エピローグ

卒業しちゃってイイですか?

 シンポジウムは一日目、最後の講演が終わろうとしていた。


 下吹越エリカは、壇上でマイクを持つ南雲仙太郎教授のことを、自分のことのように緊張した面持ちで見つめていた。

 会場のスピーカーから南雲仙太郎教授のスピーチが響く。


 ――So, let me conclude this presentation with two remarks. First, social behaviors of the users were unintentionally influenced by the mechanism set by the designers of this service. Therefore, I'd like to argue that theory of social systems should be regarded as an engineering problem, as well, in this society nowadays. Second, even an online social network operated by a single company can be an open network from the viewpoint of the social study. These require us to have further inter-community and inter-disciplinary studies for both of online and offline societies. Thank you very much for your attention.


 国際会議「The 2nd International Symposium on Social Systems, Dynamics, and Behaviors」のメイン会場であるホテル・グランジュール「鳳凰の間」は、百人を超える参加者による興奮と賛辞に満ちた拍手で満たされた。中には海外から参加の研究者で、立ち上がって拍手をする者もいた。下吹越エリカも思わず立ち上がって拍手をしてしまった。


 下吹越エリカは正直なところ、英語は半分も聞き取れなかった。でも、途中、自分が作成して先生に提供した図が幾つかスライドの中で用いられていたのがとても嬉しかった。卒業論文の成果の一部が、この南雲先生の基調講演の中で用いられていたのだ。

 隣に座る一色ユキエ先輩が「修士論文の内容ならまだしも、卒業論文の内容を先生がこんな場所で話すなんて、まず無いのよ」と耳打ちしてきたので、エリカは嬉しいような、申し訳ないような気持ちで、ただただ恐縮した。


 ヨーロッパから来ている司会の先生が、夜のソーシャルディナーの予定をアナウンスした後に、第一日目のシンポジウムは終了となった。


(終わった、終わった〜)


 下吹越エリカは椅子から立ち上がり、伸びをする。流石に、丸一日、英語の発表を座って聞き続けるのは相当ハードだ。正直なところ半分どころか、四分の一も分らなかった。英語力をもっと鍛えなきゃなぁ、と反省する。


 会場から出ようかと、後ろの方向に振り向くと、出入り口付近に見知った女性の顔を見つけた。すぐに向こうもエリカに気づいて右手を振ってくる。


(――洋子さんだ)


 それは、未恋川騎士先生の担当編集者、矢萩やはぎ洋子ようこだった。


「来てらしたんですか? 先生と打ち合わせですか?」

 近くに寄って、エリカが尋ねると、洋子は「ううん」と首を振った。


「ちょっと、先生が主催する国際会議ってものの様子に興味があってね〜。聞いてみたら、『覗くくらいなら構わない』って言うから、ちょっとだけ来てみちゃった。そのうち小説のネタになるかもしれないしねっ」

 矢萩洋子はそういうと少し悪戯っぽく笑った。エリカは仕事に一生懸命な洋子のことを尊敬しているし、南雲仙太郎、もしくは未恋川騎士のことを大切に思っている彼女のことを、どこか同志のようにも感じていた。


「そういえば、卒業論文提出できたんだってね。おめでとうございます」

 矢萩陽子はわざわざ両手を重ねてフォーマルに頭を下げる。

「あ……、ありがとうございます。お陰さまで〜」

 思わずエリカも頭を下げた。顔を上げるとお互いにクスリと笑い合う。

「何だか、大変だったんだって? 締め切り寸前で、空き巣に入られて、一時は『卒業論文出せないかも』ってなったって聞いたよ」

 南雲先生を通して自分のことは矢萩洋子には筒抜けらしい。「どれだけ、私のこと喋っちゃってるのよ、先生は……」と思ったけれど、不思議と嫌な気はしなかった。


「はい。でも、先生とか先輩とか友達に助けてもらって、なんとか、卒業論文は提出出来ました。あ、さっきの先生の発表の中にも幾つか私の卒業論文のスライドが入っていたんですよ〜」

 そうエリカが言うと洋子は「凄いじゃん」と目を見開いた。エリカは無邪気に「すごいみたいです」と笑った。


 会場の出入り口から廊下を見ると、柊ケイコが忙しそうに登録受付窓口レジストレーション・デスクで参加者の対応に追われていた。今も、ヨーロッパから来た先生の質問に何やら応対している。


 今日は、傍から見ていても、柊ケイコは大活躍だった。朝から会場に訪れる研究者達の受付対応を流暢な英語を使いながら違和感なくこなしていた。下吹越エリカもケイコがこんなに英語が堪能だったとは知らなかったので驚いた。


 休憩時間にはヨーロッパから来た白人のイケメン男性達に囲まれて、何やら逆ハーレム状態を作っていた。何やら早速口説かれているようだ。

「ケイコ、英語こんなに上手だったんだ。それに、モテモテじゃない?」

 と、エリカが言うと、

「まぁね〜。英語は自信あるから。ていうか、今回の仕事引き受けたのも、ほぼ、欧米からやってくるイケメン目当てだしね」

 と、しれっと言っていた。相変わらず、柊ケイコは逞しい。


 会場の中に視線を戻すと、演台を降りたところでは、まだ、南雲教授は数人の研究者に囲まれて質問に応じていた。その内の一人の質問応答が終わったところで、南雲教授の視線が動き、エリカと目があった。距離は少し遠かったが南雲もエリカの存在に気づいたようで、エリカに向かって右手を上げて振った。エリカも小さく右手を振り返す。

