第16話 新婚夫婦とタンデムバイク
いろいろあったビジネスホテルを後にして、空たちはアスファルトの感覚を楽しんでいた。
「雪の上も楽しかったけど、やっぱりオンロードが一番だね」
「アタイはもう二度と雪なんか踏みたくないな。山でも川でも泥沼でもいいから、雪だけは嫌だ」
軽い会話をしながら、これまた軽い漕ぎ心地でペダルを踏む。雪が解けたわけではなく、この辺はもともと雪が降っていなかったのだ。ほんの1時間ほど走っただけなのにがらりと景色が変わるのは、日本列島の面白いところかもしれない。
「朝早くっていうのも、出発時間としては正解だったかもな」
「うん。気持ちいいね」
まだ近くにデスペナルティがいるんじゃないかと警戒した茜たちは、ミスリードに彼の位置を聞き、鉢合わせしないように時間を早めて出発している。おかげで5:00起床の5:30発車になってしまったが、朝日を浴びながら静かな町を走るのも一興だ。
柔らかな光は、町の光景全てを一段淡く照らす。季節的に寒くはあるが、自転車に乗っていると体も温まってくる。
時間の経過とともに、雑踏が構成されていく。日差しの強さに比例して、町が色を取り戻す。それはとても幻想的で、楽しくもあり、少し名残惜しくもあった。
「それはそうと、トレイン組まなくて大丈夫?」
「ああ、大丈夫じゃないか?もう少ししたら朝飯にして、それからペースを上げようぜ。とにかく今は空気抵抗を気にしない程度に巡航しよう」
トレインとは、縦一列に並んで間隔を開けずに走ることで、空力抵抗を減らす工夫である。別名スリップストリームともいう。後ろにいる人は前の人を風よけに使えるため、体力を温存できる。
では前にいる人に恩恵はあるのかと言うと、意外とある。自転車が走った後の空間は真空状態となるため、乱気流が発生しやすい。当然、自分の近くで乱気流が発生すると、自転車がそちらに引き寄せられるのだ。
トレインなら後ろの人が乱気流を肩代わりするため、前の人の直後に乱気流が発生するのを避けることができる。最新の研究では、人数が多ければ多いほど乱気流を後方に置き去りにできると判明している。
いずれにしても20~25km/h程度の現状で効果を発揮するものではないし、今は気にしなくていいことだろう。もともと茜も空もトレインが得意なわけでもないので、ぶつからないように注意するのは精神的にも辛い。
しばらく横並びで走っていると、小さな公園が見えてくる。公園の向こうにはコンビニもあった。
(そういえば、公園を見かけたら休憩することを思い出せって、ユークリットさんが言ってたな)
空はブレーキをかける。茜もそれに気づいて止まった。
「どうした?」
「あ、うん。朝ごはん、そこのコンビニで調達して、公園で食べない?」
「ああ、なるほど。いいぜ。そうしよう」
どうせこの時間帯に開いている飲食店も少ないだろうし、コンビニも割と好きだから気にならない。そもそもこの辺で美味しい店とか特産品とか知らない。
「結局、次郎さんからもらったお金、使い放題になってるかもしれないね」
「まあ、その方がアイツも喜ぶんじゃないか。返そうにも返せなくなっちまったし」
あの後ミス・リードから聞いた話によると、次郎は病院に搬送。全治8週間の大怪我だそうだが、命に別状はないらしい。もっとも、愛車は大破したらしく、現在では新車を取り寄せているらしいが。
公園の一角、ベンチに並んで座る。だんだん通勤時間になるのだろうか。遠くには車の音も増えてきた。
チャリチャンコースの方から、誰かの声が聞こえてくる。
「おい、梨音。あれって……」
「うん。多分そうじゃないかな」
「挨拶してもいいか?」
「いいよ。っていうか、ハンドルを握っているのは良平君だよ?」
だんだん近づいてくる声が気になって、空はそちらに視線を向けた。
二人の選手が、手を振って近づいてくる。
一台の自転車が、ゆっくりと近づいてくる。
「なあ、空と、茜だよな」
「良平君。初対面で呼び捨ては失礼だよ。それに、こういう時ってあたしたちから名乗るべきじゃないの?」
「おっと、それは悪かったな。すまん。やり直させてくれ」
コホン、と咳払いをした男性は、自転車を完全停止させる。後ろに乗っていた女子が自転車を降り、それを確認した男性も自転車を降りる。
そして……
「輝く金の華!リョー・ミルヒシュトラーゼ」
「煌く銀の翼!リオン・ミー」
「「二人はタンデム!」」
かっこよくポーズを取りながら、高らかに大声で名乗り口上を述べた二人。
当然、空たちはポカンとするばかりである。
「ちょっ、良平君。滑ったじゃないか」
「そう言われてもな。やっぱり世代的に伝わりづらいところもあるんじゃないか?」
「そ、それを言われると……って、あたしたちの年齢がバレるから、その話はダメだよ。それにやり始めたのは良平君だよ」
「ああ、何の打ち合わせもなかったのに、よくやるよ」
「他人事みたいに言わないでよー」
