君の騎士になってもイイですか?

「そうじゃないだろ、下吹越さん? そうじゃないでしょ」


 南雲仙太郎は、その右手を掴んだまま、下吹越エリカの両目を見つめた。エリカも教授の瞳を見つめ返す。トレードマークの黒縁メガネの向こう側には、いつもの少年の目があった。すこし、胸が締め付けられるような感覚を憶えた。


「……どういうことですか?」

 エリカが尋ね返すと、南雲教授は右手を一旦離し、どう説明したものか考えるように、左手を顎に付けた。そして、「よし」というと、自分の椅子を持ち上げて、下吹越エリカの椅子の右隣に「よいしょ」と移動した。


 そして、その椅子に座ると「ちょっとゴメンね」と、エリカの前に開かれたノートパソコンを自分の方に向けた。

「先生……、近いです」

「あ……、ごめん。あれ? これもしかしてセクハラのライン的にダメなやつ?」

「……いや、いいですけどね」

「よかった」

 むしろ、セクハラどうこうよりも、ドキドキしてしまってダメなのだ。


 気を取り直すと、南雲先生はアイコンをクリックしてブラウザを立ち上げた。そして、慣れた手つきで、アドレスバーにURLを入力した。そして、エリカの方を見ずに、画面の方を向いたまま、話を続けた。


「下吹越くんの、プログラムも、データも無くなったりなんてしてないよ……」

 その南雲の言葉に、エリカは驚く。そんなはずは無い。プログラムを作ったパソコン、データを保管したパソコンは、空き巣に奪われたのだ。


「そんなはずないです。私のノートパソコンは泥棒に盗まれたんですから……」

 そう言って、エリカはまた俯いた。勇気づけてくれるのは嬉しいがデータは全部盗まれてしまった。それが現実だ。


「そもそも、君はどこでプログラムを書いていた? どこで、プログラムを実行して、データを集めていた?」

「それは、……私のノートパソコンで」

「そうじゃないでしょ」


 南雲仙太郎が、ブラウザのアドレスバーでエンターキーを押すと、画面が遷移し、エリカも見知ったWEBサイトが現れた。


――Cloudクラウド Appアップ Engineエンジン


「君がプログラムを作成していた場所は、実行していた場所は、君のパソコンの中じゃない。クラウドの上だったのさ……」


 エリカはいつか、南雲仙太郎がそういう風に言っていた時のことを思い出した。未だに、その意味は十分には分かっていなかった。

 南雲仙太郎は、ログイン画面に移動し、下吹越エリカのアカウント名を入力する。


「でも、私、……そのアカウントのパスワード情報も、パソコンの中にしか保存していなくて……」

 下吹越エリカが自らを責めるような言葉を口にする。

 南雲仙太郎は続いて、パスワードを入力すると、ログインボタンをクリックした。画面が遷移し、あっさりとCloudクラウド Appアップ Engineエンジンへのログインは完了した。


「え? え? え? え? え? ……なんで、先生が私のアカウントに入れるんですか? パスワード知ってるんですか?」

 余りの手際に、エリカは目を丸くして、南雲教授の方を見る。


「あのさ〜、下吹越さん。これ、利用し始めてから、パスワードって一回でも変えた?」

 下吹越エリカはフルフルと首を振る。

 セキュリティのために、いろんなWEBサービスのパスワードは定期的に変えるべきだとか言われるけれど、エリカは、俄然、忘れてしまうことの方が怖くてパスワードを変えずに使い続けてしまう派だ。


「で、この、Cloudクラウド Appアップ Engineエンジンのアカウントの初期設定したのって、誰だったか覚えてる?」


(あっ……)

 思い出した。11月末の教授室。エリカがプログラミングのやり方が分からなくて質問に行った日だ。そこで、最後に、南雲先生が、このCloudクラウド Appアップ Engineエンジンの使い方を教えてくれたのだ。

 その時の、アカウント作成や初期設定は全て南雲先生がやってくれていた。そもそも、あのパスワードを設定したのも南雲先生だった。それなら、パスワードを覚えていることも納得できる。


「ほらね、やっぱり。ここで『なりうぇぶ』のデータ取得もやってたし、ツイッターのデータ取得もやってたんだね。ほら、プログラムも、データも、全部残ってるよ」


 南雲仙太郎が指差したブラウザ画面の中には、見覚えのあるプログラムファイルの名前、そして、やたら巨大なデータファイルがあった。下吹越エリカのプログラミングの苦労の結晶、『なりうぇぶ』十万人分のユーザ情報を含んだデータファイルだ。


