原稿読んじゃってイイですか?
「う~ん……。みやこちゃぁ~ん」
壁沿いのソファの上、南雲仙太郎教授は、あられもない姿で寝言を漏らしていた。
(せ……先生……っ?)
正直なところ「みやこちゃぁ~ん」という名前が気になる。奥さんの名前だろうか、娘さんの名前だろうか。いずれにせよ、何か幸せな夢を見られているに違いないと、下吹越エリカは思った。
寝返りを打つように先生の頭部が転がるまでは、余りに生気なく静止していたので、下吹越エリカは初めの内、教授の存在に気付かなかった。しかし、あらためて見ると、毛布を全身に被ってソファで横になる南雲教授の姿は、いつものジャケットを着てシュッとした立ち姿の南雲先生とは異なり、可愛らしくも見えた。
南雲仙太郎先生はまだ若い。そして、なかなかイケメンである。
若いと行っても、多分四十歳周辺、アラフォーといったところだろう。日本の大学では二十台で教授なんてあり得ないし、三十台で教授というのもほとんど聞かない。教授といえば、もう五十台か六十台のおじいさん、お父さんくらいの年齢だ。
その中で、南雲教授は群を抜いて若かった。また、見た目も若々しいし、それなりに背も高く、スタイルも良い。服装は飛び抜けてお洒落というわけではないが、スマートカジュアルのジャケット姿がいつも卒なく決まっていていた。
そんなだから、女子学生の中には少なからず南雲教授のファンも多いのだ。
もちろん、二十歳近く上で、妻子もいる教授のことを本気の恋愛対象とする女子学生の話は聞かなかったが、自分の彼氏の愚痴を言うときに「南雲先生が彼氏だったりしたら、こんなことないんだろうなぁ~」などと、冗談っぽく言う子はいた。
もしかしたら、実際に、下吹越エリカが知らないだけで南雲教授にアタックした子も居るかもしれない。大人には秘密の一つや、二つはあるものだ。自分が知っていることが、現実の全てだと思ってはいけない。ただ、もし居たとしても、きっと南雲先生はとりあったりしないだろうと思う。
下吹越エリカが見る南雲仙太郎教授は、そんな大人で、スマートで、格好の良い男性だった。だから、こうやって、無防備にソファに横になって寝入ってしまっている姿とその寝顔を見ると、なんだか可愛らしく思うとともに、どこか母性がくすぐられるような気がしてキュンとした。
(写真とっちゃおうかなぁ~)
と、悪戯ごころが頭をもたげてくる。この先生の姿をスマートフォンで撮って、インスタグラムにアップしたら、多分、彼女の友人達から大量のファボを集められることだろう。
そうは思ったものの、もしかしたら、先生は、そういうことに神経質かもしれないし、それが理由で変に怒られても嫌なので、下吹越エリカは控えておくことにした。
シェアはしなくても、こんな先生の姿を見れるのはレアだ。自分ひとりの
今日は特に予定も無かった。後ろに講義も、アルバイトも無い。あとは帰って、夕食を作るだけだ。もし、十五分か二十分ほど待って、先生が起きなければ、さすがに起こそうとは思うが、しばらくは、このレアな時間を静かに過ごしてみるのもいいだろう。
下吹越エリカは四人掛けテーブルの椅子の一つを引くと、机の上にトートバッグを置いて、腰掛けた。
両肘をついて、眠りの中にある南雲仙太郎の端正な顔を眺める。
(こうして見てると、教授夫人にでもなった気分……)
と、妄想したが、すぐに「私、何考えてるんだろう」と顔を赤らめながら、頭を振った。
ふと、机の上を見ると、自分が置いたトートバッグが、何かの紙の束を踏んでしまっているのにエリカは気付いた。
(いけない、いけない……)
下吹越エリカはトートバッグを持ち上げると、左の椅子を引いてバッグを椅子の上に置き直す。バッグが置かれて居た場所には、分厚い紙の束があった、何かの原稿だろうか。
エリカは、いけないとは思いながらも、印刷して百枚にはなろうか、その原稿の束を手に取った。もしかしたら、現在、先生が執筆中の学術書か、論文、もしくは一般向け書籍の類の原稿かもしれない。
出版前の書籍の生原稿なんて、業界人っぽくてドキドキする。
原稿はA4の用紙を横にしたものに縦書きで書かれている形のようだ。原稿の右上が黒いクリップで留められている。
表紙を見ると、はんこで「著者校正」と押され、その期日が手書きで添えられていた。
(ビンゴだっ!)
