第14話 再審の死刑判決とターゲット
『こ、ここで最新の情報をお知らせします。茜さんと決闘中の次郎垣内さんですが、エントリーナンバー049 もうすっかりお馴染みのデスペナルティさんと接触事故を起こしました。
公園出口の固定カメラの映像を……す、すみません。放送に不適切なためVTRを流せません。やだぁ……私、グロはダメってあれほど言ったのに……R-18G指定ですぅ』
ミス・リードが言うように、この光景は18歳未満に見せられるものではない。そのため、綺羅は叫ぶ。
「二人とも、振り返るな!走れぇ!」
茜は、少しだけ振り返ってしまった。空もバーエンドバーに仕込まれたサイドミラー越しに見てしまう。
血だまりの中に沈む次郎と、それを何度も、執拗に踏み潰すデスペナルティを。
「くぅははははっ。高級車だ。プログレードだ。世界が注目するバイクだ。踏み潰し甲斐があるぜぇ!」
デスペナルティは、真っ赤なベネツィアンマスクの下で嗤う。大げさに、口元をゆがめて。
ベキン!バキッ!パキキキ……
気絶した次郎の足が、カーボン製の手組ホイールと一緒に折れる。頭から流れ出る血が、ブレーキのオイルチャンバーから流れるオイルに混ざる。
『デスペナルティさん!それ以上の行為は運営委員としても見過ごせませんよ。次郎さんが死んじゃう……』
ミス・リードが震える声で語り掛ける。その放送は、幸いにもデスペナルティに届いた。
「しょうがないな。じゃあ……次の獲物を狙いに行こうかなぁ?よく見れば、昨日の中学生とも再会できたみたいだし」
公園を突っ切るように走りだしたデスペナルティは、そのまま花壇を踏み潰し、空たちを追う。花壇をよけるように走っていた空は、すぐに追いつかれた。
「待たせたね。空君と、茜ちゃん?迎えに来てあげたよ。みんな地獄で待ってるからね」
「ま、待って……やめて……」
空の後輪に、デスペナルティの前輪が迫る。タイヤの太さの差、そして車体重量差を考えると、このままぶつかった時に吹き飛ぶのは空の方だ。ライダーの体重的にも、空の方が軽そうに見える。
迫り来る26×1.8inのブロックタイヤを……
「させないよ」
綺羅が蹴り飛ばした。大きくハンドルを取られたデスペナルティは、地面を蹴って体制を立て直す。
「行け!空君。こいつは俺様に任せな」
「え?でも、綺羅様……」
心配そうに振り返る空に、綺羅は手を振って鬱陶しそうに答える。
「安心しろ。この俺様は強い。2WDは、ぶつかっても転ばないんだ」
嘘だ。いくら二輪駆動でも、自転車であることに変わりはない。しかし……
「早く逃げろよ。その女には戦うだけの体力なんて残ってない。空君がついていなくてどうするんだ」
「……アタイかよ」
茜が悔しそうにつぶやく。確かに次郎とのデッドヒートのせいで、もう体力なんか残っていない。体温すら奪われていく中で、ペダルを漕ぐこと自体が困難だ。
「解りました。綺羅様もお元気で」
「任せておけ。俺様からの予言だ。お前と俺様はまた再会する。このタイプの予感は外れたことがないんだ」
空と茜の背中が、遠くに消えていく。路地を曲がったところで、二人は見えなくなった。
そして、デスペナルティが追い付いてくる。
「やるなぁ。俺のフィニスを蹴り飛ばすなんて、君は凄いライダーなんだね。ぜひ、名前を頂戴したいな」
真っ赤なヴェネツィアンマスク越しに、デスペナルティは訊く。教えてやる義理は無かったが、少しでも時間を稼ぎたいと思った綺羅は答えた。
「俺様は、氷堂綺羅だ。綺羅様と呼んでくれて構わない」
「そう……本名かな?」
「さあな。ご想像にお任せするよ」
もちろん偽名である。
綺羅には勝算があった。他でもないスパイクタイヤを搭載した自分と、アイスバーン多めの路面。最悪の場合はコースアウトしてでも、凍っている道に逃げればいい。うまくいけばデスペナルティが自爆してくれる可能性もある。
しかし、デスペナルティは綺羅の横を通り過ぎていった。
「な、なにを……」
警戒する綺羅に、デスペナルティは笑いながら答える。
