卒業論文を書き上げちゃってもイイですか?
雲の切れ間から、明るい太陽の日差しが上叡大学・東山キャンパスに差し込む。ここのところ、随分と冷え込んでいたが、今日はいい天気だ。キャンパス内の舗道の脇で寝転んでいた猫は、その日差しを味わおうと、日向に飛び出しては、ニャーォと伸びをした。
しかし、キャンパス内の多くの学生達はそんな日差しに気付くことも無く張り詰めた表情だ。食堂では学生たちが入手した優秀学生のノートや過去の試験問題のコピーを共有しながら、迫りくる定期試験やレポート提出の締め切りに追われていた。後期末の試験シーズンである。この時期は、大学で誰もが締切に追われる。
東山キャンパスにの西門の脇、総合C棟二階の一室には、いつもの二人の姿があった。
「先生〜! 私の卒業論文の初稿が出来たので、見てくださいっ!」
自分のデスクの上の液晶画面を睨みながら、何やら必死にタイピングしている南雲教授の斜め前に、下吹越エリカはホッチキス留めされたA4サイズの原稿の束をぶら下げた。遂に出来上がった念願の卒業論文初稿である。合計六十ページにも及ぶ大作である。
エリカの表情は自信たっぷりだ。二週間のラストスパートで書き上げた。やりきった感がある。
テーマの詳細が中々決まらなかった夏の終わりは焦燥感にかられていた。テーマが決まった秋からはとにかく一歩ずつ駆け上がった。やたらと目標高く設定された山の頂にクラクラしながらも、最高速度で駆け上がった。些細な誤解で心が折れていた年末年始は、卒業論文に集中することは出来なかった。けれど、それでも、鹿児島の実家で精一杯、出来る限りの事はやったと思っている。そして二週間前のあの事件だ。それでも、親友と、家族と、先生のお陰で立ち直り、遂にこの一編に辿りついたのだ。
「お〜、出来たか〜。ちょっと待ってね〜」
先生はちらりと、エリカのぶら下げる原稿に目を遣ると、液晶画面に視線を戻した。そして、カタカタとタイピングを続ける。続ける。続ける。続けた。
「……先生? あの〜、論文、見て欲しいんですけど?」
「うん、ちょっと待って」
南雲仙太郎は返事はするものの、その意識は明らかに、液晶画面とその向こう側の世界に飛んでいる。下吹越エリカは小さく溜息をつく。
間違いない。これは
教授は、基本的に、南雲仙太郎としての大学の仕事の時間と、未恋川騎士としてのラノベ作家の仕事の時間は切り分けるようにしている。しかし、たまに、未恋川騎士の仕事の締切が迫った時などは教授室にその仕事を持ち込んでしまうことがあるようだ。職務上はとてもグレーだと思うのだが。そういえば、初めてエリカが、南雲教授のラノベ作家としての一面を知ったのもそんなことが原因だった。
エリカは、脳内が異世界に転移して帰ってこない南雲仙太郎に溜息をついて、デスクの上に卒業論文の原稿を一旦置いた。そして、何かを思いついたように、悪戯っぽい笑みを口許に浮かべると、そろりそろりと、執筆を続ける南雲教授の椅子の脇まで忍び寄った。
その動きにすら全く気付かず、タイピングを続ける南雲仙太郎の斜め後ろ立つと、顔を寄せて肩越しにディスプレイを覗き込んだ。
「何、書いてるんですか?」
エリカの吐息が、南雲教授の耳朶に掛かる。
「おわっ!」
突然、耳元で囁かれた南雲仙太郎は、驚いて、弾かれるようにキーボードから両手を上げた。
「びっくりした〜」と振り返って真顔で言う教授に、エリカは「いや、むしろ、気付かない方がおかしいですから」と笑った。
「あ〜っ! 『
パソコンの液晶ディスプレイに映っていたのは、明らかに学術論文とは異なる文体のワード原稿だった。下吹越エリカもレベルアップしたので、最近では、南雲先生の書いているのが学術研究の原稿なのか、ライトノベルの原稿なのかを瞬時に見分けるスキルを獲得していた。
「うっ……! み……見逃してくれ、盟友よ。悪の編集から、あろうことか本日中の原稿締め切りを設定されているのだっ……!」
南雲仙太郎は両手を微妙な角度に上げながら、頭を下げた。平身低頭だ。
「編集って……、矢萩さんですか? DT文庫の」
エリカは駅前のショッピングモールで一度だけ会った、美人の女編集者の姿を思い出した。
「そうだよ〜」
矢萩洋子も、卒業論文の締め切りシーズンくらいに把握しているだろうに。卒業論文の締切の前に、未恋川騎士の締切をかぶせて来る、DT文庫担当編集・矢萩洋子のド