何やら賑やかな二人である。
「いや、失礼した。僕が良平で、こっちのちまっこいのが梨音だ」
「よろしくね。空君と茜ちゃんの話は、よく実況で聞いてるよ。ファンなんだ」
梨音はそう言うと、気さくに握手を求めてくる。茜はそれを軽く手を振って拒否し、空は快く応じた。
「僕たちの話って、そんなに有名なんですか?」
空が訊くと、梨音はくるりと回って両手を広げた。
「それはもちろん、みんな知ってると思うよ。あのデスペナルティと2回も戦って一度も落車しなかった。不死身の中学生コンビって呼ばれているんだから」
「そうなのか?」
茜が驚く。正直自分たちがそんな風に呼ばれていたなんて知らなかった。まあ、空は知っているのだが。
「えっと、お二人はコンビで出場しているんですか?」
空が訊くと、良平と梨音は全く同タイミングで頷く。
「僕たちの自転車は、二人じゃないと動かせないからな」
「っていっても、あたしたちだって普段からこの自転車を使っているわけじゃないんだけどね」
「ぶっちゃけ、これって僕たちが住んでいるところじゃ使えなくてさ。なんつーか、道路交通法的に」
「だから、思い切ってチャリチャンで使おうって思ったんだ。そのために買ったと言えるくらいだよ」
交互に台詞を回し、言いたいことを共有する。
そんな二人の乗る自転車は、タンデムのロードバイク。つまり二人乗り自転車だった。
一台の車体に、二つのサドルと、二組のペダルが付いた自転車。まるで2台のロードバイクを繋げたかのような、とても長いフレームが特徴的である。もちろん車輪は二つしかついていない。
ハンドルは、前方にドロップハンドル。後方にはブルホーンがついているが、どうやら車体をコントロールするものではなく、ただ体を支えるためにある装備のようだ。前のシートポストにステムを取り付け、そこに後ろ用のハンドルを取り付ける形になっている。
「こんな車体が、日本にあるんですね」
「まあ、輸入すればあるさ。つっても、取り寄せるために海外に口座まで作ったけどな。アメリカのメーカーなんだよ」
良平が頭を掻く。梨音はその様子を見ながら付け加えた。
「えっと、この子はCannondale
誤解を受けることが多いが、実はタンデム自転車を禁止する法律は日本に存在しない。ただ、各自治体ごとの条例に違反するという場合はある。
現在では、各自治体がタンデムバイクの禁止をしている。とはいえ、じわじわと改善されているのも事実だ。
自転車ファンから、タンデムバイク解放区と呼ばれている場所。ようやく世間から偏見を解かれた場所と言えるのかもしれない。もちろん、道路に特殊な仕掛けが施されているとか、車線の幅が広いとかいうことはない。
「本来、2人乗りの自転車に2人で乗るのは認められて当然。咎められる筋合いはないんだけどね」
と、梨音が唇を尖らせて言い。
「まあ、5人乗りの自動車に5人乗るのと理屈は同じだからな」
良平がため息交じりに補足する。
「まあ、チャリチャンのコース内は道路交通法適応外だから、どう使ってもいいんだけどな。コースアウトの時だけ気を遣うぜ」
そう言った良平は、大きなタンデムバイクを公園のベンチに立てかけた。
ロードバイクに関する知識がある茜は、その車体を意外と親しみやすいと感じていた。
36本のスポークとブレーキディスクを搭載したホイール。700×28cのタイヤ。それは一部のクロスバイクによく見られる構成だった。使っているギアもshimano ULTEGRAを中心に、SRAMなどを組み合わせた18段変速。
ハンドルもステムも一般的な企画で間違いない。つまり、フレームとクランクセットを除いた全てが一般的なスポーツバイク規格だった。
「わりと普通の部品を使って構成されているんだな」
「そう。よく気付くじゃないか。まあ、そうしないとコスト的に高くつくからな」
茜の指摘を肯定した良平は、でも、と言いたげに梨音に視線を送った。梨音がそれに気づいて、
「乗り心地は普通じゃないよ。巡航速度、転がり抵抗、そして最大速度。全てが規格外だからね」
小さな胸をそらす。
その様子を見て、空は気になったことを口にした。
「お二人は、どういう関係なんですか?」
妙に仲がいいが、繋がりが見えてこない。
ほどなくして、その答えは梨音の口から、少し恥ずかしそうに語られた。
「えっと、夫婦だよ」
「「夫婦!?」」
茜と空が驚く。目の前の梨音という少女は、中学生くらいにしか見えないのだ。
(正直、アタイらと同年代だと言われても違和感ないぞ。まあ、中学生四天王の中に名前が挙がっていなかったから、最低でも高校生以上だとは思っていたが……)
ミスり速報から得た情報によれば、中学生の参加者は4人。茜、空、そして鹿番長と、まだ見ぬ天仰寺樹利亜なる人物だけだ。
「ち、ちなみに年齢とかって、訊いてもいいか?」
茜が恐る恐る訊くと、梨音は保険証を提示して言い放った。
「25歳」
「マジか!うわぁマジだ!」
