第八章 繋がる夜に

お魚もらってイイですか?

「心配しなくても、ちゃんと食べてるってばー」

 下吹越エリカは自室の白い壁に背中を預けながら、右手でスマートフォンを耳に押し当てる。左手は紺のガウチョパンツのポケットに突っ込んでいる。


『そんなこと言って、ズボラなお料理ばっかりしてるんじゃないの?』

 電話越しは、実家の固定電話に繋がっていた。スマートフォンの向こう側は、鹿児島の実家の母親だ。心配性な母親で、世話焼きなのはエリカも慣れっこだ。

 でも、どうして母親というものは、娘が「ちゃんとしていない」と決めつけたがるものなのだろうか。


 スマートフォンに耳を押し当てながら、右斜め前に目を遣る。ベランダの窓ガラスの向こうには、すっかり暗くなった街並みの中に、家々の電灯の明かりと、街の道路を時折走り抜ける車のヘッドライトとテールライトの点々が光る。その上に、窓ガラスに反射した自室のデスクとその上のパソコンの画面が映って見えた。


「そりゃあ、一人暮らしだから、一人分作るのに、実家に居たときほどの品目数も作らないけどさ。他の子達に比べたら、私、頑張ってる方だと思うよ」

 スマートフォンのマイクの側で、エリカは口を尖らせる。もちろん、母からはその口許は見えないのだが、きっと伝わっているはずだ。


『それなら良いんだけどねぇ。まぁ、最近は、インターネットでいろんなレシピなんかも検索できるからねぇ~。ありゃ、便利だねぇ』

「え、お母さん、レシピ検索サイトなんて使ってるの?」

 家電オンチで情弱な母が、そんなサービスを使っているなんて意外だった。


『えぇ、PTAで一緒だった、山本さんに教えてもらってね~。この前なんて、「若鶏のフリカッセ」なんてフランス料理を作ったのよぉ』

「マジで?」

『大マジよ』

 顔は見えないが、エリカには電話越しの誇らしげな母親の表情が目に浮かんだ。


 しかし、鹿児島の実家の食卓に、フランス料理が並ぶ日が来ようとは、時代の変化は恐ろしいものである。インターネット恐るべしである。

 エリカも鹿児島の実家を離れて、三年半になる。三年半も経てば、エリカの不在を埋めるように、実家と、その周りの街も変わってきているのだろう。


 ちなみに、山本さんというのは、エリカの高校の同級生男子の山本くんの母親のことと思われる。エリカ自身とその山本くんの間には、全く接点がなかった。それなのにPTA活動で親同士は何故か仲良くなり、エリカの卒業後も交流が続いているらしい。なので、母親が「山本さんが」「山本くんのお母さんが」という度に、エリカは何とも居心地の悪い感じがしてしまうのだった。でも、自分の高校の関係で、母の交友関係が広がったのなら、それはそれで、良かったかなと思う。 


『つけあわせに、さつまいもでスイートポテトを添えるんだけど、とても合うのよ~』

 弾むような声で母が続けた。フランス料理はフランス料理でも、さつまいもが重要な役割を果たすフランス料理という辺りは、やはり鹿児島らしさが滲む。なんだか、エリカは少しだけホッとした。


 手持ちぶさたな左手は、ベランダの窓にかかるカーテンの端をいじる。レースカーテンの上に掛かる白い生地のカーテンには、様々な花や草の模様があしらわれている。このマンションに引っ越してくるときに、思い切って買ったオーダーカーテンだ。引っ越してきて二年半が経った今でも、未だにこのカーテンは、エリカのお気に入りである。白い壁のこの部屋にとっても合っていると思う。


 電話越しでは、母がまだ、地元の世間話を続けている。エリカは背を自室の壁に預けたまま、左奥の部屋にあるダイニングテーブルの上に視線を移した。ダイニングテーブルの上には今日の夕方にクール宅急便で届けられた空色の発泡スチロールの箱が、蓋を外されて置かれていた。


「あのね……、お母さん」

 世間話を続ける母を、エリカはやんわりと遮る。そして、少しだけ申し訳なさそうに、話を切り出す。

『なに?』

「お肉ばっかり食べてちゃだめとか、栄養バランス考えないといけないっていうのは分かるんだけどね……」

『そっ! そぅよーぉ。お肉ばっかりはダメよー。美容にも良くないわよ~』

「……うん、それは分かってる。 お肉よりお魚の方が、いろいろ体にも良いって言うしね」

『そうよーお。 そっちの街は、あんまりいい漁港もないでしょ? 新鮮な魚もスーパーじゃ高いでしょうから、あんまり食べてないんじゃないかと思ってねー』

「うん、わかる。……でもね。……だからって」

 エリカが少しだけ言葉に詰まると、一呼吸置いて、その意味に気づいたと言わんばかりに、エリカの母は電話越しに手を打った。

『あっ、そっか。届いたのね』

「うん。二時間前くらいにね」

 思い出した、と言わんばかりのリアクションをする母親に、エリカは頷く。


 ダイニングの机の上の、空色の発泡スチロールの中には、保冷剤と大量の氷に埋もれるようにして、大きな魚の切り身が入っていた。切り身といってもスーパーで売っているような可愛らしいものではない。巨大な魚が、頭と尻尾を切り落とされた後に、二分割するようにぶった切られたうちの一断片だ。それが、申し訳程度に三枚におろされた内の一切れが入っている。一切れでも十分でかい。