「ああ、安心していいよ。君は壊さない。だって、DOUBLEは素敵な自転車じゃないか。大切に乗ってあげてね」
「はぁ……?」
サイコパスという奴らはよく解らない言動を繰り返すことが多い。油断させるための罠かと警戒した綺羅は、念のためにブレーキをかける。
しかし、デスペナルティはそのまま先に行ってしまった。本当に、綺羅の事など眼中にないように。
(しまった。これじゃ時間稼ぎにもならなかったじゃないか。俺様としたことが……)
綺羅が気づいたころには、もう遅い。
空たちとのタイム差はそこそこ開いていたが、追いつけない程ではない。それは綺羅にとっても、デスペナルティにとっても同じだった。このまま速度を上げたとしても、相手のほうが綺羅より先に追い付いてしまう。
(俺様が追っても仕方なさそうだ。悪いな。あとはお前らで頑張って、生き残ってくれよ……)
慣れないことをして体力を消費した綺羅は、肉体、精神ともに、これ以上走れないほど追い込まれていた。
次郎との戦いでずぶ濡れになった茜は、寒そうに体を震わせた。
「綺羅のやつ、大丈夫なのか?」
「さあ?心配だけど……」
それを気にしていても仕方がない。それに、何かあったらミス・リードが実況するはずだ。関係のない参加者の話をしているうちは、大丈夫ということだろう。
「それより、すまん。休憩したい」
身体を硬直させたまま、震える手でハンドルを握る茜は言った。
「どうしてそんなに濡れているの?」
「次郎に勝つために川を渡った。もちろん自転車で」
相変わらず無茶をする茜だったが、そのおかげでデスペナルティから逃げられていると思うと怒ることも出来ない。
「ミス・リードさん。この辺で休憩……いや、もう宿泊できるところはありますか?なんならネカフェでも何でもいいんで、最低限シャワーとかお風呂とか入れるところ」
お馴染み凸電機能。そして、
『一緒にお風呂ですかぁ?それなら8km先にラブホテルがありますよぉ。店名はファッションホテルもーてる。休憩は2時間で2700円から……』
お馴染みミスり実況ジョーク。
「えっと、とりあえずそこでいいかな?」
「いいわけないだろ。恥ずかしいとか以前に中学生に入場許可するラブホが存在してたまるか!」
『茜さん。チャリチャンの力を甘く見てはいけませんよぉ。選手の皆さんがつけている腕輪がありますよねぇ?それを見せれば協賛グループでは特例扱いされるんです。そのラブホも協賛グループですから、年齢や人数を問わずに休憩も宿泊も可能ですよぉ』
「よかったね。茜」
「よくねぇよ!つーかラブホに協賛される自転車レースって何だよ。スポンサーにケチをつける気はないけど、知りたくなかったよ」
『おっと、タイムリーな話も入ってきましたよぉ?エントリーナンバー703 リオン&リョー・ペアさん。ホテルもーてるにチェックインですぅ。そのままご宿泊コースですねぇ。それでは実況カメラを……』
「どこの実況カメラだよバカ!つーか、本当に入った参加者がいるのかよ……」
寒くても力尽きてもツッコミは欠かさない茜である。
『っていうか茜さん。こう言ってはアレなのですが、意識し過ぎじゃないですかぁ?結局はホテルに違いはないですし、別に私は空さんと一緒の部屋に泊まれと言ったつもりはないですし』
「……は?」
『普通は一人での宿泊は断っているらしいですが、チャリチャン参加者に限って一人一部屋を認めているらしいですよぉ。しかも3割引きで。それに一緒に泊まったって、何もないならいいじゃないですか?』
ミス・リードとは思えないほど真面目な口調で言う。
『そもそも、ラブホに行った人が必ずエッチするとは限りませんし……スポンサーさんの宣伝も兼ねますが、もーてるは映画、カラオケ、貸衣装なども完備したアミューズ施設としても稼働しています。
っていうか、風営法的にはラブホ扱いされていませんねぇ。まあ、法律上はグレーゾーンだと思いますが……』
スポンサーの企業をさらっとグレーゾーン扱いしたミス・リードは、ついでのように思い出す。