「うー。みんな大体同じ反応するし、言っても信じてくれないから身分証を見せる癖が付いちゃったじゃないか」
「はははっ、こいつ、コンビニで酒買うときなんか100%身分証を見せろって言われるんだよ。結局僕が買いに行かされるのが習慣になっちゃってさ」
「ち、ちなみに良平さんは?」
「ん?僕は26歳だよ。見た目通りだろう」
「確かに」
おかげで親戚か年の離れた兄妹。あるいは……とか色々考えてしまった。どれもハズレだったことになる。
「ちなみに、どんな出会いだったんですか?」
空が楽しそうに聞く。茜はそれを意外に思った。てっきり恋愛だの結婚だのに興味ゼロだと思っていたからだ。
「僕たちの出会いか。忘れられないぜ。僕が高校生のころ。もう9年も前だ」
「あたしは、転校したばかりで土地勘がなくてさ。転校初日に食パンを咥えながら走ってたんだ」
「僕は自転車を置いて、徒歩で学校に向かっていたんだ。あの日は雪が積もっていたな」
「あたしはアイスバーンで滑って、曲がり角で良平君とぶつかったんだよ」
つまり、食パン加えた転校生の少女とぶつかるイベント。ギャルゲーの定番……
「MTBでね」
ではなかったようだ。
「だ、大丈夫だったんですか?良平さん」
「ああ、僕は大丈夫だったよ。梨音のディレイラーハンガーが折れたくらいだな。自業自得だ」
「うぐぅ……本当の事だけど、そこまで語らなくていいじゃないか」
「しかも、1回じゃ済まなかったんだよ。一年で僕にぶつかった回数は10回だぞ。信じられるか?」
「そ、そんなにぶつかってないよ。せいぜい2回くらい……」
「な、なんか、苦労してんだな。良平さん」
「解ってくれるか。だからタンデムでも僕がキャプテンなんだ。梨音に任せたら何が起こるか分からないからな」
「酷いよ。たまにはストーカー代わってくれてもいいじゃないか。あたしもキャプテンやりたい」
良平言うこと一つ一つに、梨音が丁寧に反論する。その口調は優しく柔らかく、本気で嫌がっているわけでないのは分かる。
「ところで、キャプテンとか、ストーカーとかって?」
空が疑問を投げかける。聞いたこともない用語だ。それもそのはずで、タンデム限定の呼び方である。
「前に乗る人をキャプテン、またはパイロットと呼ぶんだ。ハンドル操作やギアの変速、その他操作を一手に引き受ける立場だな。基本的には僕がやってる」
「そして、後ろに乗る人をストーカー、またはコ・パイロットっていうんだよ。ちなみにストーカーっていうのは付きまとう人って意味じゃなくて、石炭士って意味。蒸気機関車で石炭をくべる人の事だね」
「ちなみに梨音の仕事は、事故を起こさないよう、大人しく座っていることだ。できるかな?」
「はーい……って、それはあんまりだよ。馬力を上げるためにペダリングしたり、ミスり速報を聞いたり、周辺情報を集めたりしてるじゃないか」
よく見ると、梨音が使っているブルホーンハンドルには、様々な機器がついていた。
ステムのすぐ横には、スマホ用ホルダーが2台も付けられている。2台のスマートフォンは片方がミスり速報を映し出し、もう片方が周辺マップを映す役割になっているらしい。
端にはベルと、サイコンが取り付けられている。詳細を映す大型のサイコン、パイオニア SGX-CA500は、心拍数や回転効率、勾配や標高、気圧や気温まで計測する高性能機だ。
ちなみに、良平のドロップハンドルはシンプルなものである。Shimano DIGI-5IVE搭載。以上。
「へぇ。まあ、役割分担とかあるんだな。てっきり仲良くシェアするだけのユニーク自転車だと思ってた」
「茜。それは酷いよ」
空が笑って言う。世間一般においては、この手の車両は遊園地などで活躍するヘンテコ自転車の印象が強いだろう。茜や空にしても、Cannondaleのロゴが無かったら侮っていたところだ。
「ほう。僕たちの自転車が玩具だと?解ってないな。空も茜も全然解ってない」
「ねぇ。あたしたちの怖さを教えてあげようか?特別サービス、だよ?」
良平と梨音の目の色が変わった。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。どんなに優しい人でも、必ずどこかに怒るツボがあるという。
静かな闘志を隠して、笑顔の中に苛立ちを隠す良平。そして寂しそうな表情を隠すことなく見せる梨音。
「あ、いや、僕たち、そんなつもりじゃなくて……」
と、弁解しようとする空だったが、茜が遮った。
「面白いな。どんな風に怖がらせてくれるんだ?」
「ええっ?まさかの挑発を上乗せするの?」
「空は黙ってろよ。アタイに言わせりゃ、ここから楽しい勝負に持ち込む展開だ」
好戦的な性格ゆえ、どうしてもこの展開を逃したくないらしい。丁度食事も終わったところで、そろそろ走り出す予定だったのもある。
「そうだな。じゃあ、勝負しようか。茜が望む通りにな」