「ちょっと、読んでみてもいいですか?」
エリカは遠慮なく液晶画面を覗き込む。
「えっ、ちょっ!」
「『エロラノベ同盟』の仲間じゃないですか〜、先生〜。堅いことは言わない、言わないっ」
少し狼狽する南雲教授の抵抗を完全にスルーすると、エリカは両手を腰の後ろに組んで、前かがみになりながら、液晶画面に表示された原稿に目を走らせた。
――――――――
『わっはっはっはっは〜っ! おぬしのような人間風情が、ワシの大事な娘と、そうやすやすと、一つになれるなど、思うでないぞっ!』
魔界将軍ラスプーチンは、愉快そうに笑いながら、これ以上無いほどに胸を張り、その体毛をそそり立たせた。そして、自身の娘である魔界の淑女アンダルシアと、ハヤトの間に立ちはだかったのだ。ハヤトの熱い視線は、ラスプーチンの股の向こう側に横たわる全裸の美女をはっきりと捉えている。アンダルシアの胸周りから腰にかけてのくびれは、魅惑的な曲線を描いていた。
『フッ! そんなことを言っていられるのも今のうちだぜっ! 俺は、もう、アンダルシアと約束したんだっ! きっと一つになるって!』
『フンッ! 人間風情が……! いい気になりおって、貴様にどれほどの力が、どれほどの男としての
嘲笑にも似たラスプーチンの咆哮の前でも、ハヤトは全く怯むこと無く、ニヤリと口元に、むしろ楽しそうな笑みを浮かべた。新たに受けた恩恵により覚醒した力を解放し、自らも認める本当の武人と剣を交える機会がここ出現したのだ。これがワクワクせずに居られるだろうか。
『ああ、見せてやるさ! 新たなる恩恵……、俺の本当の力ってやつをなっ! 見ろよっ! 俺の股間のラグナロクっ!』
――――――――
「先生。『股間のラグナロク』って何ですか?」
下吹越エリカは南雲仙太郎の右耳元に、顔を寄せポツリと呟く。
「おわぁっ! あ……、そこ、突っ込んじゃう? そこ突っ込んじゃう?」
感度の高いところを指摘されたからか、南雲仙太郎は冷や汗を書きながら、挙動不審に苦笑いを浮かべる。エリカが南雲仙太郎を見る瞳は、完全にジト目である。
「……それはだなぁ、男の右大腿部と左大腿部に挟まれた空間の前方部分にですねぇ、女性には付いていない器官が存在してですねぇ……」
「先生。セクハラですね」
説明も最後まで聞かずに、バッサリである。
「ひっ……、ひどいっ! 下吹越くんが言わせたんじゃないかっ!」
「そもそも、『股間』の意味を知らない女子大生は居ません」
それもそうだ。
「でも、さすがに『股間のラグナロク』は無いんじゃないですか?」
下吹越エリカは、ディスプレイを覗き込みながら、冷静にツッコみ直す。
「う〜ん、そうかなぁ?」
「それに、このネタ、ほぼパクりっぽく見えますよ。最近のラノベで、『股間がエクスカリバー』みたいなやつあったじゃないですか? パクってません?」
「うっ、これは、その、オマージュというか、なんというか……。僕、結構、あの作品……、好きなんで」
南雲仙太郎は痛いところを突かれて、しどろもどろになった。そして、一度、溜息をついた後に、大きく背伸びをすると、「わかった、わかった、一旦休憩〜」と、言って立ち上がった。
「あ……、締め切り大丈夫なんですか?」
「ん〜、大丈夫、大丈夫。また、自宅で夜か、明日の朝にでもやるし」
そう言って、エリカがデスクの上に置いた卒業論文の原稿を手に取った。
「じゃあ、下吹越さんの、卒業論文の原稿、見せてもらうよ」
そう言って、南雲教授は隣に立つ、下吹越エリカに彼女自身の卒業論文の表紙を
――「小説投稿サイトのネットワーク形成における非閉鎖性と誘因構造の影響分析」
それが、最終的に決まった、下吹越エリカの卒業論文のタイトルだった。
下吹越エリカはこの内容に自信を持っていたし、誇りに思っていた。南雲仙太郎もまた同じだった。この卒業論文はエリカが生まれて初めて執筆した論文であるとともに、二人のこの部屋での雑談や議論の成果でもあった。
それは「エロラノベ同盟」の生んだ成果だったのだ。
教授室の中央に置かれた四人掛けテーブルへと向かう二人の背中に、雲の切れ間から覗く、明るい冬の日差しが差し込んだ。
教授室には男女二人の楽しげな話し声がいつまでも響いていた。
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