第二章 それぞれの想い

本屋に寄ってもイイですか?

 夏の日は長い。夕方の六時半を回った空はまだ明るく、それでもくたびれだした街中は、夕暮れの到来を今か今かと首を長くして待っていた。


 片側一車線の車道脇の歩道を、半袖の白いブラウスと膝下までの紺色のスカートを身にまとった女子大生が、左肩にトートバックを掛けながら歩いていた。


(今日はさんざんな目にあった……)

 大学から出るバスを降りて、下吹越エリカは一人暮らしのマンションまでの道を歩いている。


 二時間半前に、教授室の前で緊張していた自分が本当にバカみたいだ。先生は、完全に自分との約束を忘れて眠りこけていたし、起きてからはまるで高校生のふざけあいのような会話に終始してしまった。


 結局、卒業論文のテーマについては、全く相談できなかった。


 正直なところ、教授室で偶然発見した卑猥なライトノベルの事が気になって、下吹越エリカは、どうしても卒業論文のテーマを真面目に議論する気分にはなれなかったのだ。


 南雲先生は「卒論テーマの議論をする」といえば、その瞬間に完全に切り替えて

「君は社会システムのどういう側面を切りたいんだい?」

 などと、真剣な表情で問いかけてきた。さすがは「プロだ……」と、ある意味感心したが、博士号を持った研究のプロである南雲教授とは異なり、とてもじゃないが、大学四年生の下吹越エリカにそんなにフットワークの軽い脳内モード切り替えは出来なかった。


「なにが『そうなのかにゃ?』よっ……!」


 歩道を歩きながら、下吹越エリカは思わず独り言ちてしまう。教授室で、思わず読んでしまった原稿にあったセリフの一部だ。正直なところ、思い出しただけで恥ずかしくなる。


 主人公が、女の子の胸を揉んだら、その分、女の子にエネルギーが注入されるとか、マジで頭の悪い男子が考えそうな設定である。その頭の悪い男子というのが、まさに、自らが師事している教授であるという事実が、未だに信じられず、歩道の上で、下吹越エリカは頭を掻きむしった。

 

――未恋川みれんがわ騎士ないと


 その原稿に書かれていた、先生のペンネームの響きを思い出してみる。

 ただ、その名前を頭の中で想起するだけで、なぜだかエリカは頭痛がするように思えた。いや、間違いなく頭痛がした。ズキンズキンだ。


 ふと立ち止まると、下吹越エリカは書店の前に立っていた。いつも立ち寄る近所の本屋さんである。全国チェーンではないが、この地域ではそこそこ店舗数を持つチェーン店で品揃えも悪くない。

 自宅から徒歩五分圏内に、この本屋さんがあることは、下吹越エリカが今のマンションを気に入っている理由の一つだった。大学一年生から二年生に進級するときに、今のマンションに引っ越してきて二年半だが、正直なところこのまま卒業後も住み続けたいくらいだ。ガラスの壁の中を覗くと、疲れ切った心を気分転換にでもとエリカは自動扉を開き、書店の中に足を踏み入れた。


 ファッション雑誌の棚を見て歩き、いくつかの雑誌を立ち読みする。

 それから、好きなマンガの新刊が出ていないかなと、コミックスコーナーに立ち寄る。「花とゆめ」コミックスを初めとした、いくつかの少女マンガ雑誌に掲載されているシリーズは中学生の頃から好きで、いまだに新刊が出ると買ってしまう。もうすぐ、社会人になるんだから、さすがに少女漫画も卒業しなきゃいけないとは思うのだが、なかなかそうもいかない。


 コミックスコーナーの並びに、ライトノベルコーナーがあった。いくつかの平積みされたライトノベルの表紙が目に留まる。全てアニメ調のイラストで可愛らしい、場合によっては過剰に性的なポーズをとった女の子のイラストが書かれた文庫本が並んでいた。


 いつもは素通りするのだが、昼にあんなこともあったので、つい、下吹越エリカもライトノベルコーナーの前に立ち、平積みされた本を一冊手に取ってみる。


 ライトノベルなんて、正直読んだことなかったが、パラパラと捲って中を見る限りは「案外普通の小説なのかな」と思う。初めの方にいくつかカラー印刷でのイラストが入っていた。確かに、こういうのがあると、登場人物のイメージは湧きやすくなるのかもしれない。

 下吹越エリカはその本を置いて、また、別の一冊を手に取ってみた。そちらも、内容をパラパラと捲る。前言撤回。そっちは、まるでではなかった。モノクロ印刷のページにもふんだんにイラストが入っているが、それらの多くは女の子の全裸シーンであったり、あからさまなサービスカットであったりした。ちょっと、性的な表現すらあった。まるで、エロ本(?)だ。エリカは恥ずかしくなって、その本を棚に戻した。


 ちょっと誰かに見られていないか不安になって、左右を見る。特に誰にも見られていなかったようで、少しホッとした。


 その一冊を棚に戻した時に、下吹越エリカはふと思った。


(そういえば、先生の本って、売ってたりするのかな……?)

 ここまで来れば怖い物見たさである。


 別にあの内容を自分で読んでみたいという気持ちはなかったが、やっぱり、自分の指導教員が書いている書籍である。研究内容と関係ないとはいえ、何か気になる。


 下吹越エリカは、作者の五十音順に並ぶ、書棚を端から調べていった。


「……未恋川騎士、……未恋川騎士」


 「未恋川」の名字を探す彼女の指先が、五十音順がマ行に到達し、ミで始まる作家ゾーンに到達し、そして、未恋川の文字列を捉えた。

 正直なところ、エリカは、本当に先生の、いや、未恋川騎士の本が書店に並んでいるとは思っていなかったのだ。試しに探してみるが、結局見つからずに、「な~んだ無いんだ〜」と家に帰るのが、当初想定していたシナリオだった。

 ところが、本棚に堂々と、そのダサい(としかエリカには思えない)ペンネームが記された書籍が配架されていたのだった。


 ――未恋川騎士


 そう背表紙に書かれた文庫本が書店の本棚に、堂々と収まっていた。


 下吹越エリカは、自らのあずかり知らぬ間に、未恋川騎士にここまでの居場所を与えてしまったこの世界を呪わざるを得なかった。

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