良平はスマートフォンを取り出すと、ミスり速報を起動した。その時に気付いたのだが、どうやら梨音が使っている2台のスマホのうち片方は良平のものだったらしい。
後部座席にいる梨音なら、着信履歴やメールフォルダ、その他の情報も見放題じゃないか。よほど良平がやましいことのない一途な性格なのか、それとも梨音が浮気に寛容な姿勢を持っているのか。
「ミス・リード。この先100km前後で、何か休憩できるところはないか?目立つところがいい」
『おおっと、エントリーナンバー703 リョー&リオンのリョーさんですねぇ。えっと……その周辺って、じつは集落すら少ない山の中になっていくんですよねぇ……』
「マジか?えっと、RPGで言うところのフィールドマップ的な?」
『ああ、その例えが私たち世代には分かりやすいですねぇ。あ、ヤバイ。歳がバレる』
「ミス・リード20代なのか」
『わ、忘れてください。えっと……ああ、100kmなら、日本海が見えてくるはずですよぉ。休憩するなら……近くに食堂がありますねぇ。そこならゆっくり休憩できるんじゃないでしょうかぁ?』
「ここからの距離と到達予想時間なんか計算できるか?」
『距離は103kmですねぇ。山間でアップダウンが激しいので、ライダーによっては予想以上に時間がかかるかもしれませんよぉ?』
「そうか。ありがとう」
良平はそれだけ確認すると、凸電を切ろうとした。
『それはそうと、リョーさん。昨日はリオンさんとラブホテルにご宿泊でしたねぇ。どうでしたか?っていうか、何をしましたか?詳しく……あ、切られた。え?つまりそれが答えですか。コメントできないほどの放送禁止プレイだったんですかぁ?』
電話を切られてなお食い下がるミス・リードの執念が意味不明である。真面目にレース実況だけしていればいいのに。
「この実況者、いつも無駄に卑猥だよな」
良平の言葉に、その場にいた全員が頷いた。
「よし、じゃあ勝負内容決定だな。その海の見える食堂まで、先に着いた方が勝ちだ」
茜が高らかに宣言して、シクロクロスに跨る。着ていたダウンジャケットは脱いだ。戦闘モードだ。
「結局、勝負になるんだね。でも海ってちょっと見てみたいかも」
そこそこ乗り気で、空もクロスバイクのスタンドを蹴り上げる。
「ちなみに、負けたチームが勝ったチームに昼飯奢りだ」
良平がタンデムバイクを起こして、前方のサドルに座る。
「良平君。大人げないよ」
梨音が後ろのサドルに跨った。ちなみに、この瞬間だけ良平は車体を傾けて、梨音が跨りやすいように配慮している。
「さて、それじゃレディ――」
梨音が可能な限りの大声で叫ぶ。それでも聞き取りづらい気がするのは、少し息が漏れ気味だからだろう。喉の使い方が肺活量に追いついていない。
「ゴー!」
何はともあれ、全員がそれぞれ、自転車に跨って走り出す。良平と梨音は息ピッタリに、SPD-SLのクリートをはめ込む。
そして、あり得ない程の急加速を生み出した。
「嘘だろ?何だあの違和感ある加速は……」
茜が目を見開く。空はその理由に少し思い当たるところがあった。
「変速ギアだよ」
「あ?どういうことだ?」
「僕らはどうしても、軽いギアから漕ぎ出すでしょ?それは初速を得る前に重いギアを踏むのが、パワー的に難しいからなんだ。でも、あのタンデムなら二人分の体重をかけられる。ペダルが重い状態からスタートできるんだよ」
「納得だ。まさか空に解説されるとはな」
茜は簡単に納得したが、言うよりも難しい技術が必要になる。何しろお互いの漕ぎ出しタイミングが同じでなければ成立しない技だし、力加減を間違うと落車の危険まである。
パートナーと同じ自転車に乗るということは、パートナーがどれだけの力をペダルに加えるかを計算してバランスを調整する必要があるということだ。高校のころから8年間も付き合ってきた二人ならばこそ、可能にする技術と言えた。
(もともと、あたしが回転型で、良平君がトルク型。合わせるのは大変なんだけどね)
良平にとって標準より少し軽いギアが、梨音にとって少し重いギアである。ある意味分かりやすい基準である。
ただ、疲労度に違いが生じることはある。そんなときに梨音は、ハンドルの右端についたベルを鳴らす。
キィィィンと、甲高く伸びやかな音。
(ああ、重かったか……)
その合図を受け取った良平が、ギアを2段下げた。速度は維持したまま、ケイデンスだけが上がる。
変速ギアの切り替えを使えない梨音が、良平にギアを切り替えてもらうための合図。それがこのベルだった。
もちろん、こんな方法でタンデムを走らせるのはこの二人くらいなものだろうし、道路交通法でも無暗なベルの使用は禁止されている。チャリチャンだからやることだ。皆様はマネしてはいけない。
平地での巡航速度は、およそ40km/h前後。常にトレインを組んでいるような状態の二人にとって、空力抵抗は半分程度だ。
まさにロードバイクの理想形。プロの選手でも追い続けている夢。たどり着けない幻想。それを実現するのが、このロードタンデムという車体だった。