『そういえば、私もよくラブホを利用するんですが、お客さんのしたいことは色々なんですよぉ。すぐに本番の人もいれば、終始カラオケで終わる人もいますし、撮影メインになることもありますぅ。
特に汚れちゃうシチュエーションの撮影会だと、会場としては適切なのですよねぇ。匂いが数日残ることもありますが、そういうのも含めて気持ち良くて――』
どんなシチュエーションの撮影会かは、あえて訊くまい。
(つーか、今回ばかりはミス・リードも、アタイを心配して言ってくれたのか?)
事実、田舎に多いのはラブホテルと相場が決まっているような気もするし、最短かつ最適な場所をなりふり構わず探した結果かもしれない。だとしたら、先ほどの茜の態度はミス・リードに対してもホテルもーてるに対しても失礼だった。
謝ろうと思った茜は、その前に念のための質問をする。
「なあ、ミス・リード。ラブホ以外で休めるところは、無いのか?」
『いえ。そのラブホの1.5kmほど手前にビジネスホテルもありますけど?』
「もう死ねよお前!」
最初からそっちを勧めてくれたら話が早かった。
なんにしても目的地の決まった茜は、凸電を切ってスマホをしまう。そして後ろにいる人物……空ではなく、もう一人に言う。
「待たせたな。もっとも、お前がアタイを待っていても、アタイはお前を待ってなかったんだが……」
「くぅははっ。つれない態度だね。お話は終わったのかな?じゃあ、壊れようか」
今さっき追いついてきたデスペナルティが、不気味に速度を上げてくる。
「電話中は仕掛けないなんて、紳士的だな」
「そうなんだよ。俺は紳士だ。茜ちゃんはよく解っているね」
「皮肉だよ」
茜が速度を上げて、空を抜く。寸分遅れて空も加速した。こうなったら速度で勝負だ。単純な話、逃げ切るだけだ。
「このまま目的地まで逃げるぞ。空」
「あれ?でも相手がミスり実況を聞いていたら、僕たちの目的地もバレバレなんじゃない?」
「あ……」
これは失策である。もうビジネスホテルを目指すと言ってしまった以上、デスペナルティがそこまで来る可能性は高いだろう。当然、止まったところを狙われる可能性もある。と思ったが、
「安心していいよ。俺は止まっている自転車を壊す趣味は無い。走っているから壊したくなるんだ。そうだ。ゲームにしよう?君たちがホテルまでたどり着いたら、今日のところは君たちの勝ち。たどり着けなかったら、君たちは死」
「……ふっざけやがって」
イラっとした茜だったが、今のところそれ以外に方法がない。ギアを3段ほど上げた茜が、ダンシングでさらに速度を上げる。空もフロントを3速目に入れて、リアを2段ほど落としながら追従する。
「なるほど。空君はフロントを3速に入れたか。じゃあ、鬼ごっこに承諾したって事だね。だって、ここで突き放すつもりならギアは2速のままだもんね?」
「え?えぇ?」
よく解らないことを言われて、空は困惑する。
「あれ?違ったかな?俺が見たところ、空君はルーラー気質で回転型だ。そんな空君がギアを上げるのは、攻めの姿勢ではなく、守りに入ったと見るんだけど?」
空でさえ気づかなかった自分のスタイルを、デスペナルティは言い当てる。
「ちなみに、茜ちゃんはパンチャーでトルク型かな?だから並んで走っていても空君の方がケイデンスが高いし、アタックの際に空君の方が出遅れる。ああ、ちなみに俺はスプリンターでトルク型だよ。教えておかないと不公平だもんな?」
そもそもロードバイク乗りが一人もいない状況で脚質の話をしても意味があるかどうか。だが、無理矢理ローディの傾向に当てはめるなら、この分析は間違っていない。
(え?なんか専門的な話をされている。僕にはよく解らないけど……)
(つーか、アタイらは実績も経歴もない趣味程度のライダーだぞ。どこをどう調べたらそんな情報が出るんだよ)
考えられるとしたら、それは昨日の数分と、今日まさに今、この短時間で見破られたことだろう。しかし、そんな短時間で見抜かれるものだろうか?
