その世界に足を踏み入れてもイイですか?
『最近、大学の教授の南雲先生に良くしてもらっているんでしょ?』
ダイニングに立ち尽くしたまま、スマートフォンを手に、エリカは凍りつく。母の口から南雲教授の名前が出てきたことに、エリカは驚きを禁じ得なかった。左手の平でそっと自分の鳩尾辺りに押さえる。少し鼓動が早い。
エリカはこれまで一度も自分と南雲先生との間にあったことを母には話していなかった。それなのに、母は鹿児島の自宅から南雲教授の名前を出してきたのだ。
「お母さん……、なんで、南雲先生……のこと?」
具体的な言葉で質問すれば、それ自体が墓穴を掘ってしまうかもしれない。エリカは耳に当てたスマートフォンを右手で強く握りしめながら、言葉を濁した。鳩尾に当てた左手の平を、少し上にずらす。
南雲教授と夕食を二人っきりで食べたことなどを話して、変に勘ぐられたりしてはいけない。母親にあらぬ心配をかけてもいけない。
しかし、返ってきたのは、母のあっけらかんとした笑い声だった。
『あー、そのこと? いやね、マコトが「最近、ねーちゃん、南雲教授って先生の部屋に頻繁に質問に行ったりしてるらしぃぜっ」って言ってたのよ~』
母はちょっと弟のマコトの口まねを挟みながら返してきた。エリカが事の顛末を理解するには、その一言で十分だった。束の間の杞憂は、杞憂でしか無かったわけだ。
(マコト? ……あ~、ケイコか……)
エリカの弟の
この弟のマコトが、
エリカは柊ケイコの前で鼻の下を伸ばす弟の姿を思い浮かべる。
「ケイコさん最高ッス!」
マコトは、臆面もなくそんなことを言って、ケイコにゾッコンだ。ケイコは女性の自分から見ても魅力的な女の子だし、他の同世代の女子にもない大人な色香のようなものを持っている。そんなケイコのことをマコトは一年以上の間、追いかけているのだ。
そのほとんどの時期において、ケイコには別の彼氏が居たわけだが、マコトは諦める気はまるで無いらしい。ケイコはもとより年下に興味が無いようなので、マコトのことを恋愛対象とは見ていないことは明かだと、エリカは思う。
とはいえ、ケイコもマコトに追いかけられること自体に悪い気分はしないようで、笑っていなしながらも、つかず離れずの距離を保っている。
正直なところ、姉のエリカ自身も、弟のマコトがどのくらい本気でケイコのことが好きなのか推し量りかねていた。ケイコがマコトをどう思っているのかも謎だった。
いずれにせよ、そういうことなら、ケイコの知っている以上のことを鹿児島の母が知っているということは無い。「なんだ、そういうことか」と、エリカは胸を撫で下ろした。
「うん。最近、卒業論文に向けて、いろいろ質問しに行ったりしてるの」
『あんたは昔から真面目よねぇ~、そういうところ。マコトももう少し見習ってくれたらいいんだけどねぇ』
「はは……、マコトはねぇー。あっ、で、先生のことなんだけど、だから、急に秋太郎を一キログラムも持っていくような関係でも無いっていうか……」
『あら、そうなの?』
母は電話口で意外そうな声を出す。エリカにしてみたら、そんな意外そうな声を出されること自体が意外だ。指導教員に一キログラムの秋太郎を持っていく学部学生が、一体どこの大学に居るのか? 鹿児島の常識は一体どうなっているのだと、エリカは思う。あ、いや、鹿児島の常識が問題ではなく、母個人の問題なのだが。
とはいえ、秋太郎を先生に持っていく件に関しては、母が善意で言っていることは間違いないので、あまり無下にするのも気が引けた。
「んー、でもまぁ、ちょっと差し入れするくらいなら、大丈夫な気もするし、また考えとくね」
エリカがそういうと、電話越しの母は満足そうに「そうして、そうして」と頷いた。そして、その後、もう少し二人で話した後、「ほんならね~」「ほんならね~」とエリカと母親はどちらからともなく電話を切った。