 その様子を矢萩洋子は微笑ましそうに、そして、少し羨ましそうに眺めていた。


「四月から社会人? エリカさんは?」

 矢萩洋子も南雲教授のいる方向を見ながらエリカに尋ねる。

「いえ。急だったんですけど、大学院に進学することにしました」

 その言葉に驚いて、矢萩洋子はエリカの方を振り返る。


「そんな急に大学院進学に進路変更なんて出来るものなの? 企業の就職内定も貰ってたんじゃ?」

「うちの大学、二月入試っていうのがあって、かなりギリギリだったんですけど、間に合いました。まぁ、企業の内定は二ヶ月前に辞退したら流石にちょっと怒られましたけどね」

 そういうと、エリカはぺろりと舌を出した。


「卒業論文に取り組んでいる内に、どんどん研究が楽しくなって、もっと知りたいな、学びたいなぁって思ってきちゃったんですよねー」

「また、結構大胆な決断ね」

「はい。でも、まぁ、自分の人生ですし、心の中の声に従ってみるのも大切かなって。それに……」

 純粋な目で前方を見ながら言葉を探すエリカに、矢萩洋子は意地悪そうに目を細めた。


「南雲先生と出来るだけ一緒に居たいから?」

 その言葉に、エリカは急激に顔を赤くして、顔の前で「違います! 違います!」と両手を振る。エリカが「からかわないでください」というと、矢萩洋子は「ゴメン、ゴメン」と笑った。


「それに、何だか楽しかったんです。夏休みの終わりに南雲先生が未恋川騎士だって知ってから。いろんな事があって。この国際会議に参加させてもらっていることもそうなんですけど。大学院に進んで、南雲ゼミで研究を続ければ、まだまだ新しい発見や、楽しいことがいっぱいあるんじゃないかなぁって思ったんです」

 そう純粋な瞳で言うエリカを見て、洋子は笑顔で「仕方ないなぁ」とでも言うように溜息をついた。


「まぁ、上方カリエ先生のエッセイ読んでる読者なら、みんな分かるわよ。あなたが今、とても楽しい場所に居て、とても特別な日々を過ごしてるって」

「そうでしょうか? ……そう思ってもらえていたら嬉しいです」

 下吹越エリカの書く「上方カリエ」のエッセイは、既に五百人以上のユーザにブックマークされ、ちょっとした人気作品になっていた。


「絶対そうよ。あれ、本当に面白いから」

 そう推す洋子に、エリカは「ありがとうございます」と頭に手を当てて照れた。


「もう少し書き溜まったら、私、DT文庫編集部に書籍化の企画、上げてみてもいいかなぁって本気で思ってるのよ?」

「えぇぇ〜? そんな〜! それほどのものじゃないですよ〜。誰も買わないですよ〜」

「大丈夫。私を誰だと思っているの? 今をときめくラノベ作家、未恋川騎士を発掘した編集者矢萩洋子よっ! 私の目に狂いはないわっ!」

 すごい自信である。


 南雲教授が演台の下で、全ての質問者への応対を終えたようだった。南雲教授は何人かに挨拶を終えると、下吹越エリカと矢萩洋子の方に手を振った。そして、黒いノートパソコンを右手に足早に歩いてくる。


「でも、そうねぇ〜。今のタイトルじゃパンチが弱いから、タイトルは変えた方がいいかしら?」

「なるほど。例えば、どんなタイトルがいいんですか?」

 そう尋ねるエリカに、矢萩洋子は右頬に人差し指を当てて考える。

「そうねぇ〜。例えば……」

 そう言って思いついたタイトルを、矢萩洋子は形の良い唇からリズミカルに弾きだした。エリカはそのタイトルを聞いてクスリと笑ってしまう。


「なんですかそれ〜?」

「えっ? 最近のライトノベルっぽくて良くない?」

 そう言う矢萩洋子に、エリカは「確かに、っぽいかも」と頷いた。


「でもね、エリカさん。これ以上、先生と一緒に居るんだったら、……本当に気を付けなきゃだめよ」

 矢萩洋子の忠告が何を意味しているのか、今のエリカならすぐに理解することができた。三ヶ月前とは違うのだ。

「わかってます。先生は先生。私は、奥さんと子供さんのいる人ことを本気で好きになったりしませんよ〜」

 そう言って、前を見るエリカの横顔を、洋子は溜息混じりに見つめるのだった。

「どうだかね。……お姉さんは、本当に心配よ」

 エリカは「大丈夫ですよ〜」と答えると、近づいてくる男性の姿に目を遣った。


 四年間の大学生活は楽しかった。親友も出来たし、いろいろな学びもあった。でも、卒業論文に本格的に取り組んでからの、そして、未恋川騎士の秘密を知ってからのこの半年間は、下吹越エリカにとっては本当に特別なものだった。


 南雲教授が「エロラノベ作家」だと偶然知ることが出来たからこそ、この半年はとても素敵で煌めいたのだと思う。その偶然には幾ら感謝しても感謝したりないと、エリカは思う。

 この国際会議が終われば、もうすぐ、卒業式だ。でも、卒業式は終わりじゃない。この半年間で受け取った贈り物は大切に受け止めながら、自分達はまた、新しい物語へと歩き出す。


 自分が得た幸運を神様に感謝しながら、エリカは、さっき矢萩洋子が口にした物語のタイトルを思い出した。そして、それはやっぱり「ピッタリかもしれない」と下吹越エリカは心の中でクスリと笑うのだった。

 

 エリカが視線を上げると、そこには、お待たせ、と黒縁メガネの奥から少年のような瞳でエリカを優しく見つめる、「エロラノベ作家」の教授せんせいの姿があった。


 ――私の教授がエロラノベ作家なので卒業しちゃってイイですか?


(おしまい)

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