第一章 邂逅
教授の寝顔を見ちゃってイイですか?
それは、夏の終わり頃だった。
扉の右横、斜め上に掛かったプレートには、その部屋に居る教授の名前が掲げられている。
――教授 南雲仙太郎
下吹越エリカは緊張していた。
「先生、いらっしゃるかなぁ……」
扉の前で、不安げに下吹越エリカは呟く。
今年で大学四年生になるが、教授室を個人で訪問するなんて初めての経験である。
しかも訪問するのは、上叡大学・総合人間科学部においてイケメン教授と呼ばれる南雲仙太郎先生の教授室である。女子大学生達の間でも密かに人気の先生だ。緊張しないわけがない。
別に、教授室に来たことがなかったといっても、下吹越エリカが不真面目なタイプだった訳ではない。ガリ勉タイプだった訳でもないが、講義も比較的真面目に行っていたし、質問があれば授業の終わりに先生を捕まえて質問もしていた。
演習科目では質問は大学院生のTAさんにしていたし、そのおかげで大学院生の先輩の友だちが出来もした。ちなみにTAさんとは、ティーチング・アシスタントの略で大学院生のアルバイトで大学の授業の手助けをする人のことである。
下吹越エリカは大学二年生の時には、TAを担当してもらったのがきっかけで、その一人とお付き合いをしたこともある。2ヶ月しか続かなかったが。
下吹越エリカは勉強も遊びもシッカリ両立させるタイプだし、男女問わずに友達も多い方だと思う。
一部の友人からは
「エリカって『リア充』なんだよね~、多分」
なんて言われたりもする。
どういう人が本当に「リア充」なのかってことは、正直なところ良く分からないし、ピンと来ない。でも、「リアルの生活が充実している」という、もとの言葉を字義通りにとっていいならば「まぁ、そうなんだろうな」と思う。
これまで三年半のキャンパスライフは、人並み以上と胸を張れるくらいには充実してきたと思う。
そんなこんなで、授業の問題は、授業の時間内に解決していたし、それでも、わからないところや試験対策は友人や先輩に質問していた。だから、教授室を訪問する必要なんて、これまでは全く無かったのだ。
――コンコン……
右手中指の第二関節の裏で緑色に塗装された扉を二度ほど叩く。
返事はない。
(ご不在なのかしら?)
下吹越エリカは「困ったな……」と思う。
卒業論文の研究テーマのことで相談があるから時間をとってもらいたい、とメールしたのは、五日ほど前の事だった。その一日後には教授自身からの返信があり、
「来週火曜日の午後16時頃なら空いているので、教授室までくるように」
との返事があったのだ。
教授とのメールのやりとりなんてほとんどしたことが無かったし、送信の時も緊張した。スマートフォンで着信アラートが来たときにも、びくっとしたのを覚えている。
いずれにせよ、今が、その「火曜日の午後16時頃」なのである。
では「厳密には今は何時何分なのか?」と聞かれれば、今はまさに厳密に午後16時00分なのである。この辺り、下吹越エリカはシッカリもので、時間はきちんと守るタイプなのだ。血液型は几帳面だと言われるA型。血液型占いには科学的根拠が無いということで、あくまで占い程度で、信じ過ぎちゃいけないと言われるが、でも、やっぱり、エリカ自身もよく当たるように思う。
下吹越エリカは、扉の真ん中に空けられたガラス窓から部屋の内部を覗き込んだ。手前に打ち合わせ用の四人掛けのテーブルが見え、奥の衝立の向こうに大きな窓ガラス。そしてそれに背を向け彼女が覗き込んでいる扉の方を向く形で、教授自身のものらしいデスクが見える。
デスクには人が座っている様子はないし、扉のガラス窓から見えるテーブルの二席にも誰も座ってはいなかった。テーブルの対面側のあと二席に誰かが座っているかどうかは、ここからでは見えない。
しかし、電気はついている。人の気配もあるようには感じる。
下吹越エリカは扉のノブに手をかけると、そっと、ノブを左に回した。
鍵はかかっていない。
扉は開く。
――キィ……
少しだけ調整が悪い扉の金具が音をたて、奥に扉が開いた。
「……失礼しまぁーす」
下吹越エリカは、中に誰かがいれば聞こえる程度に声を出して、部屋の中に足を踏み入れる。
入ってすぐ、扉の右横には背の高い観葉樹が置いてあった。そのさらに右奥にはレンジ台と簡単な流し台があり、その上には食器棚のような物まである。教授室というのはこういう物まであるのか、と下吹越エリカは感心した。
部屋の奥の木製のデスクにはやはり教授は座っていなかった。木製のデスクは、少し年季の入ったもので、少なくとも昭和時代からある物なのだろう。時代物のお洒落な印象を与えた。このタイプの机が、全ての教授室に備えてあるとは考えにくいので、多分、南雲教授の趣味なのだろうと予想した。良い趣味だ、と下吹越エリカは思う。
手前の四人掛けのテーブルにもやはり誰も座っていなかった。
四人掛けテーブルの上には開いたままのノートパソコンが置いてあり、また、いろいろな書類や印刷された原稿の束が無造作に放り出されている。
ノートパソコンも開かれっぱなしなので、やはり人の居る気配がある。
(先生、お手洗いにでも、行かれているのかしら……?)
下吹越エリカが、「出直そうかな」と考えた、その瞬間、彼女は視界の隅に何やらモゾモゾと動くものを捉えた。
四人掛けのテーブルの向こう側には、二、三人掛けのソファが壁沿いに置かれており、その上には毛布がこんもりと盛り上がって何かの上に掛けられていた。
よく見ると、こんもりと盛り上がった毛布の端から、ソファのアーム部分に髪の毛のとっ散らかった男性の頭部が生えていた。その頭部が、左右にごろごろと動き、前部に存在する割れ目から、微妙なため息ともうめき声ともとれない声を漏れる。
「う~ん……。みやこちゃぁ~ん」
そのだらしない、声は間違いなく、授業やゼミで耳にする南雲教授の声だった。
(せ……先生……っ?)
思いがけない教授の寝姿に、下吹越エリカは息をのんだ。講義では見る教授のイメージからは程遠い、南雲仙太郎先生のあられもない寝顔がソファのアーム部分の上に転がっていた。
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