チャリンコマンズ・チャンピオンシップ
古城ろっく@感想大感謝祭!!
第1話 初めてのクロスバイク
初めて自転車に乗った時のことは覚えていない。小さい頃だったと思うが、補助輪付きの自転車を買ってもらった記憶があるのみだ。
初めてスポーツ車に乗ったことなら、よく覚えている。あれは中学生のころ、夏休みに従兄の家に遊びに行った時だった。
中学生最後の夏休みを、
猛暑が続く中、ここも避暑地としては全く役に立たない。扇風機を最大で回していた空は、
「あ~~~~~~~」
定番の遊びをしていた。空の家にはクーラーがあっても扇風機は無いので、これは親戚の家に一人でいるときしか出来ない。逆に親戚の家には、扇風機はあってもクーラーがないのだ。圧倒的に前者の方が良い。
声は風にかき乱されて、不思議な反響を再現していく。トレモロを細かくかけたような、そこにリバーブを追加したような声。
「わ~れ~わ~れ~は~~ち~きゅ~う~じ~ん~だ~」
「だろうな」
「きゃあっ!」
後ろから突然話しかけられた空は、驚いて扇風機に抱き着く。
「おいおい。お前、ビビりすぎだぞ。つーか、男のくせに『きゃあっ』は無いだろ」
「ご、ごめん。誰もいないと思ってたから」
後ろにいたのは、従兄の
「空。ちょっとお前にプレゼントがあるんだ。来てもらっていいか?」
「プレゼント?」
座布団に座ったまま、ポケーっとして言う空を、隼人は見下ろした。
扇風機の風になびく、肩で切りそろえた長い髪。ハーフパンツから伸びる、すね毛も生えてない細い脚。丸くて大きな目に、柔らかそうな頬。同年代の男子と比べて、若干小さい背丈。
空という少年は、黙っていれば女子と間違われるほどの紅顔の美少年だった。今も無意識にであろうが、ぺたん座りをしている。男でそれができるのは少々珍しいはずなのだがな。
「お前って、本当に母親似だよな」
「え?あ、うん。ありがとう?」
暗に父親に似なくてよかったと言う空に、隼人は苦笑いを浮かべた。
「ほら、立てよ空。お前へのプレゼントは外にあるんだ。つーか、家の中に入らないんだ。さあ」
「え?あ、うん。待って」
空が立ち上がったのを確認して、隼人は玄関へ歩き出した。
「ほら、この自転車、お前にやるよ」
「え?いいの?」
それはタイヤの細いマウンテンバイクのような、独特の車体だった。沢山の歯車がついた変速ギアは、自転車に詳しくない人にも高級車であることが解る。
「それがさ。俺は今日からロードレーサーに乗るから、もうその車体はいらないんだ」
「ロードレーサー?」
「ああ、テレビとかで見たことないか?ハンドルが下に向いているタイプの、こういう……」
「あ、競輪自転車?」
「いや、
どうやらクロスバイクという種類らしい。ハンドルはまっすぐで、水色のカラーリングは青空を切り取ったように綺麗だった。
今までシティサイクル――いわゆるママチャリしか乗ったことのない空にとって、この車体はいつまで眺めていても飽きないくらい芸術的に見えた。
堂々とした存在感と裏腹に、走るための装備以外を一切つけていないシンプルさ、軽快さを併せ持つ。高級であることは素人が見ても解るのに、その近寄りがたさは感じず、むしろとっつきやすい雰囲気すらあった。
自然と、空はサドルに跨る。意外と高いフレームを傷つけないように、慎重に。
「本来なら、そのくらい高いトップチューブを持つ車体だと、チューブを跨ぐより後輪を跨いだほうがいいんだが……まあ、好きなように乗ってくれていいや。変速ギアの使い方とかは解らないよな?説明するから聞いててくれ」
トリガーシフターの使い方、サイクルコンピュータの見方、スタンドがない車体の駐輪の仕方、ペダルに裏と表があるという話、メンテナンスの簡単なやり方と、おすすめのグリースの種類。
自転車をくれた従兄はとても丁寧に教えてくれた。空も、それをスポンジのように吸収していく。
「覚えるのが早いな。空って勉強できたっけ?」
「僕?……うーん。普通だと思うけど?」
「じゃあ、俺の教え方が上手いのか」
「うん。お兄ちゃんが教え上手なんだね」
屈託ない笑顔を見せる空に、お兄ちゃんと呼ばれた従兄は少し照れくさくなった。
「お前なぁ……もう中学も今年度で卒業だろう。従兄である俺を、お兄ちゃん呼ばわりはやめろ」
「でも、小さい頃からお兄ちゃんって呼んでたし、僕には兄弟いないから、やっぱりお兄ちゃんでいいかな?」
「……まさかとは思うけど、俺の名前を覚えてないわけじゃないよな?」
「え?覚えてるよ。お兄ちゃんでしょ?」
そう言われて、隼人は嘆息する。
「……もういいや。とりあえず俺は暑いから部屋に戻るけど、お前はどうする?」
そう訊かれて、空は少し悩んだ。答えはすぐに出る。
「僕、この自転車でちょっと走ってきていいかな?すぐに帰ってくるから」
「おお、それはいいな。走らせてみると、その楽しさがぐんと伝わると思うぞ」
