第十五章 奪われた卒業論文
私を見てもらってイイですか?
「お疲れ様」
下吹越エリカがミーティングテーブルの椅子に座って放心状態でいると、南雲教授が手に持っていたレジュメの束で、彼女の頭をポンッと叩いた。
先生の存在に気づいて、振り返る。視界の端に見えた時計の針は午後七時過ぎを指していた。
「あ、先生……。どもです」
エリカは軽く首を前に出して、南雲教授からの慰労に応じる。
下吹越エリカは、通常のゼミにおいて、まず、遭遇する機会のない
次に、発表者として呼ばれたのは、成沢サクラだった。下吹越エリカの発表の後で、極めてやりにくそうではあったが、流石に大学院進学を決めているだけのことはあって、先行研究や社会背景といった研究背景をしっかりと押さえた、安定感のある発表内容だった。
研究の内容は、日本における言論教育の構造や文化に関わる調査研究であり、今年度に入って、南雲教授が推進し始めた新機軸に関わる研究内容だった。大学院進学後も成沢サクラは、その研究プロジェクトの中心的なメンバーとして参画することが決まっている。
最後に呼ばれたのは、鴨井ヨシヒトだった。彼も大学院に進学が決まっていたが、南雲教授のプロジェクトに密に関わる成沢サクラとは対照的に、彼の「自分のやりたい研究をやる」という方針は明確だった。いきなり、サブカル文化の状況をコスプレからエロゲまで自らの視点で広範囲に渡って整理し、解説すると、様々な先行研究を整理しながら、自分の立論を作っていった。ところどころに現代思想のエッセンスなども入れながら話す彼の研究内容は、少なからず飛躍も含んでいたが、それも含めて「鴨井ワールド」だった。
女性陣を見ると、口角泡を飛ばしながらエロゲのタイトルや「さん付け」で声優の名前に言及する鴨井ヨシヒトに、半数以上がドン引きだった。エリカが「南雲教授はどう思っているんだろう?」と思い、その表情を伺うと、南雲教授は、すごく楽しそうに、鴨井ヨシヒトの発表を聞いていた。
鴨井ヨシヒトの発表に関しては、卒業論文のまとめ方について幾つか助言した後、南雲仙太郎は「お前はお前の信じる道を行け……」と、鴨井を信じているのか、ただ、突き放しているのか良く分からないコメントで締めくくった。
ただ、鴨井ヨシヒトは「もちろんです!」と胸を張っていた。
「みんな帰ったぞ。下吹越さんは帰らなくてイイんですか?」
南雲教授はさっきのゼミ中よりかは随分と柔らかい口調で、座ったままのエリカに声をかける。
(なんだか、こんな感じで話すの久しぶりだなぁ……)
と、エリカはホッコリとする。
あまりに疲れてしまったせいか、ゼミが終了した後に、皆のレジュメ一式と筆記用具をトートバッグに入れて、膝の上に置いたところで、ボーっとしてしまっていた。
もしかしたら、しばらく、座ったまま寝て、意識が飛んでいたのかもしれない。
「あ、帰ります、帰ります!」
エリカはあたふたとトートバッグを肩に掛けて立ち上がった。そして、ふと、南雲教授の顔を見上げて立ち止まる。エリカと目があって、南雲仙太郎は「ん?」と眉を上げた。
「あの〜。卒業論文の内容……、どうでした?」
エリカは、おずおずと聞く。その質問に、南雲仙太郎は「なんだ、そのことか」と笑った。
「すごく良かったよ。ほんと、よく頑張ったね。お疲れ様」
南雲は躊躇なく答えた。
本心からだとハッキリと判る。そんな口調だった。
ストレートな南雲教授の褒め言葉に、ちょっと、エリカは涙腺が緩んでしまいそうになる。先生にそう言ってもらえるなら、頑張った甲斐もあったというものだ。
南雲仙太郎は左手にいつもの黒いノートパソコンを抱えながら、エリカの目の前に立っている。エリカは左肩に掛けたトートバッグの持ち手を押さえる。
「そういえば、年末って大丈夫だった? なんだか、急に教授室にも来なくなったし、特に連絡も無かったから……、ちょっと心配していたんだけど」
南雲からの、何気ない言葉に、エリカはビクリと反応した。
「あ……、えぇと、ちょっとクリスマス前から体調が悪かったのと、ラッシュを避けてかなり早めに帰省していたので……」
体調が悪かったのは嘘ではない。ただし「病は気から」であり、本質的な問題は極めて精神的なものではあったと思われる。また、早く帰省したのも、そんな精神的ダメージから逃げるように実家へと飛んでいったというのが本当ところだ。もちろんラッシュを避けたのも嘘ではないが。
「そっかぁ〜。それまで週に三日は来ていた人が、急にパッタリと来なくなるものだから、なんだか寂しくなっちゃったよ」
南雲教授の無防備な言葉に、また、エリカの胸は締め付けられた。
(『寂しくなっちゃった』なんて思わせぶりなこと、言わないでよっ……!)