『あんた好きでしょう? 秋太郎?』

「……好きだけど……ね」


 秋太郎とは正式名称バショウカジキ(マカジキ科)である。鋭く突き出た口先と、大きな背ビレが特徴的な魚である。背ビレが芭蕉ばしょうの葉のように見えることから、バショウカジキと呼ぶらしい。秋に鹿児島で大変よく捕れ、秋の訪れを告げる魚ということで「秋太郎」という愛称で親しまれている名物の魚だ。

 赤身はマグロよりかは少し薄い色合いで、サラリとした食感である。マグロの刺身より、秋太郎の刺身の方が好きという人も居る。ちなみに、値段は秋太郎の方が随分と安いし、刺身はもちろんのこと、ステーキや照り焼きにして食べても美味しい。


 鹿児島に住んでいた時には、秋になるとやたら食べていた。弟のマコトは「また、秋太郎かよー!」などと言っていたものだが、エリカは好きだったので、特に不満無く美味しく戴いていた。


『やっぱり、秋太郎が来ると、秋って感じするじゃない? そっちじゃ、鹿児島に比べたら、あんまり出回らなかろうと思って』

「うん、まぁ、それはそうなんだけど……」


 耳をスマートフォンに押し当てたまま、ダイニングの机の横まで移動して、エリカは発泡スチロールの中を覗き込んだ。


 問題は、その大きさなのである。


 そもそも秋太郎の成魚は全長三メートルを超す。重さにして三十キログラムである。四分割後に三枚におろした一切れに相当する部分だとはいえ、相当な大きさである。さっき、体重計で重さを量ってみたら約四キログラムあった。

 毎日、夕食で二百グラムずつ使ったとしても、消費しきるのに二十日はかかる計算だ。平日毎日秋太郎を食べて、土日だけ休んだとしても、丸々一ヶ月秋太郎ということである。さすがに、それでは秋太郎が夢に出てしまうレベルであろう。


『どげんしたと?』

「……四キログラムは大きすぎじゃっどっ-!」

 エリカが思わず実家に居るときの口調で返してしまった。

 電話口で母が、楽しそうに笑った。

 こんなに大きな秋太郎を送ってくること自体が、母と父の親心であるとともに、悪戯心なのだろう。それは分かるのだが……。

 しかし、一人暮らしの冷蔵庫はそんなに大きくない。間違いなくこのままでは、エリカの冷凍庫はしばらくの間、秋太郎だけに占領されてしまう。秋太郎を送ってくることで、鹿児島のことを忘れないで欲しいという両親の心遣いは、本当に心に染みるのだが、一人暮らしの学生の冷凍庫容量の限界という現実リアリティを、是非、鹿児島の両親には理解してもらいたいと思わずにはいられなかった。


『そんなら、友達にでもあげたらよかよか~』

「友達って言ったって、ほとんどみんな一人暮らしだから、そんなに食べられないよぉ~」

 エリカが返すと、電話越しに母が「そうだ」と何かを思い付いたように呟いた。


『あんた、最近、大学の教授の先生、なんて言ったっけ……、そうそう、南雲先生? に良くしてもらっているんでしょ?』

「え……?」

 母の口から出た思わぬ名前にエリカはドキリとした。急に耳に飛び込んだ、南雲仙太郎の名前に頬が紅潮する。しかも、「良くしてもらっている」とは、母はどういう意味で言っているのだろうか。エリカは少し混乱した。


『その、南雲先生に、鹿児島の秋太郎、食べて頂いたらいいんじゃない? エリカの故郷の味なんだから』

 母の何かを深遠な思いやりを含んだような言葉に、エリカの心臓は高鳴った。


 確かに、夏休みの一件と、この前の研究室への訪問、その後の夕食の一件以来、南雲先生とは急接近している。エリカ自身は、南雲先生とは、ある意味で一学生として以上の関係を持たせて貰っている。もちろん、それは決してやましい関係ではなく、指導教員と学生という意味と、少しの秘密を共有した者同士という程度の関係だった。

 しかし、そもそも、そんなことをエリカは一度も母に喋っていない。メールでもLINEでも、母には南雲先生という名前すら出していなかった筈だ。


 それなのに、鹿児島の母は、一体、自分と南雲教授の関係をどこまで知っているというのだろうか? そして、母はこの関係をどう思っているのだろうか。






 

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