「ああ、茜ちゃん。今なにか考えていたでしょう。茜ちゃんって考え事をするときに、左右の指をパタパタさせる癖があるよね?……そう。中指から小指までの3本で、デュアルコントロールレバーの側面を叩く癖。左右交互に、トントントンって」
「……!」
完全に無自覚だった。もちろん自分の癖は自分で気づきにくいものだが、実は隣を走っている空でさえ、その癖については気づかなかった。
「あれぇ?振り返ってくれないのかな?茜ちゃん。空君は俺と目を合わせてくれるよ。さっきからミラー越しに、ほら、チラチラって」
(ミラー越しって……僕のミラー、1×5センチくらいの小ささなのに、2馬身も後ろから見えるの……?)
不気味さが、増していく。先ほどまでの物理的な恐怖じゃない。明らかな精神攻撃。衝突されるより怖い、分析される恐怖。
「動揺しているね。ラインどりに感情が出ている。空君なんか、いつもキープレフトでしょ?対して茜ちゃんは道の真ん中を走りやすい。空君は街に住んでいて、茜ちゃんは山の方に住んでいるのかな?いずれにしても、今は二人とも理想のラインから少し外れているはずだ」
その視線が、絡みつく蛇のように、肌の上を這いずり回る。指の間、腹の上、誰にも触れさせたことのない恥部にまで。
「くぅははっ。当たりだね?でも二人とも喋らなくなったのは、図星を突かれたからじゃない。呼吸が忙しいんだ。とくに瞬発力に特化した茜ちゃんは、そろそろ息が上がってくる頃だろう?空君に比べたらマシに見えるけど、実は違う。もともとケイデンスの高い空君は、息が切れていなくても呼吸が激しいのさ。だから今、追い込まれているのは茜ちゃんの方」
その声が、蠢く虫のように、体中を覆って潜り込む。耳に、鼻に、口に、爪の間や、髪の隙間まで。
「あれれ?だんだん追いついてきちゃったぞ。俺の言葉に動揺しているのかな?」
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
ついに耐え切れなくなった茜が、一目散に逃げる。
「空、アタイの後ろをついてこい」
「え?え、あ……」
トレインと呼ばれる、空力抵抗を減らすための隊列。要はピッタリ後ろをついて回ればいいだけのシンプルな技法で、そのくせ確実に巡航速度と持久力を稼げる方法だ。
これは実際にやると難しい。接触事故すれすれで相手に合わせて走るのだから、わずかなミスが追突につながる危険がある。
もちろん、茜は空を信頼していた。だからこそ背中を預けられるわけだが、当の空は動揺したせいで乗り遅れる。
「待って、茜」
結果として、茜だけが逃げてしまう形になった。そのことに、茜自身が気づいていない。
「あーあ、彼女に見捨てられちゃったのかい?可哀そうな空君」
デスペナルティが迫る。40km/h前後の中、それでも余裕の表情と速度を維持したまま。
「ど、どうして……」
「ん?何かな?命乞いでもするの?」
ついに並ばれた。そんな状況の中で、空は震える声を振り絞って訊いた。
「どうして、こんな酷いことをするんですか?あなたは、自転車を好きなはずなのに……なんで壊すんですか」
どうしても聞いておきたかったことだった。専門的な知識と、確かな技術。それを持ち合わせるデスペナルティが、まさか自転車を嫌っているはずがない。
