアップライトな姿勢が空と茜の好奇心をくすぐる。
(これがカーゴバイクか。アタイも一台買おうかな……って、アタイの家の周りはオフロードばかりだから使えないか)
茜はそんなことを考える。長いホイールベースのおかげで多少の段差は気にならないが、根本的に段差に強い車体ではない。おそらくオンロード用自転車で乗り越えられない段差については、ブリッツでも乗り越えられない。
せめてファットバイクのようなタイヤが付いているなら話は別だったんだろうか。と考えてみるが、この車体のスタイリッシュさを損ねる気がする。そもそもフレームサイズ的に、タイヤを太くするのには限界もある。
しかし、スポーツバイクに乗っている人間なら誰しも、荷物を気軽に運べる自転車に憧れるものだと思う。まして幼少のころからMTBばかり乗ってきた茜にとって、自転車に荷物を直接積むという発想自体が衝撃だ。
「あら?茜先輩」
公園内の駐車スペースから話しかけられる。
「ん?おお、天仰寺か」
先ほど別れた天仰寺だった。すっかり着替えと車体修理を終えたようで、車体の最終点検に入っている。
その天仰寺が、茜の乗る自転車を見て怪訝な顔をした。
「……ブリッツ、ですわね。どうしましたの?」
「ああ、実はさっき知り合った人に貸してもらってな。意外と面白いんだよ」
茜が話していると、空と三尾も追いついてきた。
「あ、天仰寺さん。自転車、大丈夫だった?」
空が訊くと、天仰寺はただでさえ大きな胸をツンと張る。
「ご覧の通り、修理は完璧ですわ。今しがた、わたくし自らの手で最終確認を終えたところですのよ」
そう言った天仰寺は、視線を横に向ける。三尾に、だ。
「やあ、ジュリアちゃん。お久しぶりだね」
「あら、三尾先輩。やっぱり貴方のブリッツでしたのね」
心底嬉しそうにする三尾に対して、引きつった笑みを浮かべる天仰寺。
「あれ?二人は知り合いなの?」
空が首をかしげると、二人は同じ答えを、違うニュアンスで返した。
「ジュリアちゃんとは、レース2日目の朝に会ったんだよね。その時は一緒に走ったりしてさ。楽しかったなぁ」
「ええ。ずいぶんと足を引っ張られたあげくに、そのまま置き去りにされたのをよく覚えていますわ。ペースを合わせることも知らなければ、助けることもしないのですわよ」
「まあ、レースは無常だよ。ボクも悪かったかもしれないけど、ジュリアちゃんも気にしすぎさ」
「三尾先輩……わたくし、率直に申し上げるとあなたが嫌いですわ」
にらめっこかと思うくらいに視線を外さず会話する二人に対して、空と茜は顔を見合わせた。
「三尾さんって……」
「参加者だったのか?」
てっきりイベントに来ていた地元住民だと思っていた。なにしろ、既にレースは6日目の中盤。参加者は既にペースごとに各地に散っているのだ。
要するに、三尾は青森のスタート地点から6日で、この岐阜まで来ていることになる。茜たちや天仰寺と同じように、だ。
「このカーゴバイクで、スポーツバイクと同等の走りをするのか?」
茜が訊くと、三尾は笑った。
「そんなわけないでしょ。今、自転車を交換してよく分かったよ。ボクのブリッツでこの走りは無理だね。速度も軽快さも段違いだ」
だろうな。と、茜は思う。失礼かと思いつつサイコンの走行データを見たが、アベレージ15km/hが関の山。一般的なママチャリと同等だ。
では、どうやって……
「この方、眠らないそうなのですわ」
天仰寺が答えた。
「正確には、ボクも寝ているんだよ。1日1時間。ちゃんと睡眠はとってる」
「い、1時間……?」
「それって、寝てるって言うのかよ……」
「それだけじゃありませんわ。三尾先輩は、起きている間ずっと自転車を漕ぎ続けますの。食事の際も、その他もね……」
「え?嘘……そんなことって出来るの?」
「足の筋肉的に無理だろう。マグロか!」