(余裕、だね)
(いや、そうでもない)
良平は振り返らず、ハンドルの端に取り付けられたミラーで後ろを確認する。左のミラーは梨音の顔を見るためのもの。今日も梨音は可愛い。風で乱れた髪を気にせず、目を輝かせる彼女。良平の原動力である。
そして、右側のミラーは安全確認用。そこに移っているのは、トレインを組んで追いつこうとする茜と空だった。
「その程度の逃げで、アタイに勝てるつもりかよ」
茜が少しずつ、着実に加速していく。その後ろに付いて回る空は、案外楽しそうだった。
(これ、凄い……空気の抵抗がないだけで、こんなに走りやすいなんて……)
今まで茜と並行に走っていた空にとって、トレインというのは驚きの技術だった。少なくとも、変速ギアを一段多めに上げても問題ない。
大事なのは、追突しないこと。集中してみるべきはコースの大まかな形と、何より茜の後輪だった。路面が埃っぽいため、巻き上げられる砂が少し気になる。
一方、茜も考えるところがある。
(空のクロスバイクは、段差一つで大きな危険を伴う。なるべく石ころすら踏まないライン取りを、それも余裕もってやらないとな)
自分の事ばかりを考えては、トレインは成り立たない。恐らく視界を茜の自転車に阻まれている空は、路面状況を確認する余裕もないだろう。そこは茜が注意して動く。
とはいえ、急激にラインを変えるのも良くない。今まで空気の抵抗にさらされていなかった空が、急に風に押されたら大減速は当然、場合によっては落車もあり得る。
出会って半年足らず、一緒にレースに出て数日程度の関係だが、空は茜を全面的に信頼しているし、茜も空の能力を高く評価している。少なくとも自転車の腕前だけで言えば。
やがて、下り坂に差し掛かる。坂と言っても、せいぜいが100mくらいの短い距離で、その後に続くのは同じくらいの長さの登り。
(このまま追い上げるぞ)
(茜の事だから、ここが勝負どころになるのかな)
お互いに、言葉を一切かわさずに納得しあう。
「だぁぁああ!」
茜が速度を上げた。その瞬間に、空に風が当たる。この地形では空より茜の方が有利だ。トレインを崩壊させて、空を置いてけぼりにしてでも戦うつもりである。
(やっぱり長い車体は抜きにくいか……でも、それはユークリットさん相手に学習済みなんだよ)
作戦はいたってシンプル。相手に幅寄せされる前に、一瞬で追い越す。それ以外に何もないし、何も必要ない。
一瞬にして上がったギアとケイデンスは、しかし次の登りでは元の重さに一気に戻っている。リア3速上げて下り、フロント1速下げて登る。茜の鍛えられた勘と正確なハンドリングに、Tiagraの変速ギアがきちんと追従する。
一瞬で抜いて、駆け上がる茜。それを良平たちが追う形になってしまった。
(うーん。この手のギア変速は、タンデムの辛いところかな)
(良平君。またあたしの事ばかり心配している)
急にギアが変わると、梨音の脚に負担をかけることになる。だからこそ、良平は変速の回数を減らしているのだ。もちろん梨音は、そんな良平の手元をつぶさに観察している。いつでも変速していい準備が整っている。
(次の平地で勝負をかけるぜ。梨音)
(いいよ。良平君)
先ほどのような短いアップダウンをもう1セット。合計すると登りの方が少し多かったという感想のセクションを抜けて、平地。良平と梨音が同じタイミングで腰を浮かせる。ダンシングによるアタックをかけるつもりだ。
そこに、右へのヘアピンカーブが迫る。
「しまった」
「うわぁっ」
急勾配な登りは、視界を狭く見通しを効かなくする。茜は後ろから抜きにかかられるのもお構いなしにアウト・イン・アウトで抜ける。良平たちも右ペダルを上げて、同じラインを取ろうとする。
長いホイールベースは、内輪差を大きくする。車体の全長こそトレーラーより短いタンデムは、しかし内輪差で言えばトレーラーを越える。
そこに、空が恐れずに突っ込んだ。
(嘘だろ。この状況で左から)
(あたしたちを抜くの?無謀だよ)
あっけにとられた良平たちの横を、アウトコースから一瞬ですり抜ける。どうしても膨らむ良平たちの都合などお構いなしだ。
見事な体重移動で、道の横にある側溝のふたを踏んで、路側帯に逃げる空。ガタタタンッ!と細かく側溝蓋が揺れる。
この技術は見ている人が思う以上に難しい。なにしろ1cm未満の段差とはいえ、直線的な段差にほぼ並行の角度で進入するのだ。体重を車体に預けたままにすると、タイヤが段差に引っかかって転ぶ。それを……
(前輪が乗り上げる際に車体を引き上げて)
(後輪が乗り上げる瞬間に、自分の身体を飛ばしたんだね)
もちろん難しいとはいえ、練習すれば誰でもできることではある。良平と梨音だって、個人でやるならマネできる技だが。
(タンデムであれをするのは無理だな)
(こういう身軽さでは、一人乗りが有利だよね)