「うん。行ってきます」
「行ってらっしゃい。事故とか起こすなよ」
空が道路に向かって走っていく。小さな庭を越えて、垣根の蔭へ、あっという間にいなくなってしまった空を、隼人は見送った。
「しかし、あの車体は結構ハンドルを低くしているはずなんだが、空のやつ、初めてのくせによく乗れるよな」
サドルよりハンドルの高さが低い場合、ライダーは大きく前傾姿勢をとることになる。普通は怖くて走れなかったり、バランスのとり方が分からず転んだり、曲がるときに腕に力が入りすぎたりするのだが、
「まあ、あいつは俺の従弟なんだし、才能があるのも当然かもな。あっはっは」
楽観的な彼は、根拠も何もない一言で片づけて笑い飛ばした。
(軽い……)
空がクロスバイクに乗って、最初に思ったのは、とにかく軽いということ。スポーツ向けのコンポーネントは摩擦を生まず、スリックタイヤは素直に回ってくれる。アルミフレーム自体が軽いなんてことは言うまでもない。
前傾姿勢の為か、まるで背中に羽を生やして飛んでいるようだった。いつものシティサイクルなら、下り坂でももっと重く感じただろう。たとえ両足スタンドを立てて空転させるだけであっても、こんなにペダルを軽く感じたことはない。
音は、とても静かだった。チェーンがガチャガチャ鳴ることも、ハブがチキチキ唸ることも、ブレーキがキーキー叫ぶこともない。ただ、風の音だけが耳を通り過ぎていく。遠くには車のエンジン音も聞こえた。車の姿は見えない。
(すごい。どこまでもいけそうなくらいに、すごい)
周りは田んぼばかりで、人通りはない。道は見通しのいい一直線で、きちんと舗装されていた。
(いいよね?少しだけ……)
本気を出してみよう。と決意した空は、ペダルを力の限り漕ぐ。ケイデンス(ペダルの回転数)は一気に上がり、サイコンにはSPD 40km/hと表示された。
(これって……時速40キロって事?でも、まだ……)
まだ、変速ギアは真ん中くらいになっているはずだった。少し恐る恐る、右側の奥のレバーを親指で押す。人差し指で操作するタイプのものあるそうだが、この車体は親指のみで操作するものだと教わった。
カシャンと軽く音を立てて、変速ギアが切り替わる。4速から5速へ、それはほとんど何の手ごたえもないままに変わった。
そのまま6速、7速、8速……と、最高段数である8速まで切り替える。風が強くなり、空の体を押し返そうとするのが感じられる。
(もっと……もっと!)
左側の手前のレバーを、空は強く押した。ややこしいことに右と左でギアのシフトアップ、ダウンが逆になっているらしく、右側は奥のレバーでシフトアップ、左側は手前のレバーでシフトアップ。
車体に取り付けられた変速ギアは、後輪側にあるリアシフトだけではない。ペダル付近にもう一つ、3段変速のフロントシフトが取り付けられていた。
(――っ重い!?)
急にペダルへの負担が増した。空はとっさに……そう、さっき教えてもらったばかりとは思えないほどとっさに、リアの変速ギアを下げる。右手前のレバーを大きく押して2速戻すと、さらにもう一回軽く押して1速。都合3速下がったことになる。
フロントが3段あるうちの最も重いギア。つまり最も外側のギア。
リアが8段あるうちの5段目。
それを組み合わせる段数のことを、アウター5と呼んだりする。
勢いが再びついてきて、ペダルの負担が軽くなった。空はもう一度、リアの変速を上げることにした。
アウター8……この車体についている前3段と後ろ8段、合わせて24段変速の最高段数。
通称、フルアウターと呼ばれる最速のギア比……
(うわぁあ――速い……速い!)
自分でも気づかないうちに、自転車は常識を超えた加速を実現していた。サイコンにはSPD 55km/hと……ここが私道でなければ警察にスピードの出し過ぎで声かけされるくらいの速度になっている。
と、調子に乗っていると、重大なことに気がつく。もうすでに、田んぼの直線路が終わろうとしていた。別な道と交わるため、右折か左折かを選ばなくてはならない。早急に……
(もう、こんなところまで来ていたんだ。でも、今のスピードで曲がれるのかな?)
不安は少々あったけど、曲がれなければ新しい自転車ごと田んぼに突っ込むことになる。アルミフレームのオンロード向け車両だから、強度はほとんどなく、ぶつけたり倒してしまうと損傷する。という話も聞いていた。
(曲がらなくちゃ――もしくは止まらなくちゃ)
イメージはアウト・イン・アウト。止まれるかどうか、ブレーキをかけてみる。後輪側のⅤブレーキからゆっくりと……しかしタイヤは滑り出し、コントロールを失いかけるだけだった。
前輪を軸にして滑った後輪を戻す。止まれないことは分かったので、今度はコーナリングのための減速を試みる。
(これだけ風が強いなら、体を使うだけでも押し戻してもらえるかな?)