 エリカは自分の左のほっぺたをつねった。


「……何してるの、下吹越さん?」

「あ……、ええと、夢じゃないよなって、確認を……」


 そう言うと、今度は何故か、南雲教授がエリカの右のほっぺたをつねる。


「いたたたた! 先生、セクハラじゃないけど、痛いですっ!」

「あ、ごめん。でも、夢じゃないでしょ?」

 エリカは両頬を、両手のひらで擦りながら、コクリコクリと頷いた。


 これで、パソコンも手に入った、プログラムもデータも失われていなかった。それは、下吹越エリカが絶望する理由は、もう何も無いことを意味していた。

 ただし、これまでのレジュメなどの発表資料はさすがにCloudクラウド Appアップ Engineエンジンには無いので、そこは諦める必要があるだろう。


「あ、そうそう。これ」


 ――パサッ


 南雲仙太郎は鞄の中から、紙の束を取り出し、エリカの前に無造作に置いた。見覚えのあるA4のプリントだ。下吹越エリカはそのA4の紙の束と、南雲教授の顔を見比べる。


「君の今年のゼミでの発表資料全部のコピーだよ。一応、スキャンしたやつも、デスクトップのフォルダに入れておいた。全部、Wordファイルにまで戻せたら良かったんだけど、まぁ、文字認識も完璧じゃないし、PDF版と、それを文字認識でWORDファイルに変換した版を、両方入れてあるから、好きに使ってくれたらいいよ」

 まるで、「コーヒーにミルク入れといたから」という言葉と同じくらいのカジュアルさで、南雲仙太郎は下吹越エリカに説明した。


 エリカは、気づけば、いつの間にか空き巣に入られた前と、ほとんど変わらないくらいの状況まで回復している自分の状況に気づいた。南雲先生が、この部屋に入ってくる前、ほんの三十分前くらいまでは、今年の卒業も諦めないといけないと思うくらい窮地に立っていたはずなのにである。


「……あなたは神ですか?」

 下吹越エリカは感動で震えていた。もう、なんて言ったらいいのかわからない。


「神って、……大げさだなぁ」

 キーボードから手を離し、南雲仙太郎は下吹越エリカの方を向く。「君が残していた情報を掘り起こした。ただそれだけだよ」と教授は言った。


 ――ガバッ


 その首筋に、下吹越エリカは抱きついた。南雲仙太郎の左肩に顔を埋め、その首と背中に腕を回した。


「ちょ……、下吹越さん」


 南雲仙太郎は突然のことに動揺したが、エリカが小さく嗚咽を漏らしているのに気付くと、エリカが抱きつくに任せることにした。


「先生〜、ありがとうございます〜、かっこいいですぅ〜、……大好きですぅ〜!」


 エリカは知らない間に泣いてしまっていた。先生の肩のシャツで涙をぬぐいながら、おいおいと泣き始める。感謝の言葉に重ねて、エリカはどさくさに紛れた愛の告白をしたのだが、どさくさに紛れすぎていて、南雲仙太郎はそれが愛の告白だということに全く気付いてはいなかった。


 南雲は泣きじゃくるエリカの頭を、そっと右手で優しく撫でた。ただ、その一方で、残った左手をエリカの背中に回すことはしなかった。ただ、泣きじゃくる子供をあやすように、右手の平でエリカの頭を撫でるのだった。


「神様は流石に無理だけどさ。僕だって君の騎士ナイトくらいにはなれるんだよ。なんてったって、僕は未恋川みれんがわ騎士ないとだからね。下吹越エリカ姫――」

 ちょっとはにかみながら、南雲仙太郎は少し冗談っぽく、そう言った。


 一瞬、エリカの脳裏には「聖☆妹伝説セイント・シスター・レジェンド アポカリプス」第一巻のクライマックスシーンがフラッシュバックした。妹のカナデを救うために主人公のハヤトが魔竜ドラゴンに立ち向かうシーンだ。それは、男の子が女の子を救う、ファンタジーの王道シーンだった。


 今日の南雲仙太郎は、下吹越エリカの危機を救ってくれた。悪の空き巣犯によって、追い詰められたエリカのことを、鮮やかに救ってくれた。そんな、未恋川みれんがわ騎士ないとの事を、エリカは「最高にカッコイイ」と、心から思うのだった。


 エロラノベ作家の教授は、泣きながら抱きつく女子大生の頭をポンポンと叩いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る