こんな無邪気で、話しやすくて、面白い南雲先生だけど、今は、もう、柊ケイコのものなのだ。自分は、一人のゼミ生として、先生に誇れる卒業論文が書ければ、それで良い。そしてそれを皆んなの前で発表して、卒業できればそれで良いのだ。
そして、今日、その卒業論文の内容に関して、先生からも、皆んなからも、これ以上無いくらいの形で認めてもらえたのだ。柊ケイコみたいに、先生を魅了なんて出来ないけれど、私には先生に指導してもらって完成させる、この卒業論文があるんだ。
そういう風に、エリカは自分に言い聞かせた。
しかし、心に何かが引っかかる。
――素直になればいいんだと思うよ。ただ、自分の気持ちに正直になれば。
ふと、鹿児島のカフェで、高校時代の親友、上村純子に言われた言葉を思い出した。
(そうだ、その通りだ。自分の気持ちに正直になって、伝えるんだ、確かめるんだ!)
エリカは上目遣いに、目の前の南雲仙太郎の顔を見上げると、思い切って唇を開いた。
「先生っ……、あのっ……!」
「ん?」
二人の視線が交差し、絡まりあう。
下吹越エリカの瞳が南雲仙太郎の虹彩を捉え、南雲仙太郎が下吹越エリカの眼差しを受け止めたその時、
――コンコン
ゼミ室の開いた扉をノックする音が聞こえた。
「南雲先生〜、迎えに来たよ〜。 あれ? エリカじゃん、ハロー!」
電気も消されて暗くなった廊下から、ゼミ室の中を覗き込んでいたのは、柊ケイコだった。
南雲教授は柊ケイコに「ああ、ちょっと待って」と返事を返す。そして、エリカに「何かな?」と続きの言葉を求めた。
エリカは南雲教授と柊ケイコを交互に見て、その後には
「……あ、やっぱり、なんでも無いです」
と寂しく微笑むことしか出来なかった。
エリカは左肩のトートバッグの位置を右手で直すと、「では、先生失礼します」と小さく一礼をした。南雲教授は「お、おう」と右手を上げて応じた。
ゼミ室を出る時に柊ケイコが
「私、これから、南雲先生と打ち合わせなんだ〜」
と、囁いてきたので、下吹越エリカは
「そう……。私は六時間コースのゼミで疲れたから帰るね。またね」
とケイコに微笑み返して、暗い廊下の中を階段に向かって歩き出した。
大学から家への道を歩く途中、エリカの心の中を支配していたのは、全員発表会で得た卒業論文に対する達成感や自己肯定感と、柊ケイコと南雲教授が二人で居るところ見てしまったが故の喪失感や寂寥感の両方だった。
エリカはそれでも、前者の充実により後者の空白を埋められると信じていたし、そうあろうと自分に言い聞かせたのだった。
キャンパスを出たとき、見上げた空はもう真っ暗だった。
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