一転して空たちを追う形になった良平たちは、それでも落ち着いた走りを続ける。焦りは禁物。お互いの息を合わせることに集中。
「そういえば、空たちは初日のスタート直後に、妨害作戦をしていたよな」
「あたしたちはスタートから大幅に出遅れたから見てないけど、今日はやらないの?」
良平が思い出し、梨音が疑問を投げる。茜は手首を軽く振って答えた。
「やらねぇよ。つーか、アタイらだって好みの戦術じゃない。あの時は子乗せを勝たせることしか考えてなかったからな」
「そう。それは」
「よかったよ」
長い登り坂に差し掛かった時、良平たちは加速した。二人分の馬力があるからできるとか、そういうことではない。単純な体力の問題だった。
梨音のケイデンスに合わせてギアを軽くし、ケイデンスを上げていく。そのギア比は中間。山登りで回転型が使うにしては重いが、そこは良平がカバーする。
(しまった。こいつら、クライマーか)
登り坂に特化するため、持久力を跳ね上げた選手をロードレース業界でそう呼ぶ。しかし梨音をクライマーと呼ぶのは間違いだ。
(梨音がスプリンターで、僕がクライマー。速度を上げるのは梨音の役目さ)
(そして、あたしが疲れたら良平君が速度を維持する。実は今のあたしはペダルに足を乗せているだけなんだよね)
梨音が大きく息を継ぐ。ゆっくりと、深く、大量に吸い込んで――
「っはぁああ――」
絶叫、などではない。ただ息を吐いただけ。その音が耳をつんざく爆発となって、周囲の空気を揺るがす。山が揺れたんじゃないかと錯覚するほどに。
小さな体に見合わない肺活量が、身体の底から大量の空気を放つ。それが細い喉と小さな口を通過して、声にならない声を放つのだ。その排気量は、そのまま馬力と回転数に換算される。
良平は既に、足から力を抜いている。梨音のケイデンスは200近くまで上がり、瞬間的に40km/hを記録する。傾斜8%の激坂で、この速度だ。
あっけにとられた空を、そして必死に逃げる茜を、良平たちがごぼう抜きにしていく。ただでさえ1.5車身はあるタンデムが、2台の自転車を抜くのだ。
「っくはぁー。ぜぇっ、ひっ、っくはぁー。ぜぇっ、ひっ、っくはぁー」
梨音の口から、怪獣の寝息と少女の嗚咽を混ぜたような音が響く。その様子を見た茜が、良平に大声で言った。
「おい!後ろの梨音さん。過呼吸になってないか?」
「ぜぇっ、ひっ、っくはぁー。ぜぇっ、ひっ」
「ああ、大丈夫だよ。梨音はいつもこうなんだ。本気出した後に回復を早める、独自の呼吸法なんだってさ」
「で、でもアタイには、ちっとも大丈夫そうに見えないぞ」
「何かあったらケツを叩いてくれって言ってあるさ。それに、呼吸も落ち着いてきた。そうだろう?梨音」
「うん。良平君。ここでもう一回、いいかな?」
梨音が言う。良平が頷いたのを確認して、再び発動する必殺技。
圧倒的なケイデンスによる、爆発的加速。空たちを大きく突き放し、そのまま山の彼方へと姿を消そうという算段だ。
「あんまり遅いようなら、無理せずゆっくり来いよ。どうせゴールの食堂で落ち合って奢りだからな。待っててやるぞ」
高らかに宣言した良平たちは、そのまま彼方へ消えていく。
――かと思われた。
「まあ、アタイもそういう走りは嫌いじゃないんだけどな」
茜が、車体を大きく揺さぶる。変速ギアを中間ほどで固定したまま、ハンドルの端をもって引っ張りまわす。
堅牢なアルミフレームが軋み、ノーマルSPDのクリートが外れかける。独学で茜が身に着けた、危険度の高い走り方だ。ある意味では正統派なダンシングともいう。
「はぁー、っく、はぁー、っく、はぁー、っく、はぁー、っく」
梨音のそれに比べれは安定して大人しい呼吸音に、まったく同じテンポでタイヤが地面をひっかく音が混ざる。虎視眈々と、梨音の燃料切れを待つ走り方だ。
(おお、凄いクライミングだな)
もちろん、良平も譲らない。梨音の作った速度を維持するように、ギアを上げてトルクをかける。揺らすのは車体ではなく、自分自身。踊るようにゆらゆらと、まるで楽器でも弾いているかのような動きを見せる。
「うわぁ。みんな凄いなぁ」
はるか後方、空は暢気にそんなことを言った。
「僕らはゆっくり行こうね。エスケープ」
自転車に話しかけるという奇妙な癖を出しながら、決して遅くない速度で登る。勝負を諦めたわけではない。最初から勝負に期待をしていないだけだ。つまり、まだ勝てないほどの差が開いたわけではない。
茜と良平たちは、前輪を並べたまま坂を上りきる。ここからは下り坂だ。
「すげぇな。茜」
「あたしたちの負け。登りでは、ね」
良平と梨音が、自転車に乗ったまま頭を下げる。そのすぐ横を並走する茜は、二人の態度を降伏とは思わなかった。
(嘘だろう?もう1時間も地味に登り通しだぞ)
茜が戦慄する。体力なんて残っているはずがない。まして、下りでケイデンスを上げるだけの力など、どこにもないはずだ。
それなのに、良平たちはまだ力を隠し持っていた。
(やべぇ。おいていかれる)