不可能とまでは断言しないが、確実にビックリ人間の類だ。
「いや、ボクだってトイレの時は自転車を降りるよ。買い物のときにもね」
逆に言えば、それ以外はフル稼働しているという事になる。
参考までに、グランツールでさえ、一日平均6時間が限界と言われている。ブルベなら24時間走り通すこともあるかもしれないが、挑戦した人のほとんどが後日動けない状態になるのだ。
三尾はくすくすと笑う。
「ボク、この大会に出れて幸せだなぁ。他に特技も何もないんだもん。眠らないなんて、学校でも部活でも役に立たないし、きっと将来も仕事に生かせない。だから今が幸せだよ。こんな素晴らしい自転車乗りに囲まれて、並んで走れるんだもん」
特技は24時間自転車を漕ぎ続けることです。ただし速い訳ではありません。と言われたら、それを日常生活でどう役立てるのかは不明だ。まして自転車競技には一切向かないだろう。
21日不眠不休の24時間耐久レース。そんなチャリチャンだからこそ、活躍できるタイプの選手。
「ちなみに、天仰寺さんはどうして三尾さんを嫌ってるの?」
空が訊くと、天仰寺は少し考えこんだ。
「まあ、わたくしが勝手に被害意識を持っただけかもしれませんけど……」
そう前置きして、言う。
「レース2日目。三尾先輩はわたくしと一緒に走りたいと申し出たのですわ。わたくしも快く応じました。ところが、三尾先輩はトップスピードが遅くて、わたくしのペースを乱すばかり。挙句にわたくしが休みたいと言った時は、そんなわたくしを置いて先に行ってしまいますのよ。裏切りですわ」
酷い裏切りかもしれない。
「挙句、3日目は雪まで降ってくるじゃありませんか。もしわたくしが2日目に彼と出会ってなかったら、きっと2日目のうちに雪の降る地域を抜けていたはずですわ。そうすれば3日目に足止めを喰らうこともなく、先に進めたでしょうに……」
三尾に悪気は一切ないだろうが、結果的には天仰寺を大きく妨害することになってしまったというわけである。
ちなみに、あの雪の中を天仰寺は、自分の足で歩いて突破した。彼女の乗るレボリューションが専用トランクケースに入るというのは前回紹介したが、そのケースを持って雪の中を歩くタフネスは、見た目からは想像できない。
「天仰寺さんも、大変だったんだね」
「ええ。そうでもなければ100km/hを超えるわたくしが、今更こんな順位をさまよっているはずがありませんわ。まあ、そのおかげで空先輩たちと出会えたのは感謝しますけど……」
最後の方はごにょごにょと聞き取りづらかった。
『ええ、確かに登録されてますよぉ。エントリーナンバー002
深夜から明け方の時間帯になると、走っているのは数人になりますからねぇ。その中でも確実に毎日走っているのが、三尾さんなんですよぉ。毎回のネタ提供。ありがとうございます』
ついにはミス・リードに確認まで取ってしまったが、本当に選手らしい。腕輪は見せてもらったし、車体のカーゴ下にはGPSタグもついていた。なぜこんなところにつけたのかは不明だ。
「まあ、信じられないのも無理はないよね。みんなスポーツバイクか電動アシストだろうし」
と、三尾は気にしない風に言ってくれたが、空たちは、
「疑ってすみませんでした」
「悪ぃ。なんか気になることがあるとミス・リードに聞く癖が付いちまって」
三尾と、それから天仰寺にも謝った。
「それにしても、ミス・リードって凄いよね。ボクが知る限り、本当に24時間寝てないんだよ。そんな人がいるくらいだから、ボクはまだ普通なんじゃないかな?」
この広い世の中には、常識にとらわれない人も自転車も沢山あるんだな。と、ここにいる誰もがお互いの顔を見て思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます