部屋に先生が来てもイイですか?

「こんばんわ」

「……こんばんわ」


 下吹越エリカが自室のドアを開けると、そこには黒のロングコートに身を包んだ、南雲仙太郎の姿があった。電話があってから二時間、下吹越エリカは、急いで部屋を片付けた。とは言っても、空き巣の被害からの原状復帰で、母親の手伝いも得ながら、基本的に片付けた後だったので綺麗だったのだが、南雲先生が来るとなっては話が別だ。何だかわからないけど、とにかく急いで片付けた。


「あ、もうちゃんと片付いてるんだね」

 南雲仙太郎は部屋の中を覗くと、感心するように言った。


「女性の部屋を勝手に覗かないでください」

 エリカは冗談めかして、南雲教授を非難する。南雲仙太郎は頭をポリポリと掻いて「ごめん、ごめん」と謝った。


「じゃあ、上がってください」

 と、エリカはスリッパを出して、南雲に部屋に入るように促した。


「あ、……いや、女子学生の部屋に入ってしまうのは、その大学教員のセクハラ問題的な視点から、考えてだな……」


「何言ってるんですか、先生。私は、そんなことで先生を訴えたりしませんよ〜。それに第一、女子学生のマンションの玄関口まで押し掛けている時点でアウトですよ、もし本当に私が問題にするとしたら」

 エリカの正論に、南雲仙太郎は顎に手を当てて少し考えると、「それもそうだな」と言って、玄関をくぐり、スリッパに履き替えた。


**********


 エリカは用意していた紅茶を入れて、ダイニングテーブルの南雲教授に「どうぞ」と差し出した。

「あ、ありがとう。……ごめんね、お見舞いに来たこっちが気を使わせちゃってるみたいで」

「いえいえ、いいですよ〜。教授室でも紅茶は入れ慣れてましたから」

 そう言って、エリカは冗談めかした。


 さっそく、紅茶を一口飲むと、南雲教授は切り出す。

「大変だったみたいだね。柊さんに聞いたよ」

「あ……はい。でも、ケイコは、すぐに駆けつけて来てくれて……、とても助かりました」

 エリカは紅茶のカップを両手で包み、暖を取るようにしている。


「仲良いんだね。二人は」

「はい」

 その言葉に、もう、曇りも嘘も無かった。


「思っていよりも、元気そうで良かったよ。もっと、闇落ちしてたらどうしようかな〜とか思ってた」

「闇落ちって……、ラノベの読みすぎです」

「まぁ、ご存知のように自分自身がラノベ作家だからね〜。僕は」

 そう言って、南雲は左手の人差し指を自分自身に向けておどけてみせた。


 たしかに、自分でも思ったよりも、元気だとはおもう。「闇落ち」で言えば、南雲先生と柊ケイコの関係を誤解していた年末の方が、ずっと「闇落ち」していたかもしれない。


「でも……、やっぱり、卒業論文のことだけは踏ん切りがつかなくて……。今からじゃ、もう一度、プログラムを作って、データを取るなんて絶対に時間が足りないし、第一パソコンも無いし、論文の執筆だって、今週中には始めないといけないのに……」


 南雲先生を前にしながら、現状を説明していくと、なんだか、また、涙が溢れそうになってきた。その様子を見て、南雲は「わぁ、わぁ、わぁ〜、泣くな泣くな〜」と両手を振った。エリカは「泣いてません」と、むすっとした表情で反論する。「それは、失礼しました」とばかりに南雲は手を引っ込めた。


「やっぱりなぁ……、卒業論文のことで、テンパってるんじゃないかと思ってさ。来てみて良かったよ」

 そう言うと、南雲仙太郎はダイニングの床に置いた鞄をガサゴソと漁り、何か大きな平べったい入れ物を取り出した。それは、ノートパソコンなどが入る、いわゆるソフトケースだった。それを正面、エリカの座る側に置くと、「開けてごらん」と言った。


 黒いソフトケースのファスナーを開けると、中から白いノートパソコンが出てきた。下吹越エリカは、恐る恐るノートパソコンを開いてみる。液晶画面にはまだビニールが貼られていた。新品のようだった。

「……これは?」

「ノートパソコンだよ?」

「知ってます。……そういうのはいいですから」

 南雲仙太郎は「ちぇっ」と悪戯っぽく舌打ちをすると、説明を続けた。


「今年度の研究室の予算でね、年末にノートパソコンを数台買っていたんだ。本当は来年度から使おうかなと思ってたんだけど、現状では誰も使ってないから、下吹越さんの卒論を作成するのに使ったらいいよ」

 下吹越エリカは驚いて目を見開く。


「電源を入れてごらん」

 そう南雲教授に言われて、エリカがキーボードの右上にある銀色の電源ボタンを押すと、パソコンが起動を始めた。パソコンの起動時間は、エリカが持っていたノートパソコンよりもずっと早かった。パソコンの起動が終わると、ホームスクリーンにはもう「下吹越エリカ」というユーザ名が表示されていた


「あ、初期設定はやってあるから。一応。……あ、ユーザ名、『上方カリエ』の方が良かった?」

「……下吹越エリカで完璧です」

「やっぱり?」

 ユーザ名をクリックすると、ログインすることが出来て、ウィンドウズのデスクトップが現れた。既に、幾つかのショートカットやフォルダが、デスクトップに作られている。


 凄い。これで、卒業論文に向けて、ノートパソコンの問題は解決された。本当に南雲先生にはお世話になりっぱなしだ。でも、ノートパソコンがあったとしても、ダメなのだ。とてもじゃないけれど、たった一週間で、卒業論文の内容を復旧させることは出来ない。プログラミングやデータ取得、その他もろもろには、特急作業でやったとしても、一ヶ月はかかる。


「先生、ありがとうございます……。でも、……やっぱり無理です。いくら新しいパソコンがあったとしても、肝心のプログラムや、データが無いと、卒業論文を書けません……。プログラムも、データも、盗まれたパソコンの中にあったんです。今から、もう一度プログラミングをしたり、データ取得していたんじゃ、卒業論文の締め切りに間に合いません……」


 そう言って、下吹越エリカは、「ごめんなさい」と頭を下げると、ノートパソコンの液晶画面の端を右手で持ち、そっと、画面を閉めようとした。


 前から腕が伸びて、下吹越エリカの右手首を掴んだ。エリカはドキッとする。男性の手の力だ。そして、右手首から先生の手のひらの柔らかく、温かい感触が伝わってくる。

 下吹越エリカが視線を上げると、正面から真っ直ぐに見つめる南雲仙太郎の視線とぶつかった。


「そうじゃないだろ、下吹越さん? そうじゃないでしょ」


 トレードマークの黒縁メガネの向こう側。ニヤリと笑う南雲教授の瞳は、何か面白いことを考えている時の、いつもの少年の瞳だった。


 

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