「ふぅむ?それは何故かって?教えてあげようか」
「え?」
「ちゃんと理由があるんだよ?俺だって、無差別に潰しているわけじゃない。さっきも綺羅って人を見逃したばかりだしね」
そう言って、デスペナルティは幅寄せをしてきた。
「他のみんなには内緒にしてくれよ。もちろん、茜ちゃんにも知られたくない。空君と俺だけの秘密だ。さあ、耳を貸して」
緊張した面持ちで、空が耳を貸す。以前ストラトスにやったように、車体から身を乗り出して……
デスペナルティも、空の肩に手を置く。お互いの距離を一定に保ちたいときに使う技法だった。速度も同じくらいに合わせて走る。
「実はね。……嘘だよ!」
「え?」
瞬間、肩に置かれた手に力が入る。真下に叩き落すように、地面に押し付けるように。
右肩を押さえつけられた空が、大きく右にバランスを崩す。
「きゃぁあっ!」
情けない悲鳴と裏腹に、その次に空がとった行動は神業であった。
左に車体を滑らせるようにして、とにかくグリップ力を維持。クランクを逆回転させて、右ペダルを上に移動。それでもペダルが地面と接触し、一瞬だけ赤い火花が散る。
そこからハンドル左側を叩くように押さえつけて、車体を垂直に戻す。左右にぶれながら暴れる車体を、体を震わせながら制御。目の前に迫る電柱を、ギリギリで避ける。サイドミラーが電柱に当たって、角度が変わる。
ここで足を着くのは愚策だ。この速度から察する通り、足首を挫くだけである。最悪、自転車のフレームに巻き込まれれば、自分の身体が引きずられる可能性もある。もちろんグリップが安定するまで、ブレーキもかけない方がいい。
この間、せいぜい0.8秒。先ほどの空の悲鳴の半分ほどの長さもない。
もう一度やれと言われても絶対に再現できない、奇跡の技だった。
「くぅははははあはあはあはあは!驚いたなぁ。あれで無傷なの?」
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ――」
完全に立て直した空だが、何をやったのかは自分自身が覚えていない。考えて行動したわけではなく、直感的にやったことだ。
呼吸が乱れる。肺が痙攣でも起こしたように空気を吐き、心拍数はマシンガンのように脈打つ。しかも一撃一撃が重い。胸が焼けるように、そして叩かれるように痛い。
「おいおい、泣くなよ空君。もとはと言えば、俺を信用する方が悪いんだぜ?」
悪びれもせず、ある意味ごもっともな意見を言うデスペナルティ。
「ああ、思い出した。空君には昨日、嘘をつかれたんだった。あの時は俺が騙されたよね?これでチャラだね」
大きく減速した空に、再び幅寄せをする。
「昨日の再現みたいだね。でも、今度は中継車もない。道路の横は雪かきで片づけられた雪が積まれているから、コースアウトして逃げることも出来ないね」
見ればわかるようなことを、しかし確認するように語ることで、心を折る。
「さあ、絶望の時間だよ。最後くらいは痛くないように事故ってあげる。まあ、君が大人しくしていたら、の話だけどね」
ゆっくりと、寄せてくる。どこから狙われるのかは分からない。
ハンドルに手を伸ばされる。空はとっさにバーエンドバーを握って、ハンドルをつかまれないようにする。
デスペナルティのハンドルが左を向く。空はブレーキをかけて、前輪同士の衝突を避ける。