鹿児島との回線が途絶えると、一人の部屋は急に静かになった。
エリカはスマートフォンを右耳から下ろすと、自らのデスクへと戻った。本棚の上のホルダーに立てかけられたiPad miniのホームボタンを押し、インターネットラジオのアプリを立ち上げる。お気に入りのインターネットラジオ局を選択すると、iPad miniに接続された外付けスピーカーから、好きな雰囲気のジャズの曲が流れ出した。
エリカはジャズの曲名などについては全然詳しくはない。でも、いつものカフェや、FMラジオでジャズの曲を耳にする内に最近ジャズが好きになった。CDを買ったり、曲別にiTunes Storeでダウンロードするほどには、曲を選ぶ知識も無いが、インターネットラジオならジャズの名曲ばかりを適当に流してくれる。このアプリは一人で部屋に居るとき流すBGM用途にとても重宝していた。
「さてと……」
下吹越エリカは右手に持ったスマートフォンを木目調の自分のデスクに置くと、椅子を引いてデスクの前に座った。両手で座面を持ち、椅子をデスクの方へと引き寄せる。
デスクの上には大きめのサイズの液晶画面を持つノートパソコンが開かれていた。電話している間にスリープモードに入って画面は暗転している。エリカは、キーボード右上の電源ボタンを押すと、ノートパソコンを立ち上げた。下吹越エリカがログイン画面にパスワードを入力すると、いつものデスクトップ画面が現れ、そこには開かれたブラウザの窓が幾つか並んでいる。
エリカは、そのうち一つの最大化ボタンをクリックした。ブラウザの画面がノートパソコンの全画面に広がり、開いているサイトのヘッダー画像が、その上部にでかでかと広がった。
――小説家になりたくて
ポップで可愛らしいフォントが、そのウェブサイトの名称を示すヘッダー画像として踊っていた。
「小説家になりたくて
一ヶ月ほど前に、南雲教授の部屋を訪問し、卒業論文のテーマについて相談した際に、下吹越エリカは、南雲先生がライトノベルを書き出した切っ掛けや、商業作家としてのデビューの経緯、そして、エロラノベ「
その中で、やっぱり、エリカの関心を引いたのは、そのWEB小説投稿サイトの存在だった。南雲仙太郎が未恋川騎士に変身した場所、それが「なりうぇぶ」だったのだ。
南雲教授と夕食を食べた、あの日の後、エリカが何気なくインターネットで検索してみると、いとも簡単にそのサイト「なりうぇぶ」を見つけることが出来た。
そのWEBサイトの言うところによると、「なりうぇぶ」のユーザ登録者数は百万人を超え、掲載されている小説の数は五十万件を超えていた。そのあまりの数字の大きさに、エリカは自分が数字の桁の数え間違いをしているのではないかと目を疑ったほどだ。
(世の中には、こんなにたくさん小説家を目指している人が居るんだ……)
厳密には登録ユーザ全員がプロの作家を目指している訳ではないことを、エリカも後に気づくことになるが、いずれにせよ、その規模感が圧倒的なことには変わり無い。そして、その中で実際にデビュー出来る作家がほんの一握りであることは想像に難くなかった。
エリカは改めて、南雲仙太郎が未恋川騎士として実現した有言実行の物凄さを思い知らされたのだった。
そのサイトを眺めている間に、エリカの内側で、むくりむくりと好奇心が頭を擡げてきた。
――南雲教授を未恋川騎士に変身させて、育て上げた「なりうぇぶ」というのは、一体どんな世界なのだろうか?
エリカは「ユーザ登録」ボタンを押すと、思い切って小説投稿サイト「なりうぇぶ」に無料ユーザ登録を済ませたのだった。
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