こんな夜は弟に甘えてイイですか?

 こういう時の弟は意外に頼りになった。


「姉ちゃん、……大丈夫か?」

 下吹越マコトが、ベッドに腰掛ける姉のエリカの顔を覗き込む。


「……ありがと。マコト。……ちょっとだけ、落ち着いてきた」

 偶然掛けてきた電話で、姉の惨状を聞くと、弟のマコトはタクシーを捕まえて、驚くほど早く駆けつけてくれた。いつも「金欠だ、金欠だ」と言って、タクシーを使ったことなんてほとんど無いはずなのに。


 新年早々の高層マンションで起きた空き巣被害に、110番で駆けつけた警察の現場検証が、まだ部屋の中では続いている。時々、尋ねられる質問に、エリカは、たどたどしい口調で答えていた。盗られたもの、置いていた場所、家を出る前の様子、外出していた時間帯などである。やってきた警察官は、手慣れた様子だった。それは良かったのだが、その空気感が、自分自身の温度と異なっていて、それがまた少し辛かった。


 一通りの検証が終わって、警察官達は引き上げていった。


「大変でしたね。そんな時に、こんな事を言うのも何なんですが、特に現金に関しては逮捕されても戻ってくる可能性は低いです……。逮捕にはもちろん我々も全力を尽くしますが、逮捕と盗られた物が戻ってくることは、また別の話ですので、期待しすぎないでくださいね」

 正直なのか、苦情が生じないようにするための予防策なのか。警察官の言葉にコクリとエリカは頷く。


「あ……、あの……。パソコンはどうでしょう? ノートパソコンは? あれは無いと本当に困って……しまって……。 返ってくるでしょうか?」

 警察官を見上げるエリカの目は涙で真っ赤に腫れていた。警察官は、戸口に立ち、靴を履きながらエリカを見ると、申し訳無さそうに首を傾けた。


「正直なところ、難しいでしょうね……。逮捕された時にまだ家に持っていたりしたら出て来るとは思いますが……、何れにせよ、時間はかかると思います」 

「そうですか……」

 エリカは項垂うなだれるしか無かった。警察官は、途方に暮れるエリカに、ばつの悪そうな表情を浮かべ、警察帽を上げると、「では、また何かありましたら」と言って部屋を出ていった。

 弟のマコトが「ご苦労様です」と一人前の会釈をしていた。知らない間に大人の男性になっている弟の横顔を、エリカはぼうっと見つめた。


 もう、時間は夜の十時を回っていた。


 すでにかなり遅い時間だったが、マコトが帰る気配は全然なかった。「明日は土曜日だし、大学も無いから大丈夫だ」とマコトは言う。「そんなに気を使ってもらわなくてもいいよ、心配しないで」と言おうかと思ったが、マコトが居てくれるだけでも、気が紛れていたのは事実だった。だから、エリカは口に出さずにその言葉を飲み込んだ。


 多分、マコトが居てくれなかったら、一人の部屋で沈み込んで、朝まで泣いてしまうかもしれない。いつもは適当で、頼りない弟だったが、その優しさに今夜ばかりは感謝していた。


 ――ギュルルルル……


 お腹が鳴った。そう言えば、夕食を何も食べていない。姉のお腹の音に、耳聡く気付いたマコトが「……そう言えば、もしかして夕食、食べてないの?」と聞いてきたので、エリカは無言でコクリと頷いた。

 マコトは「そっか」と言って思案すると財布を持って立ち上がった。


「じゃあ、オレ、コンビニで何か買ってくるよ。腹が減ると嫌なことばかり考えて、どんどん闇落ちしちゃうからさ。せめて、晩飯くらい食ってから寝ようぜ」 

 いつもなら「いいよ、いいよ」と言うところかもしれないが、エリカはダイニングテーブルの椅子に腰を下ろすと、

「ありがとう。じゃあ、お願いできるかな」

 と力無く笑った。マコトは「おう」と親指を立てた。


「あ、玄関のところ、部屋番号押したらいいんだよね? オートロックとかあんまり慣れないから。押したらちゃんと開けてよね。深夜の時間帯に締め出しとか嫌だぜ〜」

 マコトが冗談ぽく言うので、エリカは「そんなことしないわよ」と呆れ顔で返した。


 マコトが出ていくと、エリカはダイニングテーブルの上で、両肘を突き、握った両手を額に押し当てた。


 ――全部、無くなっちゃった。


 そう思った。


 神様は何故、急に私にこんな試練を与えるのだろう。年末の失意からは、卒業論文への頑張りを心の支えに立ち直れたと思う。そして今日、先生にも皆にも褒められて、ようやく卒業まで頑張れる気がした。それなのに、この一ヶ月の分どころか、卒業論文に本格的に取り組みだしてからの三ヶ月間の努力の結晶は、ノートパソコンと共に無くなってしまったのだ。


 一人になるといけない。やっぱり、涙が溢れそうになる。


 エリカはせめて動いて気を紛らわそうと、空き巣によって散らかされた部屋の整理に立ち上がった。寝室の床に散らばった、ブラウスや、パンツ、下着類を拾っては、順に畳んでいった。出来るだけ無心で、何も考えない機械のように、ただ、一枚一枚を取り上げては正座した膝の上で畳んでいった。


 しばらくすると、チャイムが鳴った。マコトが帰ってきたのだ。

 畳んでいたシャツを脇に置き、エリカがインターホンの画面を覗くと、弟のマコトが正面玄関の自動ドアを見ながら立っていた。

 エリカは「は〜い」と言うと、開錠ボタンを押す。


 しばらくすると、廊下で足音がして、キンコーン、とドアベルが鳴った。マコトだ。エリカは「おかえり〜」と、外開きの扉を開けた。コンビニのレジ袋を持って「ただいま〜」と返事をするマコトが立っていた。


 レジ袋を受け取って、マコトを部屋に招き入れようとしたエリカだったが、ビクッとして、その動きを止める。

 マコトの斜め後ろにもう一人立っている人物が居ることに気付いたからだ。

 立っていたのは、黒いダウンコートを身に纏った、美しい容姿の女性だった。


「……ケイコ」


 マコトの後ろには柊ケイコが立っていた。

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