ペダルから足を上げられる。蹴りが来る。そう判断した空は、体を硬直させて、ハンドルを握りなおす。
顔を近づけられる。これだけは意味が解らない。頭突きだろうか?そんな馬鹿な。
とにかく、どこから来るのか分からない。怖い。怖い。怖い。
「くぅーはははっ。空君可愛いなぁ。男女問わず恋に落ちるような泣き顔だ。もっと苛めたくなっちゃうよ。ああ、でも、同時に心配にもなる。学校でいじめられたりしてないよね?女の子たちに呼び出されて、乱暴されてない?エロ同人みたいに」
「ふぇっ――っく……ぅ」
空は自分が泣いていること自体、気づいていなかった。言われてみれば頬が痺れるように熱い。涙のつたう跡に沿って痛い。
「さあ、これ以上苦しめないためにも、終わりにしようか」
「させるかよ!」
間一髪。デスペナルティの顔に、ボトルが飛んでくる。茜が愛用しているCAMELBAKの750mlだ。
急に投げつけられたそれをキャッチするため、デスペナルティに一瞬の隙ができる。空がこの隙を逃さず加速。とはいえ、さっきの影響でギアが重いままだ。反射的にギアを下げながらトルクをかけるが、思うように加速できない。
「急げ。空」
愛用のボトルを投げ捨てた体制のまま、茜が手を振って呼ぶ。空が付いて来ていないことに気づいて、すぐに助けに来た次第だった。
「やってくれるね。人の顔にボトルを投げちゃ危ないだろう?怪我でもしたらどうするんだ」
デスペナルティが速度を上げた。そのまま空に再び並ぼうとする。
「空は走れ。アタイが可能な限り食い止める」
気持ち悪いだ何だと言っている場合ではない。実際、さっき投げたボトルも決して安いものではないが、惜しいとか言っている場合でもない。
最悪の場合、衝突も辞さない。そんな覚悟を持ちつつ、しかし積極的にぶつかることをしない。茜のできる精一杯だった。
「かっこいいね、茜ちゃん。でも、俺はそれを死亡フラグだと受け取っておくよ?」
「こんな分かりやすい死亡フラグを立てて死ぬ運命なら、きっと神様は小説家に向いてないぜ」
空がリードしたのを見計らって、茜も加速する。ふらふらと蛇行するのは、せめてもの対策だ。
(相手も自転車でぶつかってきている。一歩間違えば吹き飛ぶのはお互い様だ。なら、こうして狙いが定まらないようにすればいい。これなら昨日みたいに、アタイの変速機は狙えないはずだ)
その茜の予想はおおむね正しかった。
(なるほど。狙いを定めさせない気か……いいね。面白いよ)
32本組のステンレス製スポークも、頑丈なアルミ製フレームも、そう簡単に壊れることはない。茜の車体は見た目に反して、正当なオフロードマシンだ。
対するデスペナルティの車体は、そもそも各部に不安を残すルックバイク。当て方ひとつで損傷する可能性が上がる。普通にぶつかったら壊れるのはデスペナルティの方だ。
(だったら、速度を上げて横に並ぼうか。ハンドルにキック一撃で、沈めてあげるよ)
左のフリクションレバーを大きく動かして、1速から3速にチェーンをかけ替える。ペダルが急激にずしりと重くなり、ひと漕ぎの距離が伸びる。その急激な落差を、デスペナルティは持ち前のトルクでカバーした。
力任せのトラクション。まるでピストバイクのような不条理な加速。
――ここで、トラブルが発生する。
ガガガガガガッ!ガシャン!
