卒論テーマを相談してもイイですか?

 下吹越エリカは緊張している。


 目の前に居るのは気鋭の社会システム研究者の南雲仙太郎教授なのだ。

 頭の中に幾らエロラノベ作家、未恋川騎士のことが浮かび上がってこようとも、目の前に居るのは気鋭の社会システム研究者の南雲仙太郎教授なのだ。そして、今日は、その先生に卒論のテーマの相談に来たのである。


「えっとですね……、今日は、卒論のテーマの相談をしたくて、お時間を取っていただきました。……よろしくおねがいします」

 下吹越エリカはそういうと、テーブルの向こうの南雲教授に、ペコリと頭を下げた。


 そんな下吹越エリカの礼儀正しい行動に驚きながら、南雲は左手で制止した。

「いいよ、いいよ、そんなに畏まらなくても。ゼミ生が教員に卒論の相談をするなんて、当然のことだし、ゼミ生の当然の権利なんだから」

 ビックリするなぁ、もう、と南雲は笑いながら添えた。


「……そういうもんですか?」

「そういうもんだよ? まぁ、最近の学生は……っていうか、多分昔からだと思うけど、『卒業さえ出来ればいい』って学生も多いから、なかなか、個人的にアポイントメントを学生の方からとってくれて、こういう打ち合わせミーティングをするなんて機会も多くはないんだけどね」

 そう言って、南雲は組んだ両足の膝の上に、指を組んだ両手の平を置く。


 そういうものなのか、と下吹越エリカは思う。あまりそういうことをちゃんと教えられた記憶も無いので、よく分からないが、そういうものらしい。


「お邪魔でした? お忙しいようでしたけれど……」

「全然、大丈夫だよ。至急のメールはもう片付けたから。先生に質問とか、卒論の相談をしに来るのはゼミ生の当然の権利なんだから、全然気にしなくていいよ。むしろ、こっち側にとっても、それだけ前向きな学生がいるのは、むしろ嬉しいことなんだからさ」

 南雲教授のフランクな受け答えに、エリカはホッとすると共に、「むしろ嬉しいことなんだから」という言葉で随分と気持ちが軽くなりもした。そんな下吹越エリカの目をしっかりと捉えて、南雲仙太郎は問うのだった。


「……それで、下吹越さんは、どんな卒業研究がしたいの?」


 上叡大学総合人間科学部では、全ての学生が卒業前に卒業論文を書かないといけない。卒業論文を書くことがゴールとなる「卒業研究」が全員の必修科目になっているのだ。

 卒業論文は「論文」といってもプロの研究者が書く論文に比べると随分と簡素であったり、雑多であったりするものだ。ちなみに、プロの研究者が書く論文とは、査読されて一流の学術雑誌に掲載される論文や、国際的な学術会議で発表される論文を指す。研究者の論文と学生のレポートの中間当たりに位置するもの、それが卒業論文である。

 実験や演習系の科目のレポートでは、受講する学生全員がほとんど同じテーマに取り組む。これに対して、卒業研究における卒業論文のテーマは完全に学生毎に別々カスタムメイドだ。ひとり一人の学生が全く異なるテーマをそれぞれで決める、もしくは、教授や准教授といった指導教員によって設定される。


 学部四年生になると、単位が足りなくて進級出来ない学生を除いて、全ての学生がゼミに配属されて、ゼミの指導教員とともに卒業論文のテーマ決め、そして、調査や実験、執筆へと取り掛かるのだ。


 南雲教授に目を見て「どんな卒業研究がしたいの?」と言われて、下吹越エリカは戸惑った。困惑した。ここで聞かれているのは、もちろん「楽しい卒業研究」とか「先端的な卒業研究」とか、そいういう形容詞的な話ではない。そう、研究テーマの話だ。


「ええっと……。その……」

 下吹越エリカは、いつもの快活で、明朗な受け答えとは打って変わって、モジモジしてしまう。自分の興味のある研究テーマに関して、自分なりになんとなく調べて来たことはあった。しかし、それをどのように組み立てて、どのように説明すると、研究テーマの説明や提案として適当なのだろうか? やっぱり良く分からなかった。 


「まぁ、急にどんな卒業研究って言われても難しいか」

 頬を人差し指でポリポリと掻きながら南雲仙太郎は独り言ちた。

「すみません。……いろいろ、ある気はするんですが、あらためて『どんなテーマ?』って考えると言葉にしづらくて……」

 下吹越エリカは、かるく上目遣いに、正直に答えた。上目遣いなのは、別にポーズではない。単純に、なんだか、やっぱり自信が無いのだ。授業の勉強はしっかり押さえて、点数は取ってきたし、単位も取ってきたのだが、やっぱり、どうも卒業研究と言われると勝手が違う。

 未知なものを研究するなんていうフロンティアで、いきなり「テーマを設定しよう!」なんて言われても、海図の無い航海の中で目的地を申告せよと言われているようなものだ。

 そんなエリカに「あやまることは、全然ないから」と、南雲教授は手のひらをピラピラと振った。


「まー、そうだよねぇ~」

「先生は……、いえ……、先輩達はどうやって卒業研究のテーマって決めてこられたんですか?」

「それもまた人によるなぁ。学生のテーマだと、僕がエイヤで決める場合もあるし、時間をかけて相談しながら決める場合もある。なかには、自分で『コレで行きます!』って持ってくる猛者もいるけど、ごく少数だよね。そんな学生は特異的な例外だよ」


 下吹越エリカは、正直なところ、出来ればその「特異的な例外」のような存在になりたいと意気込んでいたところはあったが、自分はどうやらそういうタイプではないらしい。また、考え込みだしてしまった下吹越エリカだったが、そこで南雲教授はエリカにひとつ水を向けた。


「そもそも、下吹越さんは、どうして、僕のゼミを志望してくれたの?」


 下吹越エリカが視線をあげると、彼女をじっと見ている南雲教授と目が合った。

(どうして、南雲先生のゼミを選択したのか?)


 三年生の冬のゼミ配属シーズン。下吹越エリカは、いくつかのゼミを見学して、最終的に南雲ゼミを選んだ。その時には、南雲ゼミを選んだ理由があった。その理由につながる興味や、探究心、目的があった。


(そうだ、そこから辿ればいいんだ!)


 下吹越エリカの脳裏には、大学の講義室のイメージが浮かんでいた。彼女が二年生の時に履修していた、南雲教授の「社会システム概論」の授業風景だ。下吹越エリカが初めて「社会システム論」なる学問に出会った。

 目から鱗が落ちるような、そんな講義だった。

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