失って泣いてもイイですか?

 いつもの大学からの帰り道だ。


 全員発表会が終わった後、下吹越エリカは一人で帰路についていた。

 東山キャンパス前の大通りから出るバスに乗り、自宅のマンション側のバス停で降りる。このバス停から北側の歩道を真っ直ぐ歩き、いつもの書店を超えたところで、右に曲がれば下吹越エリカが一人で暮らすマンションだ。


 大学二年生になるときに、前に住んでいたアパートから引っ越してきた。前のアパートは大学からも遠かったし、築年数の割に家賃も高かった。オートロックなどのセキュリティ的なものも無くて、鹿児島の両親からも「もうちょっといい感じのところに引っ越しても良いのよ?」などと心配されていた。大学に合格した時は、入学前に鹿児島から訪れるほんの短い時間に物件を見つけないといけなかったから、ちゃんと時間をかけて良い物件を見つける事が出来なかった。


 一年生の末にちゃんと調べて、見つけて、二年生に進級する時に引っ越してきた今のマンションのことを、エリカは大変気に入っていた。雰囲気についても、立地についても、お値段ついても。どれだけ効果があるのかは分からないが、一応、マンションの入り口にはオートロックも付いていて「女子大生の一人暮らしに最適!」などと不動産屋さんのパンフレットには書いてあった。


 バスを降りて家までの道を西向きに一人で歩く。いつもの書店の前までやってきた。お気に入りの書店だ。夜の八時でも、煌々と輝く蛍光灯の光が書店からは放たれる。

 この光に吸い込まれるように、三年間、毎日のように、この書店にはフラフラと立ち寄ってきた。でも、この一ヶ月は、なんだかそういう気分にはなれず、一度も立ち寄っていない。今日も、ちらりと店内に目を遣るものの、立ち寄りはせずに店の前を通り過ぎた。


 マンションの玄関まで辿り着くと、セキュリティカードを入り口のパネルにかざして、オートロックの自動ドアを開ける。

 エリカはマンションのエントランスに入り、いつものようにエレベーターを待った。しばらくするとエレベーターが一階に到着しドアが開く。エレベーターに乗り込むと、エリカは自室のある8階のボタンを押した。「8」のボタンがオレンジ色に光り、エレベーターのカゴが徐々に上層階へと上昇していった。


 エレベーターが8階に到達すると、自動的に扉が開き、下吹越エリカは、フラリとカゴの外に出た。エレベーターの向かいにある壁面に右手をつき、フゥッ、と息を吐いた。六時間に及んだ全員発表会で、想像以上に、精神的にも体力的にも疲れてしまっているのかも知れない。


 部屋に入ったら、熱いシャワーを浴びて、簡単にご飯を作って、ささっと食べて、早く寝よう。「よいしょ」と壁についた手を離し、左肩のトートバッグを掛け直した。

 全員発表会はレジュメでの発表と決まっていたので、今日はトートバッグだけで、ノートパソコンを運ぶキャリングケースは家に置いている。もし、あの重いノートパソコンまで持ち歩いていたら、もっとひどく疲れていたに違いない。


 エレベーターホールから左に五部屋分進めば、下吹越エリカの自室である。エリカは自室の前に辿り着くと、トートバッグからキーケースを取り出して、部屋の鍵を鍵口に差し込み、左に回した。

 手応えが無い。


 ――音が鳴らない。


 おかしい。エリカは違和感を憶えた。いつも通りなら、鍵が開く時の独特の手応えと共に、カチャリと鍵が開く音がするはずだ。胸騒ぎがした。

 ドアノブに手を掛けて、回す。するりと回り、エリカの自室のドアはあっさりと開いた。


(家を出る時に、鍵をかけ忘れた?)


 いや、そんなはずは無い。家を出る時に鍵を掛けるのは、常の習慣として身体に染み付いている。今まで、鍵を掛けずに家を出たことなんて一度も無い。


「……ただいまぁ〜」


 一人暮らしなので、当然返事は無いのだが、実家に居た時の癖だ。エリカは家の中に向かって帰宅の挨拶をいつもより小さな声で呟いた。ゆっくりと扉を開いて、少し警戒しながら、そろりと自室の中に足を踏み入れる。

 

 自室に入って部屋の中を見渡した。下吹越エリカの視界に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。


 床には物が散乱し、窓は開け放たれ、冷蔵庫の扉は空いている。ここから見える寝室のカーペットの上には衣類が巻き散らかされている。できれば、悪い夢だと言ってほしい、そんな光景だった。


「ィ……イヤ……」


 エリカは両目を一度強く閉じた。そして、開いた。

 それでも、目の前の光景が変わることは無かった。エリカは左手で口を押さえ、その場でヘナヘナと、地面に座り込んだ。


 ――空き巣……?


 エリカが大学に行っている間にやられてしまったのか。

 疲れきった身体を休めようと自宅に倒れ込むように帰って来たところだ。泣き面に蜂とはこのことか。


(なにこれ……? なんで……?)


 恐ろしさ、悔しさや喪失感で、息が詰まる。

 エリカは玄関に座り込んだまま、身動きが取れなかった。

 しばらく経って、はたと気付く。


(……そうだ、……確認、状況を確認しなきゃ!)