原稿が置かれていた場所の横を見ると、南雲仙太郎先生宛の封書と、編集者の方からと思われる挨拶状も無造作に置かれていた。挨拶状には簡単に「著者校正が出来たので、全編のチェックをして欲しい」旨が南雲先生宛に書かれていた。
いよいよ本格的である。間違いない。これは、本気で、先生直筆の出版前の生原稿である。女子学生に南雲先生の隠れファン多しといえども、出版前の原稿を見ることの出来る学生は少ないだろう。
下吹越エリカはウキウキした気分で原稿の表紙に目を走らせた。表紙には縦書きで書籍のタイトルが書かれていた。
――
「……ん?……妹?……星マーク?」
下吹越エリカの頭がしばし沈黙した。
沈黙のあとに、純粋な疑問符マークが下吹越エリカの脳内にいくつも浮き上がる。
どうも、学術書っぽくは無い。……これはなんだろうか?
それに妹伝説ってなんだ?
それに、こんな厨二病みたいなルビが大学の教授の書く本に振られるものだろうか?
改めて、タイトルの下にある著者欄に目をやった。
そこに書かれていたのは、南雲仙太郎という格好良い先生の本名ではなく、下吹越エリカが見たこともない奇っ怪なペンネームだった。
――
もはや言葉を失い、下吹越エリカの目は点になる。
顔文字でよくある、目が点になるやつだ。あの顔文字が今の下吹越エリカの表情を表現するのに最も適切だと思われる。
何が起こったのかわからないまま、呆然として下吹越エリカは、その著者校正のページをパラパラと捲った。
原稿の内容の一部が目に飛び込んでくる。
――――――――
『やぁめぇれぇ~』
エルフのナターシャはあられもない姿で、吐息にも似た甘い声を漏らす。
ハヤトは後からナターシャの露わになった二つの乳房をつかみ、大切そうに揉みしだく。
『いいじゃないか、ナターシャ。こうすることで、君にも勇者のエネルギーが注入されるんだ!』
ナターシャは少し戸惑い気味な表情を作ると、振り向いてハヤトの表情を伺った。
『そうなのかにゃ?』
ナターシャの白い肌は紅く紅潮していたが、上目遣いにハヤトを伺う視線は、決してハヤトのその行為を嫌がっている風ではなかった。
『ああ、そうなのさ! これは僕たちが力を合わせて魔王を倒すために、必要なことなんだっ!』
『……うん。わかったにゃ! でも、優しくしてほしいにゃ!』
ナターシャは恥ずかしそうに、しかし、元気を取り戻してハヤトに答えた。
『もちろんさ!』
ハヤトは大きく頷くと、より強く、激しく、ナターシャの胸をまさぐった。
――――――――
――パサリッ……
下吹越エリカの手から、原稿の束が机の上に落ちた。
机の上に落ちた原稿は開いていたページを上にして机の上に着地したが、クリップで留められた部分に掛かる力で少しずつ角度が変わり、捲られたページはパラパラパラパラと、徐々に閉じていき、最後にはパタリと、表紙が表になる体裁に落ち着いた。
――キーンコーン、カーンコーン、キーンコーン、カーンコーン
夏の終わりのキャンパスに定時を告げるチャイムが鳴り響く。
ようやく意識が戻ってきた下吹越エリカは、さっきまで原稿を持っていた両手から視線をあげ、天井を見上げて、思わず叫んだ。
「なんじゃ、こりゃぁぁぁっっーーーーーー!」
可憐な女子学生の叫び声が、上叡大学・東山キャンパスに響き渡った。
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