そう思った空は、上体を起こして正面からの空力抵抗を受ける。一部のレーサーがエアブレーキと呼んでいる減速方法だった。
(ブレーキは減速するためだけに、軽く)
少しずつ、ブレーキレバーを握りこんでいく。もともとタイトに調整されていたVブレーキは、軽く指を曲げる程度の感覚で十分かかった。
(車体を大きく倒すと、摩擦に耐えられるかどうか……)
上半身だけを大きく内側に倒し、車体の角度以上に重心を中央に向ける。これはレーサーがスピードを可能な限り維持したまま曲がる、リーンインという曲がり方だ。誰に習ったわけでもないのに、空は直感でそれを実行した。
おそらく最適であろうラインをとって、車体は安定してコーナーを曲がる。ぎりぎりの駆け引きだったが、空にその自覚はなかった。ただ、自転車が未知の領域を見せてくれる。それが楽しかった。
まれに、あらゆる物理法則をイメージし、様々な状況を見極めるライダーがいる。天才というやつだろう。空は、まさしく天才だった。
「そういえば、空はどこに行ったんだ?」
お盆の時期ということで集まっていた親戚一同は、空がいないことに気づいた。
「ああ、あいつは自転車で出かけたきり、帰ってないな。そろそろ暗くなるから心配といえば心配だが……」
と、自転車を空に与えた当本人は気にする。もしかすると慣れない自転車のせいで何かあったのかもしれない。あの車体にはライトもついてないし、夜間を走行することなんか考えていないわけだが……
いよいよもって、買ったばかりのロードレーサーを使って探索しに行こうか……と隼人が思っていたところに、空が返ってきた。
「ただいまー。お兄ちゃん。楽しかったよ」
「おお、空。無事だったのか。いくら楽しいからって、2時間もぶっ続けで乗るやつがあるかよ」
といいつつ、初めてクロスバイクに乗った時の自分もそうだったかもしれない。と隼人は苦笑いする。この手の自転車には、ある種の中毒性が含まれていた。いつの間にか時間を忘れて、遠くまで行ってしまうのだ。
「それでね。お兄ちゃんにお土産があるんだ」
「お?なんだ?」
「えへへっ、これだよ」
それは、大好きな饅頭だった。
「おお、俺の大好物」
「だよね。見かけたから買ってきたんだ」
「ありがとう。それって市街地の店にしか売ってない饅頭じゃ……」
「ん?どうしたの?お兄ちゃん」
「いや、ああ――まさかな」
この短時間で市街地まで行って帰ってくる……不可能ではないだろうが、今日初めてこの自転車に乗った素人がやることだろうか?いや、普通はどんな自転車を持っても、隣町まで行けただけで大冒険になってしまうものだと思うが……
「なんにしても、せっかく空が買ってきてくれたんだしな。みんなで食べようぜ。母さん。お茶をくれ」
「えー?そのうち晩御飯よ?」
「そっちもちゃんと食うよ。空も腹減ったろう」
「あ、そう言われてみると……」
今まで意識していなかったが、急にお腹がすいてくる。空はお腹を押さえた。こんなに空腹になったのはいつぶりだろうか。
「まあ、そういうわけだし、食べようぜ」
「そうだね」
親戚一同が集まる席だけあって、既に大人たちは酒を飲んでいた。酒飲みに饅頭は不要だろうから、未成年の親戚同士で分け合う。もともとそんなに数もないから、たいして余らなかった。
「それにしても、前カゴもついていない自転車で、紙袋を持って帰るのは大変だったろう」
「うん。ちょっとね」
空はあまり多くを語らず、しかし満ち足りた表情をしていた。
「あ、そうだ。お兄ちゃん」
「ぶほっ――なんだいきなり?」
おとなしい空が急に耳元で喋ったので、危うくお茶を吹き出しそうになる。
「僕が今日もらった自転車だけど、名前ってあるの?」
自転車の名前――普通の人があまり考えないであろうことを、空は尋ねた。もっとも、空としてはペットのように、かわいい愛称があるかどうか訊いたのだが、
「メーカーはGIANTで、モデルは
従兄のお兄ちゃんは当然のように、車体名を答える。
「エスケープ?」
「ああ。逃げる。って意味だろうな。ちなみに同社のクロスバイクでSEEKって車両もあった。鬼ごっこでもやる気かね?」
「エスケープ……そっか。エスケープっていうのか」
空は納得すると、再び立ち上がる。
「ねえ。僕、もう一回エスケープと走ってくるよ」
「バカ。やめておけよ。もう辺りは暗いし、あの車体にはライトもついてないんだぞ」
「ライトってつけられないの?」
「そりゃあ、ショップに行けばいろいろ搭載できるけど、今日はもう遅いからやめておけって。ほら、みんなでスマブラやろうぜ」
「うん」
その後も空は心ここにあらずといった様子で、それでもなぜかスマブラは強かった。
なんにしても、この日から空にとっての冒険が始まったのだ。
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