茜は直感的そう思って、二人の後ろに入った。次の瞬間、梨音のハイケイデンスが、重いギア比で炸裂する。
ついていくのもやっとの速度。茜は必死でその後ろを追った。
良平たちは余裕の表情で速度を上げていく。二人分の体重を乗せた車体は、下り坂が長いほど加速する。今にも、70km/hを越えそうなほどの速度。既に良平も梨音もペダリングをしていない。身体を縮めているだけだ。
(まずいな。この状況が続くと、アタイも引き離される)
何とか良平たちを風よけに使って追従する茜だが、このまま追っていたらどちらが負けるかは見えてきた。
目の前にヘアピンカーブが迫る。この手の山道によくあることで、まっすぐ道を作れない勾配の場合、曲がりくねった道を作ることで緩和する。そんな工法らしい。
(梨音。悪いが速度を下げるぞ)
(うん。しょうがないね)
ロードタンデムの後輪が、わずかに滑り始める。ディスクブレーキの制動が慣性に押し負けた結果だ。それでも良平は見事なブレーキワークで立て直す。
後輪を少し開放して、代わりに前輪を断続的にブレーキ。前輪が滑り出せば同じことを繰り返し、コーナーでは両輪にブレーキを割り振るように減速。そのまま後輪を揺らしつつ、コーナーを抜ける。
梨音もその揺れに小さく体を添わせて対応する。重い車体を2輪で支えるというコンセプトは、長いホイールベースと相まって曲がりにくいのだ。それでも良平と梨音だから曲がれたと言えるだろう。
茜は、その隙を見逃さなかった。
スリップストリームから抜けると、上体を起こしてエアブレーキをかける。そのまま安定してコーナーを切り抜ける。膨らんだタンデムを、内側から抜きにかかった。
「危ないな。茜」
「ははっ、アタイにとっては当然の走りだぜ」
やっとコーナーを曲がった良平に、茜は笑って答えた。本当は心臓バクバクの緊張しっぱなしだが、精いっぱいの虚勢を張る。
「なら、また抜き返すだけだ」
「うん」
再び梨音が空気を吸う。そして、良平がギアを一段下げる。
「おいおい、またその技かよ!この下りで使うのか!?」
「ああ、せっかくだから、本気を見せてやるよ。まあ、僕もどうなるか分からないけどな」
キィン
ベルが鳴る。さらにギアを落とせという梨音からの合図だ。つまり、すでに加速準備が整ったということ。呼吸に全意識を集中する梨音には、すでに声を出して合図する余裕がない。
良平はさらにギアを一段落として待ち構えた。この技は良平にとっても負担になる。梨音とケイデンスを共有しているペダルのせいで、良平まで足を高速回転させられることになるのだ。例えるなら、固定ギアのピストでダウンヒルを走っているような感覚にさらされる。
そのうえ繊細なコントロールまで求められるのだ。そもそもこの加速を下りで試したことがない。良平にとっても梨音にとっても、決死の覚悟を持っての追い越しだ。
それを受ける茜も、背中にヒリヒリと殺気を感じて委縮する。下手なライン取りを行えば、接触は避けられない。かといってコースを譲ることは出来ない。止まることも難しい状況だ。
各々の覚悟をもって挑む、一瞬の攻防。それは――
「あ、やっぱ中止」
「えええ!?」
良平の一言でキャンセルが決定した。目の前の路面に、大きな石が落ちている。
「落石だ。踏むと車体が壊れるぞ」
落石注意の標識があったら、上より下に警戒した方がいい。真上から落石の直撃を受けるほどタイミングの悪い人はあまりいないだろうが、前日に落ちた石がほったらかされ、地面に段差を作ることはよくある。
ギリギリのハンドリングで、茜は落石をよけきる。シクロクロスの剛性に頼り切って踏み越えても良かった気がするが、もし石が転がってしまったら、車体まで滑ることになる。
良平たちは大幅に速度を落として避ける。地面には落石の余波である砂が散らかっていた。滑るタイヤを抑え込んで切り抜ける。
「大丈夫か?梨音」
「かはっ、こほっ、だ、だいじょう……ぼぅぇええ!」
「は、吐くなよ。間違っても僕の背中には吐くなよ」
「うん。うんぬぇっぷ。ごぇえぇえぇえ!」
野球でホームランを狙ったフルスイングほど、ボール球で止めるのが難しいから振ってしまうらしい。ボクシングで最も体力を消費するのは、必殺のパンチが空振りしたあと構えなおすときだと聞いたことがある。
今の梨音はまさにそれ。加速をキャンセルされて、行き場を失った呼吸が鼻に唾液を運ぶ。肺から送られるはずの空気が肺に戻り、内臓を動かす筋肉が痺れる。
「おい、梨音。本当にヤバいなら休むぞ」
「ううん。すぐ……治る。だから、今はお願い。良平君」
ペダルを託された良平は、梨音になるべく負担をかけないように走る。茜もこの様子を心配そうに見ていた。
勝負は続行する。ただ、ここでアタックをかけるのは心情的に良くない。自転車を走らせたまま、茜と良平は梨音の回復を待った。
空は、追いつくためにアタックを行っている最中だった。
(茜たち、どこまで行ったんだろう?)