 エリカはなんとか立ち上がり、ダイニングキッチンから寝室へと移動する。床にはエリカの服が巻き散らかされていた。しかし、クローゼットの中のコート類などは無事だった。タンスを上から順に調べる。はじめの内は、特に大きな被害は無いように思われた。


(……そうだ、お金!)


 エリカは、銀行から下ろしたお金や、プレゼントで貰った商品券などを入れている貴重品入れを開けた。


 ――やられていた。


 現金はまるごと持って行かれており、商品券も無くなっていた。更に、銀行の預金通帳も無くなっていた。不用心だった。今から悔やんでも仕方ないが、きちんと貴重品は鍵の掛かった引き出しや金庫に入れておくべきだった。


 その他に何が、盗まれているのだろうか?

 ダイニングと寝室の間の本棚の上を見ると、いつも立てかけているiPad miniが無かった。それもやられてしまったようだ。

 結局、現金と高価な物品を取って逃げた。そんなところだろうか。


 エリカは泣きそうになったが、必死に堪えていた。


『空き巣に入られたら、命を守るのがいちばん大事なのよ。遭遇したら、物は取らせていいから、絶対に命だけは守りきること』


 そんな事を言っていた、鹿児島の母のことを思い出す。


(そうだ、……物はまた買えばいい。自分の命があっただけ、ましだと思おう)


 そういう風に自分に言い聞かせて、エリカは自身を奮い立たせた。被害はこれで全てだろうか? と、寝室をもう一度見渡した。エリカの視界の中に、木目調のデスクが入ってきた。エリカが勉強や作業に使っている、いつものデスクだ。


 しかし、何か、違和感を感じる。何かが足りないように感じる。

 「何が無いんだろうと?」と考え始めて、しばらくして、エリカは盗まれたものの存在に行き当たった。


(……ノートパソコンが無いっ!)


 昨日の夜も触っていたノートパソコンは、今日のゼミでは不要なので、荷物にもなるからと家に置いていった。最近は、デスクの上ではパソコンで作業することの方が多かったから、片付けず、デスクの上に置きっ放しにしていたのだ。


 それが、無くなっていた。


 最初は、ノートパソコンというモノが盗まれたことに、ただ、ショックを受けた。しかし、しばらくして、ノートパソコンを盗まれたという事態が、ただモノが盗まれたというだけでは済まされない、という事実に思考が到達した。


 そのことに気づいて、エリカの顔は蒼白になり、今度こそ力なく、寝室のカーペットの上へと倒れ込んだ。


(……私、このままじゃ、卒業論文、書けないじゃん……!?)


 ノートパソコンには卒業論文のための全データが保存されていたのである。今日、ゼミで発表したレジュメの資料も、プログラムも、データも、全てあのノートパソコンで作った。年始から昨日まで、休むこと無く、プログラミングを含めて作業し続けていたので、バックアップは取れていない。

 

 去年の十一月からプログラミングの勉強などを始めて、十二月、そしてスパートをかけた一月の第一週、第二週、その全ての結晶があのパソコンの中に入っていた。確かに、一度作ったプログラムや文章だ。その知識のある程度はエリカの頭の中にある。なので不本意ではあるが、もし必要であれば、時間さえかければ、きっと同じようなプログラムを書き、データを集め、復旧作業を行うことは出来るだろう。しかし、しかし、卒業論文の締め切りまで、執筆を含めて二週間半ではどう考えても圧倒的に時間が足りなかった。 


 ――知らない間に好きになっていた南雲先生は柊ケイコに奪われた。


 でも、先生とは卒業論文を通じて繋がっていて、今日の全員発表会でも、エリカの卒業論文は皆に大いに褒められた。今の、エリカにとって、卒業論文は南雲先生と自分を繋ぐ大切な紐帯であり、エリカの心の支えだった。


 それも、奪われたのだ。


 ――全部、奪われちゃった……。


 エリカの瞳には涙が溢れ出てきた。喉元からは嗚咽が漏れる。もう今度は、止められなかった。止める気すら起きなかった。

 エリカは、泣きじゃくった。ヒックヒックと、しゃっくりのように声を震わせながら、涙は止まらなかった。


 ――プルルルルッ、プルルルルッ


 こんなタイミングで、スマートフォンから着信音が鳴る。

 泣きながらも、なんとかエリカはトートバックの中からスマートフォンを手繰り寄せると、発信元を確認した。

 「下吹越マコト」。弟だった。


「……もしもし」

 なんとか、喉元から言葉を絞り出す。

「おー、姉ちゃん! あのさぁ。今度のさぁ……」

 そこまで言ったところで、弟のマコトは、電話越しの姉の様子がおかしいことに気付いた。


「……姉ちゃん、どうかした?」

 ヒックヒックと声を震わせる姉に、マコトは心配そうに声を掛ける。

 エリカは、弟相手にも、もう、強がることなんて出来なかった。


「どうしよう、マコト〜。 お姉ちゃん、全部、全部盗られちゃった。全部盗られちゃったよぉおぉ〜……」


 エリカは、カーペット上でスマートフォン抱えたまま座り込み、ただ、堪えられずに、泣き続けた。

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