(しまった!チェーンが外れっ……)
気付いた時にはもう遅かった。フロントディレイラーが3速目のチェーンリングを飛び越え、さらに外側へとチェーンを誘導していく。もちろん、そんなところにチェーンのかかる場所などない。
最大トルクのかかっていたペダルが急に空回り。それはまるで、落とし穴にでも落とされるような感触だった。
落車する――
「ま、だ、だぁ!っくぅ――はははあ!」
寸前、ハンドルを無理矢理に起こして対処する。先ほど空が行ったのと同じテクニックを、まるでそっくり再現するように……
しかも余裕をもって体勢を立て直したデスペナルティは、再びフリクションレバーを稼働させる。スポーツバイクの場合、チェーンが外れても大概これで直せる。走りながら修理するのは、そう珍しいことではない。
(とはいえ、巻き込み防止のギアカバーが鬱陶しいな。外しておけばよかった)
ズボンのすそを汚さないために配慮されたプラスチック製のカバーが、今はチェーンを戻す際の障害として立ちふさがる。何度も不規則にクランクを動かしながら、ようやくチェーンをはめなおす。
(ディレイラーの調子が狂ったか。あとで調整しておかないとな)
ターニー自体が作りの荒いせいか、あるいは度重なる衝突の弊害か、いずれにしてもうまくいかないものである。
「今だ。走れ空」
「うん」
茜が加速する。ここで突き放す以外に逃げ道は無い。
「くぅ、はははっ――完全に逃げられたか。やらかしたなぁ」
デスペナルティは首を振って、顔に手を当てる。そして、仮面が外れかけていることに気づいた。
(おっと、さっき転びかけた時かな?)
仮面をつけなおして、さらに走る。もうゴールとなるホテルは目前。追いつけないことは承知で。
「ああ、フィニス……お前は気にしなくていいんだよ。お前が悪いわけじゃない。むしろお前の点検を怠った俺が悪いんだ。ごめんな、フィニス」
自転車に話しかけながら、走り続ける。
「ゴールだ。アタイらの勝ちだ」
ミス・リードに教えられたビジネスホテルの駐車場に滑り込む。何とか無事にたどり着いた。
「大丈夫か?空」
「……えっと」
茜の問いかけに、空はすぐには答えなかった。車体を一連の動作で点検。壊れている個所がないか確認する。
「うん。大丈夫みたい」
先ほどの戦闘だけでない。自然公園でオフロードを走ったり、そもそも雪の中を無理矢理進めたり、今日一日でいろんなことがあった。
「エスケープ。無事でよかった……」
空の口から出たのは、愛車を深く心配していたからこその、シンプルな言葉だった。
「……そうだな。アタイも少し無茶をさせたかもな」
茜も適当な手つきで車体を点検する。本当ならもう少ししっかりメンテナンスなりオーバーホールなり出来ればよかったのだが、設備、知識ともに足りていないのが現状だ。それでも、愛情と真心だけは込めて、愛車に触れる。
「ありがとう、クロスファイア」
家でいつもしていたように、ハンドルバーにキスをする。いつものキスは、家族に自転車愛をアピールするためのもの。
今回のキスは、なぜか心の底からしたくなったもの。
そんな茜の様子を、空は――
(うわぁ……)
若干引き気味に見ていた。自分の事を棚上げするようだが、変人が多い業界である。
「くぅはははっ、安心しろよ。お前らの車体は壊れてない。壊し屋が言うんだ。間違いないぜ」
ようやく追いついてきたらしいデスペナルティが、道路から声をかけてくる。
「勝負はついただろう。ホテルに着いたらゴール。今日は終わりのはずだ」
茜が言うと、デスペナルティも頷いた。
「ああ、終わりだよ。俺はただ、これを返しておこうと思っただけさ」
そう言って茜に投げつけたのは、キャメルバックのボトルだった。顔面にまっすぐ飛んできたそれを、茜は手ではじく。キャッチすることは出来なかった。寒さで指先に力が入らない。
「まあ、俺の用事はそれだけさ。じゃあな」
ゆっくりと走り出したデスペナルティは、そのままレースに復帰していく。
「二度と会いたくないな」
「うん」
互いの顔を見合わせながら、空と茜は強く願った。
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