高速で、木々が後ろに流れる。このまま景色が溶けてしまいそうだ。
(ミス・リードに聞けば教えてくれるよね。でも電話している間に引き離されそうだな)
地面が近い。落石をよけながら、その周囲の砂を蹴散らして走る。
(お昼ごはんは僕のおごりかな。あんまり待たせると失礼だよね)
砂が顔にかかるのもお構いなしに、空は加速を繰り返す。
局所的にケイデンスを上げて、加速したところでペダルを停止。足を休めながら速度を維持し続け、回復したところで再びケイデンスを上げる。つまり梨音が得意とした戦法を一人で再現していた。
しかも、低い姿勢を維持したまま。
ステムに鎖骨をつけるような高さで、上半身を水平に保つ。ペダリングをするときだけ腰を立たせ、フリーハブに頼る際は腰を寝かせる。頭もほぼ真下を向くようなアングルで、視線を限界まで上に向ける。
コーナーでは車体を倒す以上に、自分の身体を倒す。曲がりたい方向に膝を向けて、腰を横に滑らせるように動かす。まるでオートバイのように走る車体。それを華奢なフレームと細いタイヤで制御する。
実測は最大75km/hだが、体感的にはもっと速い。視線が低い分、恐怖も増す。視界が狭く、遠くを見渡せないこともデメリットだ。サイコンは見えない。ハンドルバーは自分の顎より後ろだ。
(これ、もしかして100km/h出てない?)
と、空が勘違いするのも無理はない。体感速度で言うならとっくに100など越えているだろう。
やがて、山道が終了を告げる。見えてくるのは民家一軒と、そこから続く田畑。
そして、茜と良平と梨音。
「ようやく、追いついた」
「ごめんね。良平君。それと、茜ちゃんもごめん」
梨音が謝った。それを茜は手を振って受け取らず、良平は頭を振って微笑み返す。
「梨音のせいじゃない。僕が指示を間違えただけだ。キャプテンなのにな。すまん」
梨音はすっかり回復したようで、今では時々ペダルを強く踏んでくる。その感覚は良平も共有している。
「さて、茜。もしよかったら、続きと行こうか」
「そうだね。あたしも復活したし、どうかな?茜ちゃん」
「当然だ。そもそもアタイは中止した覚えがねぇよ」
再び茜が加速する。それに追随するように――いや、抜き返す勢いで良平が追う。
そろそろ昼時を過ぎてしまったのが気がかりだ。勝手にゴールに設定した食堂。ランチタイムを過ぎてしまうんじゃないだろうか。
梨音もお腹がすいているのか、さっきまでと違う意味で切ない表情をしている。
(うーん。コンビニで買った駄菓子も尽きたし……うん?)
良平が手持ちの食糧を確認していると、サイドミラーに何かが映った気がした。咄嗟に振り返る。
「ちょっ、良平君、危ないよ」
「ああ、すまん。でもあれ……」
「え?」
梨音も後ろを振り返った。
「どうした?二人とも……」
茜も、梨音たちの様子が変なのを気にして振り返る。その後ろ。遠くから、見たことのある車体が走ってくる。
ロード以上に姿勢を低くしたまま、山を走るMTBより荒々しく、それでいて安定した速度のまま近づいてくる人物……
「後ろを見ろ」
良平が言った。
「あれはなんだ?」
梨音が、普段の口調ではない喋り方で言う。
「鳥か!」
「飛行機か!」
二人が楽しそうに叫ぶ中、茜は見たものを見たまま言う。
「いや、空だ」
すると、なぜか茜に対して良平が親指を立て、梨音がウインクをする。この二人としては大成功なのだろう。茜としては成功とか以前に、何がしたかったのか分からない。
「やっと追いついたよ。みんな」
空が言う。その声が、確かに聞こえる距離まで接近した。
「いいぞ。そのまま追い抜いていけ。空」
茜が言う。空は小さく頷くと、梨音の隣に並ぶ。
「しまった。良平君。加速するよ」
「解った」
梨音の必殺技を行うには、チャージ時間が足りない。ここはごく普通に加速して、再びリードを取り返そうとする。
しかし、もう遅い。
じわり、じわりと、空が追い上げていく。その秘訣は、単に体力的な問題だった。
気付けば5時間以上も走りどおしだ。いくら二人で走っているとはいえ、良平も梨音も疲れが見えるころである。なのに、元々の持久力がある空は、まだ走る力を残している。
(車体性能でいえば、クロスバイクはロングライドで速度を出せるものじゃないんだけどな)
(自転車の性能が、タイムの決定的差でないことを、教えられたね)
ついに、良平と梨音が空に抜かされた。
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